作成:2005年3月
ボーフムを出発して、ベルギーのガンを見た。
ガンの市庁舎
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ガン:
ヘント Gent
「ベルギー西部、スケルデ川(エスコー川)とライエ川(リス川)の合流地点にある東フランドル州の州都。フランス語ではガン。街を横切る運河と川で多数の小島にわけられ、200もの橋がこれらをむすんで都市が形成されている。重要な運河は、この都市の北側にある大ドックとスケルデ川のテルネーゼン港とをつなぐ運河、ブルッヘ(ブリュージュ)、オーステンデとこの都市をむすぶ運河の2つで、これにより海への出口を確保し、ベルギーでも屈指の貿易港となっている。人口は22万4180人(2000年推計)。
15世紀には、ヨーロッパでも名高い織物産業の街として製造工場も多数あったが、それ以降は低迷している。主要な産物にはレース・ウール・皮革・石鹸・紙・コットン・リネン・機械・砂糖・ビール・タバコなどがある。
現在、ヘントとその近郊では園芸がひじょうに盛んで、栽培場が何百も建設されている。5年に1度「フロラリア」とよばれる花の見本市が開催され、世界中の愛好家がつどう。
ゴシック様式のサン・バボン大聖堂には、ファン・エイクの有名な祭壇画「神秘の小羊」(1432)がある。郊外のシント・アマンズベルグにあるベギン会修道院は、周囲を壁でかこまれ、僧院や教会を中心に小さな家々がいくつもたちならぶ、小さな町のような外観をもつ。現在はベギン会修道女や慈善活動に従事する婦人会員ら約700人がくらしている。このほかにヘント大学(1817年創立)、美術館などがある。
ヘントは7世紀に歴史にあらわれ、9世紀後半には「鉄の腕」の異名をもつフランドル伯ボードゥアン1世が、ノルマン人の略奪にそなえ、ここに要塞(ようさい)をきずいた。それ以降はフランドルとともに歴史をあゆんできた。1792年にフランス領となり、1814年にはオランダに併合され、30年ベルギーの独立にくわわった。また、さまざまな条約締結の場ともなり、スペインとオランダの休戦条約であるヘントの和平(1576年)、米英間の戦争を終結させたヘント条約(1814年)が、ここでむすばれている。両世界大戦ではドイツ軍に占領された。」Microsoft(R)
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ファン・エイク
ファン・エイク Jan van Eyck 1390?〜1441 ブルッヘ(ブリュージュ)で活躍したフランドルの画家。ファン・アイクともいう。画家フーベルト・ファン・エイクの弟にあたる。トゥルネーのカンピンとともに、15世紀北方の後期ゴシック絵画「アルス・ノーバ(新しい芸術)」を創始し、北方ヨーロッパにルネサンスを予告した。この時期のネーデルラント芸術の特徴は、生彩のある油彩技法による自然主義的様式、精巧な細部と正確な質感描写、3次元空間の錯覚を画面にもたらす技法などである。
おそらくはリンブルク地方のマースエイクに生まれ、1422年にはホラント伯につかえてハーグで仕事をした。25年ブルゴーニュのフィリップ善良公により宮廷画家に任命され、没するまでその地位にあった。フィリップ公からは厚遇され、外国への特使を命じられたり、子供の洗礼祝いをうけたり、作品の代金が支払われなくて困っているときに、個人的にとりなしてもらったりした。
わかいころの修業時代については不明なため、兄フーベルトとどのような芸術上の関係にあったのかが、きわめて重要になる。多くの学者たちの間ではフーベルトという影のような人物が存在しなかったという極論もふくめ、際限のない思索と議論が生まれてきた。現在では、フーベルトは実在の人物で、ヤンの初期作品と考えられていたいくつかの「エイク風」絵画の作者であろうとされている。
ヤンとフーベルトの両者、あるいはどちらかに帰されている作品には、「トリノ時祷(じとう)書」(写本の一部が1904年に焼失)、「墓地の3人のマリア」、二連祭壇画「キリストの磔刑と最後の審判」などがある。
有名な作品は記念碑的な「ヘントの祭壇画」(1432)である。それはヨドクス・ベイトの礼拝堂のために制作され、内面に「小羊の礼拝」の主題がえがかれている多翼祭壇画である。この祭壇画から写されたラテン語4行詩には、フーベルトがこの絵をえがきはじめ、ヤンが完成したとしるしてある。美術史家たちの推定では、26年にフーベルトが他界する前に手がけていた板絵をヤンがあつめ、彼自身のデザインによる新しい板絵をくわえて、ベイトの礼拝堂でひとつに組みたてたとされる。
署名と年記のあるヤン作品は9点現存しており、それらはすべて1432年から39年までのものである。そのうちの4点は「バン・デル・パーレの聖母子」(1436)などの宗教主題で、5点は「アルノルフィーニ夫妻」(1434)などの肖像画である。彼の作とされる署名のない板絵が多数存在するが、そのうち疑いなく彼の手になるものは12点にみたない。こうした作品には、「ヘントの祭壇画」のほかに、「宰相ニコラ・ロランの聖母子」(1433〜1434)や「枢機卿(すうきけい)ニッコロ・アルベルガティ」(1435?)などがある。
同時代の人々は、ヤンのおどろくべき技量と綿密で正確な細部描写に畏敬(いけい)の念をいだいた。そのために、16世紀にいたるまで同郷の人々に画家の王とよばれつづけた。」Microsoft(R)
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翌日、オーステンデからフェリー(4時間くらいかかったか、冬のため風が強かったのか船酔いの苦しかった記憶がある)でドーヴァー海峡を渡って、ドーヴァーへ。
(Dover Castle)
ドーヴァーから北上し、
カンタベリーでは、はじめてB&Bを捜して宿泊。なかなかいいところだった。
カンタベリーからロンドンへ
(ロンドン旅行の時には、もはや「初心者Anfaenger’76」ではない、との自覚?)
(わすれていたが、この写真をみて気づいたら、「初心者'76」のプラカードを取リ去っている)
(アジア系衛兵との交替)
(アジア系衛兵)
(1976年12月28日)
シェークスピア生誕の町シュトラットフォード・アポン・エイボンには、76年12月30日に。
シェークスピア
「William Shakespeare 1564〜1616 イギリスの劇作家・詩人。今日もなお、史上もっとも偉大な劇作家といえよう。その戯曲は、多様な登場人物たちの描写をとおして、人間を行動にかりたてる根源についての深い見識を呈示している。音声表現と所作の多用によって統一された審美的な効果を生みだす、詩的かつ劇的な手法の採用は、シェークスピアの非凡な功績である。また、個人的、社会的、普遍的な状況での人間の行動の根底的な動機づけを表現するために、劇中で詩を使用したことは、文学史におけるもっとも偉大な業績とされている。
シェークスピアの生涯については、信頼できる完全な資料がのこっていないため、断片的な事実を多くの推測でつなぐしかない。一般的に彼は1564年に生まれたとされており、ウォリックシャーのストラトフォード・オン・エイボンで洗礼をうけたことがわかっている。地元のグラマー・スクールでまなんだと思われる。8人兄弟の3番目ながら長男のシェークスピアは、当然、家業をつぐために父親の店で仕事をならい、はたらいているはずなのだが、一説では、父親の商売がかたむいたため肉屋に奉公にだされたという。また、校長になったという説もある。
1582年、農家の娘アン・ハサウェーと結婚した。地方判事のトマス・ルーシー卿の鹿園で密猟しているところをつかまったあと、ストラトフォードをはなれたらしい。83年、アン・ハサウェーとのあいだに娘をもうけ、85年には男児と女児の双子が生まれたが、男の子は死亡した。
ロンドンで生活するようになったのは1588年ごろらしい。92年には、すでに俳優と劇作家としての成功を手にしており、ほどなくして3代目サウサンプトン伯ライアススリーの後援をうけるようになった。
当世風にエロティックな2編の物語詩「ビーナスとアドニス」(1593)と「ルークリース凌辱」(1594)の出版により、シェークスピアは、ルネサンスの才能ある人気詩人としての名声を確立した。また、このころ書いたとされる「ソネット集」は、長いあいだ、原稿のままで回覧され、1609年になって出版された。この「ソネット集」の主人公は、シェークスピア自身らしき詩人である。美貌(びぼう)と徳目をあわせもつ青年貴族に献身しながら、神秘的で不実な女性「ダーク・レディ」に心をうばわれる様や、詩人の友人が「ダーク・レディ」に魅了されたことから生じる三角関係が、情熱的な激しさと深い心理的洞察をもってえがかれている。
しかし、現代でのシェークスピアの評価は、これらの詩の作者としてではなく、明らかに彼が書き、手をいれ、または共同執筆した、三十数編の戯曲にもとづいている。これらの戯曲は、当時、一般的な人気は高かったにもかかわらず、同時代の知識人たちから高く評価されることはあまりなかった。彼らは、当時の演劇を低俗な娯楽とみなしていたのである。
シェークスピアは、仕事面で経済的に有利な契約を多数かわしており、彼の所属する宮内大臣一座(のちに国王一座と改称)と、そこが所有する劇場グローブ座とブラックフライヤーズ座の収益の分配をうけることができた。
彼の劇は、ほかのどの劇作家の作品よりも頻繁に、女王エリザベス1世と国王ジェームズ1世の宮廷で上演された。一度だけ王室の愛顧をうしないかけたのは、1599年に彼の一座が、反女王一派の陰謀による注文で「国王リチャード2世を退位させて殺害する芝居」(「リチャード2世」)を上演したときだった。その後、シェークスピアの一座は陰謀に無関係と判明して、無罪となった。
1608年以降、シェークスピアの芝居の上演は減っている。彼は、地元の名士となっていた郷里ストラトフォードに、「ニュープレース」とよばれる屋敷を購入して家庭をきずいていたが、この時期からは、この地で多くの時間をすごすようになった。16年、同地で死去し、ホーリー・トリニティ教会に埋葬された。
シェークスピアの劇作活動は、一般的に次の4つの時期にわけられる。(1)1594年以前、(2)1595〜1600年、(3)1601〜07年、(4)1608年以降である。シェークスピアの戯曲の大半は、その年代を確定することが困難であり、しかも、作品に関する決定的な事実が不足している。したがって、こうした区分はおおよそのもので、彼の文学的展開を論じるための便宜的な枠組みでしかない。どの時期の戯曲も、その構想は、同時代の他の劇作家たちと同様に、年代記、歴史書、または古い小説を下敷きにしていることが多い。.
シェークスピアの戯曲の大半は、その年代を確定することが困難であり、しかも、作品に関する決定的な事実が不足している。したがって、こうした区分はおおよそのもので、彼の文学的展開を論じるための便宜的な枠組みでしかない。どの時期の戯曲も、その構想は、同時代の他の劇作家たちと同様に、年代記、歴史書、または古い小説を下敷きにしていることが多い。
1 第1期―1594年以前
第1期は、実験的な時期である。この期の戯曲は、のちの円熟した作品とちがって、型通りで理解しやすい構成と、様式化された詩がもちいられていることが大きな特徴である。
年代史劇は当時はやりのジャンルであった。シェークスピアのもっとも初期のものと思われる4点の戯曲「ヘンリー6世」第1部・第2部・第3部(1591?〜92?)と「リチャード3世」(1593?)も、15世紀イギリスの国内紛争(→ ばら戦争)を劇化したものである。これらの戯曲では、支配者が愚かなため、あるいは利己的な目的から国が分裂したために生じる悲惨な状況があつかわれている。この一連の戯曲は、リチャード3世が世をさり、エリザベス1世の属するチューダー朝の創始者ヘンリー7世が王位につくところで幕をとじる。
形式と構成の面でこれらの戯曲は、一部で中世の戯曲、一部で初期のエリザベス朝の劇作家たち、とくにマーローの作品との関連性がみられる。古代ローマの劇作家セネカの影響も、直接的または間接的に、これら4戯曲の構成に投影されており、それはとくに、多くの残虐な場面や誇張された大げさな言葉づかいに顕著である。エリザベス朝初期の劇作家トマス・キッドを通じておよぼされたセネカの影響がもっともよくでているのはローマ史劇「タイタス・アンドロニカス」(1593?)である。凶悪でむごたらしい行為に対する高潔な復讐(ふくしゅう)を主題としたこの悲劇は、センセーショナルな演出で上演された。
第1期におけるシェークスピアの喜劇は、幅ひろい種類におよんでいる。古代ギリシャの喜劇を模倣したファルス「間違いの喜劇」(1593?)は、2組の双子がロマンスや戦争にまきこまれ、組み合わせがくるうおかしさが要(かなめ)になっている。性格喜劇「じゃじゃ馬ならし」(1594?)では、ファルス性はそれほど強くない。「ベローナの二紳士」(1594?)はロマンティックな恋愛喜劇である。
「恋の骨折り損」(1594?)は、最初は浮世の恋愛沙汰の誘惑をさけようとしていた貴族たちが、当世風に熱心に恋愛に傾倒していく姿をえがきながら、主要な男性登場人物たちの恋愛を皮肉っている。登場人物の多くが自分の主張をのべる会話部分では、イギリスの小説家で劇作家のジョン・リリーの作品に代表される、わざとらしくかざりたてた優雅な作品スタイルや、当時の宮廷のしきたり、そしておそらくローリー卿と思われる人物とその同僚たちの科学論議もまとめてひやかされている。
第2期―1595〜1600年
第2期のシェークスピアの作品には、イギリス史をあつかったもっとも重要な戯曲、いわゆるたのしい喜劇、そして2つの悲劇がある。この時期、彼の表現様式と対象へのアプローチは、きわめて独特なものになった。
第2期の史劇には、「リチャード2世」(1595?)、「ヘンリー4世」第1部・第2部(1598?)、「ヘンリー5世」(1599?)がある。これらは、第1期の作品「ヘンリー6世」の時代のすぐ前の年代を包括している。
「リチャード2世」は、愚かで神経質で芝居がかったふるまいをする反面、情の深い一面もある君主が、強力な跡継ぎヘンリー4世に国をうばわれる様をえがいた作品である。
「ヘンリー4世」第1部・第2部で、国王ヘンリーは自らの罪に気づく。そして、自分の息子、のちのヘンリー5世に対していわれのない恐れをいだき、それは、わかい王子が国王になる者としての義務を責任ある態度で果たすたびにふくらんでいった。手なれた滑稽(こっけい)な場面と深刻な場面が交互にくりひろげられる中で、好色で肥満漢の騎士フォールスタッフと反逆者ホツパーの対照的な姿を通じて、王子は自分のいるべき場所をみいだすのであった。悲劇性と滑稽さをおりまぜて人間性の幅広さをあらわす手法は、のちにシェークスピアのお気に入りの趣向のひとつとなった。.
第2期のすぐれた喜劇「夏の夜の夢」(1595?)では、2組の高貴な恋人たち、もったいぶっていてはからずも滑稽な町の人々、そして有名なパック、オベロン王、ティタニア女王など妖精世界の面々をまじえながら、いくつかの話が進行する。
この戯曲がもつ独特の趣は、悲喜劇「ベニスの商人」(1597?)でも、そこはかとなくただよっている。この劇では、ルネサンス的主題である男の友情やロマンティックな恋愛が、高利貸しシャイロックの悪意にみちた不人情さと対比されてえがかれており、理解と同情をよびおこすために、シャイロック自身の不幸がもちだされている。この劇ではポーシャに代表される、機転がきいて、あたたかく、責任感の強いわかい女性のキャラクターは、第2期のたのしい喜劇に再三登場する。
ウィットにとんだ喜劇「から騒ぎ」(1599?)では、その女性キャラクターの不用意な扱いのために作品の質がそこなわれているという批評家もいる。しかし、シェークスピアのもっとも円熟した喜劇「お気に召すまま」(1600?)と「十二夜」(1601?)は、抒情性と両義性、それに、ベアトリーチェのようなうつくしく、魅力的で、意志の強いヒロインが特徴となっている。「お気に召すまま」では、エリザベス朝の宮廷でのしきたりと田舎でのしきたりとの対比が、豊かで変化にとんだ表現でえがかれている。.
シェークスピアは、ことなるキャラクターや幻影と現実を複雑に編成し、さまざまな人間の短所について論評するのにこの様式を使用した。この点で、「お気に召すまま」と「十二夜」は類似している。「十二夜」は、2組のロマンティックな恋人たちの災難と、わき筋として現実感あふれて表現される多くのおどけた登場人物たちの姿を通じて、恋愛の喜劇的な側面がえがかれている。
第2期のもうひとつの喜劇は「ウィンザーの陽気な女房たち」(1598?)である。中流階級の生活をあつかったこのファルスには、滑稽な被害者としてフォールスタッフがふたたび登場する。
第2期は、かなりことなる特質をもった二大悲劇で幕を開け、その幕を閉じた。「ロミオとジュリエット」(1595?)は、大人たちの不和と誤解、みずからの性急な思い込みの犠牲になる恋する2人の運命を劇化した作品で、わかい恋愛の無我夢中さに対する詩的な表現で有名である。いっぽう「ジュリアス・シーザー」(1599?)は、政治上の争いをあつかった深刻な悲劇である。しかし、以後の悲劇作品とくらべてそのスタイルには、あまり激しさがみられない。
第3期―1601〜07年
第3期の作品には、彼の全作品のなかでもっとも奥深くすぐれた作品とされる4つの悲劇と、暗い喜劇または「問題劇」と称される作品がある。一連の悲劇でシェークスピアは、人間の考えや状況の多様な様相をかたるのにきわめて有用な劇的手法として、詩的な語法を使用している。
彼の戯曲でおそらくもっとも有名な「ハムレット」(1601?)は、卑しさと人間としてあることの栄光を交錯させてえがきだしている点で、復讐をあつかった他の悲劇をはるかにしのぐ作品となっている。
ハムレットは、自分のすむ世界をおそろしく思っている。父親が殺された一件と、肉欲にふける母親のありさまからこの感情をより強固にしたハムレットは、決断できずに身動きがとれない優柔不断さと、性急な行動との両方の傾向をみせる。彼の行動の動機と心理的葛藤(かっとう)の解釈をめぐっては、かなりの論争がつづいている。→ ハムレット
「オセロー」(1604?)は、ベネツィア軍の将軍であるムーア人オセローを主人公に、彼の中にめばえた不合理な嫉妬(しっと)心がふくれあがっていく様をえがいている。彼の嫉妬の対象となるのは、彼の純潔な妻、デズデモーナである。よこしまな青年将校イアーゴーは、オセローを破滅させるために、言葉巧みに彼の猜疑(さいぎ)心をあおるのであった。→ オセロー
さらに雄大なスケールで表現された「リア王」(1605?)は、初期ブリテンの統治者であるリア王と彼の重臣グロスター公の、無責任であやまった判断から生じたいたましい末路をえがいている。
彼らがそれぞれ、善良な子供にではなく邪悪な子供に権力をあたえたことから、悲劇的な結末への道がはじまり、最後の場面では、リア王の末娘コーディーリアがしめす愛情によって善良さの正当性が立証される。この結末は、コーディーリアの姉たちとグロスターの日和見(ひよりみ)的な息子の自滅によって、より強烈なものになっている。→ リア王
「マクベス」(1606?)では、他人からそそのかされた男が、みずからの性質の欠点によって野望にたおれる姿をえがいている。スコットランドの王位をまもろうとするうちに善悪を区別する目がくもってしまったマクベスは、道徳を無視したあらゆる行動を平気でとる人間になるのである。→ マクベス
「アントニーとクレオパトラ」(1607?)では、これまでとりあげなかったタイプの恋愛、すなわちローマの将軍アントニウスとエジプトの女王クレオパトラの、中年の情愛に焦点があてられている。シェークスピアは彼らの恋を、きわめて審美的な幾編もの詩で賛美している。
4つの悲劇とはことなり、次の3つの戯曲は、偉大さや悲劇をうけいれるだけの度量が欠如している主人公をめぐる物語である。シェークスピアの戯曲のなかでももっとも理知的な構想をもつ「トロイラスとクレシダ」(1602?)では、個人的・政治的、両面における理想と現実のあいだの溝を、巧みにうかびあがらせる。
古代を舞台にしたもうひとつの悲劇「コリオレーナス」(1607?)は、ローマの民衆の支持をえることも、彼らを力でねじふせることもできないローマの伝説的英雄コリオラヌスの姿をえがいている。
「アテネのタイモン」(1607?)も同様、追従者たちの恩知らずな行いによって人間嫌いにならざるをえなかった人物をとりあげた辛辣(しんらつ)な戯曲である。文体の質にむらがあることから、この作品は、おそらく劇作家トマス・ミドルトンとの共作であるとみなされている。
この時期の2つの喜劇もまた暗い雰囲気をもっており、簡単に分類したり分析したりできないことから「問題劇」とよばれることがある。「終りよければすべてよし」(1603?)と「尺には尺を」(1604?)は、一般にうけいれられてきた道徳上の規範に対して問題をなげかけ、解決をもたらさないまま幕をとじる。
第4期―1608年以降
第4期の作品には、もっとも重要な、「ロマンス劇」とよばれる一種の悲喜劇がある。シェークスピアの終盤の作品のいくつかは、魔術、芸術、あわれみ、善意などを介して、人間が救済されることをほのめかしている。これらの戯曲は、初期の喜劇とはかなりことなり、重々しい調子で書かれているが、最後は再会をはたしたり和解したりして、幸せな結末をむかえる。ロマンス劇の魅力の一部は、時や場所をこえて人をひきよせる力にあるが、初期の作品にくらべて、この期の作品はすべて、この特徴がはっきりしてきているようである。ロマンス劇は、シェークスピアの視野の最終的な成熟をしめすものだというのが大方の批評家の見解だが、当時の戯曲の流行を反映したにすぎないという研究家もいる。
ロマンス劇「ペリクリーズ」(1608?)は、妻をなくした主人公ペリクリーズの嘆きと、彼の娘がうける虐待をあつかっている。数々の風変わりな冒険のすえ、ペリクリーズはふたたび愛する者たちにであう。「シンベリン」(1609?)と「冬物語」(1610?)では、登場人物たちは互いをなくした悲しみにくるしむが、最後には再会する。
しかし、作品のうえでこの特質がもっとも成功しているのは、シェークスピア最後の完全な作品と考えられる「あらし(テンペスト)」(1611?)においてである。ここでは、英知と力の結合という有益な効果が暗示される。この戯曲は、侯爵の称号をうばわれて島流しにされた侯爵が、自分をおとしいれた兄を、魔術の力をつかったり自分の娘とその兄の息子の恋をおしすすめたりして、ふりまわす物語である。シェークスピアの詩の力量は、このうつくしい抒情詩風の戯曲で頂点に達している。
最後の戯曲は、シェークスピアの作とされることもあるが、おそらくは共作とみなされている。史劇「ヘンリー8世」(1612?)はたぶん劇作家ジョン・フレッチャーとの共作であろう。
5 文学的評価
18世紀までは、シェークスピアは正規の教育をうけていない粗野な天才にすぎないとみられていた。この見方がさらにすすんで、彼の戯曲は実際にはもっと教養のある人物、おそらくは政治家で哲学者のフランシス・ベーコンか、シェークスピアのパトロンだったサウサンプトン伯が書いたものであるという説もながれた。しかしシェークスピアが活躍していたその時代に、彼の中に不朽のきらめきを見いだして賞賛する作家ベン・ジョンソンなどのような人々もいた。19世紀以降、シェークスピアに対する評価はより確固としたものになり、西洋世界でもっとも偉大な劇作家と考えられるようになった。」Microsoft(R)
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(写真の裏を見ると、77年1月1日とある)
ドーヴァーの絶壁をみながらの帰路
(帰路は、記憶では、カレーに)