初出:20030122

   更新日:200325()

国債[1]引受・株式購入などによる

通貨発行量増加政策‐「インフレターゲット論」‐批判

―潜在的な真の有効需要は目の前にあるのではないか?―

―世の支配的議論は、「思考停止」「感覚麻痺」に陥ってはいないか?―

 

 

「インフレターゲット論」は通貨発行量の増大を狙うが、その前提としての通貨発行量を規定する基礎要因とは?

 

現在、デフレ不況の苦し紛れに、「インフレターゲット」論が勢いを持ちつつあるかに見えるが、そのやり方は本当に経済学的に論理的に説明されているか?

 これは批判的に検討しなければならない経済学の課題である[2]

 

かつて、バブルの時代、さる有名な「近代経済学者」が、「もっともっと株価は上がりますよ」と主張していた。その彼は、「もっと上がる、もっと上がる」と全国で講演して歩き、バブルのお先棒を担ぎ、株価上昇と講演料の双方で「かなり儲けています」といっていた。

 だが、ご承知のようにバブルは崩壊した。その御当人は、はたしていつの時点で、売りぬけたであろうか? 相当損をしたか? それとも程よく逃げることができたか?

 

 ともあれ、「経済学者」のいうことが、正しいかどうか、よく検討しなければならない。

 社会の表面で発言を続ける「経済学者」の言説の検証が必要である。

 私の場合、身近な経験で、「経済学者」のいいかげんさをしっかり見た。

 バブルといえば、九〇年代のアメリカ経済の「万年繁栄」的現象の時も、同じような言説に出くわした。

 

 

 藁にもすがる人々に対し、「インフレターゲット論者は期待をもたせているが、幻想をかきたてるだけではないか? 適切な合理的な説明をおこなっているか?

 何年にもわたってインフレターゲット論がささやかれながら、実施されなかった根拠は何か?

 

 

 貨幣的現象、通貨発行の量を、政府・日銀の国債引受・紙幣増刷という無理な手段でやっていいのか?[3]

 通貨=紙幣の量は、実体経済を反映したものであってこそ、信用を維持できる。そうではないか?

 無理な国債発行は、国債自体の信用をも低下させる。米国の国債管理政策の第1の目的は、「米国債の「リスクフリー資産」としての地位の維持[4]」がある。

  日銀の通貨発行量に関するデータと説明(日銀HP参照)は、実体経済の変化と通貨発行量の平行関係を示してはいないか?

 

 つまり、きちんとした実体的な有効需要をこそ、探し出すべきではないのか?

 実体経済を活性化する真の意味での有効需要を発掘すべきではないのか?

 その本来やるべきことをやらず、通貨発行量増大の強制的政策は、バブル再現だ。

今なお、バブルの経済学的反省が、学者によっても、政府関係者、政権政党などでもおこなわれていないことを意味する。政治を担当するもの、それに知恵を貸すもの(「経済学者」)が経済の論理・経済の法則を知らないのだ。

バブルの時代の苦い経験を早々と忘れていいのか?

 

 本日付け(2003123日)朝日新聞朝刊一〇ページの「どうする金融政策 5」で、慶応大学教授(「ミスター円」、元大蔵省国債金融局長)が、「インフレ目標は無意味」と、インフレターゲット論を批判している。そのかぎりで、私の主張と同じである。

 彼は、適切にも、現在のデフレを、「構造的かつ世界規模のデフレ」と特徴づけている。

 その要因は何か。

彼によれば、「要因は二つある。一つは、情報通信をはじめあらゆる分野で非常に速いスピードで起きている技術革新。経済や社会を根本的に変える第3次産業革命とも呼べる大変化だ。もう一つはグローバリゼーション。ここ10年間で中国や東欧、ロシア、インドなどの国々が市場経済に本格的に参入してきた」と。

 

 まさに、ここでは、現在の世界的な「デフレ」傾向の基礎にある生産要因(生産性要因)をしっかりとらえている。

 

 榊原によれば、「日本だけでなく中国、シンガポール、台湾などもデフレ基調だ.米国やドイツもインフレ率が低下している」と。

 

 技術革新、すなわち労働の生産性の飛躍的発展・その世界的発展は、当然・必然にも、個々の商品の生産に必要な労働時間、労働量をひきさげ、普通の経済学的いい方では生産コストを引き下げる。「デフレ」現象の基礎に、世界的な生産力の飛躍的発展=市場の需要キャパシティに対する過剰生産化の傾向があることを確認する必要があろう。

 

 しかし、榊原は首をかしげる発言を、次ぎにおこなう。

 「インフレは、マネーの供給量を増やせば物価が上がるという貨幣的現象ではないのですか」との質問に対し、

 「もはやマネーの定義が変わっている」と、「定義」の問題に摩り替えている。そして、「日本銀行券だけ出なく、クレジットカードなどマネー機能を持ついろいろなものがちまたにあふれ、マネーと取引との関係が途切れている」と。

 これはおかしい。

 日銀のマネーサプライ統計は、何を意味しているか?

 マネーサプライに関しては、最近の多様なマネー機能を持つ預金を含めた体系的で厳密な定義[5]がある。(一覧表でわかりやすく示しているhttp://www.boj.or.jp/wakaru/keiki/wms.htm#hyo1)

そして、そのマネーの供給は、統計的に確認され、ある安定した傾向性を示している。「マネーと取引の関係が途切れている」とは、いえない。

 榊原の次ぎの発言とも矛盾する。次ぎの発言は、通貨量と経済実体の相互連関を主張し、通過量と経済の取引関係の対応関係を主張するものだからである。

 すなわち、「日銀が貨幣をどんどん出せば、株や国債など供給の限られたストックの価格が上がるのは間違いない。いまは潤沢な流動性供給で余ったマネーが国債に流れこみ、国債価格が上昇している。だが、本来、株価は企業収益を、国債価格は国の財政を反映するものだ。マネー供給で株価を無理に上昇させても、企業収益が伴わなければバブルが発生するだけだ」と。

 まさにこれこそ、妥当な認識だ。

問題は、企業収益(利潤)なのだ。

企業が収益を上げるためには、市場を確保し、拡大しなければならない。まさにここに問題がある。

日本の企業は、低コストを求めて、海外に生産拠点を移した。海外の生産拠点からの日本市場への進出と競争(今日の新聞ニュースでは、ミニバイク市場におけるスズキ、ホンダ、ヤマハの熾烈な競争が紹介されていた、台湾などの海外生産拠点からの輸入が競争を激化させている)。ここにも問題がある。

 

 このような諸要因を無視したインフレターゲット論は、バブルの再現をもたらす危険性があるのだ。

 

 ついで、「インフレ目標を掲げるべきだという政策論議をどう考えますか」との質問に、榊原は、

「今は経済理論が時代に追いつかない」と、年頭のテレビ番組で主張していた自説を述べている。

「グローバリゼーションの拡大によって、この数十年で経済に与えるストックの影響力が拡大した。多くのマクロ経済学者たちは、現実と理論が合わないから現実の方を変えようとしている。日銀が主張するように、金融緩和を重ねてもデフレに歯止めがかからないのは、日本経済の構造が大きく変わろうとしているからにほかならない。構造変化を無視したインフレ目標はナンセンスだ」と。

 この最後の部分も妥当な認識だ。

 

 世界の構造変化に対応しつつ日本の経済構造を変える必要がある.その過渡期だというのが基本的に大事な認識だろう。

 日本が従来以上に、高度工業国家・高度工業地域として、経済構造を変化させていかなければならない状況だと見るべきだろう。

 高度な科学技術立国こそ、現在の日本に世界から求めらていることだろう。現在の構造問題をそのようにとらえなおすべきだろう。

 だが、青少年の教育環境はどうか?

 今日の新聞投書欄には、母子家庭に対する冷たい仕打ちがでていたが、その子どもが大きくなってどのような立派な人間になるかは、日本社会にとって重要なことではないのか?

 若い女性が子どもを産まなくなっている現実は何を意味するか? 日本の次ぎの時代を担う子どもが激減していいのか? 次の世代の子どもたちが高度に進んだ科学技術を喜んでマスターするように、環境は整えられているか? 人間を育成するための公的投資はどうなっているか? 必要のない道路や港湾をつくるのとは分けが違う。人間を豊かに育てることは、決して無だな投資ではないはずだ。 

 

 

さて続いて、「外国にはインフレ目標の例があります」との質問に、榊原は、

「それは基本的にインフレを抑えるための政策で、デフレを克服するためではない。デフレ下でもインフレ目標策が一定の役割を果たしたニュージーランドなどは例外だ」とし、

「どういうプロセスで製品やサービスの価格が上がるのかという道筋が、世間の論議では示されていない。それを示さなければ、目標の設定はかえってマイナスに働く。積極派の人々はインフレ期待が生まれるというが、道筋すら見えないのにどうして期待が生まれるのか理解に苦しむ」と、至極妥当なことを主張している。

 

 大蔵省元官僚で、「ミスター円」といわれるほど経済に精通しているはずの人でさえ、「理解に苦しむ」ような筋道=論理のわからないことをやろうというのが、現在の「インフレターゲット論」である。

 

「インフレ目標が導入されたら、どうなりますか」との質問に、榊原は、

「国債バブルが膨らんで長期金利がさがにさがるだけだろう」という。現実経済が必要としない貨幣量を増やし、貨幣供給を無理に増やしても、それは、余剰資金を生み出すだけであり、資金の需給バランスをますます悪くするだけ、利子率の低下を引き起こすだけ、ということになろう。

そして、「日銀が株をどんどん買っても、企業収益が伴わなければバブルをつくるだけ。」と。そのとおりだ。

まさに、榊原のいうとおり、「官邸や自民党も手詰まりになっているのだろう。」

 

だが、榊原は名案を持っているか?

「どうすればデフレから脱却できますか」との質問に、榊原は、

「脱却できない」とはっきり応えている。「年1‐2%の緩やかな物価下落は受け入れなければならない。それは消費者にとってもいいことだ」と。これは、名案でもなんでもないだろう。「官邸や自民党の手詰まり」を克服することにはならないだろう。「消費者」に対しては、種々の賃金切り下げが先行しているのではないか? とすれば、「いいことだ」とはいえないだろう。

 

まさに、その賃金引下げを暗示する議論が次ぎに展開する。

「デフレを不況につなげてはならず、そのためにはデフレ下でも企業が収益を上げられる体制を国がつくる必要がある。日本企業は90年代を通じて人件費流通経費の高コスト体質が染みつき、収益の上がらない構造になった。それを打破するには規制緩和などが有効だ。たとえば、東名高速の料金を無料にするなど、政府による積極的な環境づくりが大切だ」と。

 

 東名高速の料金は、どのように使われているか? その収支構造を明らかにしないと、「無料」政策を打ち出しても、説得力がない。

 また、相変わらずの決まり文句、「規制緩和」を唱えても、今まで一体何年、「規制緩和」が唱えつづけられたのか、なぜ「規制緩和」が実現できなかったのかを明らかにしないと、意味ある提言とはいえない。

 つまりは、大蔵省元官僚「ミスター円」にも、名案がないことだけははっきりしているのではなかろうか?

 「人件費と流通経費」を下げるやり方には、絶対的なやり方(うえの事例で榊原が提案している「無料化」は絶対的な方策)と相対的なやり方がある。総コストの中で人件費部分や流通経費を相対的に引き下げるのが、相対的方策である。

 これは、高付加価値の生産部門を活性化するしかないということだろう。

 まさに日本経済は、いまこそ、高度工業国家のいっそうの高度化が求められている時代なのではないだろうか?

 そのためには、まさに、科学技術の発展のためにこそ、投資をおこなうべきではないのか?

 

 

---------- 

 

 労賃(時給、日給、月給、年俸など時間給Zeitlohnと出来高賃金)の根拠は、勤労する人々の生活の維持。

 勤労する人々の勤労能力(労働能力)の維持費としての労賃・賃金。

 

 粗悪なインフレ政策がおこなわれると、それは労賃・賃金・給料の引き下げを意味する。

 現状そのままで労賃を通貨政策的に引き下げれば、資本の利潤部分が増大する。

 

 資本は一息つく。

しかし、そのようなやり方は本当の景気回復に繋がるか?

労働分配率を引き下げたい資本の要求ははっきりしているが、それでは結局のところ、国民経済の最終民間需要が縮小するのではないか?

 

 バブルのときのような金融的な問題の解決のし方、実体経済の基礎的裏づけを欠いた金融表面での政策は、危険ではないか?

 

 戦争のような経済界の一部を短期的に潤すような「需要」は、結局は死の需要であり、経済を破壊する。

 平和を構築し、強靭にするため有効需要の創出は?

  平和のために必要なことを認識する学校大学における教育、

一般に教育体制の充実(人的・物的資源の大量投入)

 

 地球的諸課題で日本産業が生産すべき諸製品はないのか、その課題・需要で日本産業しか生産できないものはないのか?

 また、日本社会の中に、大きな潜在的な需要はないのか?

社会を発展させる需要はないのか? 

 

膨大な国民経済的支出がありながら、それを何分の一にも軽減するような必要性がある分野はないのか?

生産力過剰の分野ではなく、新たな生産力が求められている分野はないのか?

 

新たな投資分野はないのか?

資金を持っている人々、投資機械を探している人々に、社会のなかの発展性のある人間的需要が見えていないだけではないのか?

 

研究開発型ヴェンチャー企業論の吉川教授と話していると、うえのようなことが疑問として湧いてくる。

吉川教授の言うようにシュンペーター的イノヴェーション・革新の深い検討が必要なのかもしれない。

 

 

------------  

貨幣流通量の原理的な理論的把握のために

マルクス『資本論』第1

第三章    貨幣または商品流通

3. Das Geld oder die Warenzirkulation

 

第一節 価値の尺度

1. Maß der Werte

 

「簡単にするために、本書ではどこでも金を貨幣商品として前提する。」

    Ich setze überall in dieser Schrift, der Vereinfachung halber, Gold als die Geldware voraus.

 

「金の第1の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名大きさ、すなわち質的に同じ量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。」 

  Die erste Funktion des Goldes besteht darin, der Warenwelt das Material ihres Wertausdrucks zu liefern oder die Warenwerte als gleichnamige Größen, qualitativ gleiche und quantitativ vergleichbare, darzustellen.

 

現在の日銀券は日本国内で、ドルは合衆国(と世界)で、ユーロはユーロ圏で、商品の価値表現の材料となっている。

同じ質の、共通のものの一定量(一定時間)の表現として、相互に交換可能であり、相互に交換されている。

商品の価値を規定する世界の当該商品の社会的に必要な労働時間(抽象的人間労働)の変化によって、時々刻々、相互の交換比率は変化しているが、ある一定期間をとれば、安定的な相互交換比率となっている。(一ドル=119円、一ユーロ=123円など)

 

価値の実体は、抽象的人間労働である。世界中の人間の共通項、世界中の人間に共通な労働の一定時間である。だからこそ世界中で、一定比率で交換が可能となる。地球全体が一体化し、人類の相互関係が緊密になり、グローバル化が進展すればするほど、価値法則、抽象的人間労働による商品交換の法則は、貫徹することになる。

管理通貨制の成立の歴史は商品貨幣経済の発達を前提にし、資本主義の世界的拡大深化、機械制大工業の世界化・支配化、労働力商品の世界的な普及、を前提とする。労働と賃金との相互関係の大衆的日常的確認が、商業取引関係、商品交換関係の一般化とともに、紙幣(銀行券)の信用の基礎となる。

貨幣商品としての金が使われなくなると、価値法則自体が廃棄されたかのように誤解してきたのが、この半世紀ほどの現象である。貨幣が明くまでも、商品の価値の表現手段であったということ、価値の表現が適切におこなわれる手段と条件が整えば、その価値表現の妥当さが続く限り、中央銀行券(紙幣)が十分に通用するということ、これは、価値法則の貫徹を証明している。

金は、「諸価値の一般的尺度」として機能したのであり、諸商品の価値のものさし、尺度が適切であれば(価値実体を表現するものであれば)、機能するのである。

 

「こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」

So funktioniert es als allgemeines Maß der Werte, und nur durch diese Funktion wird Gold, die spezifische Äquivalentware, zunächst Geld.

 

「諸商品は、貨幣によって通訳可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通訳可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である((50)

  Die Waren werden nicht durch das Geld kommensurabel. Umgekehrt. Weil alle Waren als Werte vergegenständlichte menschliche Arbeit, daher an und für sich kommensurabel sind, können sie ihre Werte gemeinschaftlich in derselben spezifischen Ware messen und diese dadurch in ihr gemeinschaftliches Wertmaß oder Geld verwandeln. Geld als Wertmaß ist notwendige Erscheinungsform des immanenten Wertmaßes der Waren, der Arbeitszeit.

 

50 なぜ貨幣は直接に労働時間そのものを代表しないのか、なぜ、たとえば1枚の書き付けが労働時間を表わすというようにならないのか、という問いは、まったく簡単に、なぜ商品生産の基礎の上では労働生産物は商品として表わされなければならないのか、という問いに帰着する。なぜならば、商品という表示は、商品と貨幣商品とへの商品の二重化を含んでいるからである。または、なぜ私的労働は、直接に社会的な労働として、つまりそれの反対物として、取り扱われることができないのか、というといに帰着する。

Die Frage, warum das Geld nicht unmittelbar die Arbeitszeit selbst repräsentiert, so daß z.B. eine Papiernote x Arbeitsstunden vorstellt, kommt ganz einfach auf die Frage heraus, warum auf Grundlage der Warenproduktion die Arbeitsprodukte sich als Waren darstellen müssen, denn die Darstellung der Ware schließt ihre Verdopplung in Ware und Geldware ein. Oder warum Privatarbeit nicht als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit, als ihr Gegenteil, behandelt werden kann. [Marx: Das Kapital, S. 1184 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4498 (vgl. MEW Bd. 23, S. 0 ff.)]

 

 

「一商品の金での価値表現x量の商品Ay量の貨幣商品―は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。

 Der Wertausdruck einer Ware in Gold - x Ware A = y Geldware - ist ihre Geldform oder ihr Preis.

 

「いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表すためには、1トンの鉄=2オンスの金というような一つの単独な等式で十分である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。というのは、等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。

Eine vereinzelte Gleichung, wie 1 Tonne Eisen = 2 Unzen Gold, genügt jetzt, um den Eisenwert gesellschaftlich gtig darzustellen. Die Gleichung braucht nicht länger in Reih und Glied mit den Wertgleichungen der andren Waren aufzumarschieren, weil die Äquivalentware, das Gold, bereits den Charakter von Geld besitzt. Die allgemeine relative Wertform der Waren hat daher jetzt wieder die Gestalt ihrer ursprünglichen, einfachen oder einzelnen relativen Wertform.

 

「他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の多きさがありとあらゆる商品で表わされているが見いだされる。

  Andrerseits wird der entfaltete relative Wertausdruck oder die endlose Reihe relativer Wertausdrücke zur spezifisch relativen Wertform der Geldware. Diese Reihe ist aber jetzt schon gesellschaftlich gegeben in den Warenpreisen. Man lese die Quotationen eines Preiskurants rückwärts und man findet die Wertgröße des Geldes in allen möglichen Waren dargestellt.

 

       <一言付言>・・・紙幣(日本銀行券)は、物価表をみれば、どのような価値を表現しているかを明かにしている。商品世界全体が紙幣(日本銀行券)で自らの価値量を価格で表現し、相互比較が可能なようにしている。

 

「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または心に描かれた形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、心に描かれる。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、自分の舌をこれらの物の頭のなかに突っ込むか、またはこれらの物に紙札をぶら下げるかしなければならないのである。

    Der Preis oder die Geldform der Waren ist, wie ihre Wertform überhaupt, eine von ihrer handgreiflich reellen Körperform unterschiedne, also nur ideelle oder vorgestellte Form. Der Wert von Eisen, Leinwand, Weizen usw. existiert, obgleich unsichtbar, in diesen Dingen selbst; er wird vorgestellt durch ihre Gleichheit mit Gold, eine Beziehung zum Gold, die sozusagen nur in ihren Köpfen spukt. Der Warenhüter muß daher seine Zunge in ihren Kopf stecken oder ihnen Papierzettel umhängen, um ihre Preise der Außenwelt mitzuteilen.59

 

「商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品の価値に価格という形態または心に描かれた金形態を与えてもまだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ心に描かれただけの、すなわち観念的な貨幣として役立つのである。

Da der Ausdruck der Warenwerte in Gold ideell ist, ist zu dieser Operation auch nur vorgestelltes oder ideelles Gold anwendbar. Jeder Warenhüter weiß, daß er seine Waren noch lange nicht vergoldet, wenn er ihrem Wert die Form des Preises oder vorgestellte Goldform gibt, und daß er kein Quentchen wirkliches Gold braucht, um Millionen Warenwerte in Gold zu schätzen. In seiner Funktion des Wertmaßes dient das Geld daher - als nur vorgestelltes oder ideelles Geld.

 

        <少し飛ぶが、紙幣=日銀券増刷によるインフレとの関連で、次ぎの一節は重要。>

 

「金」、現代では紙幣(日本では日銀券)が現実実体経済と関係のないやり方で増刷ないし発行されたとして、「金」を日銀券に読みかえれば、

 

「金の価値変動は金が価値尺度として機能することを妨げない。 金の価値変動にはすべての商品が同時に出くわすのだから、そのほかの事情が同じならば、金の価値変動は諸商品の相互の相対的価値には変化を起こさないのである。といっても、今では商品はみな以前よりも高いかまたは低い金価格で表わされるのではあるが。

  Der Wertwechsel des Goldes verhindert auch nicht seine Funktion als Wertmaß. Er trifft alle Waren gleichzeitig, läßt also caeteris paribus ihre wechselseitigen relativen Werte unverändert, obgleich sie sich nun alle in höheren oder niedrigeren Goldpreisen als zuvor ausdrücken.

 

               <インフレターゲット論者は、「そのほかの事情が同じならば」一様に物価が上がることをどのように計算するか?彼らは本能的に、経済の動向に鋭いものと鈍いものがあること、物価の動向に敏感なものと鈍いものがあることを前提にしているとすれば、それは「そのほかの事情」が違うということである。極端な場合、労賃は据え置きで物価だけが上がれば、労働者の価値評価は下がり、利潤部分が増えることになる。そのように、インフレターゲット論者の頭には、ある物価はインフレの影響を直接的に受け、ある物価はインフレの影響を受けるのが間接的であり、あるいは時間がかかることを前提にしているのか。この点、直鉄彼らの議論で検証する必要がある。>

 

「一商品の価値を何らかの別の商品の使用価値で表わす場合と同様に、諸商品を金で評価する場合も、そこに前提されているのは、ただ、一定の時には一定量の金の生産には一定量の労働がかかるということだけである。商品価格の運動に関しては、一般に、以前に展開された単純な相対的価値表現の諸法則があてはまるのである。

   Wie bei der Darstellung des Werts einer Ware im Gebrauchswert irgendeiner andren Ware, ist auch bei der Schätzung der Waren in Gold nur vorausgesetzt, daß zur gegebnen Zeit die Produktion eines bestimmten Goldquantums ein gegebnes Quantum Arbeit kostet. In bezug auf die Bewegung der Warenpreise überhaupt gelten die früher entwickelten Gesetze des einfachen relativen Wertausdrucks.

 

        <現在進行中の「デフレ」=低物価商品の大量的出現は、労賃コストの低い地域からの生産物流入と労働生産性上昇(技術革新)との相互の結果だとすれば、それらはいずれも必然的経済法則的に商品価値を下げるものであり、その価値を反映する価格表現、すなわち低価格化が必然的なものである。これを無理に、紙幣増刷によって価格維持しようというのは、無意味である。それは、紙幣の価値が下がることを意味する、価格を表面的にだけ維持する帰結をもたらす。>

 

「商品価格が一般的に上がるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が上がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が下がる場合だけである。逆に、商品価格が一般的に下がるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が下がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が上がる場合だけである。

    Die Warenpreise können nur allgemein steigen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte steigen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert fällt. Umgekehrt. Die Warenpreise können nur allgemein fallen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte fallen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert steigt.

 

 

         <紙幣増刷によるインフレによって、商品によって価値が変化するものと価値が変わらなかったものとで、その受ける影響が違う。それに適応し、チャンスをつかむものとそうでないものとの違い、など>

 

「だから、貨幣価値の上昇は商品価格の比例的な低下を必然にし、貨幣価値の低下は商品価格の比例的な上昇を必然的にするということには決してならない。そうなるということは、ただ価値の変わらなかった商品だけにあてはまることである。たとえば、その価値が貨幣価値と同程度に同時に上がる商品は、同じ価格を保っている。もし商品の価値が貨幣価値よりも遅く上がるかはやく上がるかすれば、その商品の価格の低下または上昇は、商品の価値運動と貨幣の価値運動との差によって規定される、などなど。

Es folgt daher keineswegs, daß steigender Geldwert proportionelles Sinken der Warenpreise und fallender Geldwert proportionelles Steigen der Warenpreise bedingt. Dieses gilt nur für Waren von unverändertem Wert. Solche Waren z.B., deren Wert gleichmäßig und gleichzeitig steigt mit dem Geldwert, behalten dieselben Preise. Steigt ihr Wert langsamer oder rascher als der Geldwert, so wird der Fall oder das Steigen ihrer Preise bestimmt durch die Differenz zwischen ihrer Wertbewegung und der des Geldes usw.

   

「価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である。それだから、商品と、その名が商品の価格であるところの貨幣量とが等価だということは、一つの同義反復である。というのは、およそ一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現だからである。しかし、商品の価値量としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない

   Der Preis ist der Geldname der in der Ware vergegenständlichten Arbeit. Die Äquivalenz der Ware und des Geldquantums, dessen Name ihr Preis ist, ist daher eine Tautologie71, wie ja überhaupt der relative Wertausdruck einer Ware stets der Ausdruck der Äquivalenz zweier Waren ist. Wenn aber der Preis als Exponent der Wertgröße der Ware Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld, so folgt nicht umgekehrt, daß der Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld notwendig der Exponent ihrer Wertgröße ist.

 

「かりに、同じ量の社会的必要労働が1クォーターの小麦と2ポンド・スターリング(2分の1オンス)の金とで表わされるとしよう。2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値量貨幣表現、すなわちその価格である。いま、事情が1クォーターの小麦を三ポンド・スターリングに値上げすることを許すか、またはそれを1ポンド・スターリングに値下げすることを強いるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングとは、この小麦の価値量表現としては過小または過大であるが、それにもかかわらずそれらはこの小麦の価格である。というのは、第1には、それは小麦の価値形態、貨幣(表現)であり、第二には小麦と貨幣との交換割合の指標だからである。

Gesellschaftlich notwendige Arbeit von gleicher Größe stelle sich in 1 Quarter Weizen und in 2 Pfd. St. (ungefähr 1/2 Unze Gold) dar. Die 2 Pfd. St. sind Geldausdruck der Wertgröße des Quarter Weizens, oder sein Preis. Erlauben nun die Umstände, ihn zu 3 Pfd. St., oder zwingen sie, ihn zu 1 Pfd. St. zu notieren, so sind 1 Pfd. St. und 3 Pfd. St. als Ausdrücke der Wertgröße des Weizens zu klein oder zu groß, aber sie sind dennoch Preise desselben, denn erstens sind sie seine Wertform, Geld, und zweitens Exponenten seines Austauschverhältnisses mit Geld.

 

生産条件が変わらないかぎり、または労働の生産力が変わらないかぎり、相変わらず1クォーターの小麦の再生産には同じだけの社会的労働時間が支出されなければならない。このような事情は、小麦生産者の意志にもたの商品所有者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間に対する或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表わしているのである。

Bei gleichbleibenden Produktionsbedingungen oder gleichbleibender Produktivkraft der Arbeit muß nach wie vor zur Reproduktion des Quarter Weizen gleich viel gesellschaftliche Arbeitszeit verausgabt werden. Dieser Umstand hängt vom Willen weder des Weizenproduzenten noch der andren Warenbesitzer ab. Die Wertgröße der Ware drückt also ein notwendiges, ihrem Bildungsprozeß immanentes Verhältnis zur gesellschaftlichen Arbeitszeit aus.

 

「価値量が価格に転化されるとともに、この必然的な関係は、一商品とその外にある貨幣商品との交換割合として現れる。しかし、この割合では、商品の価値量が表現されうるとともに、また、与えられた事情の元でその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格価値量との量的な不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。

Mit der Verwandlung der Wertgröße in Preis erscheint dies notwendige Verhältnis als Austauschverhältnis einer Ware mit der außer ihr existierenden Geldware. In diesem Verhältnis kann sich aber ebensowohl die Wertgröße der Ware ausdrücken, als das Mehr oder Minder, worin sie unter gegebnen Umstämnen veräußerlich ist. Die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Preis und Wertgröße, oder der Abweichung des Preises von der Wertgröße, liegt also in der Preisform selbst.

 

「このことはけっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。

Es ist dies kein Mangel dieser Form, sondern macht sie umgekehrt zur adäquaten Form einer Produktionsweise, worin sich die Regel nur als blindwirkendes Durchschnittsgesetz der Regellosigkeit durchsetzen kann.

 

 

 Die Preisform läßt jedoch nicht nur die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Wertgröße und Preis, d.h. zwischen der Wertgröße und ihrem eignen Geldausdruck zu, sondern kann einen qualitativen Widerspruch beherbergen, so daß der Preis überhaupt aufhört, Wertausdruck zu sein, obgleich Geld nur die Wertform der Waren ist. Dinge, die an und f sich keine Waren sind, z.B. Gewissen, Ehre usw., knnen ihren Besitzern f Geld feil sein und so durch ihren Preis die Warenform erhalten. Ein Ding kann daher formell einen Preis haben, ohne einen Wert zu haben. Der Preisausdruck wird hier imagin wie gewisse Gren der Mathematik. Andrerseits kann auch die imagine Preisform, wie z.B. der Preis des unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in ihm vergegenstdlicht ist, ein wirkliches Wertverhtnis oder von ihm abgeleitete Beziehung verbergen.

    Wie die relative Wertform erhaupt, drkt der Preis den Wert einer Ware, z.B. einer Tonne Eisen, dadurch aus, da ein bestimmtes Quantum quivalent, z.B. eine Unze Gold, unmittelbar austauschbar mit Eisen, aber keineswegs umgekehrt, da seinerseits das Eisen unmittelbar austauschbar mit Gold ist. Um also praktisch die Wirkung eines Tauschwerts auszuen, mu die Ware ihren natlichen Leib abstreifen, sich aus nur vorgestelltem Gold in wirkliches Gold verwandeln, obgleich diese Transsubstantiation ihr saurer ankommen mag als dem Hegelschen Begriff der bergang aus der Notwendigkeit in die Freiheit oder einem Hummer das Sprengen seiner Schale oder dem Kirchenvater Hieronymus das Abstreifen des alten Adam.72 Neben ihrer reellen Gestalt, Eisen z.B., kann die Ware im Preise ideelle Wertgestalt oder vorgestellte Goldgestalt besitzen, aber sie kann nicht zugleich wirklich Eisen und wirklich Gold sein. F ihre Preisgebung gent es, vorgestelltes Gold ihr gleichzusetzen. Durch Gold ist sie zu ersetzen, damit sie ihrem Besitzer den Dienst eines allgemeinen quivalents leiste. Tre der Besitzer des Eisens z.B. dem Besitzer einer weltlustigen Ware gegener und verwiese ihn auf den Eisenpreis, der Geldform sei, so wde der Weltlustige antworten, wie im Himmel der heilige Petrus dem Dante, der ihm die Glaubensformel hergesagt:

            Assai bene trascorsa

            D'esta moneta gila lega e'l peso,

            Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa.

    Die Preisform schliet die Ver舫゚erlichkeit der Waren gegen Geld und die Notwendigkeit dieser Ver舫゚erung ein. Andrerseits funktioniert Gold nur als ideelles Wertma, weil es sich bereits im Austauschproze als Geldware umtreibt. Im ideellen Ma der Werte lauert daher das harte Geld.

 

2. Zirkulationsmittel

 

a) Die Metamorphose der Waren

 

    Man sah, da der Austauschproze der Waren widersprechende und einander ausschlieende Beziehungen einschliet. Die Entwicklung der Ware hebt diese Widersprhe nicht auf, schafft aber die Form, worin sie sich bewegen knnen. Dies ist erhaupt die Methode, wodurch sich wirkliche Widersprhe lsen. Es ist z.B. ein Widerspruch, da ein Krper bestdig in einen andren flt und ebenso bestdig von ihm wegflieht. Die Ellipse ist eine der Bewegungsformen, worin dieser Widerspruch sich ebensosehr verwirklicht als lst.

    Soweit der Austauschproze Waren aus der Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand ertrt, worin sie Gebrauchswerte, ist er gesellschaftlicher Stoffwechsel. Das Produkt einer nzlichen Arbeitsweise ersetzt das der andren. Einmal angelangt zur Stelle, wo sie als Gebrauchswert dient, flt die Ware in die Sphe der Konsumtion aus der Sphe des Warenaustauschs. Letztre allein interessiert uns hier. Wir haben also den ganzen Proze nach der Formseite zu betrachten, also nur den Formwechsel oder die Metamorphose der Waren, welche den gesellschaftlichen Stoffwechsel vermittelt.

    Die durchaus mangelhafte Auffassung dieses Formwechsels ist, abgesehn von Unklarheit er den Wertbegriff selbst, dem Umstand geschuldet, da jeder Formwechsel einer Ware sich vollzieht im Austausch zweier Waren, einer gemeinen Ware und der Geldware. Ht man an diesem stofflichen Moment, dem Austausch von Ware mit Gold, allein fest, so ersieht man grade, was man sehn soll, nlich was sich mit der Form zutrt. Man ersieht, da Gold als bloe Ware nicht Geld ist und da die andren Waren sich selbst in ihren Preisen auf Gold als ihre eigne Geldgestalt beziehn.

    Die Waren gehn zunhst unvergoldet, unverzuckert, wie der Kamm ihnen gewachsen ist, in den Austauschproze ein. Er produziert eine Verdopplung der Ware in Ware und Geld, einen 舫゚eren Gegensatz, worin sie ihren immanenten Gegensatz von Gebrauchswert und Wert darstellen. In diesem Gegensatz treten die Waren als Gebrauchswerte dem Geld als Tauschwert gegener. Andrerseits sind beide Seiten des Gegensatzes Waren, also Einheiten von Gebrauchswert und Wert. Aber diese Einheit von Unterschieden stellt sich auf jedem der beiden Pole umgekehrt dar und stellt dadurch zugleich deren Wechselbeziehung dar. Die Ware ist reell Gebrauchswert, ihr Wertsein erscheint nur ideell im Preis, der sie auf das gegenerstehende Gold als ihre reelle Wertgestalt bezieht. Umgekehrt gilt das Goldmaterial nur als Wertmateriatur, Geld. Es ist reell daher Tauschwert. Sein Gebrauchswert erscheint nur noch ideell in der Reihe der relativen Wertausdrke, worin es sich auf die gegenerstehenden Waren als den Umkreis seiner reellen Gebrauchsgestalten bezieht. Diese gegenszlichen Formen der Waren sind die wirklichen Bewegungsformen ihres Austauschprozesses.

    Begleiten wir nun irgendeinen Warenbesitzer, unsren altbekannten Leinweber z.B., zur Szene des Austauschprozesses, dem Warenmarkt. Seine Ware, 20 Ellen Leinwand, ist preisbestimmt. Ihr Preis ist 2 Pfd. St. Er tauscht sie aus gegen 2 Pfd. St. und, Mann von altem Schrot und Korn, tauscht die 2 Pfd. St. wieder aus gegen eine Familienbibel vom selben Preis. Die Leinwand, f ihn nur Ware, Werttrer, wird ent舫゚ert gegen Gold, ihre Wertgestalt, und aus dieser Gestalt rkver舫゚ert gegen eine andre Ware, die Bibel, die aber als Gebrauchsgegenstand ins Weberhaus wandern und dort Erbauungsbedfnisse befriedigen soll. Der Austauschproze der Ware vollzieht sich also in zwei entgegengesetzten und einander ergzenden Metamorphosen - Verwandlung der Ware in Geld und ihre Rkverwandlung aus Geld in Ware.73 Die Momente der Warenmetamorphose sind zugleich Hdel des Warenbesitzers - Verkauf, Austausch der Ware mit Geld; Kauf, Austausch des Gelds mit Ware, und Einheit beider Akte: verkaufen, um zu kaufen.

    Besieht sich der Leinweber nun das Endresultat des Handels, so besitzt er Bibel statt Leinwand, statt seiner ursprglichen Ware eine andre vom selben Wert, aber verschiedner Nzlichkeit. In gleicher Weise eignet er sich seine andren Lebens- und Produktionsmittel an. Von seinem Standpunkt vermittelt der ganze Proze nur den Austausch seines Arbeitsprodukts mit fremdem Arbeitsprodukt, den Produktenaustausch.

    Der Austauschproze der Ware vollzieht sich also in folgendem Formwechsel

    Ware - Geld - Ware.

    W - G - W.

    Nach ihrem stofflichen Inhalt ist die Bewegung W - W, Austausch von Ware gegen Ware, Stoffwechsel der gesellschaftlichen Arbeit, in dessen Resultat der Proze selbst erlischt.

    W - G. Erste Metamorphose der Ware oder Verkauf. Das berspringen des Warenwerts aus dem Warenleib in den Goldleib ist, wie ich es anderswo bezeichnet, der Salto mortale der Ware. Milingt er, so ist zwar nicht die Ware geprellt, wohl aber der Warenbesitzer. Die gesellschaftliche Teilung der Arbeit macht seine Arbeit ebenso einseitig als seine Bedfnisse vielseitig. Ebendeswegen dient ihm sein Produkt nur als Tauschwert. Allgemeine gesellschaftlich gtige quivalentform erht es aber nur im Geld, und das Geld befindet sich in fremder Tasche. Um es herauszuziehn, mu die Ware vor allem Gebrauchswert f den Geldbesitzer sein, die auf sie verausgabte Arbeit also in gesellschaftlich nzlicher Form verausgabt sein oder sich als Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit bewren. Aber die Teilung der Arbeit ist ein naturwhsiger Produktionsorganismus. dessen Fen hinter dem Rken der Warenproduzenten gewebt wurden und sich fortweben. Vielleicht ist die Ware Produkt einer neuen Arbeitsweise, die ein neu aufgekommenes Bedfnis zu befriedigen vorgibt oder auf eigne Faust ein Bedfnis erst hervorrufen will. Gestern noch eine Funktion unter den vielen Funktionen eines und desselben Warenproduzenten, reit sich eine besondre Arbeitsverrichtung heute vielleicht los von diesem Zusammenhang, verselbstdigt sich und schickt ebendeswegen ihr Teilprodukt als selbstdige Ware zu Markt. Die Umstde mgen reif oder unreif sein f diesen Scheidungsproze. Das Produkt befriedigt heute ein gesellschaftliches Bedfnis. Morgen wird es vielleicht ganz oder teilweise von einer nlichen Produktenart aus seinem Platze verdrgt. Ist auch die Arbeit, wie die unsres Leinwebers, patentiertes Glied der gesellschaftlichen Arbeitsteilung, so ist damit noch keineswegs der Gebrauchswert grade seiner 20 Ellen Leinwand garantiert. Wenn das gesellschaftliche Bedfnis f Leinwand, und es hat sein Ma wie alles andre, bereits durch nebenbuhlerische Leinweber gestigt ist, wird das Produkt unsres Freundes erschsig, erflsig und damit nutzlos. Einem geschenkten Gaul sieht man nicht ins Maul, aber er beschreitet nicht den Markt, um Prente zu machen. Gesetzt aber, der Gebrauchswert seines Produkts bewre sich und Geld werde daher angezogen von der Ware. Aber nun fragt sich's, wieviel Geld? Die Antwort ist allerdings schon antizipiert im Preis der Ware, dem Exponenten ihrer Wertgre. Wir sehn ab von etwaigen rein subjektiven Rechenfehlern des Warenbesitzers, die auf dem Markt sofort objektiv korrigiert werden. Er soll auf sein Produkt nur den gesellschaftlich notwendigen Durchschnitt von Arbeitszeit verausgabt haben. Der Preis der Ware ist also nur Geldname des in ihr vergegenstdlichten Quantums gesellschaftlicher Arbeit. Aber ohne Erlaubnis und hinter dem Rken unsres Leinwebers gerieten die altverbgten Produktionsbedingungen der Leinweberei in Gung. Was gestern zweifelsohne gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit zur Produktion einer Elle Leinwand war, hrt heute auf, es zu sein, wie der Geldbesitzer eifrigst demonstriert aus den Preisquotationen verschiedner Nebenbuhler unsres Freundes. Zu seinem Unglk gibt's viele Weber auf der Welt. Gesetzt endlich, jedes auf dem Markt vorhandne Stk Leinwand enthalte nur gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit. Trotzdem kann die Gesamtsumme dieser Stke erflsig verausgabte Arbeitszeit enthalten. Vermag der Marktmagen das Gesamtquantum Leinwand, zum Normalpreis von 2 sh. per Elle, nicht zu absorbieren, so beweist das, da ein zu groer Teil der gesellschaftlichen Gesamtarbeitszeit in der Form der Leinweberei verausgabt wurde. Die Wirkung ist dieselbe, als hte jeder einzelne Leinweber mehr als die gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit auf sein individuelles Produkt verwandt. Hier heit's: Mitgefangen, mitgehangen. Alle Leinwand auf dem Markt gilt nur als ein Handelsartikel, jedes Stk nur als aliquoter Teil. Und in der Tat ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur desselben gesellschaftlich bestimmten Quantums gleichartiger menschlicher Arbeit.A7

    Man sieht, die Ware liebt das Geld, aber the course of true love never does run smooth. Ebenso naturwhsig zuflig wie die qualitative ist die quantitative Gliederung des gesellschaftlichen Produktionsorganismus, der seine membra disjecta im System der Teilung der Arbeit darstellt. Unsre Warenbesitzer entdecken daher, da dieselbe Teilung der Arbeit, die sie zu unabhgigen Privatproduzenten, den gesellschaftlichen Produktionsproze und ihre Verhtnisse in diesem Proze von ihnen selbst unabhgig macht, da die Unabhgigkeit der Personen voneinander sich in einem System allseitiger sachlicher Abhgigkeit ergzt.

    Die Teilung der Arbeit verwandelt das Arbeitsprodukt in Ware und macht dadurch seine Verwandlung in Geld notwendig. Sie macht es zugleich zuflig, ob diese Transsubstantiation gelingt. Hier ist jedoch das Phomen rein zu betrachten, sein normaler Vorgang also vorauszusetzen. Wenn es rigens erhaupt vorgeht, die Ware also nicht unverkflich ist, findet stets ihr Formwechsel statt, obgleich abnormal in diesem Formwechsel Substanz - Wertgre - eingebt oder zugesetzt werden mag.

    Dem einen Warenbesitzer ersetzt Gold seine Ware und dem andren Ware sein Gold. Das sinnflige Phomen ist der Hde- oder Stellenwechsel von Ware und Gold, von 20 Ellen Leinwand und 2 Pfd. St., d.h. ihr Austausch. Aber womit tauscht sich die Ware aus? Mit ihrer eignen allgemeinen Wertgestalt. Und womit das Gold? Mit einer besondren Gestalt seines Gebrauchswerts. Warum tritt Gold der Leinwand als Geld gegener? Weil ihr Preis von 2 Pfd. St. oder ihr Geldname sie bereits auf Gold als Geld bezieht. Die Ent舫゚erung der ursprglichen Warenform vollzieht sich durch die Ver舫゚erung der Ware, d.h. in dem Augenblicke, wo ihr Gebrauchswert das in ihrem Preis nur vorgestellte Gold wirklich anzieht. Die Realisierung des Preises oder der nur ideellen Wertform der Ware ist daher zugleich umgekehrt Realisierung des nur ideellen Gebrauchswerts des Geldes, die Verwandlung von Ware in Geld zugleich Verwandlung von Geld in Ware. Der eine Proze ist zweiseitiger Proze, vom Pol des Warenbesitzers Verkauf, vom Gegenpol des Geldbesitzers Kauf. Oder Verkauf ist Kauf, W - G zugleich G - W.74

    Wir kennen bisher kein konomisches Verhtnis der Menschen auer dem von Warenbesitzern, ein Verhtnis, worin sie fremdes Arbeitsprodukt nur aneignen, indem sie eignes entfremden. Einem Warenbesitzer kann der andre daher nur als Geldbesitzer gegenertreten, entweder weil sein Arbeitsprodukt von Natur die Geldform besitzt, also Geldmaterial ist, Gold usw., oder weil seine eigne Ware sich bereits gehtet und ihre ursprgliche Gebrauchsform abgestreift hat. Um als Geld zu funktionieren, mu das Gold natlich an irgendeinem Punkt in den Warenmarkt eintreten. Dieser Punkt liegt an seiner Produktionsquelle, wo es sich als unmittelbares Arbeitsprodukt mit andrem Arbeitsprodukt von demselben Wert austauscht. Aber von diesem Augenblick stellt es bestdig realisierte Warenpreise vor.75 Abgesehn vom Austausch des Golds mit Ware an seiner Produktionsquelle, ist das Gold in der Hand jedes Warenbesitzers die ent舫゚erte Gestalt seiner ver舫゚erten Ware, Produkt des Verkaufs oder der ersten Warenmetamorphose W - G.76 Ideelles Geld oder Wertma wurde das Gold, weil alle Waren ihre Werte in ihm maen und es so zum vorgestellten Gegenteil ihrer Gebrauchsgestalt, zu ihrer Wertgestalt machten. Reelles Geld wird es, weil die Waren durch ihre allseitige Ver舫゚erung es zu ihrer wirklich ent舫゚erten oder verwandelten Gebrauchsgestalt und daher zu ihrer wirklichen Wertgestalt machen. In ihrer Wertgestalt streift die Ware jede Spur ihres naturwhsigen Gebrauchswerts und der besondren nzlichen Arbeit ab, welcher sie den Ursprung verdankt, um sich in die gleichfrmige gesellschaftliche Materiatur unterschiedsloser menschlicher Arbeit zu verpuppen. Man sieht dem Geld daher nicht an, welchen Schlags die in es verwandelte Ware. Eine sieht in ihrer Geldform grade aus wie die andre. Geld mag daher Dreck sein, obgleich Dreck nicht Geld ist. Wir wollen annehmen, da die zwei Goldfhse, wogegen unser Leinweber seine Ware ver舫゚ert, die verwandelte Gestalt eines Quarters Weizen sind. Der Verkauf der Leinwand, W - G, ist zugleich ihr Kauf, G - W. Aber als Verkauf der Leinwand beginnt dieser Proze eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil endet, mit dem Kauf der Bibel; als Kauf der Leinwand endet er eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil begann, mit dem Verkauf des Weizens. W - G (Leinwand - Geld), diese erste Phase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich G - W (Geld - Leinwand), die letzte Phase einer andren Bewegung W - G - W (Weizen - Geld - Leinwand). Die erste Metamorphose einer Ware, ihre Verwandlung aus der Warenform in Geld, ist stets zugleich zweite entgegengesetzte Metamorphose einer andren Ware, ihre Rkverwandlung aus der Geldform in Ware.77

    G - W. Zweite oder Schlumetamorphose der Ware: Kauf. - Weil die ent舫゚erte Gestalt aller andren Waren oder das Produkt ihrer allgemeinen Ver舫゚erung, ist Geld die absolut ver舫゚erliche Ware. Es liest alle Preise rkwts und spiegelt sich so in allen Warenleibern als dem hingebenden Material seiner eignen Warenwerdung. Zugleich zeigen die Preise, die Liebesaugen, womit ihm die Waren winken, die Schranke seiner Verwandlungsfigkeit, nlich seine eigne Quantit. Da die Ware in ihrer Geldwerdung verschwindet, sieht man dem Geld nicht an, wie es in die Hde seines Besitzers gelangt oder was in es verwandelt ist. Non olet, wessen Ursprungs auch immer. Wenn es einerseits verkaufte Ware reprentiert, so andrerseits kaufbare Waren.78

    G - W, der Kauf ist zugleich Verkauf, W - G; die letzte Metamorphose einer Ware daher zugleich die erste Metamorphose einer andren Ware. F unsren Leinweber schliet der Lebenslauf seiner Ware mit der Bibel, worin er die 2 Pfd. St. rkverwandelt hat. Aber der Bibelverkfer setzt die vom Leinweber gelsten 2 Pfd. St. in Kornbranntwein um. G - W, die Schluphase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich W - G, die erste Phase von W - G - W (Bibel - Geld - Kornbranntwein). Da der Warenproduzent nur ein einseitiges Produkt liefert, verkauft er es oft in greren Massen, wrend seine vielseitigen Bedfnisse ihn zwingen, den realisierten Preis oder die gelste Geldsumme bestdig in zahlreiche Kfe zu zersplittern. Ein Verkauf mdet daher in viele Kfe verschiedner Waren. Die Schlumetamorphose einer Ware bildet so eine Summe von ersten Metamorphosen andrer Waren.

    Betrachten wir nun die Gesamtmetamorphose einer Ware, z.B. der Leinwand, so sehn wir zunhst, da sie aus zwei entgegengesetzten und einander ergzenden Bewegungen besteht, W - G und G - W. Diese zwei entgegengesetzten Wandlungen der Ware vollziehn sich in zwei entgegengesetzten gesellschaftlichen Prozessen des Warenbesitzers und reflektieren sich in zwei entgegengesetzten konomischen Charakteren desselben. Als Agent des Verkaufs wird er Verkfer, als Agent des Kaufs Kfer. Wie aber in jeder Wandlung der Ware ihre beiden Formen, Warenform und Geldform, gleichzeitig existieren, nur auf entgegengesetzten Polen, so steht demselben Warenbesitzer als Verkfer ein andrer Kfer und als Kfer ein andrer Verkfer gegener. Wie dieselbe Ware die zwei umgekehrten Wandlungen sukzessiv durchlft, aus Ware Geld und aus Geld Ware wird, so wechselt derselbe Warenbesitzer die Rollen von Verkfer und Kfer. Es sind dies also keine festen, sondern innerhalb der Warenzirkulation bestdig die Personen wechselnden Charaktere.

    Die Gesamtmetamorphose einer Ware unterstellt, in ihrer einfachsten Form, vier Extreme und drei personae dramatis. Erst tritt der Ware das Geld als ihre Wert-Gestalt gegener, die jenseits, in fremder Tasche, sachlich harte Realit besitzt. So tritt dem Warenbesitzer ein Geldbesitzer gegener. Sobald die Ware nun in Geld verwandelt, wird letztres zu ihrer verschwindenden quivalentform, deren Gebrauchswert oder Inhalt diesseits in andren Warenkrpern existiert. Als Endpunkt der ersten Warenwandlung ist das Geld zugleich Ausgangspunkt der zweiten. So wird der Verkfer des ersten Akts Kfer im zweiten, wo ihm ein dritter Warenbesitzer als Verkfer gegenertritt.79

    Die beiden umgekehrten Bewegungsphasen der Warenmetamorphose bilden einen Kreislauf: Warenform, Abstreifung der Warenform, Rkkehr zur Warenform. Allerdings ist die Ware selbst hier gegenszlich bestimmt. Am Ausgangspunkt ist sie Nicht- Gebrauchswert, am Endpunkt Gebrauchswert f ihren Besitzer. So erscheint das Geld erst als der feste Wertkristall, worin sich die Ware verwandelt, um hinterher als ihre bloe quivalentform zu zerrinnen.

    Die zwei Metamorphosen, die den Kreislauf einer Ware, bilden zugleich die umgekehrten Teilmetamorphosen zweier andren Waren. Dieselbe Ware (Leinwand) erffnet die Reihe ihrer eignen Metamorphosen und schliet die Gesamtmetamorphose einer andren Ware (des Weizens). Wrend ihrer ersten Wandlung, dem Verkauf, spielt sie diese zwei Rollen in eigner Person. Als Goldchrysalide dagegen, worin sie selbst den Weg alles Fleisches wandert, endet sie zugleich die erste Metamorphose einer dritten Ware. Der Kreislauf, den die Metamorphosenreihe jeder Ware beschreibt, verschlingt sich also unentwirrbar mit den Kreislfen andrer Waren. Der Gesamtproze stellt sich dar als Warenzirkulation.

    Die Warenzirkulation ist nicht nur formell, sondern wesentlich vom unmittelbaren Produktenaustausch unterschieden. Man werfe nur einen Rkblick auf den Vorgang. Der Leinweber hat unbedingt Leinwand mit Bibel vertauscht, eigne Ware mit fremder. Aber dies Phomen ist nur wahr f ihn. Der Bibelagent, der dem Klen Heies vorzieht, dachte nicht daran. Leinwand f Bibel einzutauschen, wie der Leinweber nicht davon wei, da Weizen gegen seine Leinwand eingetauscht worden ist usw. Die Ware des B ersetzt die Ware des A, aber A und B tauschen nicht wechselseitig ihre Waren aus. Es kann in der Tat vorkommen, da A und B wechselweis voneinander kaufen, aber solche besondre Beziehung ist keineswegs durch die allgemeinen Verhtnisse der Warenzirkulation bedingt. Einerseits sieht man hier, wie der Warenaustausch die individuellen und lokalen Schranken des unmittelbaren Produktenaustausches durchbricht und den Stoffwechsel der menschlichen Arbeit entwickelt. Andrerseits entwickelt sich ein ganzer Kreis von den handelnden Personen unkontrollierbarer, gesellschaftlicher Naturzusammenhge. Der Weber kann nur Leinwand verkaufen, weil der Bauer Weizen, Heisporn nur die Bibel, weil der Weber Leinwand, der Destillateur nur gebranntes Wasser, weil der andre das Wasser des ewigen Lebens bereits verkauft hat usw.

    Der Zirkulationsproze erlischt deswegen auch nicht, wie der unmittelbare Produktenaustausch, in dem Stellen- oder Hdewechsel der Gebrauchswerte. Das Geld verschwindet nicht, weil es schlielich aus der Metamorphosenreihe einer Ware herausflt. Es schlt immer nieder auf eine durch die Waren germte Zirkulationsstelle. Z.B. in der Gesamtmetamorphose der Leinwand: Leinwand - Geld - Bibel flt erst die Leinwand aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle, flt dann die Bibel aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle. Der Ersatz von Ware durch Ware lt zugleich an dritter Hand die Geldware hgen.80 Die Zirkulation schwitzt bestdig Geld aus.

    Nichts kann alberner sein als das Dogma, die Warenzirkulation bedinge ein notwendiges Gleichgewicht der Verkfe und Kfe, weil jeder Verkauf Kauf und vice versa. Meint dies, da die Zahl der wirklich vollzogenen Verkfe gleich derselben Zahl von Kfen, so ist es platte Tautologie. Aber es soll beweisen, da der Verkfer seinen eignen Kfer zu Markt frt. Verkauf und Kauf sind ein identischer Akt als Wechselbeziehung zwischen zwei polarisch entgegengesetzten Personen, dem Warenbesitzer und dem Geldbesitzer. Sie bilden zwei polarisch entgegengesetzte Akte als Handlungen derselben Person. Die Identit von Verkauf und Kauf schliet daher ein, da die Ware nutzlos wird, wenn sie, in die alchimistische Retorte der Zirkulation geworfen, nicht als Geld herauskommt, nicht vom Warenbesitzer verkauft, also vom Geldbesitzer gekauft wird. Jene Identit entht ferner, da der Proze, wenn er gelingt, einen Ruhepunkt, einen Lebensabschnitt der Ware bildet, der lger oder kzer wren kann. Da die erste Metamorphose der Ware zugleich Verkauf und Kauf, ist dieser Teilproze zugleich selbstdiger Proze. Der Kfer hat die Ware, der Verkfer hat das Geld, d.h. eine Ware, die zirkulationsfige Form bewahrt, ob sie frer oder sper wieder auf dem Markt erscheine. Keiner kann verkaufen, ohne da ein andrer kauft. Aber keiner braucht unmittelbar zu kaufen, weil er selbst verkauft hat. Die Zirkulation sprengt die zeitlichen, rtlichen und individuellen Schranken des Produktenaustausches ebendadurch, da sie die hier vorhandne unmittelbare Identit zwischen dem Austausch des eignen und dem Eintausch des fremden Arbeitsprodukts in den Gegensatz von Verkauf und Kauf spaltet. Da die selbstdig einander gegenertretenden Prozesse eine innere Einheit bilden, heit ebensosehr, da ihre innere Einheit sich in 舫゚eren Gegenszen bewegt. Geht die 舫゚erliche Verselbstdigung der innerlich Unselbstdigen, weil einander ergzenden, bis zu einem gewissen Punkt fort, so macht sich die Einheit gewaltsam geltend durch eine - Krise. Der der Ware immanente Gegensatz von Gebrauchswert und Wert, von Privatarbeit, die sich zugleich als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit darstellen mu, von besondrer konkreter Arbeit, die zugleich nur als abstrakt allgemeine Arbeit gilt, von Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen - dieser immanente Widerspruch erht in den Gegenszen der Warenmetamorphose seine entwickelten Bewegungsformen. Diese Formen schlieen daher die Mglichkeit, aber auch nur die Mglichkeit der Krisen ein. Die Entwicklung dieser Mglichkeit zur Wirklichkeit erfordert einen ganzen Umkreis von Verhtnissen, die vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch gar nicht existieren.81

    Als Vermittler der Warenzirkulation erht das Geld die Funktion des Zirkulationsmittels.

 

b) Der Umlauf des Geldes

 

    Der Formwechsel, worin sich der Stoffwechsel der Arbeitsprodukte vollzieht, W - G - W, bedingt, da derselbe Wert als Ware den Ausgangspunkt des Prozesses bildet und zu demselben Punkt zurkkehrt als Ware. Diese Bewegung der Waren ist daher Kreislauf. Andrerseits schliet dieselbe Form den Kreislauf des Geldes aus. Ihr Resultat ist bestdige Entfernung des Geldes von seinem Ausgangspunkt, nicht Rkkehr zu demselben. Solange der Verkfer die verwandelte Gestalt seiner Ware festht, das Geld, befindet sich die Ware im Stadium der ersten Metamorphose oder hat nur ihre erste Zirkulationshfte zurkgelegt. Ist der Proze, verkaufen um zu kaufen, vervollstdigt, so ist auch das Geld wieder aus der Hand seines ursprglichen Besitzers entfernt. Allerdings, wenn der Leinweber, nachdem er die Bibel gekauft, von neuem Leinwand verkauft, kehrt auch das Geld in seine Hand zurk. Aber es kehrt nicht zurk durch die Zirkulation der ersten 20 Ellen Leinwand, wodurch es vielmehr aus den Hden des Leinwebers in die des Bibelverkfers entfernt ist. Es kehrt nur zurk durch die Erneuerung oder Wiederholung desselben Zirkulationsprozesses f neue Ware und endet hier wie dort mit demselben Resultat. Die dem Geld durch die Warenzirkulation unmittelbar erteilte Bewegungsform ist daher seine bestdige Entfernung vom Ausgangspunkt, sein Lauf aus der Hand eines Warenbesitzers in die eines andren, oder sein Umlauf (currency, cours de la monnaie).

    Der Umlauf des Geldes zeigt bestdige, eintnige Wiederholung desselben Prozesses. Die Ware steht stets auf Seite des Verkfers, das Geld stets auf Seite des Kfers, als Kaufmittel. Es funktioniert als Kaufmittel, indem es den Preis der Ware realisiert. Indem es ihn realisiert, ertrt es die Ware aus der Hand des Verkfers in die Hand des Kfers, wrend es sich gleichzeitig aus der Hand des Kfers in die des Verkfers entfernt, um denselben Proze mit einer andren Ware zu wiederholen. Da diese einseitige Form der Geldbewegung aus der doppelseitigen Formbewegung der Ware entspringt, ist verhlt. Die Natur der Warenzirkulation selbst erzeugt den entgegengesetzten Schein. Die erste Metamorphose der Ware ist nicht nur als Bewegung des Geldes, sondern als ihre eigne Bewegung sichtbar, aber ihre zweite Metamorphose ist nur als Bewegung des Geldes sichtbar. In ihrer ersten Zirkulationshfte wechselt die Ware den Platz mit dem Geld. Damit flt zugleich ihre Gebrauchsgestalt aus der Zirkulation heraus, in die Konsumtion.82 Ihre Wertgestalt oder Geldlarve tritt an ihre Stelle. Die zweite Zirkulationshfte durchlft sie nicht mehr in ihrer eignen Naturalhaut, sondern in ihrer Goldhaut. Die Kontinuit der Bewegung flt damit ganz auf die Seite des Geldes und dieselbe Bewegung, die f die Ware zwei entgegengesetzte Prozesse einschliet, schliet als eigne Bewegung des Geldes stets denselben Proze ein, seinen Stellenwechsel mit stets andrer Ware. Das Resultat der Warenzirkulation, Ersatz von Ware durch andre Ware, erscheint daher nicht durch ihren eignen Formwechsel vermittelt, sondern durch die Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel, welches die an und f sich bewegungslosen Waren zirkuliert, sie aus der Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand ertrt, worin sie Gebrauchswerte, stets in entgegengesetzter Richtung zu seinem eignen Lauf. Es entfernt die Waren bestdig aus der Zirkulationssphe, indem es bestdig an ihre Zirkulationsstelle tritt und sich damit von seinem eignen Ausgangspunkt entfernt. Obgleich daher die Geldbewegung nur Ausdruck der Warenzirkulation, erscheint umgekehrt die Warenzirkulation nur als Resultat der Geldbewegung.83

    Andrerseits kommt dem Geld nur die Funktion des Zirkulationsmittels zu, weil es der verselbstdigte Wert der Waren ist. Seine Bewegung als Zirkulationsmittel ist daher in der Tat nur ihre eigne Formbewegung. Diese mu sich daher auch sinnlich im Umlauf des Geldes widerspiegeln. So verwandelt z.B. die Leinwand zuerst ihre Warenform in ihre Geldform. Das letzte Extrem ihrer ersten Metamorphose W - G, die Geldform, wird dann das erste Extrem ihrer letzten Metamorphose G - W, ihrer Rkverwandlung in die Bibel. Aber jeder dieser zwei Formwechsel vollzieht sich durch einen Austausch zwischen Ware und Geld, durch ihren gegenseitigen Stellenwechsel. Dieselben Geldstke kommen als ent舫゚erte Gestalt der Ware in die Hand des Verkfers und verlassen sie als absolut ver舫゚erliche Gestalt der Ware. Sie wechseln zweimal die Stelle. Die erste Metamorphose der Leinwand bringt diese Geldstke in die Tasche des Webers, die zweite holt sie wieder heraus. Die beiden entgegengesetzten Formwechsel derselben Ware spiegeln sich also wider im zweimaligen Stellenwechsel des Geldes in entgegengesetzter Richtung.

    Finden dagegen nur einseitige Warenmetamorphosen statt, bloe Verkfe oder bloe Kfe, wie man will, so wechselt dasselbe Geld auch nur einmal den Platz. Sein zweiter Stellenwechsel drkt stets die zweite Metamorphose der Ware aus, ihre Rkverwandlung aus Geld. In der hfigen Wiederholung des Stellenwechsels derselben Geldstke spiegelt sich wider nicht nur die Metamorphosenreihe einer einzigen Ware, sondern auch die Verschlingung der zahllosen Metamorphosen der Warenwelt erhaupt. Es versteht sich rigens ganz von selbst, da alles dies nur f die hier betrachtete Form der einfachen Warenzirkulation gilt.

    Jede Ware, bei ihrem ersten Schritt in die Zirkulation, bei ihrem ersten Formwechsel, flt aus der Zirkulation heraus, in welche stets neue Ware eintritt. Das Geld dagegen als Zirkulationsmittel haust bestdig in der Zirkulationssphe und treibt sich bestdig in ihr um. Es entsteht also die Frage, wieviel Geld diese Sphe bestdig absorbiert.

    In einem Lande gehn jeden Tag zahlreiche, gleichzeitige und daher rmlich nebeneinander laufende einseitige Warenmetamorphosen vor, oder in andren Worten, bloe Verkfe von der einen Seite, bloe Kfe von der andren. In ihren Preisen sind die Waren bereits bestimmten vorgestellten Geldquantis gleichgesetzt. Da nun die hier betrachtete, unmittelbare Zirkulationsform Ware und Geld einander stets leiblich gegenerstellt, die eine auf den Pol des Verkaufs, das andre auf den Gegenpol des Kaufs, ist die f den Zirkulationsproze der Warenwelt erheischte Masse von Zirkulationsmitteln bereits durch die Preissumme der Waren bestimmt. In der Tat stellt das Geld nur reell die in der Preissumme der Waren bereits ideell ausgedrkte Goldsumme dar. Die Gleichheit dieser Summen versteht sich daher von selbst. Wir wissen jedoch, da bei gleichbleibenden Werten der Waren ihre Preise mit dem Werte des Goldes (des Geldmaterials) selbst wechseln, verhtnismig steigen, wenn er flt, und fallen, wenn er steigt. Ob die Preissumme der Waren so steige oder falle, die Masse des zirkulierenden Geldes mu gleichmig steigen oder fallen. Der Wechsel in der Masse der Zirkulationsmittel entspringt hier allerdings aus dem Geld selbst, aber nicht aus seiner Funktion als Zirkulationsmittel, sondern aus seiner Funktion als Wertma. Der Preis der Waren wechselt erst umgekehrt wie der Wert des Geldes, und dann wechselt die Masse der Zirkulationsmittel direkt wie der Preis der Waren. Ganz dasselbe Phomen wde sich ereignen, wenn z.B. nicht der Wert des Goldes ske, sondern Silber es als Wertma ersetzte, oder nicht der Wert des Silbers stiege, sondern Gold es aus der Funktion des Wertmaes verdrgte. In dem einen Fall mte mehr Silber zirkulieren als vorher Gold, in dem andren weniger Gold als vorher Silber. In beiden Flen hte sich der Wert des Geldmaterials verdert, d.h. der Ware, die als Ma der Werte funktioniert, daher der Preisausdruck der Warenwerte, daher die Masse des zirkulierenden Geldes, das zur Realisierung dieser Preise dient. Man hat gesehn, da die Zirkulationssphe der Waren ein Loch hat, wodurch Gold (Silber, kurz das Geldmaterial) in sie eintritt als Ware von gegebnem Wert. Dieser Wert ist vorausgesetzt bei der Funktion des Geldes als Wertma, also bei der Preisbestimmung. Sinkt nun z.B. der Wert des Wertmaes selbst, so erscheint dies zunhst im Preiswechsel der Waren, die unmittelbar an den Produktionsquellen der edlen Metalle mit ihnen als Waren ausgetauscht werden. Namentlich in minder entwickelten Zustden der bgerlichen Gesellschaft wird ein groer Teil der andren Waren noch lgere Zeit in dem nun illusorisch gewordnen, veralteten Wert des Wertmaes geschzt werden. Indes steckt die eine Ware die andre an durch ihr Wertverhtnis zu derselben, die Gold- oder Silberpreise der Waren gleichen sich allmlich aus in den durch ihre Werte selbst bestimmten Proportionen, bis schlielich alle Warenwerte dem neuen Wert des Geldmetalles entsprechend geschzt werden. Dieser Ausgleichungsproze ist begleitet von dem fortwrenden Wachstum der edlen Metalle, welche im Ersatz f die direkt mit ihnen ausgetauschten Waren einstrmen. In demselben Ma daher, worin die berichtigte Preisgebung der Waren sich verallgemeinert, oder ihre Werte dem neuen, gesunkenen und bis zu einem gewissen Punkt fortsinkenden Wert des Metalls gem geschzt werden, ist auch bereits seine zu ihrer Realisierung notwendige Mehrmasse vorhanden. Einseitige Beobachtung der Tatsachen, welche der Entdeckung der neuen Gold- und Silberquellen folgten, verleitete im 17. und namentlich im 18. Jahrhundert zum Trugschlu, die Warenpreise seien gestiegen, weil mehr Gold und Silber als Zirkulationsmittel funktionierten. Im folgenden wird der Wert des Goldes als gegeben vorausgesetzt, wie er in der Tat im Augenblick der Preisschzung gegeben ist.

    Unter dieser Voraussetzung also ist die Masse der Zirkulationsmittel durch die zu realisierende Preissumme der Waren bestimmt. Setzen wir nun ferner den Preis jeder Warenart als gegeben voraus, so hgt die Preissumme der Waren offenbar von der in Zirkulation befindlichen Warenmasse ab. Es gehrt wenig Kopfbrechens dazu, um zu begreifen, da, wenn 1 Quarter Weizen 2 Pfd. St., 100 Quarter 200 Pfd. St., 200 Quarter 400 Pfd. St. usw. kosten, mit der Masse des Weizens daher die Geldmasse wachsen mu, die beim Verkauf den Platz mit ihm wechselt.

    Die Warenmasse als gegeben vorausgesetzt, flutet die Masse des zirkulierenden Geldes auf und ab mit den Preisschwankungen der Waren. Sie steigt und flt, weil die Preissumme der Waren infolge ihres Preiswechsels zu- oder abnimmt. Dazu ist keineswegs ntig, da die Preise aller Waren gleichzeitig steigen oder fallen. Die Preissteigerung einer gewissen Anzahl leitender Artikel in dem einen oder ihre Preissenkung in dem andren Fall reicht hin, um die zu realisierende Preissumme aller zirkulierenden Waren zu erhhn oder zu senken, also auch mehr oder weniger Geld in Zirkulation zu setzen. Ob der Preiswechsel der Waren wirkliche Wertwechsel widerspiegelt oder bloe Schwankungen der Marktpreise, die Wirkung auf die Masse der Zirkulationsmittel bleibt dieselbe.

    Es sei gegeben eine Anzahl zusammenhangsloser, gleichzeitiger und daher rmlich nebeneinander laufender Verkfe oder Teilmetamorphosen, z.B. von 1 Quarter Weizen, 20 Ellen Leinwand, 1 Bibel, 4 Gallons Kornbranntwein. Wenn der Preis jedes Artikels 2 Pfd. St., die zu realisierende Preissumme daher 8 Pfd. St., so mu eine Geldmasse von 8 Pfd. St. in die Zirkulation eingehn. Bilden dieselben Waren dagegen Glieder der uns bekannten Metamorphosenreihe: 1 Quarter Weizen - 2 Pfd. St. - 20 Ellen Leinwand - 2 Pfd. St. - 1 Bibel - 2 Pfd. St. - 4 Gallons Kornbranntwein - 2 Pfd. St., so machen 2 Pfd. St. die verschiednen Waren der Reihe nach zirkulieren, indem sie deren Preise der Reihe nach, also auch die Preissumme von 8 Pfd. St., realisieren, um schlielich in der Hand des Destillateurs auszuruhn. Sie vollbringen vier Umlfe. Dieser wiederholte Stellenwechsel derselben Geldstke stellt den doppelten Formwechsel der Ware dar, ihre Bewegung durch zwei entgegengesetzte Zirkulationsstadien und die Verschlingung der Metamorphosen verschiedner Waren.84 Die gegenszlichen und einander ergzenden Phasen, wodurch dieser Proze verlft, knnen nicht rmlich nebeneinander fallen, sondern nur zeitlich aufeinander folgen. Zeitabschnitte bilden daher das Ma seiner Dauer, oder die Anzahl der Umlfe derselben Geldstke in gegebner Zeit mit die Geschwindigkeit des Geldumlaufs. Der Zirkulationsproze jener vier Waren dauere z.B. einen Tag. So betrt die zu realisierende Preissumme: 8 Pfd. St., die Anzahl der Umlfe derselben Geldstke wrend des Tags: 4 und die Masse des zirkulierenden Geldes: 2 Pfd. St., oder f einen gegebnen Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses: Preissumme der Waren / Umlaufsanzahl gleichnamiger Geldstke = Masse des als Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes. Dies Gesetz gilt allgemein. Der Zirkulationsproze eines Landes in einem gegebnen Zeitabschnitt umfat zwar einerseits viele zersplitterte, gleichzeitige und rmlich nebeneinander fallende Verkfe (resp. Kfe) oder Teilmetamorphosen, worin dieselben Geldstke nur einmal die Stelle wechseln oder nur einen Umlauf vollziehn, andrerseits viele teils nebeneinander herlaufende, teils sich ineinander verschlingende mehr oder minder gliederreiche Metamorphosenreihen, worin dieselben Geldstke mehr oder minder zahlreiche Umlfe zurklegen. Die Gesamtzahl der Umlfe aller in Zirkulation befindlichen gleichnamigen Geldstke ergibt jedoch die Durchschnittsanzahl der Umlfe des einzelnen Geldstks oder die Durchschnittsgeschwindigkeit des Geldumlaufs. Die Geldmasse, die bei Beginn z.B. des tlichen Zirkulationsprozesses in ihn hineingeworfen wird, ist natlich bestimmt durch die Preissumme der gleichzeitig und rmlich nebeneinander zirkulierenden Waren. Aber innerhalb des Prozesses wird ein Geldstk sozusagen f das andre verantwortlich gemacht. Beschleunigt das eine seine Umlaufsgeschwindigkeit, so erlahmt die des andren, oder es fliegt ganz aus der Zirkulationssphe heraus, da diese nur eine Goldmasse absorbieren kann, welche, multipliziert mit der mittlern Umlaufsanzahl ihres einzelnen Elements, gleich der zu realisierenden Preissumme ist. Whst daher die Anzahl der Umlfe der Geldstke, so nimmt ihre zirkulierende Masse ab. Nimmt die Anzahl ihrer Umlfe ab, so whst ihre Masse. Weil die Masse des Geldes, die als Zirkulationsmittel funktionieren kann, bei gegebner Durchschnittsgeschwindigkeit gegeben ist, hat man daher z.B. nur eine bestimmte Quantit von Ein-Pfund-Noten in die Zirkulation hineinzuwerfen, um ebenso viele Sovereigns hinauszuwerfen, ein allen Banken wohlbekanntes Kunststk.

    Wie im Geldumlauf erhaupt nur der Zirkulationsproze der Waren, d.h. ihr Kreislauf durch entgegengesetzte Metamorphosen erscheint, so in der Geschwindigkeit des Geldumlaufs die Geschwindigkeit ihres Formwechsels, das kontinuierliche Ineinandergreifen der Metamorphosenreihen, die Hast des Stoffwechsels, das rasche Verschwinden der Waren aus der Zirkulationssphe und ihr ebenso rascher Ersatz durch neue Waren. In der Geschwindigkeit des Geldumlaufs erscheint also die flsige Einheit der entgegengesetzten und sich ergzenden Phasen, Verwandlung der Gebrauchsgestalt in Wertgestalt und Rkverwandlung der Wertgestalt in Gebrauchsgestalt, oder der beiden Prozesse des Verkaufs und Kaufs. Umgekehrt erscheint in der Verlangsamung des Geldumlaufs die Trennung und gegenszliche Verselbstdigung dieser Prozesse, die Stockung des Formwechsels und daher des Stoffwechsels. Woher diese Stockung entspringt, ist natlich der Zirkulation selbst nicht anzusehn. Sie zeigt nur das Phomen selbst. Der populen Anschauung, welche mit verlangsamtem Geldumlauf das Geld minder hfig auf allen Punkten der Zirkulationsperipherie erscheinen und verschwinden sieht, liegt es nah, das Phomen aus mangelnder Quantit der Zirkulationsmittel zu deuten.85

    Das Gesamtquantum des in jedem Zeitabschnitt als Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes ist also bestimmt einerseits durch die Preissumme der zirkulierenden Warenwelt, andrerseits durch den langsameren oder rascheren Flu ihrer gegenszlichen Zirkulationsprozesse, von dem es abhgt, der wievielte Teil jener Preissumme durch dieselben Geldstke realisiert werden kann. Die Preissumme der Waren hgt aber ab sowohl von der Masse als den Preisen jeder Warenart. Die drei Faktoren: die Preisbewegung, die zirkulierende Warenmasse und endlich die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes, knnen aber in verschiedner Richtung und verschiednen Verhtnissen wechseln, die zu realisierende Preissumme, daher die durch sie bedingte Masse der Zirkulationsmittel, also sehr zahlreiche Kombinationen durchmachen. Wir zlen hier nur die in der Geschichte der Warenpreise wichtigsten auf.

    Bei gleichbleibenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel wachsen, weil die Masse der zirkulierenden Waren zunimmt oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes abnimmt oder beides zusammenwirkt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann umgekehrt abnehmen mit abnehmender Warenmasse oder zunehmender Zirkulationsgeschwindigkeit.

    Bei allgemein steigenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die Masse der zirkulierenden Waren in demselben Verhtnis abnimmt, worin ihr Preis zunimmt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes ebenso rasch zunimmt als die Preiserhhung, wrend die zirkulierende Warenmasse konstant bleibt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann fallen, weil die Warenmasse rascher ab- oder die Umlaufsgeschwindigkeit rascher zunimmt als die Preise.

    Bei allgemein fallenden Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die Warenmasse in demselben Verhtnis whst, worin ihr Preis flt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes in demselben Verhtnis abnimmt wie die Preise. Sie kann wachsen, wenn die Warenmasse rascher whst oder die Zirkulationsgeschwindigkeit rascher abnimmt, als die Warenpreise fallen.

    Die Variationen der verschiednen Faktoren knnen sich wechselseitig kompensieren, so da ihrer bestdigen Unstigkeit zum Trotz die zu realisierende Gesamtsumme der Warenpreise konstant bleibt, also auch die zirkulierende Geldmasse. Man findet daher, namentlich bei Betrachtung etwas lgerer Perioden, ein viel konstanteres Durchschnittsniveau der in jedem Lande zirkulierenden Geldmasse und, mit Ausnahme starker Perturbationen, die periodisch aus den Produktions- und Handelskrisen, seltner aus einem Wechsel im Geldwert selbst entspringen, viel geringere Abweichungen von diesem Durchschnittsniveau, als man nach dem Augenschein erwarten sollte.

    Das Gesetz, da die Quantit der Zirkulationsmittel bestimmt ist durch die Preissumme der zirkulierenden Waren und die Durchschnittsgeschwindigkeit des Geldumlaufs86, kann auch so ausgedrkt werden, da bei gegebner Wertsumme der Waren und gegebner Durchschnittsgeschwindigkeit ihrer Metamorphosen, die Quantit des umlaufenden Geldes oder des Geldmaterials von seinem eignen Wert abhgt. Die Illusion, da umgekehrt die Warenpreise durch die Masse der Zirkulationsmittel und letztre ihrerseits durch die Masse des in einem Lande befindlichen Geldmaterials bestimmt werden87, wurzelt bei ihren ursprglichen Vertretern in der abgeschmackten Hypothese, da Waren ohne Preis und Geld ohne Wert in den Zirkulationsproze eingehn, wo sich dann ein aliquoter Teil des Warenbreis mit einem aliquoten Teil des Metallbergs austausche.88

 

c) Die Mze. Das Wertzeichen

 

    Aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt seine Mzgestalt. Der in dem Preise oder Geldnamen der Waren vorgestellte Gewichtsteil Gold mu ihnen in der Zirkulation als gleichnamiges Goldstk oder Mze gegenertreten. Wie die Feststellung des Mastabs der Preise, flt das Gescht der Mzung dem Staat anheim. In den verschiednen Nationaluniformen, die Gold und Silber als Mzen tragen, auf dem Weltmarkt aber wieder ausziehn, erscheint die Scheidung zwischen den innern oder nationalen Sphen der Warenzirkulation und ihrer allgemeinen Weltmarktssphe.

    Goldmze und Barrengold unterscheiden sich also von Haus aus nur durch die Figur, und das Gold ist bestdig aus einer Form in die andre verwandelbar.89 Der Weg aus der Mze ist aber zugleich der Gang zum Schmelztiegel. Im Umlauf verschleien nlich die Goldmzen, die eine mehr, die andre weniger. Goldtitel und Goldsubstanz, Nominalgehalt und Realgehalt beginnen ihren Scheidungsproze. Gleichnamige Goldmzen werden von ungleichem Wert, weil verschiednem Gewicht. Das Gold als Zirkulationsmittel weicht ab vom Gold als Mastab der Preise und hrt damit auch auf, wirkliches quivalent der Waren zu sein, deren Preise es realisiert. Die Geschichte dieser Wirren bildet die Mzgeschichte des Mittelalters und der Neuzeit bis ins 18. Jahrhundert. Die naturwhsige Tendenz des Zirkulationsprozesses, das Goldsein der Mze in Goldschein oder die Mze in ein Symbol ihres offiziellen Metallgehalts zu verwandeln, ist selbst anerkannt durch die modernsten Gesetze er den Grad des Metallverlustes, der ein Goldstk kursunfig macht oder demonetisiert.

    Wenn der Geldumlauf selbst den Realgehalt vom Nominalgehalt der Mze scheidet, ihr Metalldasein von ihrem funktionellen Dasein, so entht er die Mglichkeit latent, das Metallgeld in seiner Mzfunktion durch Marken aus andrem Material oder Symbole zu ersetzen. Die technischen Hindernisse der Mzung ganz diminutiver Gewichtsteile des Goldes resp. Silbers und der Umstand, da niedrigere Metalle ursprglich statt der edleren, Silber statt des Goldes, Kupfer statt des Silbers, zum Wertma dienen und daher als Geld zirkulieren im Augenblick, wo das edlere Metall sie entthront, erklen historisch die Rolle von Silber- und Kupfermarken als Substituten der Goldmze. Sie ersetzen das Gold in den Kreisen der Warenzirkulation, worin die Mze am schnellsten zirkuliert und sich daher am schnellsten abnutzt, d.h., wo Kfe und Verkfe unaufhrlich im kleinsten Mastab erneuert werden. Um die Festsetzung dieser Trabanten an der Stelle des Goldes selbst zu verhindern, werden gesetzlich die sehr niedrigen Proportionen bestimmt, worin sie allein an Zahlungs Statt f Gold angenommen werden msen. Die besondren Kreise, worin die verschiednen Mzsorten umlaufen, laufen natlich ineinander. Die Scheidemze erscheint neben dem Gold zur Zahlung von Bruchteilen der kleinsten Goldmze; das Gold tritt bestdig in die Detailzirkulation ein, wird aber durch Auswechslung mit Scheidemze ebenso bestdig herausgeworfen.90

    Der Metallgehalt der Silber- oder Kupfermarken ist willklich durch das Gesetz bestimmt. Im Umlauf verschleien sie noch rascher als die Goldmze. Ihre Mzfunktion wird daher faktisch durchaus unabhgig von ihrem Gewicht, d.h. von allem Wert. Das Mzdasein des Goldes scheidet sich vllig von seiner Wertsubstanz. Relativ wertlose Dinge, Papierzettel, knnen also an seiner Statt als Mze funktionieren. In den metallischen Geldmarken ist der rein symbolische Charakter noch einigermaen versteckt. Im Papiergeld tritt er augenscheinlich hervor. Man sieht: Ce n'est que le premier pas qui cote.

    Es handelt sich hier nur von Staatspapiergeld mit Zwangskurs. Es whst unmittelbar aus der metallischen Zirkulation heraus. Kreditgeld unterstellt dagegen Verhtnisse, die uns vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch durchaus unbekannt sind. Im Vorbeigehn sei jedoch bemerkt, da, wie eigentliches Papiergeld aus der Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel entspringt, das Kreditgeld in der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel seine naturwhsige Wurzel besitzt.91

    Papierzettel, denen Geldnamen, wie 1 Pfd. St., 5 Pfd. St. usw. aufgedruckt sind, werden vom Staat 舫゚erlich in den Zirkulationsproze hineingeworfen. Soweit sie wirklich an der Stelle der gleichnamigen Goldsumme zirkulieren, spiegeln sich in ihrer Bewegung nur die Gesetze des Geldumlaufs selbst wider. Ein spezifisches Gesetz der Papierzirkulation kann nur aus ihrem Reprentationsverhtnis zum Gold entspringen. Und dies Gesetz ist einfach dies, da die Ausgabe des Papiergelds auf die Quantit zu beschrken ist, worin das von ihm symbolisch dargestellte Gold (resp. Silber) wirklich zirkulieren mte. Nun schwankt zwar das Goldquantum, welches die Zirkulationssphe absorbieren kann, bestdig er oder unter ein gewisses Durchschnittsniveau. Jedoch sinkt die Masse des zirkulierenden Mediums in einem gegebnen Land nie unter ein gewisses Minimum, das sich erfahrungsmig feststellt. Da diese Minimalmasse fortwrend ihre Bestandteile wechselt, d.h. aus stets andren Goldstken besteht, dert natlich nichts an ihrem Umfang und ihrem konstanten Umtrieb in der Zirkulationssphe. Sie kann daher durch Papiersymbole ersetzt werden. Werden dagegen heute alle Zirkulationskane zum vollen Grad ihrer Geldabsorptionsfigkeit mit Papiergeld geflt, so knnen sie infolge der Schwankungen der Warenzirkulation morgen ervoll sein. Alles Ma geht verloren. berschreitet aber das Papier sein Ma, d.h. die Quantit von Goldmze gleicher Denomination, welche zirkulieren knnte, so stellt es, von der Gefahr allgemeiner Diskreditierung abgesehn, innerhalb der Warenwelt dennoch nur die durch ihre immanenten Gesetze bestimmte, also auch allein reprentierbare Goldquantit vor. Stellt die Papierzettelmasse z.B. je 2 Unzen Gold statt je 1 Unze dar, so wird faktisch 1 Pfd. St. z.B. zum Geldnamen sage etwa von 1/8 Unze statt von 1/4 Unze. Die Wirkung ist dieselbe, als we das Gold in seiner Funktion als Ma der Preise verdert worden. Dieselben Werte, die sich daher vorher im Preise von 1 Pfd. St., drken sich jetzt im Preise von 2 Pfd. St. aus.

    Das Papiergeld ist Goldzeichen oder Geldzeichen. Sein Verhtnis zu den Warenwerten besteht nur darin, da sie ideell in denselben Goldquantis ausgedrkt sind, welche vom Papier symbolisch sinnlich dargestellt werden. Nur sofern das Papiergeld Goldquanta reprentiert, die, wie alle andren Warenquanta, auch Wertquanta, ist es Wertzeichen.92

    Es fragt sich schlielich, warum das Gold durch bloe wertlose Zeichen seiner selbst ersetzt werden kann? Es ist aber, wie man gesehn, nur so ersetzbar, soweit es in seiner Funktion als Mze oder Zirkulationsmittel isoliert oder verselbstdigt wird. Nun findet die Verselbstdigung dieser Funktion zwar nicht f die einzelnen Goldmzen statt, obgleich sie in dem Fortzirkulieren verschlissener Goldstke erscheint. Bloe Mze oder Zirkulationsmittel sind die Goldstke grade nur, solang sie sich wirklich im Umlauf befinden. Was aber nicht f die einzelne Goldmze, gilt f die vom Papiergeld ersetzbare Minimalmasse Gold. Sie haust bestdig in der Zirkulationssphe, funktioniert fortwrend als Zirkulationsmittel und existiert daher ausschlielich als Trer dieser Funktion. Ihre Bewegung stellt also nur das fortwrende Ineinanderumschlagen der entgegengesetzten Prozesse der Warenmetamorphose W - G - W dar, worin der Ware ihre Wertgestalt nur gegenertritt, um sofort wieder zu verschwinden. Die selbstdige Darstellung des Tauschwerts der Ware ist hier nur flhtiges Moment. Sofort wird sie wieder durch andre Ware ersetzt. Daher gent auch die blo symbolische Existenz des Geldes in einem Proze, der es bestdig aus einer Hand in die andre entfernt. Sein funktionelles Dasein absorbiert sozusagen sein materielles. Verschwindend objektivierter Reflex der Warenpreise, funktioniert es nur noch als Zeichen seiner selbst und kann daher auch durch Zeichen ersetzt werden.93 Nur bedarf das Zeichen des Geldes seiner eignen objektiv gesellschaftlichen Gtigkeit, und diese erht das Papiersymbol durch den Zwangskurs. Nur innerhalb der von den Grenzen eines Gemeinwesens umschriebnen oder innern Zirkulationssphe gilt dieser Staatszwang, aber auch nur hier geht das Geld vllig auf in seine Funktion als Zirkulationsmittel oder Mze und kann daher im Papiergeld eine von seiner Metallsubstanz 舫゚erlich getrennte und blo funktionelle Existenzweise erhalten.

 

3. Geld

 

    Die Ware, welche als Wertma und daher auch, leiblich oder durch Stellvertreter, als Zirkulationsmittel funktioniert, ist Geld. Gold (resp. Silber) ist daher Geld. Als Geld funktioniert es, einerseits wo es in seiner goldnen (resp. silbernen) Leiblichkeit erscheinen mu, daher als Geldware, also weder blo ideell, wie im Wertma, noch reprentationsfig, wie im Zirkulationsmittel; andrerseits wo seine Funktion, ob es selbe nun in eigner Person oder durch Stellvertreter vollziehe, es als alleinige Wertgestalt oder allein aduates Dasein des Tauschwerts allen andren Waren als bloen Gebrauchswerten gegener fixiert.

 

a) Schatzbildung

 

    Der kontinuierliche Kreislauf der zwei entgegengesetzten Warenmetamorphosen oder der flsige Umschlag von Verkauf und Kauf erscheint im rastlosen Umlauf des Geldes oder seiner Funktion als perpetuum mobile der Zirkulation. Es wird immobilisiert, oder verwandelt sich, wie Boisguillebert sagt, aus meuble in immeuble, aus Mze in Geld, sobald die Metamorphosenreihe unterbrochen, der Verkauf nicht durch nachfolgenden Kauf ergzt wird.

    Mit der ersten Entwicklung der Warenzirkulation selbst entwickelt sich die Notwendigkeit und die Leidenschaft, das Produkt der ersten Metamorphose, die verwandelte Gestalt der Ware oder ihre Goldpuppe festzuhalten.94 Ware wird verkauft, nicht um Ware zu kaufen, sondern um Warenform durch Geldform zu ersetzen. Aus bloer Vermittlung des Stoffwechsels wird dieser Formwechsel zum Selbstzweck. Die ent舫゚erte Gestalt der Ware wird verhindert, als ihre absolut ver舫゚erliche Gestalt oder nur verschwindende Geldform zu funktionieren. Das Geld versteinert damit zum Schatz, und der Warenverkfer wird Schatzbildner.

    Grade in den Anfgen der Warenzirkulation verwandelt sich nur der berschu an Gebrauchswerten in Geld. Gold und Silber werden so von selbst zu gesellschaftlichen Ausdrken des berflusses oder des Reichtums. Diese naive Form der Schatzbildung verewigt sich bei Vlkern, wo der traditionellen und auf Selbstbedarf gerichteten Produktionsweise ein fest abgeschloner Kreis von Bedfnissen entspricht. So bei den Asiaten, namentlich den Indern. Vanderlint, der die Warenpreise durch die Masse des in einem Land befindlichen Goldes und Silbers bestimmt wnt, fragt sich, warum die indischen Waren so wohlfeil? Antwort: Weil die Inder das Geld vergraben. Von 1602-1734, bemerkt er, vergruben sie 150 Millionen Pfd. St. Silber, die ursprglich von Amerika nach Europa kamen.95 Von 1856-1866, also in 10 Jahren, exportierte England nach Indien und China (das nach China exportierte Metall fliet groenteils wieder nach Indien) 120 Millionen Pfd. St. in Silber, welches vorher gegen australisches Geld eingewechselt wurde.

    Mit mehr entwickelter Warenproduktion mu jeder Warenproduzent sich den nervus rerum, das gesellschaftliche Faustpfand sichern.96 Seine Bedfnisse erneuern sich unaufhrlich und gebieten unaufhrlichen Kauf fremder Ware, wrend Produktion und Verkauf seiner eignen Ware Zeit kosten und von Zuflen abhgen. Um zu kaufen, ohne zu verkaufen, mu er vorher verkauft haben, ohne zu kaufen. Diese Operation, auf allgemeiner Stufenleiter ausgefrt, scheint sich selbst zu widersprechen. An ihren Produktionsquellen jedoch tauschen sich die edlen Metalle direkt mit andren Waren aus. Es findet hier Verkauf (auf Seite der Warenbesitzer) ohne Kauf (auf Seite der Gold- und Silberbesitzer) statt.97 Und spere Verkfe ohne nachfolgende Kfe vermitteln blo die weitere Verteilung der edlen Metalle unter alle Warenbesitzer. So entstehn auf allen Punkten des Verkehrs Gold- und Silberschze vom verschiedensten Umfang. Mit der Mglichkeit, die Ware als Tauschwert oder den Tauschwert als Ware festzuhalten, erwacht die Goldgier. Mit der Ausdehnung der Warenzirkulation whst die Macht des Geldes, der stets schlagfertigen, absolut gesellschaftlichen Form des Reichtums.

    Gold ist ein wunderbares Ding! Wer dasselbe besitzt, ist Herr von allem, was er wscht. Durch Gold kann man sogar Seelen in das Paradies gelangen lassen. (Columbus, im Brief aus Jamaica, 1503.)

    Da dem Geld nicht anzusehn, was in es verwandelt ist, verwandelt sich alles, Ware oder nicht, in Geld. Alles wird verkflich und kaufbar. Die Zirkulation wird die groe gesellschaftliche Retorte, worin alles hineinfliegt, um als Geldkristall wieder herauszukommen. Dieser Alchimie widerstehn nicht einmal Heiligenknochen und noch viel weniger minder grobe res sacrosanctae, extra commercium hominum.98 Wie im Geld aller qualitative Unterschied der Waren ausgelscht ist, lscht es seinerseits als radikaler Leveller alle Unterschiede aus.99 Das Geld ist aber selbst Ware, ein 舫゚erlich Ding, das Privateigentum eines jeden werden kann. Die gesellschaftliche Macht wird so zur Privatmacht der Privatperson. Die antike Gesellschaft denunziert es daher als die Scheidemze ihrer konomischen und sittlichen Ordnung.100 Die moderne Gesellschaft, die schon in ihren Kinderjahren den Plutus an den Haaren aus den Eingeweiden der Erde herauszieht101, begrt im Goldgral die glzende Inkarnation ihres eigensten Lebensprinzips.

    Die Ware als Gebrauchswert befriedigt ein besondres Bedfnis und bildet ein besondres Element des stofflichen Reichtums. Aber der Wert der Ware mit den Grad ihrer Attraktionskraft auf alle Elemente des stofflichen Reichtums, daher den gesellschaftlichen Reichtum ihres Besitzers. Dem barbarisch einfachen Warenbesitzer, selbst einem westeuropschen Bauer, ist der Wert unzertrennlich von der Wertform, Vermehrung des Gold- und Silberschatzes daher Wertvermehrung. Allerdings wechselt der Wert des Geldes, sei es infolge seines eignen Wertwechsels, sei es des Wertwechsels der Waren. Dies verhindert aber einerseits nicht, da 200 Unzen Gold nach wie vor mehr Wert enthalten als 100, 300 mehr als 200 usw., noch andrerseits, da die metallne Naturalform dieses Dings die allgemeine quivalentform aller Waren bleibt, die unmittelbar gesellschaftliche Inkarnation aller menschlichen Arbeit. Der Trieb der Schatzbildung ist von Natur malos. Qualitativ oder seiner Form nach ist das Geld schrankenlos, d.h. allgemeiner Reprentant des stofflichen Reichtums, weil in jede Ware unmittelbar umsetzbar. Aber zugleich ist jede wirkliche Geldsumme quantitativ beschrkt, daher auch nur Kaufmittel von beschrkter Wirkung. Dieser Widerspruch zwischen der quantitativen Schranke und der qualitativen Schrankenlosigkeit des Geldes treibt den Schatzbildner stets zurk zur Sisyphusarbeit der Akkumulation. Es geht ihm wie dem Welteroberer, der mit jedem neuen Land nur eine neue Grenze erobert.

    Um das Gold als Geld festzuhalten und daher als Element der Schatzbildung, mu es verhindert werden zu zirkulieren oder als Kaufmittel sich in Genumittel aufzulsen. Der Schatzbildner opfert daher dem Goldfetisch seine Fleischeslust. Er macht Ernst mit dem Evangelium der Entsagung. Andrerseits kann er der Zirkulation nur in Geld entziehn, was er ihr in Ware gibt. Je mehr er produziert, desto mehr kann er verkaufen. Arbeitsamkeit, Sparsamkeit und Geiz bilden daher seine Kardinaltugenden, viel verkaufen, wenig kaufen, die Summe seiner politischen konomie.102

    Neben der unmittelbaren Form des Schatzes lft seine thetische Form, der Besitz von Gold- und Silberwaren. Er whst mit dem Reichtum der bgerlichen Gesellschaft. Soyons riches ou paraissons riches. (Diderot.) Es bildet sich so teils ein stets ausgedehnterer Markt f Gold und Silber, unabhgig von ihren Geldfunktionen, teils eine latente Zufuhrquelle des Geldes, die namentlich in gesellschaftlichen Sturmperioden fliet.

    Die Schatzbildung erflt verschiedne Funktionen in der konomie der metallischen Zirkulation. Die nhste Funktion entspringt aus den Umlaufsbedingungen der Gold- oder Silbermze. Man hat gesehn, wie mit den bestdigen Schwankungen der Warenzirkulation in Umfang, Preisen und Geschwindigkeit die Umlaufsmasse des Geldes rastlos ebbt und flutet. Sie mu also der Kontraktion und Expansion fig sein. Bald mu Geld als Mze attrahiert, bald Mze als Geld repelliert werden. Damit die wirklich umlaufende Geldmasse dem Stigungsgrad der Zirkulationssphe stets entspreche, mu das in einem Lande befindliche Gold- oder Silberquantum grer sein als das in Mzfunktion begriffene. Diese Bedingung wird erflt durch die Schatzform des Geldes. Die Schatzreservoirs dienen zugleich als Abfuhr- und Zufuhrkane des zirkulierenden Geldes, welches seine Umlaufskane daher nie erflt.103

 

b) Zahlungsmittel

 

    In der bisher betrachteten unmittelbaren Form der Warenzirkulation war dieselbe Wertgre stets doppelt vorhanden, Ware auf dem einen Pol, Geld auf dem Gegenpol. Die Warenbesitzer traten daher nur in Kontakt als Reprentanten wechselseitig vorhandner quivalente. Mit der Entwicklung der Warenzirkulation entwickeln sich jedoch Verhtnisse, wodurch die Ver舫゚erung der Ware von der Realisierung ihres Preises zeitlich getrennt wird. Es gent, die einfachsten dieser Verhtnisse hier anzudeuten. Die eine Warenart erheischt lgere, die andere kzere Zeitdauer zu ihrer Produktion. Die Produktion verschiedner Waren ist an verschiedne Jahreszeiten geknft. Die eine Ware wird auf ihrem Marktplatz geboren, die andre mu zu entferntem Markt reisen. Der eine Warenbesitzer kann daher als Verkfer auftreten, bevor der andre als Kfer. Bei steter Wiederkehr derselben Transaktionen unter denselben Personen regeln sich die Verkaufsbedingungen der Waren nach ihren Produktionsbedingungen. Andrerseits wird die Benutzung gewisser Warenarten, z.B. eines Hauses, f einen bestimmten Zeitraum verkauft. Erst nach Ablauf des Termins hat der Kfer den Gebrauchswert der Ware wirklich erhalten. Er kauft sie daher, bevor er sie zahlt. Der eine Warenbesitzer verkauft vorhandne Ware, der andre kauft als bloer Reprentant von Geld oder als Reprentant von kftigem Gelde. Der Verkfer wird Glbiger, der Kfer Schuldner. Da die Metamorphose der Ware oder die Entwicklung ihrer Wertform sich hier verdert, erht auch das Geld eine andre Funktion. Es wird Zahlungsmittel.104

    Der Charakter von Glbiger oder Schuldner entspringt hier aus der einfachen Warenzirkulation. Ihre Formverderung drkt dem Verkfer und Kfer diese neuen Stempel auf. Zunhst also sind es ebenso verschwindende und wechselweis von denselben Zirkulationsagenten gespielte Rollen wie die von Verkfer und Kfer. Jedoch sieht der Gegensatz jetzt von Haus aus minder gemlich aus und ist grerer Kristallisation fig.105 Dieselben Charaktere knnen aber auch von der Warenzirkulation unabhgig auftreten. Der Klassenkampf der antiken Welt z.B. bewegt sich hauptshlich in der Form eines Kampfes zwischen Glbiger und Schuldner und endet in Rom mit dem Untergang des plebejischen Schuldners, der durch den Sklaven ersetzt wird. Im Mittelalter endet der Kampf mit dem Untergang des feudalen Schuldners, der seine politische Macht mit ihrer konomischen Basis einbt. Indes spiegelt die Geldform - und das Verhtnis von Glbiger und Schuldner besitzt die Form eines Geldverhtnisses - hier nur den Antagonismus tiefer liegender konomischer Lebensbedingungen wider.

    Kehren wir zur Sphe der Warenzirkulation zurk. Die gleichzeitige Erscheinung der quivalente Ware und Geld auf den beiden Polen des Verkaufsprozesses hat aufgehrt. Das Geld funktioniert jetzt erstens als Wertma in der Preisbestimmung der verkauften Ware. Ihr kontraktlich festgesetzter Preis mit die Obligation des Kfers, d.h. die Geldsumme, die er an bestimmtem Zeittermin schuldet. Es funktioniert zweitens als ideelles Kaufmittel. Obgleich es nur im Geldversprechen des Kfers existiert, bewirkt es den Hdewechsel der Ware. Erst am fligen Zahlungstermin tritt das Zahlungsmittel wirklich in Zirkulation, d.h. geht aus der Hand des Kfers in die des Verkfers er. Das Zirkulationsmittel verwandelte sich in Schatz, weil der Zirkulationsproze mit der ersten Phase abbrach oder die verwandelte Gestalt der Ware der Zirkulation entzogen wurde. Das Zahlungsmittel tritt in die Zirkulation hinein, aber nachdem die Ware bereits aus ihr ausgetreten ist. Das Geld vermittelt nicht mehr den Proze. Es schliet ihn selbstdig ab, als absolutes Dasein des Tauschwerts oder allgemeine Ware. Der Verkfer verwandelte Ware in Geld, um ein Bedfnis durch das Geld zu befriedigen, der Schatzbildner, um die Ware in Geldform zu prervieren, der schuldige Kfer, um zahlen zu knnen. Zahlt er nicht, so finden Zwangsverkfe seiner Habe statt. Die Wertgestalt der Ware, Geld, wird also jetzt zum Selbstzweck des Verkaufs durch eine den Verhtnissen des Zirkulationsprozesses selbst entspringende, gesellschaftliche Notwendigkeit.

    Der Kfer verwandelt Geld zurk in Ware, bevor er Ware in Geld verwandelt hat, oder vollzieht die zweite Warenmetamorphose vor der ersten. Die Ware des Verkfers zirkuliert, realisiert ihren Preis aber nur in einem privatrechtlichen Titel auf Geld. Sie verwandelt sich in Gebrauchswert, bevor sie sich in Geld verwandelt hat. Die Vollziehung ihrer ersten Metamorphose folgt erst nachtrlich.106

    In jedem bestimmten Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses reprentieren die fligen Obligationen die Preissumme der Waren, deren Verkauf sie hervorrief. Die zur Realisierung dieser Preissumme ntige Geldmasse hgt zunhst ab von der Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel. Sie ist bedingt durch zwei Umstde: die Verkettung der Verhtnisse von Glbiger und Schuldner, so da A, der Geld von seinem Schuldner B erht, es an seinen Glbiger C fortzahlt usw. - und die Zeitlge zwischen den verschiednen Zahlungsterminen. Die prozessierende Kette von Zahlungen oder nachtrlichen ersten Metamorphosen unterscheidet sich wesentlich von der frer betrachteten Verschlingung der Metamorphosenreihen. Im Umlauf des Zirkulationsmittels wird der Zusammenhang zwischen Verkfern und Kfern nicht nur ausgedrkt. Der Zusammenhang selbst entsteht erst in und mit dem Geldumlauf. Dagegen drkt die Bewegung des Zahlungsmittels einen schon vor ihr fertig vorhandnen gesellschaftlichen Zusammenhang aus.

    Gleichzeitigkeit und Nebeneinander der Verkfe beschrken den Ersatz der Mzmasse durch Umlaufsgeschwindigkeit. Sie bilden umgekehrt einen neuen Hebel in der konomie der Zahlungsmittel. Mit der Konzentration der Zahlungen an demselben Platz entwickeln sich naturwhsig eigne Anstalten und Methoden ihrer Ausgleichung. So z.B. die Virements im mittelaltrigen Lyon. Die Schuldforderungen von A an B, B an C, C an A usw. brauchen blo konfrontiert zu werden, um sich wechselseitig bis zu einem gewissen Belauf als positive und negative Gren aufzuheben. So bleibt nur eine Schuldbilanz zu saldieren. Je massenhafter die Konzentration der Zahlungen, desto kleiner relativ die Bilanz, also die Masse der zirkulierenden Zahlungsmittel.

    Die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel schliet einen unvermittelten Widerspruch ein. Soweit sich die Zahlungen ausgleichen, funktioniert es nur ideell als Rechengeld oder Ma der Werte. Soweit wirkliche Zahlung zu verrichten, tritt es nicht als Zirkulationsmittel auf, als nur verschwindende und vermittelnde Form des Stoffwechsels, sondern als die individuelle Inkarnation der gesellschaftlichen Arbeit, selbstdiges Dasein des Tauschwerts, absolute Ware. Dieser Widerspruch eklatiert in dem Moment der Produktions- und Handelskrisen, der Geldkrise heit.107 Sie ereignet sich nur, wo die prozessierende Kette der Zahlungen und ein kstliches System ihrer Ausgleichung vllig entwickelt sind. Mit allgemeineren Strungen dieses Mechanismus, woher sie immer entspringen mgen, schlt das Geld pltzlich und unvermittelt um aus der nur ideellen Gestalt des Rechengeldes in hartes Geld. Es wird unersetzlich durch profane Waren. Der Gebrauchswert der Ware wird wertlos, und ihr Wert verschwindet vor seiner eignen Wertform. Eben noch erklte der Bger in prosperitstrunknem Aufklungsdkel das Geld f leeren Wahn. Nur die Ware ist Geld. Nur das Geld ist Ware! gellt's jetzt er den Weltmarkt. Wie der Hirsch schreit nach frischem Wasser, so schreit seine Seele nach Geld, dem einzigen Reichtum.108 In der Krise wird der Gegensatz zwischen der Ware und ihrer Wertgestalt, dem Geld, bis zum absoluten Widerspruch gesteigert. Die Erscheinungsform des Geldes ist hier daher auch gleichgtig. Die Geldhungersnot bleibt dieselbe, ob in Gold oder Kreditgeld, Banknoten etwa, zu zahlen ist.109

    Betrachten wir nun die Gesamtsumme des in einem gegebnen Zeitabschnitt umlaufenden Geldes, so ist sie, bei gegebner Umlaufsgeschwindigkeit der Zirkulations- und Zahlungsmittel, gleich der Summe der zu realisierenden Warenpreise plus der Summe der fligen Zahlungen, minus der sich ausgleichenden Zahlungen, minus endlich der Anzahl Umlfe, worin dasselbe Geldstk abwechselnd bald als Zirkulations-, bald als Zahlungsmittel funktioniert. Z.B. der Bauer verkauft sein Getreide f 2 Pfd. St., die so als Zirkulationsmittel dienen. Am Verfalltag zahlt er damit Leinwand, die ihm der Weber geliefert hat. Dieselben 2 Pfd. St. funktionieren jetzt als Zahlungsmittel. Der Weber kauft nun eine Bibel gegen bar - sie funktionieren von neuem als Zirkulationsmittel - usw. Selbst Preise, Geschwindigkeit des Geldumlaufs und konomie der Zahlungen gegeben, decken sich daher nicht lger die wrend einer Periode, eines Tags z.B., umlaufende Geldmasse und zirkulierende Warenmasse. Es lft Geld um, das der Zirkulation lgst entzogne Waren reprentiert. Es laufen Waren um, deren Gelduivalent erst in der Zukunft erscheint. Andrerseits sind die jeden Tag kontrahierten und die denselben Tag fligen Zahlungen durchaus inkommensurable Gren.110

    Das Kreditgeld entspringt unmittelbar aus der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel, indem Schuldzertifikate f die verkauften Waren selbst wieder zur bertragung der Schuldforderungen zirkulieren. Andrerseits, wie sich das Kreditwesen ausdehnt, so die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel. Als solches erht es eigne Existenzformen, worin es die Sphe der groen Handelstransaktionen behaust, wrend die Gold- oder Silbermze hauptshlich in die Sphe des Kleinhandels zurkgedrgt wird.111

    Bei gewissem Hhegrad und Umfang der Warenproduktion greift die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel er die Sphe der Warenzirkulation hinaus. Es wird die allgemeine Ware der Kontrakte.112 Renten, Steuern usw. verwandeln sich aus Naturallieferungen in Geldzahlungen. Wie sehr diese Umwandlung durch die Gesamtgestalt des Produktionsprozesses bedingt wird, beweist z.B. der zweimal gescheiterte Versuch des rmischen Kaiserreichs, alle Abgaben in Geld zu erheben. Das ungeheure Elend des franzsischen Landvolks unter Ludwig XIV., das Boisguillebert, Marschall Vauban usw. so beredt denunzieren, war nicht nur der Steuerhhe geschuldet, sondern auch der Verwandlung von Naturalsteuer in Geldsteuer.113 Wenn andrerseits die Naturalform der Grundrente, in Asien zugleich das Hauptelement der Staatssteuer, dort auf Produktionsverhtnissen beruht, welche sich mit der Unwandelbarkeit von Naturverhtnissen reproduzieren, erht jene Zahlungsform rkwirkend die alte Produktionsform. Sie bildet eines der Selbsterhaltungsgeheimnisse des tkischen Reichs. Zieht der durch Europa aufoktroyierte auswtige Handel in Japan die Verwandlung von Naturalrente in GeldrenteA8 nach sich, so ist es um seine musterhafte Agrikultur geschehn. Ihre engen konomischen Existenzbedingungen werden sich auflsen.

    In jedem Land setzen sich gewisse allgemeine Zahlungstermine fest. Sie beruhn teilweis, von andren Zirkellfen der Reproduktion abgesehn, auf den an Wechsel der Jahreszeit gebundnen Naturbedingungen der Produktion. Sie regeln ebenso Zahlungen, die nicht direkt der Warenzirkulation entspringen, wie Steuern, Renten usw. Die Geldmasse, die zu diesen er die ganze Oberflhe der Gesellschaft zersplitterten Zahlungen an gewissen Tagen des Jahres erheischt ist, verursacht periodische, aber ganz oberflhliche Perturbationen in der konomie der Zahlungsmittel.114 Aus dem Gesetz er die Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel folgt, da f alle periodischen Zahlungen, welches immer ihre Quelle, die notwendige Masse der Zahlungsmittel in gerademA9 Verhtnis zur Lge der Zahlungsperioden steht.115

    Die Entwicklung des Geldes als Zahlungsmittel erntigt Geldakkumulationen f die Verfalltermine der geschuldeten Summen. Wrend die Schatzbildung als selbstdige Bereicherungsform verschwindet mit dem Fortschritt der bgerlichen Gesellschaft, whst sie umgekehrt mit demselben in der Form von Reservefonds der Zahlungsmittel.

 

c) Weltgeld

 

    Mit dem Austritt aus der innern Zirkulationssphe streift das Geld die dort aufschieenden Lokalformen von Mastab der Preise, Mze, Scheidemze und Wertzeichen, wieder ab und flt in die ursprgliche Barrenform der edlen Metalle zurk. Im Welthandel entfalten die Waren ihren Wert universell. Ihre selbstdige Wertgestalt tritt ihnen daher hier auch gegener als Weltgeld. Erst auf dem Weltmarkt funktioniert das Geld in vollem Umfang als die Ware, deren Naturalform zugleich unmittelbar gesellschaftliche Verwirklichungsform der menschlichen Arbeit in abstracto ist. Seine Daseinsweise wird seinem Begriff aduat.

    In der innern Zirkulationssphe kann nur eine Ware zum Wertma und daher als Geld dienen. Auf dem Weltmarkt herrscht doppeltes Wertma, Gold und Silber.116

    Das Weltgeld funktioniert als allgemeines Zahlungsmittel, allgemeines Kaufmittel und absolut gesellschaftliche Materiatur des Reichtums erhaupt (universal wealth). Die Funktion als Zahlungsmittel, zur Ausgleichung internationaler Bilanzen, herrscht vor. Daher das Losungswort des Merkantilsystems - Handelsbilanz!117 Zum internationalen Kaufmittel dienen Gold und Silber wesentlich, sooft das herkmmliche Gleichgewicht des Stoffwechsels zwischen verschiednen Nationen pltzlich gestrt wird. Endlich als absolut gesellschaftliche Materiatur des Reichtums, wo es sich weder um Kauf noch Zahlung handelt, sondern um bertragung des Reichtums von einem Land zum andren, und wo diese bertragung in Warenform entweder durch die Konjunkturen des Warenmarkts oder den zu erflenden Zweck selbst ausgeschlossen wird.118

    Wie f seine innere Zirkulation, braucht jedes Land f die Weltmarktszirkulation einen Reservefonds. Die Funktionen der Schze entspringen also teils aus der Funktion des Geldes als inneres Zirkulations- und Zahlungsmittel, teils aus seiner Funktion als Weltgeld.119 In der letzteren Rolle ist stets die wirkliche Geldware, leibhaftes Gold und Silber, erheischt, weswegen James Steuart Gold und Silber, im Unterschied von ihren nur lokalen Stellvertretern, ausdrklich als money of the world charakterisiert.

    Die Bewegung des Gold- und Silberstroms ist eine doppelte. Einerseits wzt er sich von seinen Quellen er den ganzen Weltmarkt, wo er von den verschiednen nationalen Zirkulationssphen in verschiednem Umfang abgefangen wird, um in ihre inneren Umlaufskane einzugehn, verschlissene Gold- und Silbermzen zu ersetzen, das Material von Luxuswaren zu liefern und zu Schzen zu erstarren.120 Diese erste Bewegung ist vermittelt durch direkten Austausch der in Waren realisierten Nationalarbeiten mit der in edlen Metallen realisierten Arbeit der Gold und Silber produzierenden Lder. Andrerseits laufen Gold und Silber fortwrend hin und her zwischen den verschiednen nationalen Zirkulationssphen, eine Bewegung, die den unaufhrlichen Oszillationen des Wechselkurses folgt.121

    Lder entwickelter bgerlicher Produktion beschrken die in Bankreservoirs massenhaft konzentrierten Schze auf das zu ihren spezifischen Funktionen erheischte Minimum.122 Mit gewisser Ausnahme zeigt auffallendes berflen der Schatzreservoirs er ihr Durchschnittsniveau Stockung der Warenzirkulation an oder unterbrochenen Flu der Warenmetamorphose.123

[Marx: Das Kapital, S. 211 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3525 (vgl. MEW Bd. 23, S. 154 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 203 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3517 (vgl. MEW Bd. 23, S. 147 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 195 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3509 (vgl. MEW Bd. 23, S. 142 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 187 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3501 (vgl. MEW Bd. 23, S. 134 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 179 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3493 (vgl. MEW Bd. 23, S. 130 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 171 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3485 (vgl. MEW Bd. 23, S. 125 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 163 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3477 (vgl. MEW Bd. 23, S. 120 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 155 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3469 (vgl. MEW Bd. 23, S. 115 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 147 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3461 (vgl. MEW Bd. 23, S. 109 ff.)]

 

 

 



[1] 国債の基礎知識は、財務省のQ&A国債Q&A(その2)を参照。国債等の現在高など情報は、国債等に関する情報を参照。

 200212月末現在の国債残高は、4783339億円である。

 

[2] 200323日朝日新聞朝刊に小林慶一郎客員論説委員による「早わかり『インフレターゲット論』」が掲載された。

「インフレターゲット」論が、

@  アメリカ経済学者クルーグマンの受け売りであること、

A  そのクルーグマンの提唱するモデルでは、「日銀が日本経済全体のマネーの量を自由自在に操作できると仮定している」こと、

B  その基本仮定自体が現実とあっていないこと(「日銀だけでなく民間の銀行部門が、日銀の供給する現金の10倍程度のマネー創造を行っていること」、

C  現状では、日銀が現金供給を増やしても、信用創造が行われないこと、

D  特例的に行われている日銀による民間銀行保有の株や土地の買い上げは、結局のところ、日銀の資産内容が現行の民間銀行と同じになるだけのこと、と言った諸論拠で、インフレターゲット論に否定的である。本HPの主張は、これによっても補強された。

 

「インフレが起きれば債務者が助かるから、不良債権問題もかなり軽減されるという期待」も、無理だとしている。

 いずれにしろ、現在の長期不況を貨幣的原因に求め、貨幣的な解決を図ろうとする発想自体に根本問題があろう。小林論文は、そこまできちんと踏み込んだものではない。

 生産構造の問題、世界の生産と市場構造の問題、日本が開発すべき新たな生産部門・市長開拓の問題、有効需要創出、その発見こそが、問題だが、ケインズ政策の最も肝心のことがどうして見なおされないのか、不思議である。

現実の社会では、まだ目に見えてきてはいないにしても、現在の日本が抱える問題を直視し、その問題解決のための製品開発に没頭している人々がいるはずで、その新たな芽の発見、促進こそが大切なことだろう。

たとえば、子持ちの女性が企業で働く条件はきわめて悪い。もっとしっかり働きたい.しかし、身近に託児所がないなど、せっかくの有能な女性が、その能力を十分に発揮で切るようになっていない。託児所があることで、子どもを預かるサービス(労働販売者)と子どもを預ける消費者(サービス労働購入者)の市場関係は創出される。子どもを預ける母親はその余裕の時間だけ充実した仕事(たとえば商品開発、自分の特技・専門性を生かした仕事そのための大学・大学院での研究)を行える。研究開発型の仕事こそは、地域・日本・世界で新しい需要創出(より人間的な、より充実した生活のための需要)を可能にする。サービス市場のいっそうの深化拡大こそは、現代社会の課題である。そこでの市民の能力開発・有効需要創出で大学・大学院はますます重要になる。

 

子どもを預かる、面倒を見ると言うこと一つ取っても,インターネット社会で、情報を有機的に統合し配信すれば、社会的分業(子どもを預かる人と子どもをアヅケル人のネットワーク・分業)ができ、ビアノ教師の女性はピアノ教室で教えることが可能になる一方、幼児を持ち、他人の幼児を預かる女性はいえのなかで社会的労働を行うことができ収入を得られるなど、可能性は非常にある。有効需要の相互連関は、社会の多くの人々が、その可能性を発掘すれば、立ち上がってくるものであろう。

その意味で、現在の不況・有効需要欠如を根本から打破出きるのは、市民の創意性・市民の需要であろう。

現在の閉塞状況は、この根本が見えないことにあろう。まさに「経済低迷の」基礎にある根本問題(現実の諸問題が提起している潜在的有効需要)がみえないことにあろう。

すなわち、インフレターゲット論の背景は、小林の指摘するように、一方では、「バブル崩壊後の12年間、相次ぐ景気対策と経済低迷による税収不足で、日本の政府債務残高早く700兆円(国内総生産の約14倍)に達している」現実にある。他方で、「財政政策(公共事業や減税)による景気刺激は、膨らんだ財政赤字を考えても、もう無理」だから、「その肩代わりを日銀の金融緩和でしてもらいたい」というものである。

じつに安易な政策提言が、インフレターゲット論なのである。

結局、問題を中央銀行である日銀によって解決しようとしう、じつにそこの浅いものなのである。経済問題の本質がまったく見えていないのが、インフレターゲット論である。

 

[3] 本日(24日)の『神奈川新聞』の記事「『個人向け国債』出足好調―投資家の安全志向鮮明、90機関で販売枠が完売―」によれば、「3日販売が始まった個人向け国際葉市況商品としては『異例の元本保証』(市場関係者)を前面に打ち出し」たもので、「元本我リスクがある通常の国債が大量に流通する市場に『一種のダブルスタンダードが持ちこまれた』(市場関係者)格好だ」と。

 「税収不足に悩む財政当局は1400兆円に上る個人金融資産を、なんとか国債購入に振り向かせるため、日本国債という金融商品に、市場の原則を逸脱した措置を導入せざるを得ないところまで追い詰められたといえる」と。

 すなわち、「通常の機関投資家向け国債は満期途中に売却すれば市況によっては元本を割りこむ。一方、個人向け国債は国家破産とならないかぎり、購入した個人がその損失をこうむることはない。逆に言うと暴落時の元本保証分は政府が新たに負担しなければならない」と。

 「こうまでして個人の購入を進めようとしているのは、お得意さんだった機関投資家の引き受けが限界に達しているため」で、「国債市場は現在、有利な投資先が見当たらない機関投資家が資金を集中させ、歴史的な超低金利が続いているが、内実は『一種のバブル状態で暴落への不安が常に頭をかすめる』(都銀債権担当者)危うい状態だ」と。

「政府の償還能力に対する疑念も海外の格付け機関が表明している。何かのきっかけで相場が暴落すれば、銀行の保有残高だけで約74兆円にも上る金融機関の資産は決定的な打撃を被る恐れがあり、今後増え続ける国債をこれまでのお得意さんに丸投げできない状況だ」と。

 「こうした中で個人投資家は財政当局にとって最後の頼みの綱となったといえる」と。

 

 「最後の頼みの綱」を非常に限定的に、窮余の一策としてやるのか、あるいはそれに市大に依存するのか、ことはかなり危険である。「個人投資家」が、本当に「個人投資家」であるのか? 個人投資家がバブル期のように銀行などから金を借りて、市場原理を逸脱する「元本保証」の国債購入に走り出すことはないのか? 

 

[4] 日銀マーケット・レビュー2003J1・花尻哲郎・二宮拓人・植木修康「米国の国債管理政策〜国債管理の手法と運用〜」、p.2.安定した信用と市場性(売買可能性)、流動性は相互関係にある。

[5] 日銀のHPhttp://www.boj.or.jp/wakaru/keiki/wms.htm#bは、以下のように定義し、説明している。

「マネーサプライ統計の定義

 マネーサプライとは、一言で言えば「経済全体に供給されている通貨の総量」です。より具体的には、「一般法人、個人、地方公共団体など通貨保有主体が保有する現金通貨や預金通貨など『通貨』を集計したもの」です。銀行や保険会社など金融機関や中央政府は、この通貨保有主体には含まれません。このため、これらの主体が資産として保有する現金や預金等はマネーサプライ統計に含まれません。

 日本銀行では、対象とする『通貨(マネー)』の範囲に応じて、M1、M2+CD、M3+CD、広義流動性の 4つの指標をマネーサプライ統計として作成・公表しています。これらの指標の定義は図表1のとおりです。

 M1は、最も容易に決済手段として用いることができる現金通貨(紙幣や貨幣)と預金通貨(当座預金や普通預金など要求払預金)により構成されます。

 M2+CDは、M1に国内銀行、信用金庫等の準通貨(大半は定期預金)およびCD(譲渡性預金)を加えたものです。定期預金は解約して現金通貨ないし預金通貨に替えれば決済手段になる金融商品です。このため、預金通貨に準じた性格を持つという意味で準通貨と呼ばれます。マネーサプライに関する 4指標の中では、M2+CDが、実体経済や物価との間における関係が相対的に安定的であるとされており、実際に注目度も高い指標です。日本銀行では、毎月の「金融経済月報」において、M2+CDの動向に言及しています。また、毎四半期の初めには、当該四半期におけるマネーサプライ(M2+CD前年比伸び率)の見通しも併せて公表しています。

 M3+CDは、M2+CDに、郵便貯金のほか、信用組合、労働金庫、農業協同組合、漁業協同組合等の預貯金および金銭信託を加えたものです。これらはいずれも、M2+CDと同じような預金としての性格を備えた商品ですが、速報性や統計精度が劣るなどの理由で、別途M3+CDとして分類されています。

 M3+CDまでが現金・預金ないし預金類似商品であるのに対し、広義流動性は、やや性格が異なります。広義流動性は、M3+CDに、何らかの「流動性」を有すると考えられる金融商品、具体的には、金銭信託以外の金銭の信託、投資信託、金融債、金融機関発行CP、債券現先・現金担保付債券貸借、国債・FB、外債を加えたものです。従って、かなり広い意味での"マネー"サプライ指標と位置付けられます。広義流動性は、このように幅広い金融商品を対象としていることから、それら金融商品間において預け替えの動きが生じた場合であっても、比較的安定的に推移するといった特色を有しています。実際、97年11月〜翌98年 2月にかけては、M2+CDが急速に伸びを高める一方、広義流動性は比較的安定的に推移しました。これは、97年11月に大手証券会社を含む金融機関が相次いで破綻し、金融システムに対する不安が高まったことから、投資信託を解約して預金に預け替える動きが急速に強まったことを反映したものでした。この時、投資信託からの資金流入を受けてM2+CDは急増しましたが、広義流動性は、預金、投資信託の双方を対象としていることから、そうした金融商品間における資金の流出入の影響を受けなかったわけです。」

 詳しい「マネーサプライ統計の解説」は、http://www.boj.or.jp/down/siryo/data/exms.pdf