4時からのフランク教授の報告・講演をふまえ、7時半まで、質問とそれに対するフランク教授の懇切な返答・解説があった。
この報告の全文は、われわれの質疑とそれに対する応答を含めて最終原稿に仕上げた後、廣田教授訳で、東京大学、法政大学、関西大学、名城大学などでのほかの4本の報告とあわせて、近いうちに日本経済評論社から、1冊の本として刊行される事になっている。
以下は、市大国際学術セミナーでの報告の簡単な要旨で、当日参加者に配布したものである。
なお、仏独和解の「社会史」の部分は、主として当日の報告が中心であり、事前に準備された下記のレジュメ部分からは欠如している。
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レジュメ(報告要旨)
仏独和解とヨーロッパ統合
ロベール・フランク(パリ第1大学・パンテオン・ソルボンヌ)
はじめに
永続的な敵対関係にあった仏独両国は、1950年以来、和解し、共にヨーロッパを建設してきた。両国は,いかにして「父祖伝来の敵」というイメージから、「主要で特別のパートナー」というイメージに変化したのであろうか。
和解の原動力を理解するために、まずイメージの概念を考察し、20世紀における相互のイメージの変化を跡付ける。次に、この変化の過程において政治的意思の果たした役割(上からの過程)、最後に、社会がどのように変化を受け入れ、促進したか(下からの過程)を検討し、両国のカップルは強制されたものか、理性的判断によるものか、愛情によるものか考えたい。
1.相手に対するイメージの変化
両国民の間の「憎しみ」の感情は、歴史の産物であり、記憶に媒介されたものである。
当初、両国民の間には非対称の状況が存在した。フランス人にとってドイツ人が敵と映る前から、ドイツ人にとってフランス人は敵であった。フランス人にとっての敵は、長い間、イギリス人であった。ドイツのアイデンティティーは,フランスとの対抗関係によって形成され、フランスのアイデンティティティーは,イギリスに対抗して形成された。しかし1871年以後、両国は互いに敵となり、対称性が確立された。以後、相手に対する屈辱感が蓄積され、「父祖伝来の敵」の関係となる。
第一次大戦直後は、フランスは復讐政策をとったが、1920年代半ば、ブリアン=シュトレーゼマンによって、最初の仏独緊張緩和と合意が追及され、ブリアンの「ヨーロッパ連邦」の構想が発表され、「仏独カップル」と「ヨーロッパ建設」の結びつきが形成された。
第二次大戦後も第一次大戦後と同じ過程を繰り返した。二つの戦後の比較は、フランス人がドイツ人に対して抱くイメージは、基本的に二面性を持っていたことを示している。フランス人のドイツ人に関する社会的イメージのシステムの中には、ドイツ人嫌いとドイツ人贔屓が共存していた。対独接近・和解は、世論がドイツ人に対するイメージを根本的に変化させたから生じたのではなく、同じイメージのシステムのもとで、方程式の数値を変えることによって生じた。このイメージの逆転は、政治的状況の変化に影響されたものである。その結果、自国の安全保障と経済的繁栄のためにドイツを利用するという集合意識が生じた。
一方、他者のイメージは、自己イメージの投影である。「自己イメージ」が「外国人観のタイプ」を規定する。他者は、自分の希望・恐れとの関係で、道具として使われる。「1940年シンドローム」を契機に、フランス人が新しいアイデンティティーを創出しようとしたとき、ドイツとの共同歩調が有益とみなされた。したがって他者イメージは、過去と現在だけでなく、将来展望によって決定される(三重の時間性)。1940年の敗北のトラウマの後、より良い未来に対する欲求は、過去の重みに勝利する。他者のイメージは不動ではなく、事件や政治家の意思・行動の影響で変化する。
2.接近から和解へ
変化と近代化に対する強い欲求がフランスの指導者を捉えた。モネは、英仏ヨーロッパの失敗をうけて、ドイツとヨーロッパを建設する道を選んだ。ここに第二のカップル、シューマン=アデナウワーのカップルが誕生した。
両国はそこから利益を引き出す。しかしCED挫折は、ドイツ人に対するイメージの変化の限界を示した。1955年以後の「ヨーロッパの再開」は、経済統合を基礎に進められ、それとともに第三のカップル、ギ・モレ=アデナウワーのカップルが形成される。
ド・ゴールは、「接近」から「和解」へと前進させた。ド・ゴールは、「ドイツ人は偉大な国民である」と訴え、ドイツ人を彼ら自身と和解させ、ドイツ人とフランス人の和解を容易にした。1984年、ミッテラン=コールの新たなカップルが形成された。この二つのカップルは、シンボルと言葉の力を活用して、両国の和解を進めた。
一方、外交的な努力も無視することはできない。仏独カップルの成功の条件は、ドイツの経済力とフランスの政治的軍事的影響力の補完関係であった。しかし対立は存在した。とくに両国の通貨観は対立していた。しかし通貨問題の共同の管理の経験は、両国の見方を接近させる。これによってマーストリヒト条約と経済通貨同盟成功への道が開かれた。
仏独カップル:社会的な出来事か
両国の社会レベルにカップルが存在したか。この問題に関する総合的な研究はない。ケルブレの研究は、ヨーロッパ社会の特徴と収斂を指摘したが、仏独社会を特徴付けたわあけではない。
ベルジェは、鉄鋼業界の関係を研究し、20年代半ばに始まるカップルの形成を検証した。第二次大戦中、ドイツ鉄鋼業者は、仏鉄鋼業者を保護する役割を演じ、それゆえ戦後の関係修復は早くから進んだ。ECSCは、彼らのカルテル結成に対応していたが、モネの反カルテル政策の結果、彼らの態度は中途半端なものとなるが、社会的な仏独カップルの好例を示している。
第二の例は、在郷軍人、戦争捕虜、抑留者の場合である。最近の研究は、どのようにして戦争捕虜・抑留者が50年代以後、妻や子供と一緒に抑留地を旅行するにいたったかを示している。それはある感情が別の感情に勝るには一定の期間が必要であることを示している。CED条約が問題となったとき、彼らは反対ないし不信を表明したが、55年以後、彼らはドイツに旅行し、姉妹都市協定に重要な役割を演じた。
知識人も和解に重要な役割を演じた。余り有名ではない知識人が早くから活動し、70年代から、新しい知識人が絆を強めた。イギリスとの関係には見られないフランス思想とドイツ思想の相互浸透が見られた。学校や大学の交流も成功を収めた。とくに1963ネンノエリゼ条約は重要である。労働組合の場合、DGBとFOの間に緊密な関係が見られた。軍隊の間でも和解が進行した。
社会関係の強さが、カップルの成功の一因であることは疑い得ない。しかしそれはヨーロッパ建設をすべて説明するものではない。ヨーロッパ(統合の)ダイナミックを理解するためには、仏独の和解は必要ではあるが、十分ではないと言うべきであろう。政治的意思も基本的要素であった。