2002年10月29日(火)

商学部

永岑三千輝先生

 

永岑先生の“日誌”および倉持先生の“第2回「あり方懇」の報告”を拝見しました.

正直に言って,大いに驚いたと同時に橋爪大三郎さんを座長とする「市立大学の今後のあり方懇談会」(「あり方懇」)の答申の内容が危惧されます.

いずれにしろ,『民主主義は人類が生み出した最高の政治制度である』(橋爪大三郎著,現代書館,1992年)を一読したときの印象とのギャップがあり過ぎました.

 

そこで,もう一度同書を批判的に読み直してみましたところ,橋爪大三郎さんの主張の本質に関する部分で,大変気になる箇所が幾つかありましたので,少し長くなりますが,前後の文脈をそこなわないように橋爪大三郎さんの主張を引用し,私の懸念を指摘しておきます. (太字強調は佐藤による)

 

p.106−107 「憲法や人権宣言などを読むと,たしかに,思想・信条の自由や,言論の自由は,人類不変の原理であって,何人も奪うことはできない,などと書いてある.こういう「人権」を認めると,そこからストレートに民主主義が導かれる(それ以外の政治制度は不可能)と思える.でも,そんなことはちっともないのであって,民主主義とはとても言えないような状態(ファシズム・全体主義,やスターリン主義)に,社会がコロッと変化してしまったのはつい最近のことだ.だから,人権宣言に書いてあること(民主主義は,人類不変の原理である,など)は,一種のフィクション(都合のよいように考えついた理屈)なのである.・・・・・民主主義の原則を一貫した立場として主張してゆくと,どうしてもフィクションを取り入れざるをえない(ところがでてくる).それはなぜだろう.それは民主主義が,「手続きによる正当化」という論理をそなえている(それしかない)からだ.」

 

p.108−109 「結論として,こうならざるをえない.民主主義の原則のもとでは,→制度→意思(選択)→制度→意思(選択)→という,連鎖がどこまでも続いていることになる.別の言い方をすれば,民主主義の具体的な制度と,民衆の意思との間に,図のような循環(自己言及のループ)があることになる.このように,制度と意思が互いに基礎づけあう,という意味で,民主主義は,自己準拠するシステムなのだ.これは,(近代)民主主義の宿命である.民主主義の内部のどこかに実体として正しさの規準があるわけではない.神様とか王様とか,民衆を導く最高権威者,みたいな存在がいるわけではない(強いて言えば,民衆がそれにあたるだろう).だからここでは,意思決定を形成するための手続きが正しく踏まれたかどうかが,最終的な正しさの規準になる.これが,「民主主義は手続きを重視する」ということのなかみである.

 

p.111 「民主主義も,政治である.そして,どんな政治も,「全員を拘束する」という政治の本性から言って抑圧的である.この意味の抑圧を,民主主義がなくしてしまえるわけではない.民主主義がなくそうとしているのは,意思決定の合法性(手続き的な正しさ)を踏みにじるあらゆる傾向,つまり暴力である.」

 

p.112 「民主主義も,暴力と無縁でありえない.民主主義の制度を現実にかたちづくるには,国家をつくる必要がある(それ以外の方法は,いまのところ,知られていない).そして,国家は,暴力を独占するところになり立っているのだ.国家が暴力を独占するからこそ,その内部の政治のプロセスが,民主主義の原則によって手続き合理的に運営できるわけである.」

 

p.113 「真実はべつのところにあるとわかっていても,手続き上正しい決定であれば,それに従わなければいけない,という苛酷さを覚悟しておくべきなのだ.毒ニンジンの盃を仰いだソクラテス・・・・・・.死刑になるあなたを,救うすべは誰にもない.」(傍点[1]は橋爪による)

 

 

橋爪大三郎さんの以上のような主張の背後にあるように感じられる「抑圧的な姿勢」「手続きさえ正しければ,すべてが正当化されるととれる考え」は,手続きすら踏むことなしに恣意的な決定がまかり通っている現状を差し引いてみても,そのまま肯定することはできないと思います.

 

なぜなら,“意思決定の合法性(手続き的な正しさ)”の前に,「個人の尊厳を尊重する姿勢」,および,「合理的な意思決定に至るプロセスにおける徹底的な議論の必要性」についての考慮が殆どみられないのは,橋爪大三郎さんの主張に重大な基本的な誤りがあるのではではないかと考えるからです.

 

「あり方懇」では,今後,議論を十分に積み重ね,拙速な答申を出すことのないように願うばかりです

 

私の懸念が,橋爪大三郎さんの上記の著書(『民主主義は人類が生み出した最高の政治制度である』)の内容についての「誤解」,「深読みのしすぎ」,あるいは,「先行きを危惧する余りの単なる取り越し苦労」であれば,それに越したことはありません.

 

 

また,同上書のp.216に,「〈構造主義〉派のはしくれとしては・・・」とあるので,以前読んだことのある『はじめての構造主義』(橋爪大三郎著,講談社現代選書,1988年)を読み返してみましたところ,永岑先生が危惧している“デストロイヤー”としての橋爪大三郎さんのルーツに,おそらく関係していると思われる,非常に気になる箇所がいくつかありました.以下に,気になる箇所を引用しておきます.(太字強調は佐藤による)

 

p.122 「・・・レヴィ=ストロースの仕事だ.それは,これまでの知的伝統をひっくりかえす,破壊行為である.神話学を先頭とする構造主義が,現代思想に消すことのできない影響を残した理由が,そこにある.」

 

p.123 「いったん構造主義の洗礼を受けたあとでは,どんな権威あるテキストも成立しなくなる.」

 

p.124 「これによって,近代ヨーロッパの知の伝統を支配した主体の形而上学(人間は自由な主体で,社会はそうした主体の集まりである.すべてはそこから出発すると,信じないと気がすまないこと)が,いよいよ解体していく.」

 

p.127 「これに対して,構造主義は,真理を“制度”だと考える.制度は,人間が勝手にこしらえたものだから,時代や文化によって別のものになるはずだ.つまり,唯一の真理,なんてどこにもない.―この批判は,レヴィ=ストロースだけじゃなくて,ラカン,フーコー,アルチュセールなど,ほかの構造主義者たちにも一貫して流れるテーマである.

 

p.152 「ヨーロッパの知のシステムは,“真理”を手にしたつもりで,実は“制度”のうえに安住していただけではないか.こんな疑問を,もっとも深刻なかたちでつきつけることになるのが,ほかならぬ構造主義だ.

 

 

橋爪大三郎さんの“破壊者”(永岑先生の危惧している“デストロイヤー”)としての信念の思想的なルーツはこの辺りにあるのではないかと思われますが,橋爪大三郎さんのこのような主張に対しては,科学的なものの見方とその成果を,最も確実で最も真実に近いと考えている科学者の一人として,とても賛成できるものではありません.

 

なお,同上書の「第4章―構造主義に関わる人びと:ブックガイド風に」の中で,橋爪大三郎さんがしきりに賛美している,とくに,ラカンやクリステヴァは,近年,知的スキャンダル事件として大いに騒がれたソーカル事件(1996年)とその総括である『「知」の欺瞞』A.ソーカル,J.ブリクモン著,田崎晴明,大野克嗣,堀 茂樹訳,岩波書店,2000年)の中で,その主張の欺瞞性がそれをどうしても見過ごすことのできなかった科学者により徹底的に曝露されています.

 

 

総合理学研究科

佐藤真彦

 



[1] 傍点は、ここでは下線部分のこと。htm掲載にあたって傍点がそのままでは表示できず、下線となった(永岑)。