関口泰の大学論----遠山茂樹教授の横浜市立大学最終講義
1979年1月23日
[矢吹まえがき]
1979年1月23日、遠山茂樹教授(現名誉教授)の横浜市立大学最終講義は「関口泰の大学論」の表題で行われた。その記録は教え子たち(市大日本史OB)によってまとめられ、油印版10ページの小冊子として、図書館に収められている。これは
(1)関口泰の教育論、
(2)関口泰の大学論、
(3)戦後教育改革と関口泰、
(4)教育と日本の未来を求めて、
の4部からなる。
2002年10月10日夜に開かれた「教員組合緊急集会」において、教え子の一人である丸茂氏(商学部事務室)によって、その一端が紹介された。市立大学のあり方を考えるうえで、初代学長によって提起された「大学の原点」に立ち返ることは、有意義だと考えられるので、その一部、すなわち(2)関口泰の大学論、を以下にご紹介したい。
[遠山教授最終講義第2節]
彼の大学論の第一の特徴は、大学の自治、あるいは大学の自由についての非常に独自な見解であります。彼の大学論の前提には、エリート養成を目的とする大学、特に官立大学の持っています特権への批判があるわけです。1933年に御存知のように京都帝国大学で瀧川事件がおこるわけです。さらに1935年には天皇機関説問題というものがおこりまして、憲法学者に対する圧迫が行われます。こういう状況のなかで、大学問題というものがいわば政治問題化していったのが、1930年代の特徴であろうと思います。関口はこの二つの事件において、言うまでもなく文部省の不当な干渉を非難いたします。しかし他方において、この瀧川事件、あるいは天皇機関説問題をとおして、文部省の措置を非難する側の言論についても不満をもっているわけです。−−文部省の干渉に対して反対する言論のなかに二つの大きな流れがある。一つは、大学、特に官立大学が持っています既存の特権を守ろうとする見地からの文部省批判である。もう一つは、資本主義の危機が深まるなかで大学が没落するのは必然であるというマルキストの主張でございます。この二つの考え方に対して、彼は不満であるということを表明するわけです。そして、この当時出ました瀧川事件における文部省批判の言論を一つ一つ検討した上で、彼が支持できる考え方として三枝博音の発言をとりあげるわけです。三枝博音は、御存知のように唯物論研究会を創立した唯物論哲学者であり、また本学の第四代学長になられた方です。この三枝が瀧川事件についてこういうことを言っているわけです。「大学自治をではなく、科学や理論そのものの自由が叫ばれなければならなくなる」と。この主張を関口は支持しまして、彼の論文は小見出しとして、「大学の自治より学問の自由を」ということばを自分でつけているわけです。
御存知のように戦前の大学自治というものは、エリート養成の貢献によって国家が許した特権としての大学自治であったわけです。従って大学自治というものは官立大学にのみ存在する。しかも官立大学のなかでも東京帝国大学及び京都帝国大学において最も大幅に大学の自治が慣習的に認められていた。こういう特権としての大学自治、あるいは国家権力によって許されている大学自治、こういうものが戦前の大学自治であった。それに対して、戦後の大学自治は大きく変わったわけです。すなわちそれは国民の持つ思想の自由に基礎し、大学における教育と研究の自由を守るための保障としての大学自治となった----この戦後の大学自治の方向というものを、瀧川事件の際においていち早く主張したのが三枝博音であり、その三枝の発言を支持したのが関口泰であった。この関口と三枝の公的な場における出会いが瀧川事件を契機としてであったという、この歴史的な意味というものを、本学の関係者はやはり考えていかなくてはいけないのじゃないか、というふうに私は思います。
そういう関口の考えるような意味における大学の自由というもの、これについてさらに関口は大変ユニークな見解を、プリント著書(4)の『興亜教育論』(1940年)のなかで展開しているわけです。大学の自由というものについて、彼はこう説明する。「学生の自由と教授の自由が組み合ってはじめて大学の自由がある」と。これは私は大変ユニークだと思う。というのは、もし彼と同じような考え方であっても、普通は「教授の自由と学生の自由」という順序になるわけです。ところが彼は、「学生の自由と教授の自由」という順序で言っているわけです。これは決してこの点だけのことではなくて、彼の教育問題を考える際の一貫した考え方である。大学についても、たとえば瀧川事件とか天皇機関説問題を論評したなかで、彼が最も力をこめて主張したことは、こういった状況のなかで学生のみじめな状態というものを考えなければならないという点です。有力教授が文部省の干渉にプロテストしてすべて教壇から去ってしまった、その貧弱な京都帝国大学法学部に学ぶ学生のみじめな状態、そして天皇機関説の憲法学説を聞かないで法学部を卒業しなければならない全国大学の学生達、このみじめな状態に対して文部省及び大学当局は責任をどうとる気なのか、というのが彼の論評の主たる論調でございます。そこに、国民の教育権という考え方と結びつきまして、学生あるいは教育を受ける一般の民衆、そこから問題を考えていこうとする彼の独自な考え方が示されているのではなかろうかというふうに思う。
それならば、大学の自由というものが学生にとって何であるか、学生の自由というものは何であるか、このことを彼はこう言っております。何の講義を聞き、どの教授の指導を受けるかを自主的に選択できること、これが学生の自由だ、と。そして、大学の自由についてこういうふうに言っている。原文をそのまま読み上げます。
「日本の大学のように、規則で何と何とを誰と誰から教わらなければいけない、6年以上在学することは許されない----6年というのは旧制大学は3年間でございましてその倍です----というふうに何から何まで外から決めているのでは、大学の自由の要素である学生の自由はないと言わなければならない。また教授にしても、ある学生を一旦指導することを請け合った以上は、誰の掣肘も受けずにあくまでも自分が全責任を持って、知育のみならず訓育も卒業後のことまで責任を持ち、これから社会に送り出してもさしつかえないと認めて、はじめて卒業試験に合格させるというのが教授の自由である」と、こう言っているわけです。大変自由であるようで、また大変厳しいことを言っているわけです。これが彼の大学論の特徴の第一点です。つまり大学における自治、大学における自由とは何かということです。
彼の大学論の第二の特徴は、大学と専門学校の別を廃し、実業専門学校から昇格させた大学と官立の単科だが----たとえば商科大学であるとかこういうものです----は、すべて府県や大都市の経営管理に委ねるのがよいと主張した点であります。これはプリント蔵書目録の(2)『教育国策の諸問題』、1935年に出ましたこの書物のなかに展開されている主張でございます。大学と専門学校の別を廃止するという主張は、言うまでもなく大学、特に官立大学の持っている特権を否定するという考え方から出ておるわけです。そして、この専門学校から昇格させた大学、それから単科大学等、これらをすべて公立大学にせよという主張は、言うまでもなく文部省の統制から大学を離していけということを意味しているわけです。この時期、彼は他方でそれ自体の廃止を主張しているわけです。また彼が、大学というものは地域文化の中心でなければならない、地域文化創造の推進力でなければならない、と考えていたからでもあります。
この1930年代初頭における大学の実態というものは、真理の探究の場だと言っているけれども現実はそうじゃない、既に高等職業教育機関となっているじゃないか、彼はこういうふうに言っている。それで良いんだ、と彼は言うんです。職業教育というものを軽視する、軽蔑するというのは、それは支配者の考え方である、つまり自分が労働しないで他人の労働に頼って生活しているそういう人間こそが職業教育を蔑視するのだ、大学はもっと職業教育化しなければいけない、と彼は言っているわけです。しかし同時に、その職業教育化というのは、専門学校が従来やってきたような職業教育ではだめだ、とも言う。ここでは彼はGeneral Cultureという言葉を使っているわけですが、ゼネラルカルチュアの教育というものと職業教育というものが結びつかなければいけない、これが大学における教育でなければいけない、と彼は主張するわけです。つまり、従来専門学校というものは職業教育の機関であり、その専門学校と同レベルである旧制高等学校、これがゼネラルカルチュアの習得というものを専らにする、こういう体系であったわけですが、これがまさにエリートを養成する考え方である、それではいけないというのが彼の主張点の非常に重要なことだろうというふうに思うわけです。これは後でまた更に問題を出したいと思います。
彼の大学論の第三の特徴は、帝国大学を勤労青少年に開放せよという主張でございます。小学校を出ただけで職業に従事してしまう、国民の8割5分を占めます勤労青少年の教育が放擲されていたということを申したわけですが、ちょうど1930年代のなかばにさまざまな理由でいやおうなしに勤労青少年の教育をやらざるをえなくなってきているわけです。
その理由の一つは、言うまでもなく資本主義の発達に伴いまず技術の高度化、それに耐えていく労働者の育成という問題が出てきたことです。もう一つは、軍国主義の発展に伴いまして、軍事教練を学校教育のなかに強化していかなければならないという考え方が出てきたことです。このために従来なおざなりになっておりました職業教育を主とする「実業補習学校」と、勤労青少年に対して軍事教練を行う機関である「青年訓練所」、この二つを合併しまして、1935年に「青年学校」が出来るわけです。この青年学校の設立を機会といたしまして、軍部の側からも資本家の側からも、義務教育年限の延長、つまり小学校は6年でございますがこれを8年に延長せよという主張、そして青年学校を義務教育にせよという主張が出てくるわけです。
関口泰は、この青年学校の義務教育化というもの、これが持っています危険性というものを認めながら、しかし勤労青少年の教育というものが全くなおざりにされている状況から一歩前進するためには、この青年学校義務制を支持する必要があるというふうに考えるわけです。そしてその青年学校を卒業したことを帝国大学に入れる資格にせよと彼は言うわけです。これは、プリントの著書の(3)『時局と青年教育』のなかに出てくる言葉ですが、原文を少し読み上げます。
「帝国大学への入学資格は、ある種の学校を卒業したことを必要とするよりも、ある種の生活経験を経た者を本則として入学せしめるのが良いのではないかと思われる。大学だけが世間より一段高いところにある時代はすぎたし、それは象牙の塔と言うにふさわしい上品さを残しているわけでもない」、と言うわけです。
つまり、労働してきた体験というものを帝国大学入学資格のなかに認めよと言う。これによって戦前における複線型教育、学校の各段階で選別され選別されることで上級学校への進路が行き止まってしまうような教育、それを打破していく、きっかけをこの青年学校卒業生を帝国大学に入れよという主張によって実現していこうと考えた。この考え方は、決してこの青年学校が義務教育化されるような、そういう軍国主義の進展の状況のなかでそれに便乗して出てきたものではない。むしろ彼の主張のなかに一貫してあらわれてくるわけで、『公民教育の話』においても、労働を教育課程に組み入れよということを言っているわけです。つまり、彼は「労作教育」ということを主張している。勿論これは彼の独創ではなくて、欧米のこの時期の教育学者、たとえばペスタロッチ、デューイ、ナトルプ、ケルシェンシュタイナー、こういう人々がこの時期に労働作業を教育課程のなかに組み入れるべきだと主張した。これを受けまして彼は労作教育の必要というものを主張した。小学校から大学にいたるまでこの労作教育の精神というものがなければならないと考えている。先ほど申しました、大学においてもっと職業教育を重視して良いという主張は、この主張と結びついているわけですし、今申しました労働経験をもった青年学校卒業生を帝国大学に入れよという主張も、そういうことを意味していたと思うわけです。
以上のような非常にユニークな、特色ある大学論を彼は展開するわけですが、それならばどういう具体的な中身を持った大学を彼は目指していたのか、この点になりますとそれほどそれを説いた論文は多くはないわけです。先程からくり返しておりますように、従来の大学の持っていた特権的なあり方を批判していくということ、大学本位の教育を小学校教育本位に転換させること、このことこそが彼の主張の主眼であった。その意味では大学自体についての説明はむしろ弱いわけです。
ただ一つ、この点について我々に示唆を与える内容を持つものとして、プリント著書(4)の『興亜教育論』のなかに、「北方文化の基礎としての人文大学」という論文がございます。この論文の内容は、北海道開発総合計画が取り上げられたのに際し、従来の北海道開発を批判し、従来経済の開発だけが主張されて文化の創造というものが全くなおざりにされている。それではダメだ、地域文化というものが育っていかなければダメだと主張しているわけです。この地域文化、あるいは彼の言葉を使えば「地方文化」でございますが、その地域文化についてこういうふうに言っているわけです。
「北海道に限らず、文化はその土地に産まれるものである。都会に咲く文化の花は、その根を農村にはらなければならない。札幌が北海道の首都であるならば、札幌に咲きいずる文化の根は北海道全土の山林、原野、農村に広がっていなければならない。もしそうでなければ、札幌の文化は北海道の文化ではなくて、内地の文化を切り花にして持ってくるにすぎないのである」と。
そのような意味で地域に根ざした地域文化の中心、地域文化の昂揚の推進力、これを大学というものに求めたわけであります。何故北海道において「北方文化」というものが育っていかないのか、それは北海道にそのような地域文化を推進していく大学がないからだ、北海道帝国大学には理科系しかない−−御存知のように、北海道大学に文科系の学部が出来ましたのは戦後でございまして、戦前には北海道帝国大学には理科系しかなかったわけです。それならば、北海道帝国大学に文科系の学部を置けば良いのかというと、彼はそれはダメだと言うんです。というのは、もし北海道帝国大学に文科系の学部を置けば、それは東北帝国大学ないし九州帝国大学の例にみるように文部省は法文学部というものを置くに違いない。この法文学部というのは要するに法学部と文学部を矮小化して寄せ集めたものにすぎない。それではダメだ、「一つの人文大学」として生まれ出なければならない。「一つの人文大学」と彼は言っている。非常に面白い言い方だと思います。その人文大学というのは官立でも良い公立でも良い。いずれにしても北海道帝国大学のなかに置くのではなくて、別個に「北海道人文大学」というものを置けというわけです。
そこでその「人文大学」はどういうカリキュラムを置くべきかということを、珍しく彼はここで言っているわけです。ところが、これは理解がなかなか難しいんです。この論文は要するに地域文化を育てる中心に大学がならなければならないということを北海道開発総合計画に関連して言うことが主旨であるわけで、別に人文大学を説明することが主旨ではない。だから非常に簡単なんですが、ここでこう言っています。「北海道人文大学の教科目としては、憲法及び行政法、民法、商法、刑法、訴訟法、国際公法、経済学、財政学、社会学、倫理学、教育学、心理学、哲学、史学、文学、美学」、とここまであげているわけです。これをあげた限りでは、何の変哲もないんです。しかし後ろに条件がつけられているんです。第一の条件は、どの科目を受けるかはいうことの学生の選択の範囲を出来る限り広くすること、言葉をかえれば、学生の責任で各自の学習計画をたてろということです。これが第1の条件です。第二の条件、これまた大変微妙なので原文通りに詠みます。「英文学、仏文学、独文学、また西洋史、東洋史というようなものは、各自の読書を指導する方法を講ずれば良い」、こういうふうに言っているわけです。つまり、こういうことはここにあげられた学問分野だけじゃないんで、この次元の分化された学問というものについて、言わば演習とかゼミに委ねれば良い、ということなんだろうと思います。そこでさらにこういう疑問がおこってくるわけです。東洋史、西洋史、日本史、こういう次元のものをゼミに委ねた。それならば彼が学科目として出している『史学』というものは何であるのか。東洋史、西洋史、日本史というものを単に束ねたそういう抽象的な内容のものであるんだろうか。あるいは、英文、仏文、独文、日文、そういうものを単に束ねたものが彼が学科目にあげた「文学」であるんだろうかという疑問がおこってくるわけです。−−これ以上彼はこの論文のなかで言っていないわけです。言っていないけれども、私は絶えず彼が大学の教育について言っていた職業教育と一般教養、教育との結合ということがこのなかに含まれているというふうに推測します。そう考えてまいりますと、この学科も句は何の変哲もない並列のように見えるけれども、実はそこに一定の構造というものを持っているに違いない。そういう構造の上ではじめて史学とか文学とか、そういう学科目がりかいされるんじゃないか、これは経済学についても同じでありまして、経済学、財政学、それ以下の分化されたものはゼミに任せれば良いと言うことなんでしょうけれども、その経済学の内容を、そのような観点から検討していいのだろうと思います。
これは私にとってたいへん刺激的な提言である。何であるか、ということは分からないんです。彼の言う史学とはいったい何であるか、彼のいう文学とはいったい何であるか、それは分からない。しかし、それはたいへん私にとっては刺激的な提言であると考えざるをえないわけであります。[強調は矢吹による]