商品の価格とは何か?
商品の価格は、商品の何を表現するものか?
商品の使用価値と価値(価格) [1]
すべての商品が効用(使用価値)と同時に一つの共通のもの=価格をもっている。自分の交換価値を共通のもの=貨幣(その一定量)で表現している。
すべての商品が共通に持っているものとは何か?
すべての商品が、自分のなかにあるいかなるものを、ほかのもので、現在では貨幣で表現しているか?
個々の商品はそれぞれに違った形や効用、自然的な形態や大きさ・重量などなどで違っている。
にもかかわらず、すべてが同じ共通のものさしをもっている。
日本全国津々浦々、すべての商品が、x,y,z......円と共通の貨幣表現を持っている。
すべての商品に共通の質は何か?
個々の商品の違いを捨象したもの、個々の商品の無限の多様性を抽象したもの、それは何か?
それは、抽象的人間労働である。
その量は時間によってのみ測られる。それぞれの商品の等価交換においては、それぞれの商品に含まれるその商品に社会的に必要な抽象的人間労働の一定時間が含まれている。
商品には、この意味での抽象的人間労働の一定量として価値が含まれている。
その抽象的人間労働の質や量(労働時間)は、感性的に目に見えるものではない。
別の商品によって自分の価値を表現するしかない。
A商品に内在する価値を表現するのが、別のB商品であるということ、これがある商品の価値の表現形態である。
お互いの商品の交換関係のなかで、しだいに等価関係が確立されることになる。
また、多様な商品が合同で一つの商品を共通の価値表現の手段として選び出す。商品交換者どうしの歴史的交換行為の実践の結果として、歴史上、多様な貨幣が生み出された。
商品価値の貨幣での表現が、それぞれの商品の価格である。
商品の価値の実態としての人間労働(抽象的ですべての人間に共通する労働、共通するかぎりでの一定の労働時間の対象化されたもの)が基礎にあるからこそ、商品交換関係が普遍化すればするほど、紙幣のような無価値なもので価値を表現することが可能となり必然化する。
詳しく、また正確な理解のためには、アダム・スミス、リカード等の古典派経済学の労働価値説(商品に内在する価値=一定量の労働)を継承し発展させたマルクス『資本論』第1巻第1篇商品と貨幣、第1章商品、第2章交換過程、第3章貨幣または商品流通を読む必要がある[2]。
『資本論』第1巻第1篇商品と貨幣[3]
第1章 商品Die Ware
第1節 商品の二つの要因 使用価値と価値(価値実体、価値量)
1. Die zwei Faktoren
der Ware: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)
「商品は、まず第1に、外的対象であり、その諸属性によって人間の何らかの欲望を満足させる物である。」
Die Ware ist zunächst ein äußerer
Gegenstand, ein Ding, das durch seine Eigenschaften menschliche Bedürfnisse
irgendeiner Art befriedigt.
「この欲望の性質は、それがたとえば胃袋から生じようと空想から生じようと、すこしも事柄を変えるものではない。」
Die Natur dieser Bedürfnisse, ob sie z.B. dem
Magen oder der Phantasie entspringen, änddert nichts an der Sache.
「ここではまた、物がどのようにして人間の欲望を満足させるか、直接に生活手段として、すなわち愛用の対象としてか、それとも回り道をして、生産手段としてかということも、問題ではない。」
Es handelt sich hier auch nicht darum, wie die
Sache das menschliche Bedürfnis befriedigt, ob unmittelbar als Lebensmittel,
d.h. als Gegenstand des Genusses, oder auf einem Umweg, als Produktionsmittel.
「おのおのの有用物、鉄、紙、等々は、二重の観点から、すなわち質の面と量の面とから、考察される。このような物は、それぞれ、多くの属性の全体であり、従って、いろいろな面から見て有用でありうる。これらのいろいな面と、したがってまた物のさまざまな使用方法とを発見することは、歴史的な行為である。有用なもののの量を計るための社会的な尺度を見いだすことも、そうである。いろいろな商品尺度の相違は、ある物は計られる対象の性質から生じ、ある物は慣習から生ずる。
Jedes
nützliche Ding, wie Eisen, Papier usw., ist unter doppeltem Gesichtspunkt zu
betrachten, nach Qualität und Quantität. Jedes solches Ding ist ein Ganzes
vieler Eigenschaften und kann daher nach verschiedenen Seiten nützlich sein.
Diese verschiedenen Seiten und daher die mannigfachen Gebrauchsweisen der Dinge
zu entdecken ist geschichtliche Tat.
So die Findung gesellschaftlicher Maße für die Quantität der nützlichen
Dinge. Die Verschiedenheit der Warenmaße entspringt teils aus der verschiedenen
Natur der zu messenden Gegenstände, teils aus Konvention.
「ある一つのものの有用性は、その物を使用価値にする。しかし、この有用性は空中に浮いているのではない。この有用性は、商品体の諸属性に制約されているので、商品体なしには存在しない。それゆえ、鉄や小麦やダイヤモンドなどという商品体そのものが、使用価値または財なのである。商品体のこのような性格は、その使用属性の取得が人間に費やさせる労働の多少にはかかわりがない。使用価値の考察にさいしては、常に、1ダースの時計とか1エレのリンネルとか1トンの鉄とかいうようなその量的な規定性が前提にされる。使用価値は、ただ使用または消費によってのみ実現される。使用価値は、富の社会的形態がどんなものであるかにかかわりなく、富の素材的な内容をなしている。われわれが考察しようとする社会形態にあっては、それは同時に素材的な担い手になっている‐交換価値の。」
Die Nützlichkeit
eines Dings macht es zum Gebrauchswert.
Aber diese Nützlichkeit schwebt nicht
in der Luft. Durch die Eigenschaften des Warenkörpers bedingt, existiert sie
nicht ohne denselben. Der Warenkörper selbst, wie Eisen, Weizen, Diamant usw.,
ist daher ein Gebrauchswert oder
Gut. Dieser sein Charakter hängt nicht davon ab, ob die Aneignung seiner
Gebrauchseigenschaften dem Menschen viel oder wenig Arbeit kostet. Bei Betrachtung der Gebrauchswerte
wird stets ihre quantitative Bestimmtheit vorausgesetzt, wie Dutzend Uhren,
Elle Leinwand, Tonne Eisen usw. Der Gebrauchswert verwirklicht sich nur im
Gebrauch oder der Konsumtion. Gebrauchswerte bilden den stofflichen Inhalt des
Reichtums, welches immer seine gesellschaftliche Form sei. In der von uns zu
betrachtenden Gesellschaftsform bilden sie zugleich die stofflichen Träger des
- Tauschwerts.
「交換価値は、まず第1に、ある種類の使用価値が他の種類の使用価値と交換される量的関係、すなわち割合として現れる。それは、時と所によって絶えず変動する関係である。それゆえ、交換価値は偶然的なもの、純粋に相対的なものであるように見え、したがって、商品に内的な、内在的な交換価値というものは、一つの形容矛盾であるように見える。このことをもっと詳しく考察してみよう。
Der
Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, die
Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer
Art austauschen, ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. Der
Tauschwert scheint daher etwas Zufälliges und rein Relatives, ein der Ware
innerlicher, immanenter Tauschwert (valeur intrins è que) also eine
contradictio in adjecto. Betrachten wir die Sache näher.
「ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の他の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値をもっているのであって、他だ一つの交換価値をもっているのではない。
Eine gewisse Ware, ein Quarter Weizen
z.B. tauscht, sich mit x Stiefelwichse oder mit y Seide oder mit z Gold usw.,
kurz mit andern Waren in den verschiedensten Proportionen. Mannigfache
Tauschwerte also hat der Weizen statt eines einzigen.
1クォーターの小麦=x量の靴墨
=y量の絹
=z量の金
=・・・
=・・・
=その他、
無数の違った使用価値のある一定量が1クォーター小麦と等しい。
使用価値がまったく違う多数の商品が、なぜ、同じ1クォーターの小麦と等しいとされるのか?
一つの同じもの、共通の同じものを表現しているからである。それはなにか?
「しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、互いに置き替えられうる、また互いに等しい大きさの諸交換価値でなければならない。そこで、第1に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別されるある実質の表現様式、「現象形態」でしかありえないということになる。
Aber da x
Stiefelwichse, ebenso y Seide, ebenso z Gold usw. der Tauschwert von einem
Quarter Weizen ist, müssen x Stiefelwichse, y Seide, z Gold usw. durch einander
ersetzbare oder einander gleich große Tauschwerte sein. Es folgt daher erstens:
Die gültigen Tauschwerte derselben Ware drücken ein
Gleiches aus. Zweitens aber: Der Tauschwert kann überhaupt nur die Ausdrucksweise, die „Erscheinungsform“ eines von ihm
unterscheidbaren Gehalts sein.
「さらに、二つの商品、たとえば小麦と鉄とをとってみよう。それらの交換関係がどうであろうと、この関係は、つねに、与えられた量の小麦がどれだけかの量の鉄に等置されるという一つの等式で表わすことができる。たとえば、1クオーターの小麦=aツェントナーの鉄というように。この等式はなにを意味しているのか? 同じ大きさの一つの共通物が、二つの違った物のうちに、すなわち1クォーターの小麦のなかにもaツェントナーの鉄のなかにも、存在するということである。だから、両方とも或る一つの第三のものに等しいのであるが、この第三のものは、それ自体としては、その一方でもなければ他方でもないのである。だから、それらの内のどちらも、それが交換価値であるかぎり、この第三のものに還元できるものでなければならないのである。
Nehmen wir ferner zwei Waren, z.B. Weizen
und Eisen. Welches immer ihr Austauschverhältnis, es ist stets darstellbar in
einer Gleichung, worin ein
gegebenes Quantum Weizen irgendeinem Quantum Eisen gleichgesetzt wird, z.B. 1
Quarter Weizen = a Ztr. Eisen. Was besagt diese
Gleichung? Daß ein Gemeinsames
von derselben Größe in zwei
verschiednen Dingen existiert, in 1 Quarter Weizen und ebenfalls in a Ztr.
Eisen. Beide sind also gleich einem Dritten,
das an und für sich weder das eine noch das andere ist. Jedes der beiden,
soweit es Tauschwert, muß also auf dies Dritte
reduzierbar sein.
「簡単な幾何学上の一例は、このことをもっとわかりやすくするであろう。およそ直線形の面積を測定し比較するためには、それをいくつもの三角形に分解する。その三角形のものを、その目に見える形とはまったく違った表現―その底辺と高さの積の2分の1―に還元する。これと同様に、諸商品の諸交換価値は、それらがあるいはより多くあるいはより少なく表わしている一つの共通なものに還元されるのである。
Ein einfaches geometrisches Beispiel
veranschauliche dies. Um den Flächeninhalt aller gradlinigen Figuren zu
bestimmen und zu vergleichen, läßt man sie in Dreiecke auf. Das Dreieck selbst
reduziert man auf einen von seiner sichtbaren Figur ganz verschiednen Ausdruck
- das halbe Produkt seiner Grundlinie mit seiner Höhe. Ebenso sind die
Tauschwerte der Waren zu reduzieren auf ein
Gemeinsames, wovon sie ein Mehr oder Minder darstellen.
「この共通なものは、商品の幾何学的とか物理学的とか化学的などというような自然的な属性ではありえない。およそ商品の物体的な属性は、ただそれが商品を有用にし、したがって使用価値にするかぎりでしか問題にならないのである。ところが、他方、諸商品の交換価値を明確に特徴づけているものは、まさに諸商品の使用価値の捨象なのである。この交換関係のなかでは、ある一つの使用価値は、それがただ適当な割合でそこにありさえすれば、他のどの使用価値ともちょうど同じだけのものと認められるのである。あるいは、かの老バーボンが言っているように、
『一方の商品種類は、その交換価値が同じなラバ、他方の商品種類と同じである。同じ大きさの交換価値を持つ諸物のあいだには、差異や区別はないのである。』
Dies
Gemeinsame kann nicht eine geometrische, physikalische,
chemische oder sonstige natürliche Eigenschaft der Waren sein. Ihre
körperlichen Eigenschaften kommen überhaupt nur in Betracht, soweit selbe sie
nutzbar machen, also zu Gebrauchswerten. Andererseits aber ist es grade die
Abstraktion von ihren Gebrauchswerten, was das Austauschverhältnis der Waren
augenscheinlich charakterisiert. Innerhalb desselben gilt ein Gebrauchswert
grade so viel wie jeder andre, wenn er nur in gehöriger Proportion vorhanden
ist. Oder, wie der alte Barbon sagt:
„Die eine Warensorte ist so
gut wie die andre, wenn ihr Tauschwert gleich groß ist. Da existiert keine
Verschiedenheit oder Unterscheidbarkeit zwischen Dingen von gleich großem
Tauschwert.“
「使用価値としては、諸商品は、なによりもまず、いろいろに違った質であるが、交換価値としては、諸商品はただいろいろに違った量でしかありえないのであり、したがって一分子の使用価値も含んではいないのである。
Als Gebrauchswerte sind die
Waren vor allem verschiedner Qualität, als Tauschwerte können sie nur
verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert.
「そこで商品体の使用価値を見ないことにすれば、商品体に残るものは、もはやただ労働生産物という属性だけである。」
Sieht man nun vom Gebrauchswert der
Warenkörper ab, so bleibt ihnen nur noch eine Eigenschaft, die von
Arbeitsprodukten.
「しかし、この労働生産物も、われわれの気がつかないうちにすでに変えられている。労働生産物の使用価値を捨象するならば、それを使用価値にしている物体的な諸成分や諸形態をも捨象することになる。それはもはや机や家や糸やその他の有用物ではない。労働生産物の感覚的性状はすべて消し去られている。それはまた、もはや指物労働や建築労働や紡績労働やその他の一定の生産的労働の生産物でもない。労働生産物の有用性といっしょに、労働生産物に表わされている労働の有用性が消え去り、したがってまたこれらの労働のいろいろな具体的形態も消え去り、それらの労働はもはや互いに区別されることなく、すべてことごとく同じ人間労働に、抽象的人間労働に、還元されているのである。
Jedoch ist uns
auch das Arbeitsprodukt bereits in der Hand verwandelt. Abstrahieren wir von
seinem Gebrauchswert, so abstrahieren wir auch von den körperlichen
Bestandteilen und Formen, die es zum Gebrauchswert machen. Es ist nicht länger
Tisch oder Haus oder Garn oder sonst ein nützlich Ding. Alle seine sinnlichen
Beschaffenheiten sind ausgelöscht. Es ist auch nicht länger das Produkt der
Tischlerarbeit oder der Bauarbeit oder der Spinnarbeit oder sonst einer
bestimmten produktiven Arbeit. Mit dem nützlichen Charakter der Arbeitsprodukte
verschwindet der nützliche Charakter der in ihnen dargestellten Arbeiten, es
verschwinden also auch die verschiedenen konkreten Formen dieser Arbeiten, sie
unterscheiden sich nicht länger, sondern sind allzusamt reduziert auf gleiche menschliche
Arbeit, abstrakt menschliche Arbeit.
「そこで今度はこれらの労働生産物に残っているものを考察してみよう。それらに残っているものは、同じまぼろしのような対象性のほかにはなにもなく、無差別な人間労働の、すなわちその支出の形態にはかかわりのない人間労働力の支出の、ただの凝固物のほかにはなにもない。これらの物が表わしているのは、もはやただ、その生産に人間労働力が支出され、人間労働が積み上げられているということだけである。このようなこれらに共通な社会的実体の結晶として、これらのものは価値―商品価値なのである。
Betrachten wir nun das
Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben als
dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine
bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Verausgabung menschlicher Arbeitskraft
ohne R・ksicht auf die Form ihrer Verausgabung. Diese
Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Produktion menschliche Arbeitskraft
verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschaftlichen
Substanz sind sie Werte
- Warenwerte.
「諸商品の交換関係そのもののなかでは、商品の交換価値は、その使用価値にはまったくかかわりのないものとしてわれわれの前に現れた。そこで、実際に労働生産物の使用価値を捨象してみれば、ちょうどいま規定されたとおりの労働生産物の価値が得られる。だから、商品の交換関係または交換価値のうちに現れる共通物は、商品の価値なのである。
Im Austauschverhältnis der Waren selbst
erschien uns ihr Tauschwert als etwas von ihren Gebrauchswerten durchaus
Unabhängiges. Abstrahiert man nun wirklich vom Gebrauchswert der
Arbeitsprodukte, so erhält man ihren Wert,
wie er eben bestimmt ward. Das Gemeinsame,
was sich im Austauschverhältnis oder Tauschwert der Ware darstellt, ist also ihr Wert.
「研究の進行は、われわれを、価値の必然的な表現様式または現象形態としての交換価値につれもどすことになるであろう。しかし、この価値は、さしあたりまずこの形態にはかかわりなしに考察されなければならない。
Der Fortgang der
Untersuchung wird uns zurückführen zum Tauschwert als der notwendigen
Ausdrucksweise oder Erscheinungsform des Werts, welcher zunächst jedoch
unabhängig von dieser Form zu betrachten ist.
「だから、ある使用価値または財かが価値をもつのは、ただ抽象的人間労働がそれに対象化または物質化されているからでしかない。では、それの価値の大きさはどのようにして計られるか? それに含まれている「価値を形成する実体」の量、すなわち労働の量によってである。労働の量そのものは、労働の継続時間で計られ、労働時間はまた1時間とか1日とかいうような一定の時間部分をその度量標準としている。
Ein Gebrauchswert oder Gut hat also nur
einen Wert, weil abstrakt menschliche Arbeit in ihm vergegenständlicht oder
materialisiert ist. Wie nun die Größe seines Werts messen? Durch das Quantum
der in ihm enthaltenen „wertbildenden Substanz“,
der Arbeit. Die Quantität
der Arbeit selbst mißt sich an ihrer Zeitdauer,
und die Arbeitszeit besitzt
wieder ihren Maßstab an bestimmten Zeitteilen, wie Stunde, Tag usw.
「一商品の価値がその生産中に支出される労働の量によって規定されているとすれば、ある人が怠惰または不熟練であればあるほど、彼はその商品を完成するのにそれだけ多くの時間を必要とするので、彼の商品はそれだけ価値が大きい、というように思われるかもしれない。しかし、諸価値の実体をなしている労働は、同じ人間労働であり、同じ人間労働力の支出である。商品世界の諸価値となって現われる社会の総労働力は、無数の個別的労働力からなっているのではあるが、ここでは一つの同じ人間労働力とみなされるのである。これらの個別的労働力のおのおのは、それが社会的平均労働力という性格をもち、このような社会的平均労働力として作用し、したがって一商品の生産においてもただ平均的に必要な、または社会的に必要な労働時間だけを必要とするかぎり、他の労働力と同じ人間労働力なのである。社会的に必要な労働時間とは、現存の社会的に正常な生産条件と、労働の熟練および強度の社会的平均度をもって、何らかの使用価値を生産するために必要な労働時間である。・・・
Es könnte scheinen, daß, wenn der Wert
einer Ware durch das während ihrer Produktion verausgabte Arbeitsquantum
bestimmt ist, je fauler oder ungeschickter ein Mann, desto wertvoller seine
Ware, weil er desto mehr Zeit zu ihrer Verfertigung braucht. Die Arbeit jedoch,
welche die Substanz der Werte bildet, ist gleiche menschliche Arbeit,
Verausgabung derselben menschlichen Arbeitskraft. Die gesamte Arbeitskraft der
Gesellschaft, die sich in den Werten der Warenwelt darstellt, gilt hier als
eine und dieselbe menschliche Arbeitskraft, obgleich sie aus zahllosen
individuellen Arbeitskräften besteht. Jede dieser individuellen Arbeitskräfte
ist dieselbe menschliche Arbeitskraft wie die andere, soweit sie den Charakter
einer gesellschaftlichen Durchschnitts-Arbeitskraft besitzt und als solche
gesellschaftliche Durchschnitts- Arbeitskraft wirkt, also in der Produktion
einer Ware auch nur die im Durchschnitt notwendige oder gesellschaftlich
notwendige Arbeitszeit braucht. Gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit ist
Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen
gesellschaftlich-normalen Produktionsbedingungen und dem gesellschaftlichen
Durchschnittsgrad von Geschick und Intensität der Arbeit darzustellen.
「たとえば、イギリスで蒸気機関が採用されてからは、一定量の糸を織物にするためにはおそらく以前の半分の労働で足りたであろう.イギリスの手織工はこの転化に実際は相変わらず同じ労働時間を必要としたのであるが、彼の個別的労働時間の生産物は、いまではもはや半分の社会的労働時間を表わすにすぎなくなり、したがって、それの以前の価値の半分に低落したのである。
Nach der Einführung des Dampfwebstuhls in England
z.B. genügte vielleicht halb so viel Arbeit als vorher, um ein gegebenes
Quantum Garn in Gewebe zu verwandeln. Der englische Handweber brauchte zu dieser
Verwandlung in der Tat nach wie vor dieselbe Arbeitszeit, aber das Produkt
seiner individuellen Arbeitsstunde stellte jetzt nur noch eine halbe
gesellschaftliche Arbeitsstunde dar und fiel daher auf die Häffte seines
frühern Werts.
「だから、ある使用価値の価値量を規定するものは、ただ、社会的に必要な労働の量、すなわち、その使用価値の生産に社会的に必要な労働時間だけである。個々の商品は、ここでは一般に、それが属する種類の平均見本とみなされる。したがって、等しい大きさの労働量が含まれている諸商品、または同じ労働時間で生産されることのできる諸商品は、同じ価値量をもっているのである。一商品の価値と他の各商品の価値との比は、一方の商品の生産に必要な労働時間と他方の商品の生産に必要な労働時間との比に等しい。「価値としては、すべての商品は、ただ、一定の大きさの凝固した労働時間でしかない。」
Es ist also nur das Quantum
gesellschaftlich notwendiger Arbeit oder die zur Herstellung eines
Gebrauchswerts gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit, welche seine Wertgröße
bestimmt. Die einzelne Ware gilt hier überhaupt als Durchschnittsexemplar ihrer
Art. Waren, worin gleich große Arbeitsquanta enthalten sind oder die in
derselben Arbeitszeit hergestellt werden können, haben daher dieselbe
Wertgröße. Der Wert einer Ware verhält sich zum Wert jeder andren Ware wie die
zur Produktion der einen notwendige Arbeitszeit zu der für die Produktion der
andren notwendigen Arbeitszeit. „Als Werte sind
alle Waren nur bestimmte Maße festgeronnener Arbeitszeit.“
労働の生産力の変動と価値の変動の関係
現在のグローバル化は、まさに世界をますます緊密に結びつけ、商品と市場の関係を世界的連関の中においている。
世界各地での労働の生産力の変化、工業生産力の変化が、世界の市場競争に影響してくる。
東西冷戦体制終結後、市場関係はソ連東欧を巻き込み、中国をまきこんで、急激に拡大し緊密さを増している。
世界のいずれかの地域で、低いコスト、高い生産力の商品が生み出されれば、同じ商品を古い生産システムで生産しているところは、競争に勝てない。
日本経済の空洞化は、まさにグローバルな経済関係の展開が生み出したものであり、諸資本が競争と利潤追求の必然的強制で、コストの安い地域に生産拠点を移したことによる。
これは、資本一般の原則としての利潤率の均等化法則の現代版であり、資本は高利潤をもとめ、したがって、労賃コストの大幅削減を求め、中国、アセアン諸国に進出する。
その背後を貫く一番の基礎にあるものは、労働の生産性である。労働の生産性と商品の価値の関係が、根底にある。
マルクスの叙述を続けてみてみよう。
「それゆえ、もしもある商品の生産に必要な労働時間が不変であるならば、その商品の価値の大きさも不変であろう。しかし、この労働時間は、労働の生産力に変動があれば、そのつど変動する。労働の生産力は、多種多様な事情によって規定されており、なかでも特に労働者の熟練の平均度、科学とその技術的応用可能性との発展段階、生産過程の社会的結合、生産手段の規模と作用能力とによって、さらにまた自然事情によって、規定されている。
Die Wertgröße einer Ware bliebe daher
konstant, wäre die zu ihrer Produktion erheischte Arbeitszeit konstant. Letztere
wechselt aber mit jedem Wechsel in der Produktivkraft der Arbeit. Die
Produktivkraft der Arbeit ist durch mannigfache Umstände bestimmt, unter
anderen durch den Durchschnittsgrad des Geschickes der Arbeiter, die Entwicklungsstufe der Wissenschaft
und ihrer
technologischen Anwendbarkeit, die gesellschaftliche Kombination des
Produktionsprozesses, den Umfang und die Wirkungsfähigkeit der Produktionsmittel,
und durch
Naturverhältnisse.
「同量の労働でも、たとえば豊作のときは8ブッシェルの小麦に表され、凶作のどきには4ブッシェルの小麦にしか表されない。同量の労働でも、豊かの鉱山では貧しい鉱山でよりも多くの金属を産出する、等々。ダイヤモンドは地表に出ていることがまれだから、その発見には平均的に多くの労働時間が費やされる。したがって、ダイヤモンドはわずかな量で多くの労働を表す。---」
Dasselbe Quantum Arbeit stellt sich z.B. mit günstiger Jahreszeit
in 8 Bushel Weizen dar, mit ungünstiger in nur 4. Dasselbe Quantum Arbeit liefert
mehr Metalle in reichhaltigen als in armen Minen usw. Diamanten kommen selten
in der Erdrinde vor, und ihre Findung kostet daher im Durchschnitt viel Arbeitszeit.
「もしほんのわずかの労働で石炭をダイヤモンドに変えることに成功するならば、ダイヤモンドの価値が煉瓦よりも低く下がることもありうる。
Gelingt es, mit wenig
Arbeit Kohle in Diamant zu verwandeln, so kann sein Wert unter den von
Ziegelsteinen fallen.
「一般的にいえば、労働の生産力が大きければ大きいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ小さく、その物品に結晶している労働量はそれだけ小さく、その物品の価値はそれだけ小さい。
Allgemein: Je
größer die Produktivkraft der Arbeit, desto kleiner die zur Herstellung eines
Artikels erheischte Arbeitszeit, desto kleiner die in ihm kristallisierte
Arbeitsmasse, desto kleiner sein Wert.
「逆に、労働の生産力が小さければ小さいほど、一物品の生産に必要な労働時間はそれだけ大きく、その物品の価値はそれだけ大きい。つまり、一商品の価値の大きさは、その商品に実現される労働の量に正比例し、その労働の生産力に反比例して変動するのである。
Umgekehrt, je
kleiner die Produktivkraft der Arbeit, desto größer die zur Herstellung eines
Artikels notwendige Arbeitszeit, desto größer sein Wert. Die Wertgröße einer
Ware wechselt also direkt wie das Quantum und umgekehrt wie die Produktivkraft
der sich in ihr verwirklichenden Arbeit.
Ein Ding kann Gebrauchswert
sein, ohne Wert zu sein. Es ist dies der Fall, wenn sein Nutzen f・ den Menschen nicht durch Arbeit vermittelt ist. So Luft, jungfr舫licher Boden, nat・liche Wiesen, wildwachsendes Holz usw. Ein
Ding kann n・zlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne
Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eigenes Bed・fnis befriedigt, schafft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu
produzieren, mu゚ er nicht nur Gebrauchswert produzieren,
sondern Gebrauchswert f・ andre, gesellschaftlichen Gebrauchswert. qnd nicht nur f・ andre schlechthin. Der mittelalterliche
Bauer produzierte das Zinskorn f・ den Feudalherrn, das
Zehntkorn f・ den Pfaffen. Aber weder Zinskorn noch Zehntkorn
wurden dadurch Ware, da゚ sie f・ andre produziert waren.
Um Ware zu werden, mu゚ das Produkt dem andern, dem es als
Gebrauchswert dient, durch den Austausch ・ertragen werden.17 Endlich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist
es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, z臧lt nicht als Arbeit und bildet daher keinen Wert.
2.
Doppelcharakter der in den Waren dargestellten Arbeit
Urspr・glich erschien uns die Ware als ein Zwieschl臘htiges, Gebrauchswert
und Tauschwert. Sp舩er zeigte sich, da゚ auch die Arbeit, soweit sie im Wert ausgedr・kt ist, nicht mehr
dieselben Merkmale besitzt, die ihr als Erzeugerin von Gebrauchswerten
zukommen. Diese zwieschl臘htige Natur der in der Ware enthaltenen
Arbeit ist zuerst von mir kritisch nachgewiesen worden.18 Da dieser Punkt der
Springpunkt ist, um den sich das Verst舅dnis der politischen ヨkonomie dreht, soll er hier n臧er beleuchtet werden.
Nehmen wir zwei Waren, etwa
einen Rock und 10 Ellen Leinwand. Der erstere habe den zweifachen Wert der
letzteren, so da゚, wenn 10 Ellen Leinwand = W, der Rock = 2
W.
Der Rock ist ein
Gebrauchswert, der ein besonderes Bed・fnis befriedigt. Um ihn
hervorzubringen, bedarf es einer bestimmten Art produktiver T舩igkeit. Sie ist bestimmt durch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand,
Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren N・zlichkeit sich so im
Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, da゚ ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg n・zliche Arbeit. Unter diesem Gesichtspunkt wird sie stets betrachtet mit
Bezug auf ihren Nutzeffekt.
Wie Rock und Leinwand
qualitativ verschiedne Gebrauchswerte, so sind die ihr Dasein vermittelnden
Arbeiten qualitativ verschieden - Schneiderei und Weberei. W舐en jene Dinge nicht qualitativ verschiedne Gebrauchswerte und daher
Produkte qualitativ verschiedner n・zlicher Arbeiten, so knnten sie sich ・erhaupt nicht als Waren gegen・ertreten. Rock tauscht sich nicht aus gegen Rock, derselbe Gebrauchswert
nicht gegen denselben Gebrauchswert.
In der Gesamtheit der
verschiedenartigen Gebrauchswerte oder Warenkrper erscheint eine
Gesamtheit ebenso mannigfaltiger, nach Gattung, Art, Familie, Unterart, Variet舩 verschiedner n・zlicher Arbeiten - eine gesellschaftliche Teilung
der Arbeit. Sie ist Existenzbedingung der Warenproduktion, obgleich
Warenproduktion nicht umgekehrt die Existenzbedingung gesellschaftlicher
Arbeitsteilung. In der altindischen Gemeinde ist die Arbeit gesellschaftlich
geteilt, ohne da゚ die Produkte zu Waren werden. Oder, ein n臧er liegendes Beispiel, in jeder Fabrik ist die Arbeit systematisch geteilt,
aber diese Teilung nicht dadurch vermittelt, da゚ die Arbeiter ihre
individuellen Produkte austauschen. Nur Produkte selbst舅diger und voneinander unabh舅giger Privatarbeiten
treten einander als Waren gegen・er.
Man hat also gesehn: in dem
Gebrauchswert jeder Ware steckt eine bestimmte zweckm葹ig produktive T舩igkeit oder n・zliche Arbeit. Gebrauchswerte knnen sich nicht als Waren
gegen・ertreten, wenn nicht qualitativ verschiedne n・zliche Arbeiten in ihnen stecken. In einer Gesellschaft, deren Produkte
allgemein die Form der Ware annehmen, d.h. in einer Gesellschaft von
Warenproduzenten, entwickelt sich dieser qualitative Unterschied der n・zlichen Arbeiten, welche unabh舅gig voneinander als
Privatgesch臟te selbst舅diger Produzenten
betrieben werden, zu einem vielgliedrigen System, zu einer gesellschaftlichen
Teilung der Arbeit.
Dem Rock ist es ・rigens gleichg・tig, ob er vom Schneider oder vom Kunden
des Schneiders getragen wird. In beiden F舁len wirkt er als
Gebrauchswert. Ebensowenig ist das Verh舁tnis zwischen dem Rock
und der ihn produzierenden Arbeit an und f・ sich dadurch ver舅dert, da゚ die Schneiderei besondre Profession wird, selbst舅diges Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit. Wo ihn das
Kleidungsbed・fnis zwang, hat der Mensch jahrtausendelang
geschneidert, bevor aus einem Menschen ein Schneider ward. Aber das Dasein von
Rock, Leinwand, jedem nicht von Natur vorhandnen Element des stofflichen Reichtums,
mu゚te immer vermittelt sein durch eine spezielle,
zweckm葹ig produktive T舩igkeit, die besondere
Naturstoffe besondren menschlichen Bed・fnissen assimiliert. Als
Bildnerin von Gebrauchswerten, als n・zliche Arbeit, ist die
Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabh舅gige Existenzbedingung des Menschen, ewige Naturnotwendigkeit, um den
Stoffwechsel zwischen Mensch und Natur, also das menschliche Leben zu
vermitteln.
Die Gebrauchswerte Rock,
Leinwand usw., kurz die Warenkrper, sind Verbindungen
von zwei Elementen, Naturstoff und Arbeit. Zieht man die Gesamtsumme aller
verschiednen n・zlichen Arbeiten ab, die in Rock, Leinwand
usw. stecken, so bleibt stets ein materielles Substrat zur・k, das ohne Zutun des Menschen von Natur vorhanden ist. Der Mensch kann in
seiner Produktion nur verfahren, wie die Natur selbst, d.h. nur die Formen der
Stoffe 舅dern.19 Noch mehr. In dieser Arbeit der Formung
selbst wird er best舅dig unterst・zt von Naturkr臟ten. Arbeit ist also nicht die einzige Quelle der von ihr produzierten
Gebrauchswerte, des stofflichen Reichtums. Die Arbeit ist sein Vater, wie
William Petty sagt, und die Erde seine Mutter.
Gehn wir nun von der Ware,
soweit sie Gebrauchsgegenstand, ・er zum Waren-Wert.
Nach unsrer Unterstellung
hat der Rock den doppelten Wert der Leinwand. Dies ist aber nur ein
quantitativer Unterschied, der uns zun臘hst noch nicht
interessiert. Wir erinnern daher, da゚, wenn der Wert eines
Rockes doppelt so gro゚ als der von 10 Ellen Leinwand, 20 Ellen
Leinwand dieselbe Wertgr゚e haben wie ein Rock. Als Werte sind Rock
und Leinwand Dinge von gleicher Substanz, objektive Ausdr・ke gleichartiger Arbeit. Aber Schneiderei und Weberei sind qualitativ
verschiedne Arbeiten. Es gibt jedoch Gesellschaftszust舅de, worin derselbe Mensch abwechselnd schneidert und webt, diese beiden
verschiednen Arbeitsweisen daher nur Modifikationen der Arbeit desselben
Individuums und noch nicht besondre feste Funktionen verschiedner Individuen
sind, ganz wie der Rock, den unser Schneider heute, und die Hosen, die er
morgen macht, nur Variationen derselben individuellen Arbeit voraussetzen. Der
Augenschein lehrt ferner, da゚ in unsrer kapitalistischen Gesellschaft,
je nach der wechselnden Richtung der Arbeitsnachfrage, eine gegebene Portion
menschlicher Arbeit abwechselnd in der Form von Schneiderei oder in der Form
von Weberei zugef・rt wird. Dieser Formwechsel der Arbeit mag
nicht ohne Friktion abgehn, aber er mu゚ gehn. Sieht man ab von
der Bestimmtheit der produktiven T舩igkeit und daher vom n・zlichen Charakter der Arbeit, so bleibt das an ihr, da゚ sie eine Verausgabung menschlicher Arbeitskraft ist. Schneiderei und
Weberei, obgleich qualitativ verschiedne produktive T舩igkeiten, sind beide produktive Verausgabung von menschlichem Hirn, Muskel,
Nerv, Hand usw., und in diesem Sinn beide menschliche Arbeit. Es sind nur zwei
verschiedne Formen, menschliche Arbeitskraft zu verausgaben. Allerdings mu゚ die menschliche Arbeitskraft selbst mehr oder minder entwickelt sein, um
in dieser oder jener Form verausgabt zu werden. Der Wert der Ware aber stellt
menschliche Arbeit schlechthin dar, Verausgabung menschlicher Arbeit ・erhaupt. Wie nun in der b・gerlichen Gesellschaft
ein General oder Bankier eine gro゚e, der Mensch
schlechthin dagegen eine sehr sch臙ige Rolle spielt20, so
steht es auch hier mit der menschlichen Arbeit. Sie ist Verausgabung einfacher
Arbeitskraft, die im Durchschnitt jeder gewhnliche Mensch, ohne
besondere Entwicklung, in seinem leiblichen Organismus besitzt. Die einfache
Durchschnittsarbeit selbst wechselt zwar in verschiednen L舅dern und Kulturepochen ihren Charakter, ist aber in einer vorhandnen
Gesellschaft gegeben. Kompliziertere Arbeit gilt nur als potenzierte oder
vielmehr multiplizierte einfache Arbeit, so da゚ ein kleineres Quantum
komplizierter Arbeit gleich einem gr゚eren Quantum einfacher
Arbeit. Da゚ diese Reduktion best舅dig vorgeht, zeigt die Erfahrung. Eine Ware mag das Produkt der
kompliziertesten Arbeit sein, ihr Wert setzt sie dem Produkt einfacher Arbeit
gleich und stellt daher selbst nur ein bestimmtes Quantum einfacher Arbeit
dar.21 Die verschiednen Proportionen, worin verschiedne Arbeitsarten auf
einfache Arbeit als ihre Ma゚einheit reduziert sind, werden durch einen
gesellschaftlichen Proze゚ hinter dem R・ken der Produzenten festgesetzt und scheinen ihnen daher durch das
Herkommen gegeben. Der Vereinfachung halber gilt uns im Folgenden jede Art
Arbeitskraft unmittelbar f・ einfache Arbeitskraft, wodurch nur die M・e der Reduktion erspart wird.
Wie also in den Werten Rock
und Leinwand von dem Unterschied ihrer Gebrauchswerte abstrahiert ist, so in
den Arbeiten, die sich in diesen Werten darstellen, von dem Unterschied ihrer n・zlichen Formen, der Schneiderei und Weberei. Wie die Gebrauchswerte Rock
und Leinwand Verbindungen zweckbestimmter, produktiver T舩igkeiten mit Tuch und Garn sind, die Werte Rock und Leinwand dagegen blo゚e gleichartige Arbeitsgallerten, so gelten auch die in diesen Werten
enthaltenen Arbeiten nicht durch ihr produktives Verhalten zu Tuch und Garn,
sondern nur als Verausgabungen menschlicher Arbeitskraft. Bildungselemente der
Gebrauchswerte Rock und Leinwand sind Schneiderei und Weberei eben durch ihre
verschied nen Qualit舩en; Substanz des Rockwerts und
Leinwandwerts sind sie nur, soweit von ihrer besondren Qualit舩 abstrahiert wird und beide gleiche Qualit舩 besitzen, die Qualit舩 menschlicher Arbeit.
Rock und Leinwand sind aber
nicht nur Werte ・erhaupt, sondern Werte von bestimmter Gr゚e, und nach unsrer Unterstellung ist der Rock doppelt soviel wert als 10 Ellen
Leinwand. Woher diese Verschiedenheit ihrer Wertgr゚en? Daher, da゚ die Leinwand nur halb soviel Arbeit enth舁t als der Rock, so da゚ zur Produktion des letzteren die
Arbeitskraft w臧rend doppelt soviel Zeit verausgabt werden
mu゚ als zur Produktion der erstern.
Wenn also mit Bezug auf den
Gebrauchswert die in der Ware enthaltene Arbeit nur qualitativ gilt, gilt sie
mit Bezug auf die Wertgr゚e nur quantitativ, nachdem sie bereits auf
menschliche Arbeit ohne weitere Qualit舩 reduziert ist. Dort
handelt es sich um das Wie und Was der Arbeit, hier um ihr Wieviel, ihre
Zeitdauer. Da die Wertgr゚e einer Ware nur das Quantum der in ihr
enthaltenen Arbeit darstellt, m・sen Waren in gewisser
Proportion stets gleich gro゚e Werte sein.
Bleibt die Produktivkraft,
sage aller zur Produktion eines Rocks erheischten n・zlichen Arbeiten unver舅dert, so steigt die Wertgr゚e der Rcke mit ihrer eignen Quantit舩. Wenn 1 Rock x, stellen 2 Rcke 2 x Arbeitstage dar
usw. Nimm aber an, die zur Produktion eines Rocks notwendige Arbeit steige auf
das Doppelte oder falle um die H舁fte. Im ersten Fall hat
ein Rock soviel Wert als vorher zwei Rcke, im letztern Fall
haben zwei Rcke nur soviel Wert als vorher einer, obgleich in
beiden F舁len ein Rock nach wie vor dieselben Dienste leistet
und die in ihm enthaltene n・zliche Arbeit nach wie vor von derselben G・e bleibt. Aber das in seiner Produktion verausgabte Arbeitsquantum hat sich
ver舅dert.
Ein gr゚res Quantum Gebrauchswert bildet an und f・ sich gr゚ren stofflichen Reichtum, zwei Rcke mehr als einer. Mit
zwei Rcken kann man zwei Menschen kleiden, mit einem Rock
nur einen Menschen usw. Dennoch kann der steigenden Masse des stofflichen
Reichtums ein gleichzeitiger Fall seiner Wertgr゚e entsprechen. Diese
gegens舩zliche Bewegung entspringt aus dem zwieschl臘htigen Charakter der Arbeit. Produktivkraft ist nat・lich stets Produktivkraft n・zlicher, konkreter
Arbeit und bestimmt in der Tat nur den Wirkungsgrad zweckm葹iger produktiver T舩igkeit in gegebnem Zeitraum. Die n・zliche Arbeit wird daher reichere oder d・ftigere Produktenquelle
im direkten Verh舁tnis zum Steigen oder Fallen ihrer
Produktivkraft. Dagegen trifft ein Wechsel der Produktivkraft die im Wert
dargestellte Arbeit an und f・ sich gar nicht. Da die Produktivkraft der
konkreten n・zlichen Form der Arbeit angehrt, kann sie nat・lich die Arbeit nicht mehr ber・ren, sobald von ihrer konkreten n・zlichen Form abstrahiert
wird. Dieselbe Arbeit ergibt daher in denselben Zeitr舫men stets dieselbe Wertgr゚e, wie immer die
Produktivkraft wechsle. Aber sie liefert in demselben Zeitraum verschiedene
Quanta Gebrauchswerte, mehr, wenn die Produktivkraft steigt, weniger, wenn sie
sinkt. Derselbe Wechsel der Produktivkraft, der die Fruchtbarkeit der Arbeit
und daher die Masse der von ihr gelieferten Gebrauchswerte vermehrt, vermindert
also die Wertgr゚e dieser vermehrten Gesamtmasse, wenn er
die Summe der zu ihrer Produktion notwendigen Arbeitszeit abk・zt. Ebenso umgekehrt.
Alle Arbeit ist einerseits
Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser
Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie
den Warenwert. Alle Arbeit ist andrerseits Verausgabung menschlicher
Arbeitskraft in besondrer zweckbestimmter Form, und in dieser Eigenschaft
konkreter n・zlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte.22
[Marx: Das
Kapital, S. 72 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3386 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 60 ff.)]
[Marx: Das Kapital, S. 55 ff. Digitale
Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3369 (vgl. MEW Bd. 23, S. 49 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 59 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3373 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 52 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 67 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3381 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 57 ff.)]
[1] 人間の欲望・欲求を満たす効用=財貨の使用価値とその価値(価格)とは本質的に違うものである。その点の混同が、経済学を混乱させる。マルクスが『資本論』冒頭でおこなったことは、まさにこの使用価値と価値の明晰な分離、概念的区別である。
いまだに普通の経済学では、二つが混同されている。
たとえば、ノーベル経済学賞のマンデルの次ぎの一節・・・商品交換、売買、取引、すなわち、ある人が「取引をするのは、取引をしないよりも、有利であるからにほかならない。取引をする前に得ていた財貨の包みよりも、取引をすることによって得られる財貨の包みのほうが高価である場合にのみ取引を行うのだ」と。(ロバート・A・マンデル『マンデルの経済学入門(Man and Economics)』ダイヤモンド社、2000年p.40)
「有利」さは、使用価値・欲求・効用という点では、まったく別の使用価値・効用の交換
であり、双方にとって、効用があり、有利である。必要のないもの(財貨A)を売って貨幣をてに入れるものは、その貨幣で別の効用(財貨B)をてに入れることが出来るので、自分に不必要な物(財貨A)を売って、別の必要物=要求充足物(財貨B)を手にいれることになる。まさに利がある。他方、貨幣を手放して財貨Aを得た人も、自分の欲しいもの=使用価値を手に入れたので、利がある。
問題は、そのような交換の結果、はじめに持っていた財貨Aよりも「高価」な財貨Bをを手に入れたといえるかどうかである。
財貨A=100円としよう。
財貨A売って100円を手にいれた人が、つぎにその100円で財貨Bを買うとすれば、等価交換であり、価格=価値はおなじである。高価な物を手に入れたわけではない。
財貨Aを売る人は、自分が売るときには価値通り(価格通り)に100円で売れ、自分がその100円で財貨Bを手に入れるときには、110円の価値のあるものを手に入れるとすれば、その人は得をする(100円で110円のものを手に入れる)けれども、逆に、110円のものを100円で売った人はそんをするではないか。
使用価値と価値(価格)が明確に分離されていない証拠である。
これが、ノーベル賞を取る水準の経済学なのである。
根本的なところで間違っているのだが、そしてその間違いについては、マルクスがすでに一〇〇年以上も前にきちんと分析して解明しているのだが、支配的経済学に置いては誤謬がそのまままかり通っているのである。
月や太陽は、天動説(現在の支配的経済学)の昔も地動説(スミス、リカード、マルクス)の現在も、現象的には、天動説が唱えたように動いている。そのように見える。
使用価値と価値の混乱した把握が見過ごされる。
しかし、その混乱を混乱としないための説明のし方が、つぎのような「評価」をもちこむことでクリア出きるとしている。
「では何を売り、何を買うかはどうやって決めるのだろうか。市場価格が与えられた場合、取引をする人は、市場価格よりも低く評価しているものを売り、市場価格よりも高く評価出きるものを買うのである」と。
財貨Aを市場価格100円で売った人の場合はどうなるか? 財貨Aを売った人は、自分の商品を「低く評価している」から売ったということになる。商品社会=分業社会において、商品を生産する人は他人の欲望のための財貨を生産するのであり、自分にとっては無価値のものを生産するのが原則である。「低く評価している」から売るのではない。自分にとっては、商品は原則として使用価値がないものである。だが、価値(価格)を持っている。その正当な価値(価格)を実現しようとするのが市場社会である。マンデルは、この原則を無視しようというわけである。
他方、100円を手に入れた人は、今度は商品・財貨Bを買う。だが、今度は、マンデルは、その商品は市場価格100円よりも「高く評価」できるから買うのだという。100円でもって、110円と「評価」できる(実際には100円?、それとも本当に110円)ものを買う、というのである。そんなことが市場取引の原則となっているだろうか?
100円で持って110円のものを買えるとすれば、プラス10円はどこから出てきたのか?
不等価交換はなぜ可能なのか?
マンデルの欺瞞と誤謬は、例証として挙げる労働(サービス)からも明白である。すなわち、「たとえば、かりにあなたが機械工であった場合、機械工としての自分のサービスを自分の家で必要とすることはあまりないだろう。そこで、あなたは自分のサービスの自家化消費を、そのために市場で支払われる賃金よりもずっと低く評価するだろう」(同、p.40‐41)と。
第1に、そもそも普通のサラリーマン(上の例では機械工)は、自分の労働の市場価格とその労働の自家消費とを比較して、自家消費を低く評価するから労働市場に出ていっているのか?
そもそも現代社会の圧倒的多数のサラリーマンは、生きていくためには、他人が必要としている労働能力(労働力)を売るしか、ほかに手段を持たないのである。分業社会で、自分の専門化した労働に対応する仕事(上の例では機械工)は、家のなかにはない。労働を自家消費するときは、機械工としての仕事ではなく別の家事労働であり、そのばあい、その消費的労働の対価はゼロである。生産手段(土地や道具)を持っていればかつての農民のように労働を自家消費出きるが、そのような自家消費は現代の圧倒的多数のサラリーマンには不可能なのである。
機械工が自宅で機械工としての労働を出来るということならば、自宅にそのための生産設備があるということであり、もはやたんなる機械工ではなく生産設備所有者=小資本家である。
近代資本主義社会においては、労働者は生産手段から解放されている。生産手段の所有は資本(企業)の手に移っている。
[2] 『資本論』全体、特にその第1巻第1章の価値関係と価値実態、価値と価値形態、商品と貨幣との相互規定関係・相互発展関係は、ヘーゲルの弁証法論理学を学ぶとき、初めて理解できる、というのはレーニンのアフォリズム(簡潔鋭利な評言。警句。金言。箴言[株式会社岩波書店 広辞苑第五版])である。
『哲学ノート』上(岩波文庫、松村一人訳)p.155・・・「ヘーゲルの『論理学』の全体をよく研究し理解しなければ、マルクスの『資本論』、特にその第一章を理解することはできない。だから、マルクス主義者のうち誰も、半世紀もたつのに、マルクスを理解しなかったのだ!!」
この意味では、マルクスが「私はマルクス主義者ではない」といったと言う話しは、レーニンの考えでもある。
[3] 以下の邦訳は、全集刊行委員会訳の大月書店版を利用している。