赤塚行雄「300万人の大学、横浜市立大学、どこへ行く自由闊達な校風」(シリーズ64:横浜市立大学)『朝日ジャーナル』1980年7月4日号
「古き伝統と新しい校風と−開学当時のOBたちが、いまも熱っぽく語る市大の形容句である。文明開化の表玄関となったヨコハマで、すぐれた国際経済人を送り出してきた商学部の伝統。そして、初代学長、関口泰が幅広い教養人の「広場」として作り上げようとした文理学部の自由闊達な校風。とくに、文理学部は、いま国公立大を通じて現存するのは、この大学一校のみとなっている。」
(その文理学部もこの間に国際文化学部と理学部に分割された。教養人の「広場」の理念はいったいどうなったか?…永岑)
「新制大学への熱い思い」
「1956年4月14日の朝、関口泰は、鎌倉・浄智寺谷の自宅の欄間に紐をつるし縊死した。・・・身近な人たちは、このことについて多くを語りたがらないのだが、『あれは、実は憤死だった』と噂するものもいる。『岸信介のような男がふたたび台頭してきて、世の中が逆コースを辿りだしたことを怒って、ついに筆を折り、しんでしまったのだ』と。」
「民衆の立場からものを考える関口泰は、義務教育の年限8年延長策を主張し、新制度の中学をつくることや、また大学と専門学校の差別を廃し、実業専門学校を大学に昇格させ、都道府県や地方都市にその経営管理をまかすことなどを熱っぽく説いていた。」
「次々に押し寄せる時代の暗澹たる大波を前にして、彼は独りで立ち向かって行った。戦えるかぎり戦い、書きつづけるのだが、ついに大波に呑みこまれてしまうと、彼は鬱病にとりつかれた。・・・
滝川事件のときにしても、文部当局の不法を激しく攻撃し、それから恐ろしい憂鬱にとりつかれた。1923年、朝日新聞がそれまでの反軍的方針を一変することになったとき、彼は憤慨して、赤城山のヒュッテにこもってしまい降りてこようとしなかった。
戦後の教育改革は、GHQの一方的な押しつけを諾々として受け入れたにすぎないと思っている人々が多いが、どうもそうではない。
関口泰の戦中からの改革案を読めば、日本側が積極的に基本プランを打ち出しているように思えてくる。
戦争が終わり、息を吹き返した関口泰は、文相となった前田多門のひきで、1945年10月、文部省社会教育局長となり、同じく学校教育局長となった東大の田中耕太郎とともに、文部次官の山崎匡輔を助け、アメリカ教育使節団と丁々発止、華々しく折衝を重ねているのである。戦後教育史もここらのところを洗い流しておくべきではないのか。」
「1950年4月、新しく発足した新制の横浜市立大学学長になった彼は、まず商学部と医学部の間に、一種の教養学部的な、ものの見方・考え方を自由に交換しあえる「広場」を創る必要があると考えた。・・・」
「関口泰は2年3ヶ月ほどで学長を辞めている・・・学生たちは突然の辞任を重視して、原因の究明と慰留運動を行うことにし、破壊活動防止法案に抗議する全学ストに関連させながら学生大会を開いた。・・・・」
「関口学長の斬新な発想は、実学一点張りの一部の人々から反発されたが、とくかく1952年4月、文理学部は発足した。この文理学部は、関口構想の上に、“幻の大学”といわれる鎌倉アカデミアがのっかった形になっているのである。・・・
関口構想は、横浜の特性にもとづき、国際大学的色彩を持たせ、外国語に重点を置きながら、それぞれが好きなテーマを選んで自由に研究させるということだったから、三枝博音たちの鎌倉アカデミアの組織的移行は、すんなりと実現した。関口泰と三枝博音は、『北鎌倉友の会』をつくり、その後も、政治、教育問題について語り合っていた。…三枝教授は1956年4月から文理学部長、さらに1961年からは学長をつとめたが、1963年11月、国鉄鶴見事故のためにこの世を去った。
関口泰のアイデアと鎌倉アカデミアの組織的移行−ここに文理学部の出発点があった・・・文理学部文科では何を専攻してもよい。つまり、100人の学生がいれば100通りの専攻が可能な仕組みになっており、自由コースと称して、たった一人で好きなテーマと取り組んでもよかった。ただ、『外国語に熟達し、国際的解放思想の所有者であること』が基本的に要求されていたのである。このごろは、初期のころのこうした意気込みを忘れてしまっているのではないのか。」
市財政窮迫→文理学部廃棄案(1954年)→1957年3月、市議会に「市大特別委員会」=文理学部継子扱い、Y専以来の伝統のある商学部は単科大学として存置、医学部は国大移管、最悪の場合は文理廃止との意見→「東京湾大学」構想
「改組される? 文理学部」
1980年・・・「文理学部改組」の将来構想
「どういうわけか市大には副学長や学生部長というポストがない。それだけに第二の飛躍期にのぞんで河合学長の立場は、直接的な相談相手がいないだけにつらいところがあるだろう。・・・」
「将来構想で新たな高揚」
「公立大学として独自な立場にある市大の首脳は、学長にせよ、事務局長にせよ、学生たちの声はもとより、時には学外の市民の声にも耳をかすようなゆとりが欲しい。学生問題担当と市民問題担当の二人の副学長がいてもおかしくないではないか。そして、万人を説得してしまうような堂々たる将来計画を練り上げてもらいたい。とはいうものの、現実的に考えれば難しい問題がたくさんあるのだろう。
かつて、大学学長は、『学問の府の総帥、博学の将』としての権威があったが、リースマンではないが、今日では、『参謀部付きのスタッフ・サージャント』みたいなものになってしまった。ハロルド・W・ドッズは、『教育者か、それとも世話人か?』と言い、エリック・アッシュビーは、『通りを悪くするボトルネックか、それともポンプか?』と言い、ジョン・D・ミレットは、『ドクトリンのない、たんなる意見の統一者か?』と言い、ヘンリー・M・リストンは、『説得者にして権力の行使者』と言った。
学長にしても、事務局長にしても、ある意味では、トラブルメーカーになることを恐れてはならない。思い切って問題を提起し、学内にトラブルをつくり、その上で、学生をはじめとしたさまざまな意見に耳をかし、現実を再構成して、つぎにピースメーカーになる。そうでないならば、さまざまな意見を汲み上げながら大きな組織を動かしていくことはなかなか困難だからである。
『市政概要』を繰って横浜市立大学の項を見ると、はじめの内は、その文章にある種の意気込みが感じられるが、ある時期から、単なる事務的な説明に後退してきてしまっている。しかし、いまや将来構想をかかげ、ふたたび新しい高揚期に入ってきた。・・・」
(学長・事務局長が、真に創造的・建設的改革者であるか、単なるマッチポンプか、これが問われることになろう。さて、現在は?…永岑)