1941年8月後半から9月前半の不穏状態と
       「総統の希望」によるユダヤ人移送

 
     10月15日開始のドイツ、プロテクトラートのユダヤ人の臨時的ユダヤ人移送政策
         現地親衛隊・警察の「反対」「抵抗」
        
          (詳しくは、拙著2003該当箇所第4章、第5章永岑2004を参照されたい)




ハイドリヒをプロテクトラート総督代理に任命
   (1941年9月24, ヒトラーが苛烈な処置の執行者として命じる、
    任命を受け直ちにチェコ政府・抵抗サイドの重要人物を処刑
    混合婚ユダヤ人女性へのユダヤの星免除規定など
    9月29日シナゴーグ等禁止・閉鎖、9月30日も「抵抗者」射殺執行
    9月30日チェコ元軍人指導の抵抗運動、ロンドンとの結びつきなど
    9月30日軍需工場(航空省関係)でのストライキ、指導者逮捕など
    10月1日チェコ首相Eliasを死刑に・・・慈悲権行使をしないようにヒトラーに要請
    10月2日ハイドリヒ、総統本営で夕食、プラハでの活動を報告、
    「チェコ労働者は陰謀者たちの処刑についてだいたいにおいて平静
    見せしめの処刑で当分静かになる・・・もう2000人ほど射殺すればいい、
    10月2日総統指令による最大限の苛烈さによる治安確立S.108を行う、今は、DolchstossS.113−114の状況)









1942年春からのラインハルト作戦の最初の大量移送(絶滅収容所への移送=殺害)としては、
 スロヴァキアがある。
   なぜスロヴァキアなのか、この実証的解明が必要。
   史料集VEJ 13のスロヴァキア