作成日20010905 更新日:2005年1月20日
(正面玄関)
ヴァンゼー会議記念館・・・1942年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼー・高級住宅街(Am Großen Wannsee 56-58) にあるこの建物でホロコースト)(第三帝国によるユダヤ人大量虐殺)の展開にとって決定的に重要な会議が開催された。
帝国保安本部長官・治安警察・保安部長官ハイドリヒが主催し、その司会のもとに、議題は「ユダヤ人最終解決」(Endloesung der Judenfrage)であった。
この会議には、ドイツ第三帝国の主要国家官庁の次官クラスが参加した。したがって、「次官会議」とも称される。
ドイツ支配下のユダヤ人の移送政策から絶滅政策への実質的転換(「冬の危機」・総力戦化・敗退化、1941年12月)を踏まえて、表面的には戦時中の「東方への移送政策」の遂行を打ち合わせ、調整する会議として、開催された。
立地(最寄駅):
ベルリン中央のツォー駅からSバーン(S7)三十分ほどのWannsee駅下車(・・・ウンター・デン・リンデン駅などを通るS1線経由も可能)。
ポツダム駅からベルリン市中心方向へSバーンで一駅がヴァンゼー。
この記念館は、ユダヤ人富豪の別荘だった時期もあり、周辺一帯はいまでも保養地・閑静な高級住宅街として、著名な地域。
ヴァンゼー会議の開催された広間…外を見れば、ヴァンゼー湖が広がり、対岸には大海水(といっても湖なので真水)浴場。モーターボート、ヨット、遊覧船が行き交う。
各省庁次官クラス・参加者・・・中央・司会ハイドリヒ、向かって左手にアイヒマン
ゲシュタポ・ミュラー(ライヒ保安本部第4局長官・ゲシュタポ・ミュラー)
ヴァンゼー会議記念館公式HP
ヴァンゼーは湖・・・ヨットなどで楽しむ人々が多い。
ヴァンゼー会議記念館のすぐそばのヨット・ハーバー.:
向こう岸には、4万人規模の大きな水浴場がみえる。
-----------------ヴァンゼー駅から一駅で、そのポツダムについて--------------
ポツダム軍事史研究所主催:軍事史国際会議(2001年3月)参加
この会議では,まさに第二次世界大戦が第一次世界大戦の結果,ないし延長戦でしかないことが,さまざまの角度から明らかにされた。
総力戦としての第1次世界大戦の経験は、若い将校たちに深刻な影響を与えていた。
いまや将軍となった彼らは、その第1次大戦の記憶を鮮明にもっていた。
会議後の主催者企画エクスカーションで、普通には見て回ることが困難なポツダム市街周辺をバスで見学。
軍事関係施設がじつに多いことがわかる。
サンスーシー宮殿のすぐ後ろにも兵舎などがある。
宮殿の表側だけを見ていたのではわからない。
ポツダムが軍事都市としていかに建設されたかがはっきりわかった。
1. ポツダム市の中心部(歩行者天国とポツダムのブランデンブルク門)
2. ポツダム・サンスーシー宮殿
3. サンスーシー宮殿(正面)とオランダ風車(左手奥:フリードリヒ大王による新教徒職人層の招聘,オランダやフランス)
付録
ホテル:ポツダム駅前メルキュール
ホテル・メルキュール斜め前にある美術館
ベルリン中心部クーアフュルステンダムどおりの有名なカフェ・クレンツラー