末弘厳太郎(すえひろ・いずたろう)著佐高信編『役人学三則』岩波現代文庫、2000年
痛烈な批判精神のこもった本書は、将来役人になろう、公務につこうと考えている受講生のみなさんは、熟読してみる必要があろう。
大正時代末期から昭和初期の時代にかかれた本書は、現代でも通用する新鮮な洞察をいくつも含んでいる。一読すれば、「現代文庫」に収録された意味がわかる。
また、すでに役人になっている人びとにも、反省の貴重な材料を提供している。
さらに、役人だけではなくて、現代社会の形式主義に直面している人、形式主義と衝突して苦い思い、不快な思いをしている人びとには、痛快な書であろう。
p.5 第1条 およそ役人たらんとする者は、万事につきなるべく広くかつ浅き理解を得ることに努むべく、狭隘なる特殊の事柄に特別の興味をいだきてこれに注意を集中するがごときことなきを要す。
p.6 「特殊の専門的知識ないし技能を要すべき地位でも、決して必要な知識ないし技能を有する役人がそれを占めるとは限らないので、すべてはただ人繰りの関係から決められるのである。」
・ 市立大学は、他の多くの公立大学と同じく、大学に派遣されてくる職員が専門に大学で職務を遂行する体制となっていない。市の多様な職務・部署を担当する人びとが大学に配置転換によって、配置される。
・ 大学とは何か、大学の研究教育とは何か、学問の研究と教育にとってなぜ自由が必要なのか、自由とは何か、そのためにどのようなことを配慮しなければならないか、深く広い見識を持つためには、今のシステムでいいとは思われない。
・ 大学における研究教育は、従来の学問の成果の継承と同時にそれを批判的に発展させていくと言う本質を持つ。その批判的創造と自由との本質的関連がはたして理解されているかどうか?
p.7 大学という学問研究の最高学府に、「ほかからの人繰りの関係上どんどん専門の知識なき役人が上役として転任してくる」ということは、ないか?
p.8「すべての行政事務が実質的には比較的教養の足りない属官らの手中に握られて、・・・・」
「専門的知識をもたない、そうして任期の短い長官は、素人考えからいたずらに功績をのみ急ぐ。じっくりおちついて気永に考えるによってのみ適当に処理しうべき事務が個々の長官の個人的功名心満足の対象物になって実質的にその成績を上げえない。これでは下僚といえども真に身を入れて仕事をする気になれない。百害の因はまさにこの点に存するのであるが、現在の実情はまさにこのとおりである。」
p.9
第二条 およそ役人たらんとする者は法規を盾にとりて形式的理屈をいう技術を習得することを要す。
p.9-10「法規を盾にとって理屈をいう技術と法律学とは別物である。法律学のような高尚な学問を研究せずとも、法規に精通して形式的の理屈をいい有無をいわせず相手の議論を撃破したり要求をしりぞける技術を習得する必要がある。・・・いやしくも役人として出世しようとするかぎり、法規を盾にとる術に熟達することを要する。諸君は試みにお役所を尋ねてみるがいい。法科出身ならざる役人といえども、いやしくも有能な役人であるかぎり、すべてきわめてたくみに法規をあやつる術を心得ているのを発見するであろう。われわれ法律家の目からみると、これら技術出の役人の法律論はもっとも法律学から遠いものであるのだが、役人仲間ではああした法律論がもっとも役に立つので、いやしくも役人として出世せんとする以上、すべてその術を修得せねばならない。いかに相手のいうことが条理にかなっていると思っても、容易にその前に頭を下げるようではいけない。条理などは無視して法規一点張りで相手をねじふせなくてはいけない。どうもあの男は理屈ばかりこねてものがわからない、といわれるようにならなければとうてい役人として出世しない。」
大学は、憲法の保障する学問の自由を達成するための最も重要な機関であり、そのための大学の自治は憲法的重要性を持つ。学問・科学の発展の本質にかかわることである。憲法はその重要性を条文化したにすぎない。
科学を発展させ、真理探究を推し進めていく見地、真実と真理を究めようとする大学の根本的価値観は、時の政府や支配的意見・支配的勢力の考え方と真っ向から対立する側面を宿命的にもたざるをえない。
物事の発展の本質からして、既存のもの、既存の到達点を乗り越えていくところに、批判的創造、批判的発見・発明の意味がある。既存の諸理論、既存の諸利害、既存の諸到達点との闘いこそは、大学のもっとも崇高な本質的使命である。
すでに達成されたものを繰り返すだけでは、本来の大学の使命からすれば不充分なのである。「役人」は革新性を本質とするものではない。「役人」が大きな顔をするようになれば、大学はその生命力の貴重な部分を喪失する。あるいは、生命力を失った衰弱化した大学が、「役人」に活躍の場を与えるということかもしれない。
外部からの機械的な形式的な縛りを最大限可能な限り排除して、学問内在的に問題を検討していくこと、そのための精神的自由、時間的自由を保証することは、大学の存立そのものにかかわることである。
第三条 およそ役人たらんとする者は、平素より縄張り根性の涵養に努むることを要す。
多分この点は、多くの人がよくわかることだろうから、内容抜粋、コメントはしない。
-------------
同書 「嘘の効用」
p.83「法律は人間のために存するものです。人間の思想、社会の経済的需要、その上にたってこそ初めて法は真に行われるのです。かつては、社会の思想や経済状態と一致した法であっても、その後、社会事情が変わるとともに法は事実行われなくなる。また立法者が社会事情の真相を究めずしてむやみな法を作ったところが、それは事実とうてい行われない。・・・・」
p.84「責任は、自由の基礎の上にはじめて存在する。規則によって人の自由を奪うとき、もはやその人の責任を問うことはできないのです。しかるに、万事を規則ずくめに取り扱う役所なり大会社なりは、使用人の責任までをも規則によって形式的に定めようとします。その結果、責任は硬化し形式化してまったく道徳的根拠を失います。」
p.87「『法』が合理的な根拠なしにその限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありません。もしもその人が、意志の強固な正直者であれば『死』を賭しても『法』と闘います。またもし、その人が履行物であれば―これが多数の例だが―必ず「嘘」に救いを求めます。そうして、『法』の適用を避けます。ですから、『法』がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。」
嘘、すなわち「『擬制』の発生はむしろ法律改正の必要を、否、法はすでに事実上改正されたのだという事実を暗示するものとして、これを進歩の階梯に使いたい・・・・」(p.95)
「子供に『嘘つき』の多いのは、親の頑迷な証拠です。国民に『嘘つき』の多いのは、国法の社会事情に適合しない証拠です。その際、親および国家の採るべき態度はみずから反省することでなければなりません。・・・」(p.96)