遠山茂樹「公立大学の理想に帰れ…都留・高崎大学事件の教訓…」『朝日ジャーナル19651031日号

 

目 次:

自治体の越権と大学の無責任

誤った調査権の発動

無責任な学長の措置

筋の通らぬ懲戒理由

 

大学自治の本質

特権的自治観をすてよ

民主主義の根本原則

教育責任は無限

 

小都市と大学

公立大学の使命

財政窮迫と私物視

地域住民の中へ

 

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若干の引用をしておこう。(丸括弧内はわたしの見解・注釈)

 

 大学の自治の本質

特権的自治観を捨てよ」において、

「戦後の大学の自治は、戦前とは、本来の立場を異にしている」。戦前の一部特定の「帝国大学」に与えられていた「特権」としての大学の自治と、戦後の大学の自治とは違う、と。

 

 戦後の大学の自治は、「憲法で保障されている国民の基本的人権−思想・表現・学問の自由の、大学での具体的なあらわれとしての自治である。小・中・高校の教育の独立と自由は、大学でのそれと質を異にするものではない。憲法と教育基本法が保障する教育一般がもつ自立の、大学でのあらわれが自治なのである。したがって、国立たると、公立たると、私立たるとを問わず、大学での学問・教育の自由は保障されねばならず、地方の小さな大学であろうと、その自治が主張されうるという点で、差別はないのである。大学の自治は、国民の基本的人権の問題であり、都留文化大学の自治がくずれることが、大学全体の自治、教育一般の自律の原則の一角がくずれることである。

 

民主主義の根本原則」において、

 「わかりきった抽象的なことを、ことあたらしくいうなと、世の『現実主義者』からしかられるかもしれない。しかし、現実の問題が紛糾するとき、必ず民主主義の根本原則にたちかえらなければならない。そうでなければ、民主主義は形骸化してしまう。

   ・・・

公立大学関係者は、しばしば地方自治体当局者や地方議会議員が大学の自治を理解せず、尊重しないことをなげく。しかし、大学の学長や教官自身が、どれだけ大学の自治を実現することに誠実であるか、都留文化大学の実例は、他人ごとではないのである。

   ・・・

学長が各学部代表の集まる評議会を引きまわし、ここで大綱が決められ、つぎに各学部におろされ、そこで正教授のあいだでの内相談がとげられたうえで、助教授・講師を含む教授会に形式的にかけられる、そんな上から下への傾向が、一流といわれる大きな大学ほど顕著ではないか。大学自治の階層別格差という戦前的あり方が、現実には大学内で実現されていることはないであろうか。

 大学の自治を教官の研究の自由身分保障に限定し、学生の自治活動を付属物と見なす見解も、特権意識のあらわれである。教官の研究の自由が教授の自由と切り離しがたいものであり、教授の自由が大学自治の中心的内容として主張される以上、その前提には、学生の学習の自主・自由な活動がなければならず、その自主を守り、実現するための自治活動なのである。学生の自治活動の自由な保障なくして、教官の教授の自由、したがって研究の自由はありえない。」

 

教育責任は無限」において、

「教育基本法大10条は、教育行政につき、こう規定している。『教育は、不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである』。教育は、文部省や地方公共団体の当局者に対して責任を負うことで事すましてはならず、国民に直接責任を果たさなければならない。この条項は、教育者に無限の責任(法規にふれなければよい、行政監督者の許可が得られればよいといった有限の責任でなく)を求めるものである。この無限の責任のうえに、政治・権力からの教育の自立が成立する。

 無限責任は無限の責任喪失になりかねない。教師の独善と怠惰は、そこから生まれる。このことは、どんなに自戒しても、すぎることはない。この通弊からまぬがれるためには、どうしたらよいのか。国民の批判と教師仲間の相互批判の自由を保障すること以外にはない。・・・学生への責任を忘れるとき、教育の生命はたち枯れてしまうことは、明かである」。

 

公立大学の使命」において、

政治の民主化地方分権・地方自治を必然的に伴うように、学校制度の民主化も、戦前の中央集権的性格を打破することを必要とした。各府県に少なくとも一つの国立大学をおくこととしたのも、教育の地方分権を実現し、教育の機会均等の道を開くためであった。しかし、この理想は、国立大学の分散よりも、戦後の新しい動きである地方自治体の設立する公立大学で、最もよく果たすことができるはずであった。

公立大学は、私立大学より安い授業料で教育できる。文部省の直接統制を受けないだけに、国立大学よりいっそう自由な教育課程を設けることができる。地域住民との関係が、国立大学より一段と密接であり、そのことによって、そこで行われる教育内容と研究内容についていっそう新鮮かつ創造的なものとなることができる。これが公立大学発足当時もった本来的な特色であったはずである。」

 

(可能性を実現できなかった要因はたくさんあるだろう。だが、二一世紀はじめの現在、わずかの可能性さえも台無しにしてしまうような改革(「改悪」)が行われれば、どういうことになるか? 「安い授業料」は実現されているか? 「自由な教育課程」は実現されているか? 「地域貢献」だけは看板に掲げるが、そのための「ひと、もの、かね」は整えようとしないのはどういうわけか?事務機構改革案では「地域貢献課」を新設することにしている。しかし、教員サイドの充実はどうなっているか?これまでのように大学教員の負担だけを増やそうということか?よくいわれるように、23年で去っていく人々が、「関内」向けの看板だけを思いついたのではなく、大学の研究教育体制の本当の充実を考えていることの証拠はどこにあるか?)

 

「戦前の帝国大学は、真理の探究をする特権があるとされた.特権である真理探究の権威は、現実とかかわりのない『象牙の塔』にこもることで保たれると考えられた。戦前、帝大の経済学部には、現実の日本経済の分析をめざす講義はなかった。法学部には、ヨーロッパの学説史や欧州政治史の講義はあっても、日本の政治現象を科学的に認識することをめざす講義はなかった。現実を扱い分析することは、『応用』であり、それは下級の専門学校の任務と考えられていたからである。

 その結果、どんな学問と教育が生まれたか。日本の学問は、いつまでも外国の学説の紹介を主とする輸入学問の性格を脱しきれず、創造力を失った。そして、基礎科学は、現実の検証からする批判から遮断され、現実を批判する力を失って、結局は権力の道具に使われたし、現実への応用のみをもっぱらにさせられた技術は、基礎科学から切り離されて、これまた創造の力を失って、模倣のうまさという域を出ることはできなかった。

 駅弁大学と悪口をいわれても、国立地方大学が全府県にもれなく設立され、その駅弁大学よりも弱体と避難されながらも、公立大学が多く誕生したのも、地域と大学学問・教育と現実とのかかわりあいを緊密にし、そこに学問・教育の創造力獲得の根源を求めたからにほかならぬ。このことが日本の大学・日本の学問の歴史の上にもつ画期的な意義を、今日もう一度考え直してみる必要がある。」

 

財政窮迫と私物視

「だが、その理想を実現するには、あまりにも設備と教授陣が貧弱であるというのは、どの公立大学にも共通したなやみである。・・・」

 

 (「ひと、もの、かね」の充実こそ、理想実現のための前提である。この基本を忘れた構想は、問題にならない。)

 

「市民税は重い。小・中学校でさえ設備が貧弱だというのに、市民の利用の少ない大学を、なぜ市民税でまかなう必要があるのか。こうした市民の直截な疑問に答えることは難しい。・・・」

 

(だが、いまでも、このような市民ばかりだろうか? 市民は、自分たちの主体的努力と主体的負担で科学研究、学問の研究と教授を支えよう、大学を発展させようという精神・教養を持たないのであろうか?)

 

地域住民のなかへ」において、

一方では、

 「教育に対し眼前の具体的利益を求めれば、教育は死んでしまう。教育は明日の日本に役立つためにも、今日に役立つことを性急に求めてはならない。すぐに役立たないというだけでなく、教育の本来の目的に徹するとすれば、必ず今日の秩序に批判をもたざるをえない。それが教育の特性である。だから、教育の自由と自立とは、明日の祖国の発展のために保障されるのである。」

 

しかし、他方では、

「税金負担者に、何の具体的な反対給付をも約束できない、その責任の重さを、公立大学の教官も学生も身をもって受けとめなければならない。大学の自由と自治の侵犯に対し、教授会も学生自治会も、厳しく抗議するとともに、もっともっと市民のなかに入り、市とともに学問につき教育について、謙虚に真剣に話し合う必要がある。

話しあったとしても、これという八方円満の解決は出ないかもしれない。市民の疑問と要求にこたえることも乏しいだろう。しかし、市民の疑問と批判に直接さらされていることこそ、公立大学の存在理由、そこでの学問と教育の生命の根源があることも、大学関係者は銘記すべきである。」

 

「わたしが心配するのは、設備の不足といったものだけではない。学問の自由、教育の自立、大学の自治の精神が欠けている魂のない大学が輩出することである。大学の自治の確立されないところは、学園と名づけても、教育の場ではなくなってしまう。・・・学園の行政官庁化、知識切売りの百貨店化、それが教育の本質を破壊する危険への自覚を持たず、その予防措置も配慮せぬという傾向の蔓延、そうした傾向に乗じて、大学の自治を弱体にし、・・・・それと手を結ぶ大学設置者・・・」

 

 

(事務機構改革案の文書でも典型的代表的に露出している事態、すなわち、「設置者」権限なるものを振りまわして「既成事実」を創りだし、大学の意思決定機構を抑えこもうとする昨今の事務局の文書類は、何を物語っているか?)