以下は、長いあいだ苦労して入試改革を担った人でなければできない松井教授の明解な「報告書」批判である。
入試過誤、再発防止で考えるべきことはなにか!!
ポイントを見誤ってはならない。
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「平成13年度横浜市立大学商学部入試における合否判定過誤に関する調査報告書」批判
−原因を取り違えると、新たな過誤を招く!−
2002年(平成14年)8月6日
商学部教授 松井道昭
(1984〜1995年度商学部入試委員)
本年7月23日、本学入学試験管理委員会入試過誤調査委員会は、(T)過誤の発見に
いたった経緯、(U)過誤を招いた原因、(V)過誤の防止策から成る「調査報告書」な
るものを発表した。これに関し、教員として直接・間接的に過去十数年に亘り入試事務に
関わってきた者として看過できない事柄が幾つか含まれており、ここに見解を表明するも
のである。
この文書が述べている内容を全面的に否定するつもりはないことをまず断っておく。し
かし、表面的理解が随所に見られること、とくに過誤について公平性を装いつつ一面的な
原因推定を行っていること、そしてそれらは今後の更なる過ちに連なるおそれのあること
を指摘しておきたい。これが大学の公式文書として発表されることは遺憾の極みと言わざ
るをえない。
「T 合否判定の過誤及びその判明の経過」に対する批判
−ミスの発生源は教養部にあり、これこそまず確認されなければならない!
−事前シミュレーションが行われていれば、ミスは防止できた!
まず、本報告書の性格についてであるが、内容・文体・構成等から判断して教員の起案
したものではないと推定できる。事実経過と種々の要因が未整理のままに記述されている
箇所、入試の実際に通暁せざる者に特有の内容面の粗さが見受けられること、結論的に管
理体制の強化をうたうなどの点がそうした判断の根拠となる。この点は追い追い明らかに
していく。
「調査報告書」は第2外国語の入試問題共有化の理由を、「受験者数が少ないから」に
求める。このくだりは、「調査報告書」の起案が職員の手になることを自ら暴露している。
なぜなら、出題者は出題に当たって、問題の中身や妥当性、誤謬の有無に人知れない苦労
を味わうし、ときには逃げ出したくなるような衝動に駆られるものであるからだ。「調査
報告書」の起案者はそうした痛苦とは無縁である。問題の共有化はできるだけ多くの者の
眼を通して、出題の適性化を確保するためのものであり、それは受験生の多寡とはまった
く関わりがない。
「調査報告書」は過誤の発生原因として、配点の傾斜化に際しての電算処理の遺漏を挙
げる。@科目配点の変更[250点→100点]、A計算方法の設定の変更[配点計算→
傾斜配点計算]という2つの作業のうち、前者のみが行われ、後者が行われなかったとい
う。これは重大なミスであり、これでは合否判定資料に間違いが生じるのは当然で、今回
の過誤要因のすべてがここに集約されている。
Aが過誤発生の直接因だが、@の操作も過誤を呼び込む間接因となっていることを忘れ
てはならない。従来、商学部が250点配点でやってきたものを、何ゆえにわざわざ10
0点に直したのかが問題にされなければならない。仄聞するところによれば、この変更は
教養部の主導によるそうである。これ自体が問題なのだが、その他にもここには2つの問
題がある。ひとつは入試得点のニュアンスの除去であり、もうひとつは、それが過誤を誘
い込む要因となったことである。
商学部の250点法は歴史をもっている。100点法により採点したものを2.5倍し
たものと、250点法で採点したものとでは同じように見えるが、結果は違う。同点者の
数に差が出るからだ。入試の目的は得点の差別化にあり、できるだけ得点にニュアンスを
つけるのをよしとする。だいぶん前のことになるが、かつて商学部の英語は100点法で
採点していた。それを250点法に直したのはこのためである。
第二に、出題ミスをできるだけ少なくするために問題は共通化しても、配点において学
部独自性を維持していれば、今回の過誤を回避しえたはずである。一般に、複雑性という
のは元締めで管理するよりも、末端で管理していたほうが間違いが少ない。実情に明るい
末端のほうが複雑性の意義をしっかり把握しているからである。これは最近の航空管制の
ミスで検証されたことでもある。
上記Aのミスは何をか言わんやである。今回の不祥事の原因はこれに尽きる。電算処理
担当者はおそらく配点変更の趣旨を理解していなかったものと思われる。だから、配点は
出題採点者に管理させたほうがよいのである。わかりやすさを理由に、やらなくてもよい
操作@をわざわざ設定し、それゆえに重大な過誤を呼び込んだ責任は大きい。「機知の功
あれば必ず機知の敗あり」とはまさにこのことを言う。過誤調査委員会は、だれが@を提
起したのかを追及すべきであろう。
「調査報告書」は上記@とAの変更操作がいつ行われたかについてふれていない。たぶ
ん年も押し迫ったころではないかと思われる。しかし、変更操作の時期がいつなのかは重
要である。私が入試事務に関与していた80年代後半〜90年代初頭には、この作業は例
年夏休みに行われていた。私は夏休みの最中にたびたび教養部に呼び出され、選抜方法変
更の趣旨説明をさせられた。これを受けて教養部は、選抜方法の変更点が実際にコンピュ
ータ上で正しく機能するかどうかを過去のデータを用いて確認した。面倒ではあったが、
教員立ち会いのもとでのこうした確認作業があったからこそ、わが学部の入試選抜方法は
かなり複雑であったけれども、ミスなくやれてきたのである。
ここで重要なのは、夏休みという比較的余裕のある時期を選んでシミュレーションがや
られたことと、学部の入試担当教員と電算処理者が膝を交えて作業に携わったこととであ
る。当時はこの段階で、実験結果の反省に基づいて電算操作のマニュアル化がなされてい
たように思う。こうした共同作業とマニュアルづくりがいつ消えたのだろうか。過去に行
われていたことがいつしか行われなくなり、そのことのゆえに過誤を招いたことは問題に
されて然るべきではないか。「調査報告書」はこの点については沈黙している。
「U 合否判定過誤の直接原因及び背景要因」に対する批判
−一人に電算処理を任せるとは!? 入試体制に欠陥あり!
−商学部の「複雑な選抜方法」は過誤発生とは無関係である!
「調査報告書」の第2部は「直接原因」と「背景要因」とに分かれている。前段の事実
経過そのものにはとくに異論はない。前段部分で重大なのは冒頭の記述「計算方法の設定
を変更する必要性に担当職員はまったく気付かなかった」という箇所である。もしこれが
事実だとすると、入試の重大事がこのような杜撰な体制下に置かれていたことに驚かざる
をえない。既述のように、入試担当教員と電算担当者が“膝詰め談判”をしていれば、こ
のような初動ミスは避けえたことである。最初が間違っていれば、あとはミスの順送りと
なるのは言うまでもない。
さらに、「調査報告書」は電算担当者に理解を示し、「商学部入試の配点の変更はこれ
までも何回か行われていたが、それらはすべて科目配点の変更のみで対応することができ、
計算方法の設定を変更する必要がなかった…と推測される」とまで言う。これは事実誤認
である。商学部は過去において、選抜方法こそ変更したが、センター試験(その前は共通
一次試験)と二次試験の配点はつねに500点対500点というように、一度も変更した
ことはない。だが、不満は残るにせよ、「調査報告書」のこのくだりは過誤発生の要因と
は関わりがない。
それよりも、その後段部分のほうが過誤との関連において遥かに重要である。すなわち
「電算処理の運用・管理が1人の職員に任され、複数の職員による点検を行っていなかっ
たこと、入力指示の変更に関するマニュアルが整備されていなかったことも、理由として
指摘できよう」の箇所がそれだ。この事実が外部に公表されるならば、入試軽視、受験生
軽視の最たるものとして、わが大学が信用失墜するのは火を見るより明らかである。今回
の過誤の発生の背景要因はこれに尽きるといっても過言ではない。過誤防止策の策定に当
ってはこの点をもっと突っ込んで分析する必要があるだろう。
わが大学は早急に他大学とりわけ私学の入試に取り組む姿勢と体制づくりに謙虚に学ば
なければならないようだ。私学では、入試業務が教養部の片手間仕事になっているところ
はない。それはたいてい独立機関として学部事務室より上位におかれた入試部ないし広報
部となっている。そこに付与された権限と予算は並大抵の大きさではない。専属職員は少
なくとも十数名で、彼らは熟練を要するところから5年間は異動しない。ここに各学部か
ら選出された入試担当教員が加わり、恒常的に入試事務全般に亘って協議する。
さて「調査報告書」の言う「背景要因」の検討に入ろう。前段部分の「入試実施におけ
る不明確な責任体制」(5ページ第4段落)についてはとくに異議を唱えるつもりはない。
しかし、齟齬・意思疎通不全は学部内の教員と職員の間よりも、学部事務室と教養部事務
室との間で起こりやすいことを強調しておきたい。両者の鞘当て行為には、私はずいぶん
悩まされた経験をもつ。とくに1986年当時、わざわざ文部省にまで出掛けて行って入
試改革案について了解を取りつけたのに、教養部事務室によって改革案の実行が妨害され、
すでにそれを公表していたために絶体絶命のピンチに陥ったことがある。こうしたことは
今でも変わりがないと聞く。同位横並びの或る部局が他の部局を統括・指揮するには無理
があるということだ。
今回の「調査報告書」で絶対に承服できないのは後段部分すなわち「(2)商学部の複
雑な選抜方法」である。これは関係者の話によると、原案では選抜方法の改善要求になっ
ていたそうだが、商学部入試委員の抗議により、「調査報告書」にあるようにトーンダウ
ンしたと聞く。それでも「複雑な選抜方法」は過誤要因として残っている。
まず、「複雑な選抜方法」と今回の過誤発生とはまったく無関係であることを指摘して
おきたい。現在のように便利なパソコンが普及する以前のことだが、1986〜90年の
合否判定資料の作成に当たっては、わが学部は教養部の打ち出した得点集計をもとに、3
つの選抜基準[注、当時は3基準であった]を適用し、これを手計算で行い合格者を決め
ていた。とくに、87年度入試は全国的に受験機会の複数化が行われた初年であったが、
2次試験受験者3,016名中、3つの判定基準を用いて650名を合格とし、結果とし
て310名の入学者を迎え入れた。全国的に雪崩現象のように大量の定員割れが起こるな
かで、わずか28名のオーバーで済んだ。それを手計算でミスなく行った。しかし、検算
のために数日間かかる大仕事であった。91年度からは、コンピュータ処理技術に長けた
商学部教員に全面的に依存することにより、この作業が大幅にスピードアップされた。こ
の間、手作業によってもコンピュータ操作によっても、ミスはまったく生じなかった。
コンピュータというのはプログラムがしっかりしており、入力さえ間違わなければ、間
違いは犯さないものである。今回のミスは、肝心のプログラムが組まれていないがゆえに
発生したのである。ミスの究明に当たっては、どんな種類のミスが、どの段階、どの部署
で発生したかが問題にされねばならない。採点ミスならば、これは100%教員サイドの
責任とすべきであろうが、プログラムミスならば、担当者の責任、あるいは彼に情報提供
を十分に行わなかった者の責任に帰すべきであることは理の当然であろう。
繰り返しになるけれども今回の過誤に即して言えば、教養部が配点変更を提起したが、
その伝達が同じ教養部の電算担当者にも、商学部の職員・教員にも不徹底に終わった。か
くて判定資料にミスが発生した。けれども幸いなことに、配点が変更されたとの認識のな
い採点者の従来どおりの採点により、ミスが判明したということではないか。この基本構
図を外れて議論しても始まらない。
「調査報告書」では、合格者の割合を70%、30%に区分したから過誤が発生したか
のような記述になっているが、これはタメにする議論としか言いようがない。「調査報告
書」の起案者はどうしても商学部を共犯者に仕立て、そのぶんだけ教養部の責任を軽くし
たいのであろうか。「調査報告書」がもし、ここで言うべきことがあるとすれば、「複雑
な選抜方法」をとっていながら、そのことのゆえに入試過誤を犯さなかった事実をば指摘
すべきであったであろう。このようないわゆる「ユニーク入試」が今回の入試過誤の発生
に無関係であることは、過去十数年の無謬実績をみれば、すぐにわかることである。
「調査報告書」はまた、偏差値計算によるデータを出したことを悪いことのように言う。
この操作は無闇やたらな恣意的操作ではなく、(1) 受験科目間の合否への影響度を平等に
保つ(統計学でいう「信頼性」の確保の)ために、また(2) 出題・採点のやりやすさのた
めに行っているのである。こうした科学的根拠をもつ得点調整は多くの大学で行われてお
り、むしろ得点調整をやらないと、受験生は選んだ科目で有利不利を感じてしまう、結果
として受験を諦める。受験生はもともと立場が弱く、非常にデリケートな存在であること
に配慮すべきである。
「ユニーク入試」と得点調整を入試過誤の“共犯者”に仕立てあげる「調査報告書」は、
商学部がそれを採用せざるをえなかった背景・歴史については口を噤む。同じ取りあげる
にしても、これについても是非述べて欲しかった。入試改革は単なる小手先の術策ではな
かったからだ。
国公立大学経済系の学部は80年代におけるバブル景気に支えられた私学の台頭と共通
一次試験不人気の狭間にあって、一部有力大学を除きどこでも大幅な志願者減、入学者の
学力低下に悩まされていた。わが学部もそうであった。同じ文系学部でも文理学部文科の
場合、首都圏の国公立大学で文学部をもつものが少ないために、それほど志願者減には悩
まされていなかった。理科や医学部が私学の脅威に晒されていなかったことは言うまでも
ない。わが学部がユニーク入試を実施する前の志願者は例年、1,000人を僅かに上回
る程度であり、1985年には1,066人であった。
「ユニーク入試」導入初年の86年には志願者は2,866人、受験機会複数化の始ま
った87年は6,449人、88年は5,405人、89年は5,566人、90年は7,
742人へと跳ね上がった。入学者のレベルも確かに良くなった。一部有力大学のように、
さしたる努力をしなくてもハイレベルの入学者を確保できるところと、わが大学の、とり
わけ激しい競争に晒されているわが学部のように、涙ぐましい努力をしなければ集まらな
いところとを同列において論じても仕方がないであろう。
また、わが学部は選抜方法をいじるだけで受験者を集めようとしたのではない。積極的
な広報活動に打って出た。現在、教養部を中心に行われている志願者確保のための積極的
な広報活動に先鞭をつけたのはわが学部である。カラー刷りの小冊子もわが学部が創始し
た。それまで理科で行われていた夏季の高校教員研修を、ワンデーオープンスクールに格
上げすることを提言したのもわが学部である。今回の「調査報告書」はこの努力について
一遍の顧慮すらしていない。
要約すれば、「調査報告書」中、「過誤の背景要因」の部分について体制上の不備につ
いては同意できるが、商学部の「複雑な選抜方法」が“犯人”に仕立てあげられているこ
とには断固として異議を唱えるものである。
「V 今後の防止策」に対する批判
−「調査報告書」はなぜミス発生源の教養部には甘いのか!
−統制強化は別の種類のミスを呼ぶ!
−採点期間の短縮は本末転倒の対策ではないか!
最後に、「調査報告書」は過誤防止のために諸策を提案する。その基調は「チェック体
制の整備」、「責任体制の明確化」、「入試業務全体の再点検」など管理体制の強化にあ
る。その方法として文書伝達主義を提案する。まず教養部(=司令部)ありき、そしてそ
れと学部との関連を述べていること、入試の実務に関わる教員のことにあまり言及してい
ないところをみると、この「調査報告書」はやはり教養部擁護の姿勢に貫かれた役所文書
と見做さざるをえない。
それはともかく、ここに述べられている防止策で実効を挙げうるかといえば、疑問なき
にしもあらず。人間のミスは統制や画一化で防ぎきれるものではないからである。どんな
組織にあっても人間相互の信頼関係がなければミスは生じる。文書主義は形式に流れ、か
えって(別の種の)ミスを誘発してしまう恐れがある。文書伝達はあくまで補完となるべ
きであり、担当者の直接の協議に依存したほうがよい。この点で、わが大学は小さい大学
の特性を生かし、直接、関係部局に出向いて伝達する方式のほうが間違いが少なく、効率
もよいだろう。また、マニュアルはあるに越したことはないが、それへの全面依存も危険
で、限界のあることを知るべきである。マニュアル外のことが発生したときに対処できな
いからだ。さらに、責任分担主義は必ずしも悪いことではないかもしれないが、事と次第
によっては担当者の持場防衛主義に転化し、かえって境界線上のミスを誘発する可能性も
ある。
このように、文書、マニュアル、責任分担はミス防止の補完策とはなりえても万能薬で
はない。何よりも大切なのは同じ業務に立ち向かう人の熱意、責任意識、協力的姿勢であ
る。日ごろから頻繁な接触があれば、齟齬を来したり意思疎通を欠いたりすることはない。
そのような組織体制づくりをこそ、まず考えるべきではないか。
「調査報告書」は、「学部ごとの入試のあり方や実施状況などを点検・確認し、大学と
して統一した入試業務の実施方法を確立する」ことをうたう。なんでもない表現のように
見えるが、これを「多様な選抜方法の画一化をめざす」と読めなくもない。現に、特別入
試も教養部のもとに一元化する案が飛び出している。これが「角を矯めて牛を殺す」こと
にならなければいいがと思う。入試というのは入会許可制を前提とした「人間による人間
の裁断」という側面をもっている。どんな方法も完璧ではないということだ。入試方法は
弾力的でなければならず、そのために試行錯誤のプロセスを踏まなければならない。試さ
れる分野や人間はもとより、試す側の人間も多様であり、画一的な間尺では用をなさない
ばかりか、かえって有害である。だから、入試実務に携わる者の声がつねに十分反映され
るような体制でなくてはならない。
過誤防止策の行き過ぎにより、別の種類の過誤が呼び込まれるおそれがある。それは6
ページ(3)−エである。ここには「点検作業の時間を確保するため、採点業務を最優先
し採点をできるだけ早く完了させる」と書かれている。これは言葉とは裏腹に「採点業務
の最軽視」にならないか。われわれは、今回の電算プログラムミスがこのような結論を導
いたことに驚愕せざるをえない。今回のミスは採点ミスや入力ミスではないことを改めて
噛みしめる必要がある。
入試に携わる者の経験から言えば、採点はいちばんデリケートな要素である。それが終
わっても、いつまでも心残りとなることさえある。つまり、急いだり焦ったりすると、ミ
スに繋がりやすいということだ。論述式問題の多い国公立大学の場合はとくにそうである。
急いで採点するためには、良問を放棄し○×式問題に改めなければならないだろう。これ
が本末転倒であることは言うまでもない。
おわりに
入試過誤調査委員会は事件に直接関わりをもたない部局の教員と職員から成っていると
聞く。にもかかわらず、「調査報告書」には教員サイドの言い分がほとんど反映されてい
ないように思える。過誤はまず発生源に焦点を当てて分析し、次いでその背景(=体制)
を問題にすべきである。なるほど、「調査報告書」は形のうえではそうなっている。しか
し、背景を取り上げる際、事の次いでに過誤とは無関係の入試選抜方法までも背景(=体
制)と同列において論じる。70%、30%の「複雑な選抜方法」で誤って合格者を不合
格者にしてしまったのなら理解できる。それは過去一度としてなかった。「調査報告書」
は挙げ句の果てに対策として、過誤発生源の教養部を軸に垂直的な管理体制を提起する。
かくも一方に偏した「調査報告書」が作成されたのはなぜなのか。このような偏向は、過
誤調査委員会そのものが、あるいはそれを立ち上げた入試管理委員会が予断をもっていた
から生じたと判断せざるをえない。
管理体制強化は一時的な効率性を生むかもしれない。だが、それと引き換えに、組織人
の創意性・自発性・熱意を奪い取り、“萎縮”という始末の悪い病根を招じ入れ、組織そ
のものを衰退に追い込み、究極的に枯死にいたらしめる。たかが入試ということなかれ、
これは大学にとって死命にかかわる重大事である。入試過誤委員会及び関係諸部局にいま
一度の深慮を促したい。