ものごとの歴史性

最終更新日:2002314()

 

 

労賃(月給,日給,時間給など)の歴史性・その社会関係の歴史性・・・「もし労働が賃労働として規定されていないならば、労働が生産物の分け前にあずかる仕方は,労賃としては現われない・・・たとえば奴隷制ではそうである[1]。」

 奴隷は労働する。しかし,賃金を受け取るわけではない。

 農奴は労働する。しかし,賃金を受け取るわけではない。

 商人は労働する。しかし,賃金を受け取るわけではない。

  

賃金労働者,サラリーマンは歴史的に形成されたものである。

どのような時代に?

どのようにして?

 

 

個人の歴史性・・・「社会の中で生産を行う諸個人、したがって諸個人の社会的に規定された生産」は歴史的なものである。

 

近代ブルジョア社会の個人・・・ルソーの「社会契約論」に人間は歴史的産物である。独立した諸個人・諸主体が契約によって関係している社会などというものは、歴史的産物として生まれ出てきたものであり、ルソーは予言者として、封建社会の胎内に生成してきた新しい人間関係,新しい社会の萌芽の鋭い洞察者として、「16世紀以来準備されて18世紀に成熟への巨歩を進めた『ブルジョア社会』を見越した[2]」のである。

 「この自由競争社会では,個人は,それ以前の歴史上の時代には彼を一定の局限された人間集団の付属物にしていた自然的紐帯などから解放されて現われる。・・・・18世紀の個人―一面では封建的社会形態の解体の産物,他面では16世紀以来新しく発展した生産諸力の産物―・・・。歴史をさかのぼればさかのぼるほど、ますます個人は、したがってまた生産を行う個人も,独立していないものとして,あるより大きな全体に属するものとして,現われる。すなわち、最初はまだまったく自然的な仕方で家族の中に、また種族にまで拡大された家族のなかに現われ、後には諸種族の対立や融合から生ずる種々の形態の共同体のなかに現われる。[3]

 

個々人の自立、自立した諸個人などというものは、人類史の産物、歴史的産物である。

 

資本の歴史性・・・「資本は、とりわけ、生産用具でもあり、過去の客体化された労働でもある」。

 人類史の「どんな生産も生産用具なしでは不可能である。たとえこの生産用具がただの人間の手でしかないとしても,どんな生産も過去の積み重ねられた労働なしには不可能である。たとえこの労働が,ただ,反復された練習によって野蛮人の手に集積された熟練でしかないとしても。」

 しかし、「野蛮人の手」は,資本ではない。

 「生産用具=過去の客体化された労働」が、資本という形態を取るのは、歴史の発展のある段階からであり、その前提には商品と貨幣の関係が存在していることが必要である。

 

 

貨幣の歴史性・・・「貨幣は、資本が存在する以前に、銀行が存在する以前に、賃労働その他が存在する以前に、…歴史的に存在した。[4]

 

協業や分業と貨幣の歴史性・・・「非常に発展してはいても歴史的には比較的未成熟な社会形態があって、そこでにはどんな貨幣も存在しないのに、経済の最高の諸形態,たとえば協業や発達した分業などが見られるものがある。たとえば、ペルーがそれである。スラヴ人の共同体にあっても、貨幣や貨幣の生まれるための条件である交換は、個々の共同体の内部ではまったく現われないか、またはわずかしか現われないで,むしろ共同体の境界で他の共同体との交渉で現われる[5]

 

貨幣の歴史的前提としての交換・・・「交換は、当初は、一つの同じ共同体のなかの諸成員のあいだでよりも別々の共同体の相互関係のなかでのほうがより早く現われる[6]

 

ものとものとの交換の一定の発展・成熟・恒常性を前提とした貨幣

 

 

労働・・・「労働はまったく簡単な範疇のように見える。このような一般性においての―労働一般としての―労働の概念も非常に古い[7]ものである。それにもかかわらず、経済学的にこの簡単性において把握されたものとしては、『労働』は、この簡単な抽象を生み出す諸関係と同様に近代的な範疇である。・・・・富を生み出す活動のあらゆる限定を放棄したのは、アダム・スミスの大きな進歩だった。―マニュファクチャ労働でもなく、商業労働でもなく、農業労働でもないが、しかしそのどれでもあるたんなる労働。富を創造する活動の抽象的一般性とともに、いまやまた、富として規定される対象の一般性、生産物一般、あるいはさらにまた労働一般、といっても過去の対象化された労働としてのそれ。」

 

 どんな仕事をしていても、どんな職業についていても、同じように労働している、やっていることは労働だ、といった意識、これは歴史的なものである。すなわち、

 「労働の一定種類に対する無関心は、現実の労働種類の非常に発展した総体を前提するのであって、これらの労働種類のどの一つももはやいっさいを支配する労働ではないのである。もっとも一般的な抽象は、一般にただ、ある一つのものが多くのものに共通に、すべてのものに共通に現われるような、もっとも豊富な具体的な発展のもとでのみ成立するのである。そのときは、ただ特殊な形態でしか考えられないということはなくなる。他方、このような労働一般という抽象は、たんに種々の労働の具体的な総体の精神的な結果であるだけではない。特定の労働に対する無関心は、個々人がたやすく一つの労働からたの労働に移り彼らにとっては労働の特定の種類は偶然であり、したがってどうでもよいものになるという社会形態に対応する。労働は、ここではたんに範疇としてだけではなく、現実にも富一般の創造のための手段になっており、職分として個人と一つの特殊性において合生したものではなくなっている。このような状態は、ブルジョア社会のもっとも近代的な定在形態(die modernste Daseinsform der bürgerlichen Gesellschaften)―合衆国―でもっとも発展している。だから、そこで、「労働」、「労働一般」、単なる労働,という範疇の抽象が、近代経済学の出発点が、はじめて実際に真実になるのである。だkら、近代的経済学が先頭に立てているもっとも簡単な抽象、そしてすべての社会形態にあてはまる非常に古い関係を表しているもっとも簡単な抽象は、それにもかかわらず、もっとも近代的な社会の範疇としてはじめて、実際に真実にこの抽象において現われるのである。・・・・・・・

 労働の例が適切に示しているように、もっとも抽象的な範疇でさえも、それが―まさにその抽象性ゆえに―どの時代にも妥当するにもかかわらず、そのような抽象の規定性そのものにあってはやはり歴史的諸関係の産物なのであであって、ただこの歴史的諸関係だけに対して、またただこの諸関係のなかだけで、十分な妥当性をもっているのである。[8]

 

ブルジョア社会の歴史性・・・「ブルジョア社会は、もっとも発展したもっとも多様な歴史的な生産組織である・それゆえ、ブルジョア社会の諸関係を表現する諸範疇は、またブルジョア社会の編制の理解は、同時に、すべての滅亡した社会形態の編制と生産関係との認識を可能にする。[9]



[1] マルクス「経済学批判への序説」『全集』大月書店http://opac.yokohama-cu.ac.jp/cgi-bin/opac/cal950.type?data=366104_1_8

13巻、622ページ。

[2] 同、611ページ。

[3] 同、611612ページ。

[4] 同、629ページ。

[5] 同、629630ページ。

[6] 同、630ページ。

[7] 同、631ページ。

[8] 同、631632ページ。

[9] 同、632ページ。