初出:20030122
更新日:2003年2月5日(水)
国債[1]引受・株式購入などによる
通貨発行量増加政策‐「インフレターゲット論」‐批判
―潜在的な真の有効需要は目の前にあるのではないか?―
―世の支配的議論は、「思考停止」「感覚麻痺」に陥ってはいないか?―
「インフレターゲット論」は通貨発行量の増大を狙うが、その前提としての通貨発行量を規定する基礎要因とは?
現在、デフレ不況の苦し紛れに、「インフレターゲット」論が勢いを持ちつつあるかに見えるが、そのやり方は本当に経済学的に論理的に説明されているか?
これは批判的に検討しなければならない経済学の課題である[2]。
かつて、バブルの時代、さる有名な「近代経済学者」が、「もっともっと株価は上がりますよ」と主張していた。その彼は、「もっと上がる、もっと上がる」と全国で講演して歩き、バブルのお先棒を担ぎ、株価上昇と講演料の双方で「かなり儲けています」といっていた。
だが、ご承知のようにバブルは崩壊した。その御当人は、はたしていつの時点で、売りぬけたであろうか? 相当損をしたか? それとも程よく逃げることができたか?
ともあれ、「経済学者」のいうことが、正しいかどうか、よく検討しなければならない。
社会の表面で発言を続ける「経済学者」の言説の検証が必要である。
私の場合、身近な経験で、「経済学者」のいいかげんさをしっかり見た。
バブルといえば、九〇年代のアメリカ経済の「万年繁栄」的現象の時も、同じような言説に出くわした。
藁にもすがる人々に対し、「インフレターゲット論」者は期待をもたせているが、幻想をかきたてるだけではないか? 適切な合理的な説明をおこなっているか?
何年にもわたってインフレターゲット論がささやかれながら、実施されなかった根拠は何か?
貨幣的現象、通貨発行の量を、政府・日銀の国債引受・紙幣増刷という無理な手段でやっていいのか?[3]
通貨=紙幣の量は、実体経済を反映したものであってこそ、信用を維持できる。そうではないか?
無理な国債発行は、国債自体の信用をも低下させる。米国の国債管理政策の第1の目的は、「米国債の「リスクフリー資産」としての地位の維持[4]」がある。
日銀の通貨発行量に関するデータと説明(日銀HP参照)は、実体経済の変化と通貨発行量の平行関係を示してはいないか?
つまり、きちんとした実体的な有効需要をこそ、探し出すべきではないのか?
実体経済を活性化する真の意味での有効需要を発掘すべきではないのか?
その本来やるべきことをやらず、通貨発行量増大の強制的政策は、バブル再現だ。
今なお、バブルの経済学的反省が、学者によっても、政府関係者、政権政党などでもおこなわれていないことを意味する。政治を担当するもの、それに知恵を貸すもの(「経済学者」)が経済の論理・経済の法則を知らないのだ。
バブルの時代の苦い経験を早々と忘れていいのか?
本日付け(2003年1月23日)朝日新聞朝刊一〇ページの「どうする金融政策 5」で、慶応大学教授(「ミスター円」、元大蔵省国債金融局長)が、「インフレ目標は無意味」と、インフレターゲット論を批判している。そのかぎりで、私の主張と同じである。
彼は、適切にも、現在のデフレを、「構造的かつ世界規模のデフレ」と特徴づけている。
その要因は何か。
彼によれば、「要因は二つある。一つは、情報通信をはじめあらゆる分野で非常に速いスピードで起きている技術革新。経済や社会を根本的に変える第3次産業革命とも呼べる大変化だ。もう一つはグローバリゼーション。ここ10年間で中国や東欧、ロシア、インドなどの国々が市場経済に本格的に参入してきた」と。
まさに、ここでは、現在の世界的な「デフレ」傾向の基礎にある生産要因(生産性要因)をしっかりとらえている。
榊原によれば、「日本だけでなく中国、シンガポール、台湾などもデフレ基調だ.米国やドイツもインフレ率が低下している」と。
技術革新、すなわち労働の生産性の飛躍的発展・その世界的発展は、当然・必然にも、個々の商品の生産に必要な労働時間、労働量をひきさげ、普通の経済学的いい方では生産コストを引き下げる。「デフレ」現象の基礎に、世界的な生産力の飛躍的発展=市場の需要キャパシティに対する過剰生産化の傾向があることを確認する必要があろう。
しかし、榊原は首をかしげる発言を、次ぎにおこなう。
「インフレは、マネーの供給量を増やせば物価が上がるという貨幣的現象ではないのですか」との質問に対し、
「もはやマネーの定義が変わっている」と、「定義」の問題に摩り替えている。そして、「日本銀行券だけ出なく、クレジットカードなどマネー機能を持ついろいろなものがちまたにあふれ、マネーと取引との関係が途切れている」と。
これはおかしい。
日銀の「マネーサプライ統計」は、何を意味しているか?
マネーサプライに関しては、最近の多様なマネー機能を持つ預金を含めた体系的で厳密な定義[5]がある。(一覧表でわかりやすく示しているhttp://www.boj.or.jp/wakaru/keiki/wms.htm#hyo1)。
そして、そのマネーの供給は、統計的に確認され、ある安定した傾向性を示している。「マネーと取引の関係が途切れている」とは、いえない。
榊原の次ぎの発言とも矛盾する。次ぎの発言は、通貨量と経済実体の相互連関を主張し、通過量と経済の取引関係の対応関係を主張するものだからである。
すなわち、「日銀が貨幣をどんどん出せば、株や国債など供給の限られたストックの価格が上がるのは間違いない。いまは潤沢な流動性供給で余ったマネーが国債に流れこみ、国債価格が上昇している。だが、本来、株価は企業収益を、国債価格は国の財政を反映するものだ。マネー供給で株価を無理に上昇させても、企業収益が伴わなければバブルが発生するだけだ」と。
まさにこれこそ、妥当な認識だ。
問題は、企業収益(利潤)なのだ。
企業が収益を上げるためには、市場を確保し、拡大しなければならない。まさにここに問題がある。
日本の企業は、低コストを求めて、海外に生産拠点を移した。海外の生産拠点からの日本市場への進出と競争(今日の新聞ニュースでは、ミニバイク市場におけるスズキ、ホンダ、ヤマハの熾烈な競争が紹介されていた、台湾などの海外生産拠点からの輸入が競争を激化させている)。ここにも問題がある。
このような諸要因を無視したインフレターゲット論は、バブルの再現をもたらす危険性があるのだ。
ついで、「インフレ目標を掲げるべきだという政策論議をどう考えますか」との質問に、榊原は、
「今は経済理論が時代に追いつかない」と、年頭のテレビ番組で主張していた自説を述べている。
「グローバリゼーションの拡大によって、この数十年で経済に与えるストックの影響力が拡大した。多くのマクロ経済学者たちは、現実と理論が合わないから現実の方を変えようとしている。日銀が主張するように、金融緩和を重ねてもデフレに歯止めがかからないのは、日本経済の構造が大きく変わろうとしているからにほかならない。構造変化を無視したインフレ目標はナンセンスだ」と。
この最後の部分も妥当な認識だ。
世界の構造変化に対応しつつ日本の経済構造を変える必要がある.その過渡期だというのが基本的に大事な認識だろう。
日本が従来以上に、高度工業国家・高度工業地域として、経済構造を変化させていかなければならない状況だと見るべきだろう。
高度な科学技術立国こそ、現在の日本に世界から求めらていることだろう。現在の構造問題をそのようにとらえなおすべきだろう。
だが、青少年の教育環境はどうか?
今日の新聞投書欄には、母子家庭に対する冷たい仕打ちがでていたが、その子どもが大きくなってどのような立派な人間になるかは、日本社会にとって重要なことではないのか?
若い女性が子どもを産まなくなっている現実は何を意味するか? 日本の次ぎの時代を担う子どもが激減していいのか? 次の世代の子どもたちが高度に進んだ科学技術を喜んでマスターするように、環境は整えられているか? 人間を育成するための公的投資はどうなっているか? 必要のない道路や港湾をつくるのとは分けが違う。人間を豊かに育てることは、決して無だな投資ではないはずだ。
さて続いて、「外国にはインフレ目標の例があります」との質問に、榊原は、
「それは基本的にインフレを抑えるための政策で、デフレを克服するためではない。デフレ下でもインフレ目標策が一定の役割を果たしたニュージーランドなどは例外だ」とし、
「どういうプロセスで製品やサービスの価格が上がるのかという道筋が、世間の論議では示されていない。それを示さなければ、目標の設定はかえってマイナスに働く。積極派の人々はインフレ期待が生まれるというが、道筋すら見えないのにどうして期待が生まれるのか理解に苦しむ」と、至極妥当なことを主張している。
大蔵省元官僚で、「ミスター円」といわれるほど経済に精通しているはずの人でさえ、「理解に苦しむ」ような筋道=論理のわからないことをやろうというのが、現在の「インフレターゲット論」である。
「インフレ目標が導入されたら、どうなりますか」との質問に、榊原は、
「国債バブルが膨らんで長期金利がさがにさがるだけだろう」という。現実経済が必要としない貨幣量を増やし、貨幣供給を無理に増やしても、それは、余剰資金を生み出すだけであり、資金の需給バランスをますます悪くするだけ、利子率の低下を引き起こすだけ、ということになろう。
そして、「日銀が株をどんどん買っても、企業収益が伴わなければバブルをつくるだけ。」と。そのとおりだ。
まさに、榊原のいうとおり、「官邸や自民党も手詰まりになっているのだろう。」
だが、榊原は名案を持っているか?
「どうすればデフレから脱却できますか」との質問に、榊原は、
「脱却できない」とはっきり応えている。「年1‐2%の緩やかな物価下落は受け入れなければならない。それは消費者にとってもいいことだ」と。これは、名案でもなんでもないだろう。「官邸や自民党の手詰まり」を克服することにはならないだろう。「消費者」に対しては、種々の賃金切り下げが先行しているのではないか? とすれば、「いいことだ」とはいえないだろう。
まさに、その賃金引下げを暗示する議論が次ぎに展開する。
「デフレを不況につなげてはならず、そのためにはデフレ下でも企業が収益を上げられる体制を国がつくる必要がある。日本企業は90年代を通じて人件費や流通経費の高コスト体質が染みつき、収益の上がらない構造になった。それを打破するには規制緩和などが有効だ。たとえば、東名高速の料金を無料にするなど、政府による積極的な環境づくりが大切だ」と。
東名高速の料金は、どのように使われているか? その収支構造を明らかにしないと、「無料」政策を打ち出しても、説得力がない。
また、相変わらずの決まり文句、「規制緩和」を唱えても、今まで一体何年、「規制緩和」が唱えつづけられたのか、なぜ「規制緩和」が実現できなかったのかを明らかにしないと、意味ある提言とはいえない。
つまりは、大蔵省元官僚「ミスター円」にも、名案がないことだけははっきりしているのではなかろうか?
「人件費と流通経費」を下げるやり方には、絶対的なやり方(うえの事例で榊原が提案している「無料化」は絶対的な方策)と相対的なやり方がある。総コストの中で人件費部分や流通経費を相対的に引き下げるのが、相対的方策である。
これは、高付加価値の生産部門を活性化するしかないということだろう。
まさに日本経済は、いまこそ、高度工業国家のいっそうの高度化が求められている時代なのではないだろうか?
そのためには、まさに、科学技術の発展のためにこそ、投資をおこなうべきではないのか?
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労賃(時給、日給、月給、年俸など時間給Zeitlohnと出来高賃金)の根拠は、勤労する人々の生活の維持。
勤労する人々の勤労能力(労働能力)の維持費としての労賃・賃金。
粗悪なインフレ政策がおこなわれると、それは労賃・賃金・給料の引き下げを意味する。
現状そのままで労賃を通貨政策的に引き下げれば、資本の利潤部分が増大する。
資本は一息つく。
しかし、そのようなやり方は本当の景気回復に繋がるか?
労働分配率を引き下げたい資本の要求ははっきりしているが、それでは結局のところ、国民経済の最終民間需要が縮小するのではないか?
バブルのときのような金融的な問題の解決のし方、実体経済の基礎的裏づけを欠いた金融表面での政策は、危険ではないか?
戦争のような経済界の一部を短期的に潤すような「需要」は、結局は死の需要であり、経済を破壊する。
平和を構築し、強靭にするため有効需要の創出は?
平和のために必要なことを認識する学校大学における教育、
一般に教育体制の充実(人的・物的資源の大量投入)
地球的諸課題で日本産業が生産すべき諸製品はないのか、その課題・需要で日本産業しか生産できないものはないのか?
また、日本社会の中に、大きな潜在的な需要はないのか?
社会を発展させる需要はないのか?
膨大な国民経済的支出がありながら、それを何分の一にも軽減するような必要性がある分野はないのか?
生産力過剰の分野ではなく、新たな生産力が求められている分野はないのか?
新たな投資分野はないのか?
資金を持っている人々、投資機械を探している人々に、社会のなかの発展性のある人間的需要が見えていないだけではないのか?
研究開発型ヴェンチャー企業論の吉川教授と話していると、うえのようなことが疑問として湧いてくる。
吉川教授の言うようにシュンペーター的イノヴェーション・革新の深い検討が必要なのかもしれない。
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貨幣流通量の原理的な理論的把握のために
マルクス『資本論』第1巻
第三章 貨幣または商品流通
3. Das Geld oder die
Warenzirkulation
第一節 価値の尺度
1. Maß der Werte
「簡単にするために、本書ではどこでも金を貨幣商品として前提する。」
Ich setze überall in dieser
Schrift, der Vereinfachung halber, Gold als die Geldware voraus.
「金の第1の機能は、商品世界にその価値表現の材料を提供すること、または、諸商品価値を同名の大きさ、すなわち質的に同じで量的に比較の可能な大きさとして表わすことにある。」
Die erste Funktion des Goldes besteht
darin, der Warenwelt das Material ihres Wertausdrucks zu liefern oder die Warenwerte als gleichnamige Größen,
qualitativ gleiche und quantitativ vergleichbare, darzustellen.
現在の日銀券は日本国内で、ドルは合衆国(と世界)で、ユーロはユーロ圏で、商品の価値表現の材料となっている。
同じ質の、共通のものの一定量(一定時間)の表現として、相互に交換可能であり、相互に交換されている。
商品の価値を規定する世界の当該商品の社会的に必要な労働時間(抽象的人間労働)の変化によって、時々刻々、相互の交換比率は変化しているが、ある一定期間をとれば、安定的な相互交換比率となっている。(一ドル=119円、一ユーロ=123円など)
価値の実体は、抽象的人間労働である。世界中の人間の共通項、世界中の人間に共通な労働の一定時間である。だからこそ世界中で、一定比率で交換が可能となる。地球全体が一体化し、人類の相互関係が緊密になり、グローバル化が進展すればするほど、価値法則、抽象的人間労働による商品交換の法則は、貫徹することになる。
管理通貨制の成立の歴史は商品貨幣経済の発達を前提にし、資本主義の世界的拡大深化、機械制大工業の世界化・支配化、労働力商品の世界的な普及、を前提とする。労働と賃金との相互関係の大衆的日常的確認が、商業取引関係、商品交換関係の一般化とともに、紙幣(銀行券)の信用の基礎となる。
貨幣商品としての金が使われなくなると、価値法則自体が廃棄されたかのように誤解してきたのが、この半世紀ほどの現象である。貨幣が明くまでも、商品の価値の表現手段であったということ、価値の表現が適切におこなわれる手段と条件が整えば、その価値表現の妥当さが続く限り、中央銀行券(紙幣)が十分に通用するということ、これは、価値法則の貫徹を証明している。
金は、「諸価値の一般的尺度」として機能したのであり、諸商品の価値のものさし、尺度が適切であれば(価値実体を表現するものであれば)、機能するのである。
「こうして、金は諸価値の一般的尺度として機能し、ただこの機能によってのみ、金という独自な等価物商品はまず貨幣になるのである。」
So funktioniert es als allgemeines Maß der Werte,
und nur durch diese Funktion wird Gold, die spezifische Äquivalentware,
zunächst Geld.
「諸商品は、貨幣によって通訳可能になるのではない。逆である。すべての商品が価値としては対象化された人間労働であり、したがって、それら自体として通訳可能だからこそ、すべての商品は、自分たちの価値を同じ独自な一商品で共同に計ることができるのであり、また、そうすることによって、この独自な一商品を自分たちの共通な価値尺度すなわち貨幣に転化させることができるのである。価値尺度としての貨幣は、諸商品の内在的な価値尺度の、すなわち労働時間の、必然的な現象形態である((注50)。
Die Waren werden nicht durch das Geld
kommensurabel. Umgekehrt. Weil alle Waren als
Werte vergegenständlichte menschliche Arbeit, daher an und für sich kommensurabel sind, können sie
ihre Werte gemeinschaftlich in derselben spezifischen
Ware messen und diese dadurch in ihr gemeinschaftliches Wertmaß oder Geld
verwandeln. Geld als Wertmaß ist notwendige Erscheinungsform des immanenten
Wertmaßes der Waren, der Arbeitszeit.
注50 なぜ貨幣は直接に労働時間そのものを代表しないのか、なぜ、たとえば1枚の書き付けが労働時間を表わすというようにならないのか、という問いは、まったく簡単に、なぜ商品生産の基礎の上では労働生産物は商品として表わされなければならないのか、という問いに帰着する。なぜならば、商品という表示は、商品と貨幣商品とへの商品の二重化を含んでいるからである。または、なぜ私的労働は、直接に社会的な労働として、つまりそれの反対物として、取り扱われることができないのか、というといに帰着する。
Die Frage, warum das Geld nicht unmittelbar die
Arbeitszeit selbst repräsentiert, so daß z.B. eine Papiernote x Arbeitsstunden
vorstellt, kommt ganz einfach auf die Frage heraus, warum auf Grundlage der Warenproduktion die
Arbeitsprodukte sich als Waren darstellen müssen, denn die Darstellung der Ware
schließt ihre Verdopplung in Ware und Geldware ein. Oder warum Privatarbeit nicht als unmittelbar
gesellschaftliche Arbeit, als ihr Gegenteil, behandelt werden kann. [Marx: Das
Kapital, S. 1184 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 4498 (vgl.
MEW Bd. 23, S. 0 ff.)]
「一商品の金での価値表現―x量の商品A=y量の貨幣商品―は、その商品の貨幣形態またはその商品の価格である。
Der Wertausdruck einer Ware in
Gold - x Ware A = y Geldware - ist ihre Geldform oder ihr Preis.
「いまでは、鉄価値を社会的に通用するように表すためには、1トンの鉄=2オンスの金というような一つの単独な等式で十分である。この等式は、もはや、他の諸商品の価値等式といっしょに列をつくって行進する必要はない。というのは、等価物商品である金は、すでに貨幣の性格をもっているからである。それゆえ、諸商品の一般的な相対的価値形態は、いまでは再びその最初の単純な、または個別的な相対的価値形態の姿をもっているのである。
Eine vereinzelte
Gleichung, wie 1 Tonne Eisen = 2 Unzen Gold, genügt jetzt, um den Eisenwert
gesellschaftlich g・tig darzustellen. Die Gleichung braucht nicht länger in Reih und Glied mit
den Wertgleichungen der andren Waren aufzumarschieren, weil die Äquivalentware,
das Gold, bereits den Charakter von Geld besitzt. Die allgemeine relative
Wertform der Waren hat daher jetzt wieder die Gestalt ihrer ursprünglichen,
einfachen oder einzelnen relativen Wertform.
「他方、展開された相対的価値表現、または多くの相対的価値表現の無限の列は、貨幣商品の独自な相対的価値形態になる。しかし、この列は、いまではすでに諸商品価格のうちに社会的に与えられている。物価表を逆に読めば、貨幣の価値の多きさがありとあらゆる商品で表わされているが見いだされる。
Andrerseits wird der
entfaltete relative Wertausdruck oder die endlose Reihe relativer Wertausdrücke
zur spezifisch relativen Wertform der Geldware. Diese Reihe ist aber jetzt
schon gesellschaftlich gegeben in den Warenpreisen. Man lese die Quotationen
eines Preiskurants rückwärts und man findet die Wertgröße des Geldes in allen
möglichen Waren dargestellt.
<一言付言>・・・紙幣(日本銀行券)は、物価表をみれば、どのような価値を表現しているかを明かにしている。商品世界全体が紙幣(日本銀行券)で自らの価値量を価格で表現し、相互比較が可能なようにしている。
「商品の価格または貨幣形態は、商品の価値形態一般と同様に、商品の、手につかめる実在的な物体形態からは区別された、したがって単に観念的な、または心に描かれた形態である。鉄やリンネルや小麦などの価値は、目に見えないとはいえ、これらの物そのもののうちに存在する。この価値は、これらの物の金との同等性によって、いわばただこれらの物の頭のなかにあるだけの金との関係によって、心に描かれる。それだから、商品の番人は、これらの物の価格を外界に伝えるためには、自分の舌をこれらの物の頭のなかに突っ込むか、またはこれらの物に紙札をぶら下げるかしなければならないのである。
Der Preis
oder die Geldform der Waren ist, wie ihre Wertform überhaupt, eine von ihrer handgreiflich reellen Körperform
unterschiedne, also nur ideelle oder vorgestellte Form. Der Wert
von Eisen, Leinwand, Weizen usw. existiert, obgleich unsichtbar, in diesen
Dingen selbst; er wird vorgestellt durch ihre Gleichheit mit Gold, eine
Beziehung zum Gold, die sozusagen nur in ihren Köpfen spukt. Der
Warenhüter muß daher seine Zunge in ihren Kopf stecken oder ihnen Papierzettel
umhängen, um ihre Preise der Außenwelt mitzuteilen.59
「商品の番人がだれでも知っているように、彼が自分の商品の価値に価格という形態または心に描かれた金形態を与えてもまだまだ彼はその商品を金に化したわけではないし、また、彼は、何百万の商品価値を金で評価するためにも、現実の金は一片も必要としないのである。それゆえ、その価値尺度機能においては、貨幣は、ただ心に描かれただけの、すなわち観念的な貨幣として役立つのである。
Da der Ausdruck der Warenwerte in Gold ideell ist,
ist zu dieser Operation auch nur vorgestelltes oder ideelles Gold anwendbar.
Jeder Warenhüter weiß, daß er seine Waren noch lange nicht vergoldet, wenn er
ihrem Wert die Form des Preises oder vorgestellte Goldform gibt, und daß er
kein Quentchen wirkliches Gold braucht, um Millionen Warenwerte in Gold zu
schätzen. In seiner Funktion des Wertmaßes dient das Geld daher - als nur
vorgestelltes oder ideelles Geld.
<少し飛ぶが、紙幣=日銀券増刷によるインフレとの関連で、次ぎの一節は重要。>
「金」、現代では紙幣(日本では日銀券)が現実実体経済と関係のないやり方で増刷ないし発行されたとして、「金」を日銀券に読みかえれば、
「金の価値変動は金が価値尺度として機能することを妨げない。 金の価値変動にはすべての商品が同時に出くわすのだから、そのほかの事情が同じならば、金の価値変動は諸商品の相互の相対的価値には変化を起こさないのである。といっても、今では商品はみな以前よりも高いかまたは低い金価格で表わされるのではあるが。
Der Wertwechsel des Goldes verhindert
auch nicht seine Funktion als Wertmaß. Er trifft alle Waren gleichzeitig, läßt also
caeteris paribus ihre wechselseitigen relativen Werte unverändert, obgleich sie
sich nun alle in höheren oder niedrigeren Goldpreisen als zuvor ausdrücken.
<インフレターゲット論者は、「そのほかの事情が同じならば」一様に物価が上がることをどのように計算するか?彼らは本能的に、経済の動向に鋭いものと鈍いものがあること、物価の動向に敏感なものと鈍いものがあることを前提にしているとすれば、それは「そのほかの事情」が違うということである。極端な場合、労賃は据え置きで物価だけが上がれば、労働者の価値評価は下がり、利潤部分が増えることになる。そのように、インフレターゲット論者の頭には、ある物価はインフレの影響を直接的に受け、ある物価はインフレの影響を受けるのが間接的であり、あるいは時間がかかることを前提にしているのか。この点、直鉄彼らの議論で検証する必要がある。>
「一商品の価値を何らかの別の商品の使用価値で表わす場合と同様に、諸商品を金で評価する場合も、そこに前提されているのは、ただ、一定の時には一定量の金の生産には一定量の労働がかかるということだけである。商品価格の運動に関しては、一般に、以前に展開された単純な相対的価値表現の諸法則があてはまるのである。
Wie bei der Darstellung des Werts
einer Ware im Gebrauchswert irgendeiner andren Ware, ist auch bei der Schätzung
der Waren in Gold nur vorausgesetzt, daß zur
gegebnen Zeit die Produktion eines bestimmten Goldquantums ein gegebnes Quantum Arbeit kostet. In bezug
auf die Bewegung der Warenpreise überhaupt gelten die früher entwickelten
Gesetze des einfachen relativen Wertausdrucks.
<現在進行中の「デフレ」=低物価商品の大量的出現は、労賃コストの低い地域からの生産物流入と労働生産性上昇(技術革新)との相互の結果だとすれば、それらはいずれも必然的経済法則的に商品価値を下げるものであり、その価値を反映する価格表現、すなわち低価格化が必然的なものである。これを無理に、紙幣増刷によって価格維持しようというのは、無意味である。それは、紙幣の価値が下がることを意味する、価格を表面的にだけ維持する帰結をもたらす。>
「商品価格が一般的に上がるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が上がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が下がる場合だけである。逆に、商品価格が一般的に下がるのは、貨幣価値が変わらなければ、商品価値が下がる場合だけであり、商品価値が変わらなければ、貨幣価値が上がる場合だけである。
Die Warenpreise können nur
allgemein steigen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn die Warenwerte steigen;
bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert fällt. Umgekehrt. Die
Warenpreise können nur allgemein fallen, bei gleichbleibendem Geldwert, wenn
die Warenwerte fallen; bei gleichbleibenden Warenwerten, wenn der Geldwert
steigt.
<紙幣増刷によるインフレによって、商品によって価値が変化するものと価値が変わらなかったものとで、その受ける影響が違う。それに適応し、チャンスをつかむものとそうでないものとの違い、など>
「だから、貨幣価値の上昇は商品価格の比例的な低下を必然にし、貨幣価値の低下は商品価格の比例的な上昇を必然的にするということには決してならない。そうなるということは、ただ価値の変わらなかった商品だけにあてはまることである。たとえば、その価値が貨幣価値と同程度に同時に上がる商品は、同じ価格を保っている。もし商品の価値が貨幣価値よりも遅く上がるかはやく上がるかすれば、その商品の価格の低下または上昇は、商品の価値運動と貨幣の価値運動との差によって規定される、などなど。
Es folgt daher
keineswegs, daß steigender Geldwert proportionelles Sinken der Warenpreise und
fallender Geldwert proportionelles Steigen der Warenpreise bedingt. Dieses gilt
nur für Waren von unverändertem Wert. Solche Waren z.B., deren Wert gleichmäßig
und gleichzeitig steigt mit dem Geldwert, behalten dieselben Preise. Steigt ihr
Wert langsamer oder rascher als der Geldwert, so wird der Fall oder das Steigen
ihrer Preise bestimmt durch die Differenz zwischen ihrer Wertbewegung und der
des Geldes usw.
「価格は、商品に対象化されている労働の貨幣名である。それだから、商品と、その名が商品の価格であるところの貨幣量とが等価だということは、一つの同義反復である。というのは、およそ一商品の相対的価値表現はつねに二つの商品の等価性の表現だからである。しかし、商品の価値量としての価格は、その商品と貨幣との交換割合の指標だとしても、逆にその商品と貨幣との交換割合の指標は必然的にその商品の価値量の指標だということにはならない。
Der Preis ist der Geldname der in
der Ware vergegenständlichten Arbeit. Die Äquivalenz der Ware und des
Geldquantums, dessen Name ihr Preis ist, ist daher eine Tautologie71, wie ja
überhaupt der relative Wertausdruck einer Ware stets der Ausdruck der
Äquivalenz zweier Waren ist. Wenn aber der Preis als Exponent der Wertgröße der
Ware Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld, so folgt nicht umgekehrt,
daß der Exponent ihres Austauschverhältnisses mit Geld notwendig der Exponent
ihrer Wertgröße ist.
「かりに、同じ量の社会的必要労働が1クォーターの小麦と2ポンド・スターリング(約2分の1オンス)の金とで表わされるとしよう。2ポンド・スターリングは1クォーターの小麦の価値量の貨幣表現、すなわちその価格である。いま、事情が1クォーターの小麦を三ポンド・スターリングに値上げすることを許すか、またはそれを1ポンド・スターリングに値下げすることを強いるとすれば、1ポンド・スターリングと3ポンド・スターリングとは、この小麦の価値量の表現としては過小または過大であるが、それにもかかわらずそれらはこの小麦の価格である。というのは、第1には、それは小麦の価値形態、貨幣(表現)であり、第二には小麦と貨幣との交換割合の指標だからである。
Gesellschaftlich
notwendige Arbeit von gleicher Größe stelle sich in 1 Quarter Weizen und in 2
Pfd. St. (ungefähr 1/2 Unze Gold) dar. Die 2 Pfd. St. sind Geldausdruck der
Wertgröße des Quarter Weizens, oder sein Preis. Erlauben nun die Umstände, ihn
zu 3 Pfd. St., oder zwingen sie, ihn zu 1 Pfd. St. zu notieren, so sind 1 Pfd.
St. und 3 Pfd. St. als Ausdrücke der Wertgröße des Weizens zu klein oder zu
groß, aber sie sind dennoch Preise desselben, denn erstens sind sie seine
Wertform, Geld, und zweitens Exponenten seines Austauschverhältnisses mit Geld.
「生産条件が変わらないかぎり、または労働の生産力が変わらないかぎり、相変わらず1クォーターの小麦の再生産には同じだけの社会的労働時間が支出されなければならない。このような事情は、小麦生産者の意志にもたの商品所有者たちの意志にもかかわりがない。だから、商品の価値量は、社会的労働時間に対する或る必然的な、その商品の形成過程に内在する関係を表わしているのである。
Bei gleichbleibenden
Produktionsbedingungen oder gleichbleibender Produktivkraft der Arbeit muß nach
wie vor zur Reproduktion des Quarter Weizen gleich viel gesellschaftliche
Arbeitszeit verausgabt werden. Dieser Umstand hängt vom Willen weder des Weizenproduzenten noch der
andren Warenbesitzer ab. Die Wertgröße
der Ware drückt also ein notwendiges,
ihrem Bildungsprozeß immanentes Verhältnis
zur gesellschaftlichen Arbeitszeit
aus.
「価値量が価格に転化されるとともに、この必然的な関係は、一商品とその外にある貨幣商品との交換割合として現れる。しかし、この割合では、商品の価値量が表現されうるとともに、また、与えられた事情の元でその商品が手放される場合の価値量以上または以下も表現されうる。だから、価格と価値量との量的な不一致の可能性、または価値量からの価格の偏差の可能性は、価格形態そのもののうちにあるのである。
Mit der
Verwandlung der Wertgröße in Preis erscheint dies notwendige Verhältnis als
Austauschverhältnis einer Ware mit der außer ihr existierenden Geldware. In
diesem Verhältnis kann sich aber ebensowohl die Wertgröße der Ware ausdrücken,
als das Mehr oder Minder, worin sie unter gegebnen Umstämnen veräußerlich ist.
Die Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Preis und Wertgröße, oder
der Abweichung des Preises von der Wertgröße, liegt also in der Preisform
selbst.
「このことはけっしてこの形態の欠陥ではなく、むしろ逆に、この形態を、一つの生産様式の、すなわちそこでは原則がただ無原則性の盲目的に作用する平均法則としてのみ貫かれうるような生産様式の、適当な形態にするのである。
Es ist dies kein Mangel dieser Form, sondern macht
sie umgekehrt zur adäquaten Form einer Produktionsweise, worin sich die Regel
nur als blindwirkendes Durchschnittsgesetz
der Regellosigkeit durchsetzen kann.
Die Preisform läßt jedoch nicht nur die
Möglichkeit quantitativer Inkongruenz zwischen Wertgröße und Preis, d.h.
zwischen der Wertgröße und ihrem eignen Geldausdruck zu, sondern kann einen
qualitativen Widerspruch beherbergen, so daß der Preis überhaupt aufhört,
Wertausdruck zu sein, obgleich Geld nur die Wertform der Waren ist. Dinge, die
an und f・ sich keine Waren sind, z.B. Gewissen, Ehre usw., knnen ihren Besitzern
f・ Geld feil sein und so durch ihren Preis die Warenform erhalten. Ein Ding
kann daher formell einen Preis haben, ohne einen Wert zu haben. Der
Preisausdruck wird hier imagin舐 wie gewisse Gr゚en der Mathematik.
Andrerseits kann auch die imagin舐e Preisform, wie z.B. der Preis des
unkultivierten Bodens, der keinen Wert hat, weil keine menschliche Arbeit in
ihm vergegenst舅dlicht ist, ein wirkliches Wertverh舁tnis oder von ihm abgeleitete Beziehung
verbergen.
Wie die relative Wertform ・erhaupt, dr・kt der Preis den
Wert einer Ware, z.B. einer Tonne Eisen, dadurch aus, da゚ ein bestimmtes
Quantum トquivalent, z.B. eine Unze Gold, unmittelbar austauschbar mit Eisen, aber
keineswegs umgekehrt, da゚ seinerseits das Eisen unmittelbar austauschbar mit Gold ist. Um also
praktisch die Wirkung eines Tauschwerts auszu・en, mu゚ die Ware ihren nat・lichen Leib
abstreifen, sich aus nur vorgestelltem Gold in wirkliches Gold verwandeln,
obgleich diese Transsubstantiation ihr サsaurerォ ankommen mag als dem Hegelschen サBegriffォ der ワbergang aus der Notwendigkeit
in die Freiheit oder einem Hummer das Sprengen seiner Schale oder dem
Kirchenvater Hieronymus das Abstreifen des alten Adam.72 Neben ihrer reellen
Gestalt, Eisen z.B., kann die Ware im Preise ideelle Wertgestalt oder
vorgestellte Goldgestalt besitzen, aber sie kann nicht zugleich wirklich Eisen
und wirklich Gold sein. F・ ihre Preisgebung gen・t es, vorgestelltes Gold ihr gleichzusetzen. Durch Gold ist sie zu
ersetzen, damit sie ihrem Besitzer den Dienst eines allgemeinen トquivalents leiste.
Tr舩e der Besitzer des Eisens z.B. dem Besitzer einer weltlustigen Ware gegen・er und verwiese ihn
auf den Eisenpreis, der Geldform sei, so w・de der Weltlustige antworten, wie im
Himmel der heilige Petrus dem Dante, der ihm die Glaubensformel hergesagt:
サAssai bene ・trascorsa
D'esta moneta gi・la lega e'l peso,
Ma dimmi se tu l'hai nella tua borsa.ォ
Die Preisform schlie゚t die Ver舫゚erlichkeit der
Waren gegen Geld und die Notwendigkeit dieser Ver舫゚erung ein. Andrerseits funktioniert Gold
nur als ideelles Wertma゚, weil es sich bereits im Austauschproze゚ als Geldware umtreibt. Im ideellen Ma゚ der Werte lauert
daher das harte Geld.
2.
Zirkulationsmittel
a) Die
Metamorphose der Waren
Man sah, da゚ der Austauschproze゚ der Waren
widersprechende und einander ausschlie゚ende Beziehungen einschlie゚t. Die Entwicklung
der Ware hebt diese Widerspr・he nicht auf, schafft aber die Form, worin sie sich bewegen knnen. Dies ist ・erhaupt die
Methode, wodurch sich wirkliche Widerspr・he lsen. Es ist z.B. ein Widerspruch, da゚ ein Krper best舅dig in einen andren
f舁lt und ebenso best舅dig von ihm wegflieht. Die Ellipse ist eine der Bewegungsformen, worin
dieser Widerspruch sich ebensosehr verwirklicht als lst.
Soweit der Austauschproze゚ Waren aus der
Hand, worin sie Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand ・ertr臠t, worin sie
Gebrauchswerte, ist er gesellschaftlicher Stoffwechsel. Das Produkt einer n・zlichen
Arbeitsweise ersetzt das der andren. Einmal angelangt zur Stelle, wo sie als
Gebrauchswert dient, f舁lt die Ware in die Sph舐e der Konsumtion aus der Sph舐e des Warenaustauschs. Letztre allein
interessiert uns hier. Wir haben also den ganzen Proze゚ nach der Formseite
zu betrachten, also nur den Formwechsel oder die Metamorphose der Waren, welche
den gesellschaftlichen Stoffwechsel vermittelt.
Die durchaus mangelhafte
Auffassung dieses Formwechsels ist, abgesehn von Unklarheit ・er den Wertbegriff
selbst, dem Umstand geschuldet, da゚ jeder Formwechsel einer Ware sich
vollzieht im Austausch zweier Waren, einer gemeinen Ware und der Geldware. H舁t man an diesem
stofflichen Moment, dem Austausch von Ware mit Gold, allein fest, so ・ersieht man grade,
was man sehn soll, n舂lich was sich mit der Form zutr臠t. Man ・ersieht, da゚ Gold als blo゚e Ware nicht Geld
ist und da゚ die andren Waren sich selbst in ihren Preisen auf Gold als ihre eigne
Geldgestalt beziehn.
Die Waren gehn zun臘hst unvergoldet,
unverzuckert, wie der Kamm ihnen gewachsen ist, in den Austauschproze゚ ein. Er produziert
eine Verdopplung der Ware in Ware und Geld, einen 舫゚eren Gegensatz,
worin sie ihren immanenten Gegensatz von Gebrauchswert und Wert darstellen. In
diesem Gegensatz treten die Waren als Gebrauchswerte dem Geld als Tauschwert
gegen・er. Andrerseits sind beide Seiten des Gegensatzes Waren, also Einheiten von
Gebrauchswert und Wert. Aber diese Einheit von Unterschieden stellt sich auf
jedem der beiden Pole umgekehrt dar und stellt dadurch zugleich deren
Wechselbeziehung dar. Die Ware ist reell Gebrauchswert, ihr Wertsein erscheint nur
ideell im Preis, der sie auf das gegen・erstehende Gold als ihre reelle
Wertgestalt bezieht. Umgekehrt gilt das Goldmaterial nur als Wertmateriatur,
Geld. Es ist reell daher Tauschwert. Sein Gebrauchswert erscheint nur noch
ideell in der Reihe der relativen Wertausdr・ke, worin es sich auf die gegen・erstehenden Waren
als den Umkreis seiner reellen Gebrauchsgestalten bezieht. Diese gegens舩zlichen Formen der
Waren sind die wirklichen Bewegungsformen ihres Austauschprozesses.
Begleiten wir nun
irgendeinen Warenbesitzer, unsren altbekannten Leinweber z.B., zur Szene des
Austauschprozesses, dem Warenmarkt. Seine Ware, 20 Ellen Leinwand, ist
preisbestimmt. Ihr Preis ist 2 Pfd. St. Er tauscht sie aus gegen 2 Pfd. St.
und, Mann von altem Schrot und Korn, tauscht die 2 Pfd. St. wieder aus gegen
eine Familienbibel vom selben Preis. Die Leinwand, f・ ihn nur Ware,
Werttr臠er, wird ent舫゚ert gegen Gold, ihre Wertgestalt, und aus dieser Gestalt r・kver舫゚ert gegen eine
andre Ware, die Bibel, die aber als Gebrauchsgegenstand ins Weberhaus wandern
und dort Erbauungsbed・fnisse befriedigen soll. Der Austauschproze゚ der Ware vollzieht sich also in zwei
entgegengesetzten und einander erg舅zenden Metamorphosen - Verwandlung der
Ware in Geld und ihre R・kverwandlung aus Geld in Ware.73 Die Momente der Warenmetamorphose sind
zugleich H舅del des Warenbesitzers - Verkauf, Austausch der Ware mit Geld; Kauf,
Austausch des Gelds mit Ware, und Einheit beider Akte: verkaufen, um zu kaufen.
Besieht sich der Leinweber
nun das Endresultat des Handels, so besitzt er Bibel statt Leinwand, statt
seiner urspr・glichen Ware eine andre vom selben Wert, aber verschiedner N・zlichkeit. In
gleicher Weise eignet er sich seine andren Lebens- und Produktionsmittel an.
Von seinem Standpunkt vermittelt der ganze Proze゚ nur den Austausch seines Arbeitsprodukts
mit fremdem Arbeitsprodukt, den Produktenaustausch.
Der Austauschproze゚ der Ware vollzieht
sich also in folgendem Formwechsel
Ware - Geld - Ware.
W - G - W.
Nach ihrem stofflichen Inhalt ist die Bewegung W - W, Austausch von Ware
gegen Ware, Stoffwechsel der gesellschaftlichen Arbeit, in dessen Resultat der
Proze゚ selbst erlischt.
W - G. Erste Metamorphose
der Ware oder Verkauf. Das ワberspringen des Warenwerts aus dem
Warenleib in den Goldleib ist, wie ich es anderswo bezeichnet, der Salto
mortale der Ware. Mi゚lingt er, so ist zwar nicht die Ware
geprellt, wohl aber der Warenbesitzer. Die gesellschaftliche Teilung der Arbeit
macht seine Arbeit ebenso einseitig als seine Bed・fnisse vielseitig.
Ebendeswegen dient ihm sein Produkt nur als Tauschwert. Allgemeine
gesellschaftlich g・tige トquivalentform erh舁t es aber nur im Geld, und das Geld befindet sich in fremder Tasche. Um es
herauszuziehn, mu゚ die Ware vor allem Gebrauchswert f・ den Geldbesitzer sein, die auf sie verausgabte Arbeit also in
gesellschaftlich n・zlicher Form verausgabt sein oder sich als
Glied der gesellschaftlichen Teilung der Arbeit bew臧ren. Aber die Teilung der Arbeit ist ein naturw・hsiger Produktionsorganismus. dessen F臈en hinter dem R・ken der Warenproduzenten gewebt wurden und sich fortweben. Vielleicht ist
die Ware Produkt einer neuen Arbeitsweise, die ein neu aufgekommenes Bed・fnis zu befriedigen vorgibt oder auf eigne Faust ein Bed・fnis erst hervorrufen will. Gestern noch eine Funktion unter den vielen
Funktionen eines und desselben Warenproduzenten, rei゚t sich eine besondre Arbeitsverrichtung heute vielleicht los von diesem
Zusammenhang, verselbst舅digt sich und schickt ebendeswegen ihr
Teilprodukt als selbst舅dige Ware zu Markt. Die Umst舅de mgen reif oder unreif sein f・ diesen Scheidungsproze゚. Das Produkt befriedigt heute ein
gesellschaftliches Bed・fnis. Morgen wird es vielleicht ganz oder
teilweise von einer 臧nlichen Produktenart aus seinem Platze
verdr舅gt. Ist auch die Arbeit, wie die unsres
Leinwebers, patentiertes Glied der gesellschaftlichen Arbeitsteilung, so ist
damit noch keineswegs der Gebrauchswert grade seiner 20 Ellen Leinwand
garantiert. Wenn das gesellschaftliche Bed・fnis f・ Leinwand, und es hat sein Ma゚ wie alles andre,
bereits durch nebenbuhlerische Leinweber ges舩tigt ist, wird das
Produkt unsres Freundes ・ersch・sig, ・erfl・sig und damit nutzlos. Einem geschenkten Gaul
sieht man nicht ins Maul, aber er beschreitet nicht den Markt, um Pr舖ente zu machen. Gesetzt aber, der Gebrauchswert seines Produkts bew臧re sich und Geld werde daher angezogen von der Ware. Aber nun fragt sich's,
wieviel Geld? Die Antwort ist allerdings schon antizipiert im Preis der Ware,
dem Exponenten ihrer Wertgr゚e. Wir sehn ab von etwaigen rein
subjektiven Rechenfehlern des Warenbesitzers, die auf dem Markt sofort objektiv
korrigiert werden. Er soll auf sein Produkt nur den gesellschaftlich
notwendigen Durchschnitt von Arbeitszeit verausgabt haben. Der Preis der Ware
ist also nur Geldname des in ihr vergegenst舅dlichten Quantums
gesellschaftlicher Arbeit. Aber ohne Erlaubnis und hinter dem R・ken unsres Leinwebers gerieten die altverb・gten
Produktionsbedingungen der Leinweberei in G舐ung. Was gestern
zweifelsohne gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit zur Produktion einer Elle
Leinwand war, hrt heute auf, es zu sein, wie der
Geldbesitzer eifrigst demonstriert aus den Preisquotationen verschiedner
Nebenbuhler unsres Freundes. Zu seinem Ungl・k gibt's viele Weber auf
der Welt. Gesetzt endlich, jedes auf dem Markt vorhandne St・k Leinwand enthalte nur gesellschaftlich notwendige Arbeitszeit. Trotzdem
kann die Gesamtsumme dieser St・ke ・erfl・sig verausgabte Arbeitszeit enthalten. Vermag der
Marktmagen das Gesamtquantum Leinwand, zum Normalpreis von 2 sh. per Elle,
nicht zu absorbieren, so beweist das, da゚ ein zu gro゚er Teil der gesellschaftlichen Gesamtarbeitszeit in der Form der
Leinweberei verausgabt wurde. Die Wirkung ist dieselbe, als h舩te jeder einzelne Leinweber mehr als die gesellschaftlich notwendige
Arbeitszeit auf sein individuelles Produkt verwandt. Hier hei゚t's: Mitgefangen, mitgehangen. Alle Leinwand auf dem Markt gilt nur als ein
Handelsartikel, jedes St・k nur als aliquoter Teil. Und in der Tat
ist der Wert jeder individuellen Elle ja auch nur die Materiatur desselben
gesellschaftlich bestimmten Quantums gleichartiger menschlicher Arbeit.A7
Man sieht, die Ware liebt
das Geld, aber サthe course of true love never does run
smoothォ. Ebenso naturw・hsig zuf舁lig wie die qualitative ist die quantitative Gliederung des
gesellschaftlichen Produktionsorganismus, der seine membra disjecta im System
der Teilung der Arbeit darstellt. Unsre Warenbesitzer entdecken daher, da゚ dieselbe Teilung der Arbeit, die sie zu unabh舅gigen Privatproduzenten, den gesellschaftlichen Produktionsproze゚ und ihre Verh舁tnisse in diesem Proze゚ von ihnen selbst unabh舅gig macht, da゚ die Unabh舅gigkeit der Personen voneinander sich in
einem System allseitiger sachlicher Abh舅gigkeit erg舅zt.
Die Teilung der Arbeit verwandelt
das Arbeitsprodukt in Ware und macht dadurch seine Verwandlung in Geld
notwendig. Sie macht es zugleich zuf舁lig, ob diese
Transsubstantiation gelingt. Hier ist jedoch das Ph舅omen rein zu betrachten, sein normaler Vorgang also vorauszusetzen. Wenn es
・rigens ・erhaupt vorgeht, die
Ware also nicht unverk舫flich ist, findet stets ihr Formwechsel
statt, obgleich abnormal in diesem Formwechsel Substanz - Wertgr゚e - eingeb・t oder zugesetzt werden mag.
Dem einen Warenbesitzer
ersetzt Gold seine Ware und dem andren Ware sein Gold. Das sinnf舁lige Ph舅omen ist der H舅de- oder Stellenwechsel
von Ware und Gold, von 20 Ellen Leinwand und 2 Pfd. St., d.h. ihr Austausch.
Aber womit tauscht sich die Ware aus? Mit ihrer eignen allgemeinen Wertgestalt.
Und womit das Gold? Mit einer besondren Gestalt seines Gebrauchswerts. Warum
tritt Gold der Leinwand als Geld gegen・er? Weil ihr Preis von 2
Pfd. St. oder ihr Geldname sie bereits auf Gold als Geld bezieht. Die Ent舫゚erung der urspr・glichen Warenform vollzieht sich durch die
Ver舫゚erung der Ware, d.h. in dem Augenblicke, wo ihr
Gebrauchswert das in ihrem Preis nur vorgestellte Gold wirklich anzieht. Die
Realisierung des Preises oder der nur ideellen Wertform der Ware ist daher
zugleich umgekehrt Realisierung des nur ideellen Gebrauchswerts des Geldes, die
Verwandlung von Ware in Geld zugleich Verwandlung von Geld in Ware. Der eine
Proze゚ ist zweiseitiger Proze゚, vom Pol des Warenbesitzers Verkauf, vom Gegenpol des Geldbesitzers Kauf.
Oder Verkauf ist Kauf, W - G zugleich G - W.74
Wir kennen bisher kein konomisches Verh舁tnis der Menschen au゚er dem von Warenbesitzern, ein Verh舁tnis, worin sie fremdes
Arbeitsprodukt nur aneignen, indem sie eignes entfremden. Einem Warenbesitzer
kann der andre daher nur als Geldbesitzer gegen・ertreten, entweder weil
sein Arbeitsprodukt von Natur die Geldform besitzt, also Geldmaterial ist, Gold
usw., oder weil seine eigne Ware sich bereits geh舫tet und ihre urspr・gliche Gebrauchsform abgestreift hat. Um als Geld zu funktionieren, mu゚ das Gold nat・lich an irgendeinem Punkt in den
Warenmarkt eintreten. Dieser Punkt liegt an seiner Produktionsquelle, wo es
sich als unmittelbares Arbeitsprodukt mit andrem Arbeitsprodukt von demselben
Wert austauscht. Aber von diesem Augenblick stellt es best舅dig realisierte Warenpreise vor.75 Abgesehn vom Austausch des Golds mit
Ware an seiner Produktionsquelle, ist das Gold in der Hand jedes Warenbesitzers
die ent舫゚erte Gestalt seiner ver舫゚erten Ware, Produkt des Verkaufs oder der ersten Warenmetamorphose W - G.76
Ideelles Geld oder Wertma゚ wurde das Gold, weil alle Waren ihre
Werte in ihm ma゚en und es so zum vorgestellten Gegenteil
ihrer Gebrauchsgestalt, zu ihrer Wertgestalt machten. Reelles Geld wird es,
weil die Waren durch ihre allseitige Ver舫゚erung es zu ihrer
wirklich ent舫゚erten oder verwandelten Gebrauchsgestalt und daher
zu ihrer wirklichen Wertgestalt machen. In ihrer Wertgestalt streift die Ware
jede Spur ihres naturw・hsigen Gebrauchswerts und der besondren n・zlichen Arbeit ab, welcher sie den Ursprung verdankt, um sich in die
gleichfrmige gesellschaftliche Materiatur
unterschiedsloser menschlicher Arbeit zu verpuppen. Man sieht dem Geld daher
nicht an, welchen Schlags die in es verwandelte Ware. Eine sieht in ihrer
Geldform grade aus wie die andre. Geld mag daher Dreck sein, obgleich Dreck
nicht Geld ist. Wir wollen annehmen, da゚ die zwei Goldf・hse, wogegen unser Leinweber seine Ware ver舫゚ert, die verwandelte
Gestalt eines Quarters Weizen sind. Der Verkauf der Leinwand, W - G, ist
zugleich ihr Kauf, G - W. Aber als Verkauf der Leinwand beginnt dieser Proze゚ eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil endet, mit dem Kauf der Bibel; als
Kauf der Leinwand endet er eine Bewegung, die mit seinem Gegenteil begann, mit
dem Verkauf des Weizens. W - G (Leinwand - Geld), diese erste Phase von W - G -
W (Leinwand - Geld - Bibel), ist zugleich G - W (Geld - Leinwand), die letzte
Phase einer andren Bewegung W - G - W (Weizen - Geld - Leinwand). Die erste
Metamorphose einer Ware, ihre Verwandlung aus der Warenform in Geld, ist stets
zugleich zweite entgegengesetzte Metamorphose einer andren Ware, ihre R・kverwandlung aus der Geldform in Ware.77
G - W. Zweite oder Schlu゚metamorphose der Ware: Kauf. - Weil die ent舫゚erte Gestalt aller
andren Waren oder das Produkt ihrer allgemeinen Ver舫゚erung, ist Geld die absolut ver舫゚erliche Ware. Es liest
alle Preise r・kw舐ts und spiegelt sich so
in allen Warenleibern als dem hingebenden Material seiner eignen Warenwerdung.
Zugleich zeigen die Preise, die Liebesaugen, womit ihm die Waren winken, die
Schranke seiner Verwandlungsf臧igkeit, n舂lich seine eigne Quantit舩. Da die Ware in ihrer Geldwerdung
verschwindet, sieht man dem Geld nicht an, wie es in die H舅de seines Besitzers gelangt oder was in es verwandelt ist. Non olet, wessen
Ursprungs auch immer. Wenn es einerseits verkaufte Ware repr舖entiert, so andrerseits kaufbare Waren.78
G - W, der Kauf ist
zugleich Verkauf, W - G; die letzte Metamorphose einer Ware daher zugleich die
erste Metamorphose einer andren Ware. F・ unsren Leinweber schlie゚t der Lebenslauf seiner Ware mit der Bibel, worin er die 2 Pfd. St. r・kverwandelt hat. Aber der Bibelverk舫fer setzt die vom
Leinweber gelsten 2 Pfd. St. in Kornbranntwein um. G -
W, die Schlu゚phase von W - G - W (Leinwand - Geld - Bibel), ist
zugleich W - G, die erste Phase von W - G - W (Bibel - Geld - Kornbranntwein).
Da der Warenproduzent nur ein einseitiges Produkt liefert, verkauft er es oft
in gr゚eren Massen, w臧rend seine vielseitigen
Bed・fnisse ihn zwingen, den realisierten Preis oder die
gelste Geldsumme best舅dig in zahlreiche K舫fe zu zersplittern. Ein Verkauf m・det daher in viele K舫fe verschiedner Waren. Die Schlu゚metamorphose einer Ware
bildet so eine Summe von ersten Metamorphosen andrer Waren.
Betrachten wir nun die
Gesamtmetamorphose einer Ware, z.B. der Leinwand, so sehn wir zun臘hst, da゚ sie aus zwei entgegengesetzten und einander erg舅zenden Bewegungen besteht, W - G und G - W. Diese zwei entgegengesetzten
Wandlungen der Ware vollziehn sich in zwei entgegengesetzten gesellschaftlichen
Prozessen des Warenbesitzers und reflektieren sich in zwei entgegengesetzten konomischen Charakteren desselben. Als Agent des Verkaufs wird er Verk舫fer, als Agent des Kaufs K舫fer. Wie aber in jeder
Wandlung der Ware ihre beiden Formen, Warenform und Geldform, gleichzeitig
existieren, nur auf entgegengesetzten Polen, so steht demselben Warenbesitzer
als Verk舫fer ein andrer K舫fer und als K舫fer ein andrer Verk舫fer gegen・er. Wie dieselbe Ware
die zwei umgekehrten Wandlungen sukzessiv durchl舫ft, aus Ware Geld und
aus Geld Ware wird, so wechselt derselbe Warenbesitzer die Rollen von Verk舫fer und K舫fer. Es sind dies also keine festen,
sondern innerhalb der Warenzirkulation best舅dig die Personen
wechselnden Charaktere.
Die Gesamtmetamorphose
einer Ware unterstellt, in ihrer einfachsten Form, vier Extreme und drei
personae dramatis. Erst tritt der Ware das Geld als ihre Wert-Gestalt gegen・er, die jenseits, in fremder Tasche, sachlich harte Realit舩 besitzt. So tritt dem Warenbesitzer ein Geldbesitzer gegen・er. Sobald die Ware nun in Geld verwandelt, wird letztres zu ihrer
verschwindenden トquivalentform, deren Gebrauchswert oder
Inhalt diesseits in andren Warenkrpern existiert. Als
Endpunkt der ersten Warenwandlung ist das Geld zugleich Ausgangspunkt der zweiten.
So wird der Verk舫fer des ersten Akts K舫fer im zweiten, wo ihm ein dritter Warenbesitzer als Verk舫fer gegen・ertritt.79
Die beiden umgekehrten
Bewegungsphasen der Warenmetamorphose bilden einen Kreislauf: Warenform,
Abstreifung der Warenform, R・kkehr zur Warenform. Allerdings ist die
Ware selbst hier gegens舩zlich bestimmt. Am Ausgangspunkt ist sie
Nicht- Gebrauchswert, am Endpunkt Gebrauchswert f・ ihren Besitzer. So
erscheint das Geld erst als der feste Wertkristall, worin sich die Ware
verwandelt, um hinterher als ihre blo゚e トquivalentform zu zerrinnen.
Die zwei Metamorphosen, die
den Kreislauf einer Ware, bilden zugleich die umgekehrten Teilmetamorphosen
zweier andren Waren. Dieselbe Ware (Leinwand) erffnet die Reihe ihrer eignen
Metamorphosen und schlie゚t die Gesamtmetamorphose einer andren Ware
(des Weizens). W臧rend ihrer ersten Wandlung, dem Verkauf,
spielt sie diese zwei Rollen in eigner Person. Als Goldchrysalide dagegen,
worin sie selbst den Weg alles Fleisches wandert, endet sie zugleich die erste
Metamorphose einer dritten Ware. Der Kreislauf, den die Metamorphosenreihe
jeder Ware beschreibt, verschlingt sich also unentwirrbar mit den Kreisl舫fen andrer Waren. Der Gesamtproze゚ stellt sich dar als
Warenzirkulation.
Die Warenzirkulation ist
nicht nur formell, sondern wesentlich vom unmittelbaren Produktenaustausch
unterschieden. Man werfe nur einen R・kblick auf den Vorgang.
Der Leinweber hat unbedingt Leinwand mit Bibel vertauscht, eigne Ware mit
fremder. Aber dies Ph舅omen ist nur wahr f・ ihn. Der Bibelagent, der dem K・len Hei゚es vorzieht, dachte nicht daran. Leinwand f・ Bibel einzutauschen,
wie der Leinweber nicht davon wei゚, da゚ Weizen gegen seine Leinwand eingetauscht worden ist usw. Die Ware des B
ersetzt die Ware des A, aber A und B tauschen nicht wechselseitig ihre Waren
aus. Es kann in der Tat vorkommen, da゚ A und B wechselweis
voneinander kaufen, aber solche besondre Beziehung ist keineswegs durch die
allgemeinen Verh舁tnisse der Warenzirkulation bedingt.
Einerseits sieht man hier, wie der Warenaustausch die individuellen und lokalen
Schranken des unmittelbaren Produktenaustausches durchbricht und den
Stoffwechsel der menschlichen Arbeit entwickelt. Andrerseits entwickelt sich
ein ganzer Kreis von den handelnden Personen unkontrollierbarer,
gesellschaftlicher Naturzusammenh舅ge. Der Weber kann nur
Leinwand verkaufen, weil der Bauer Weizen, Hei゚sporn nur die Bibel,
weil der Weber Leinwand, der Destillateur nur gebranntes Wasser, weil der andre
das Wasser des ewigen Lebens bereits verkauft hat usw.
Der Zirkulationsproze゚ erlischt deswegen auch nicht, wie der unmittelbare Produktenaustausch, in
dem Stellen- oder H舅dewechsel der Gebrauchswerte. Das Geld
verschwindet nicht, weil es schlie゚lich aus der
Metamorphosenreihe einer Ware herausf舁lt. Es schl臠t immer nieder auf eine durch die Waren ger舫mte Zirkulationsstelle.
Z.B. in der Gesamtmetamorphose der Leinwand: Leinwand - Geld - Bibel f舁lt erst die Leinwand aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle, f舁lt dann die Bibel aus der Zirkulation, Geld tritt an ihre Stelle. Der
Ersatz von Ware durch Ware l葹t zugleich an dritter Hand die Geldware h舅gen.80 Die Zirkulation schwitzt best舅dig Geld aus.
Nichts kann alberner sein
als das Dogma, die Warenzirkulation bedinge ein notwendiges Gleichgewicht der
Verk舫fe und K舫fe, weil jeder Verkauf
Kauf und vice versa. Meint dies, da゚ die Zahl der wirklich
vollzogenen Verk舫fe gleich derselben Zahl von K舫fen, so ist es platte Tautologie. Aber es soll beweisen, da゚ der Verk舫fer seinen eignen K舫fer zu Markt f・rt. Verkauf und Kauf sind ein identischer
Akt als Wechselbeziehung zwischen zwei polarisch entgegengesetzten Personen,
dem Warenbesitzer und dem Geldbesitzer. Sie bilden zwei polarisch
entgegengesetzte Akte als Handlungen derselben Person. Die Identit舩 von Verkauf und Kauf schlie゚t daher ein, da゚ die Ware nutzlos wird, wenn sie, in die alchimistische Retorte der
Zirkulation geworfen, nicht als Geld herauskommt, nicht vom Warenbesitzer
verkauft, also vom Geldbesitzer gekauft wird. Jene Identit舩 enth舁t ferner, da゚ der Proze゚, wenn er gelingt, einen Ruhepunkt, einen Lebensabschnitt der Ware bildet,
der l舅ger oder k・zer w臧ren kann. Da die erste Metamorphose der Ware zugleich Verkauf und Kauf, ist
dieser Teilproze゚ zugleich selbst舅diger Proze゚. Der K舫fer hat die Ware, der
Verk舫fer hat das Geld, d.h. eine Ware, die
zirkulationsf臧ige Form bewahrt, ob sie fr・er oder sp舩er wieder auf dem Markt erscheine. Keiner
kann verkaufen, ohne da゚ ein andrer kauft. Aber keiner braucht
unmittelbar zu kaufen, weil er selbst verkauft hat. Die Zirkulation sprengt die
zeitlichen, rtlichen und individuellen Schranken des
Produktenaustausches ebendadurch, da゚ sie die hier vorhandne
unmittelbare Identit舩 zwischen dem Austausch des eignen und dem
Eintausch des fremden Arbeitsprodukts in den Gegensatz von Verkauf und Kauf
spaltet. Da゚ die selbst舅dig einander gegen・ertretenden Prozesse eine innere Einheit bilden, hei゚t ebensosehr, da゚ ihre innere Einheit sich in 舫゚eren Gegens舩zen bewegt. Geht die 舫゚erliche Verselbst舅digung der innerlich Unselbst舅digen, weil einander erg舅zenden, bis zu einem gewissen Punkt fort,
so macht sich die Einheit gewaltsam geltend durch eine - Krise. Der der Ware
immanente Gegensatz von Gebrauchswert und Wert, von Privatarbeit, die sich zugleich
als unmittelbar gesellschaftliche Arbeit darstellen mu゚, von besondrer konkreter Arbeit, die zugleich nur als abstrakt allgemeine
Arbeit gilt, von Personifizierung der Sache und Versachlichung der Personen -
dieser immanente Widerspruch erh舁t in den Gegens舩zen der Warenmetamorphose seine entwickelten Bewegungsformen. Diese Formen
schlie゚en daher die Mglichkeit, aber auch nur
die Mglichkeit der Krisen ein. Die Entwicklung dieser Mglichkeit zur Wirklichkeit erfordert einen ganzen Umkreis von Verh舁tnissen, die vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch gar nicht
existieren.81
Als Vermittler der
Warenzirkulation erh舁t das Geld die Funktion des
Zirkulationsmittels.
b) Der Umlauf des
Geldes
Der Formwechsel, worin sich
der Stoffwechsel der Arbeitsprodukte vollzieht, W - G - W, bedingt, da゚ derselbe Wert als Ware den Ausgangspunkt des Prozesses bildet und zu
demselben Punkt zur・kkehrt als Ware. Diese Bewegung der Waren
ist daher Kreislauf. Andrerseits schlie゚t dieselbe Form den
Kreislauf des Geldes aus. Ihr Resultat ist best舅dige Entfernung des
Geldes von seinem Ausgangspunkt, nicht R・kkehr zu demselben.
Solange der Verk舫fer die verwandelte Gestalt seiner Ware
festh舁t, das Geld, befindet sich die Ware im Stadium der
ersten Metamorphose oder hat nur ihre erste Zirkulationsh舁fte zur・kgelegt. Ist der Proze゚, verkaufen um zu kaufen, vervollst舅digt, so ist auch das
Geld wieder aus der Hand seines urspr・glichen Besitzers
entfernt. Allerdings, wenn der Leinweber, nachdem er die Bibel gekauft, von
neuem Leinwand verkauft, kehrt auch das Geld in seine Hand zur・k. Aber es kehrt nicht zur・k durch die Zirkulation
der ersten 20 Ellen Leinwand, wodurch es vielmehr aus den H舅den des Leinwebers in die des Bibelverk舫fers entfernt ist. Es
kehrt nur zur・k durch die Erneuerung oder Wiederholung
desselben Zirkulationsprozesses f・ neue Ware und endet
hier wie dort mit demselben Resultat. Die dem Geld durch die Warenzirkulation
unmittelbar erteilte Bewegungsform ist daher seine best舅dige Entfernung vom Ausgangspunkt, sein Lauf aus der Hand eines
Warenbesitzers in die eines andren, oder sein Umlauf (currency, cours de la
monnaie).
Der Umlauf des Geldes zeigt
best舅dige, eintnige Wiederholung
desselben Prozesses. Die Ware steht stets auf Seite des Verk舫fers, das Geld stets auf Seite des K舫fers, als Kaufmittel. Es
funktioniert als Kaufmittel, indem es den Preis der Ware realisiert. Indem es
ihn realisiert, ・ertr臠t es die Ware aus der
Hand des Verk舫fers in die Hand des K舫fers, w臧rend es sich gleichzeitig aus der Hand des K舫fers in die des Verk舫fers entfernt, um denselben Proze゚ mit einer andren Ware zu wiederholen. Da゚ diese einseitige Form
der Geldbewegung aus der doppelseitigen Formbewegung der Ware entspringt, ist
verh・lt. Die Natur der Warenzirkulation selbst erzeugt
den entgegengesetzten Schein. Die erste Metamorphose der Ware ist nicht nur als
Bewegung des Geldes, sondern als ihre eigne Bewegung sichtbar, aber ihre zweite
Metamorphose ist nur als Bewegung des Geldes sichtbar. In ihrer ersten
Zirkulationsh舁fte wechselt die Ware den Platz mit dem
Geld. Damit f舁lt zugleich ihre Gebrauchsgestalt aus der
Zirkulation heraus, in die Konsumtion.82 Ihre Wertgestalt oder Geldlarve tritt
an ihre Stelle. Die zweite Zirkulationsh舁fte durchl舫ft sie nicht mehr in ihrer eignen Naturalhaut, sondern in ihrer Goldhaut.
Die Kontinuit舩 der Bewegung f舁lt damit ganz auf die Seite des Geldes und dieselbe Bewegung, die f・ die Ware zwei entgegengesetzte Prozesse einschlie゚t, schlie゚t als eigne Bewegung des Geldes stets
denselben Proze゚ ein, seinen Stellenwechsel mit stets
andrer Ware. Das Resultat der Warenzirkulation, Ersatz von Ware durch andre
Ware, erscheint daher nicht durch ihren eignen Formwechsel vermittelt, sondern
durch die Funktion des Geldes als Zirkulationsmittel, welches die an und f・ sich bewegungslosen Waren zirkuliert, sie aus der Hand, worin sie
Nicht-Gebrauchswerte, in die Hand ・ertr臠t, worin sie Gebrauchswerte, stets in entgegengesetzter Richtung zu seinem
eignen Lauf. Es entfernt die Waren best舅dig aus der
Zirkulationssph舐e, indem es best舅dig an ihre Zirkulationsstelle tritt und sich damit von seinem eignen
Ausgangspunkt entfernt. Obgleich daher die Geldbewegung nur Ausdruck der
Warenzirkulation, erscheint umgekehrt die Warenzirkulation nur als Resultat der
Geldbewegung.83
Andrerseits kommt dem Geld
nur die Funktion des Zirkulationsmittels zu, weil es der verselbst舅digte Wert der Waren ist. Seine Bewegung als Zirkulationsmittel ist daher
in der Tat nur ihre eigne Formbewegung. Diese mu゚ sich daher auch
sinnlich im Umlauf des Geldes widerspiegeln. So verwandelt z.B. die Leinwand
zuerst ihre Warenform in ihre Geldform. Das letzte Extrem ihrer ersten
Metamorphose W - G, die Geldform, wird dann das erste Extrem ihrer letzten
Metamorphose G - W, ihrer R・kverwandlung in die Bibel. Aber jeder
dieser zwei Formwechsel vollzieht sich durch einen Austausch zwischen Ware und
Geld, durch ihren gegenseitigen Stellenwechsel. Dieselben Geldst・ke kommen als ent舫゚erte Gestalt der Ware in die Hand des Verk舫fers und verlassen sie als absolut ver舫゚erliche Gestalt der
Ware. Sie wechseln zweimal die Stelle. Die erste Metamorphose der Leinwand
bringt diese Geldst・ke in die Tasche des Webers, die zweite
holt sie wieder heraus. Die beiden entgegengesetzten Formwechsel derselben Ware
spiegeln sich also wider im zweimaligen Stellenwechsel des Geldes in
entgegengesetzter Richtung.
Finden dagegen nur
einseitige Warenmetamorphosen statt, blo゚e Verk舫fe oder blo゚e K舫fe, wie man will, so
wechselt dasselbe Geld auch nur einmal den Platz. Sein zweiter Stellenwechsel
dr・kt stets die zweite Metamorphose der Ware aus,
ihre R・kverwandlung aus Geld. In der h舫figen Wiederholung des Stellenwechsels derselben Geldst・ke spiegelt sich wider nicht nur die Metamorphosenreihe einer einzigen
Ware, sondern auch die Verschlingung der zahllosen Metamorphosen der Warenwelt ・erhaupt. Es versteht sich ・rigens ganz von selbst,
da゚ alles dies nur f・ die hier betrachtete
Form der einfachen Warenzirkulation gilt.
Jede Ware, bei ihrem ersten
Schritt in die Zirkulation, bei ihrem ersten Formwechsel, f舁lt aus der Zirkulation heraus, in welche stets neue Ware eintritt. Das Geld
dagegen als Zirkulationsmittel haust best舅dig in der
Zirkulationssph舐e und treibt sich best舅dig in ihr um. Es entsteht also die Frage, wieviel Geld diese Sph舐e best舅dig absorbiert.
In einem Lande gehn jeden
Tag zahlreiche, gleichzeitige und daher r舫mlich nebeneinander
laufende einseitige Warenmetamorphosen vor, oder in andren Worten, blo゚e Verk舫fe von der einen Seite, blo゚e K舫fe von der andren. In ihren Preisen sind die Waren
bereits bestimmten vorgestellten Geldquantis gleichgesetzt. Da nun die hier
betrachtete, unmittelbare Zirkulationsform Ware und Geld einander stets
leiblich gegen・erstellt, die eine auf den Pol des Verkaufs,
das andre auf den Gegenpol des Kaufs, ist die f・ den Zirkulationsproze゚ der Warenwelt erheischte Masse von Zirkulationsmitteln bereits durch die
Preissumme der Waren bestimmt. In der Tat stellt das Geld nur reell die in der
Preissumme der Waren bereits ideell ausgedr・kte Goldsumme dar. Die
Gleichheit dieser Summen versteht sich daher von selbst. Wir wissen jedoch, da゚ bei gleichbleibenden Werten der Waren ihre Preise mit dem Werte des Goldes
(des Geldmaterials) selbst wechseln, verh舁tnism葹ig steigen, wenn er f舁lt, und fallen, wenn er steigt. Ob die
Preissumme der Waren so steige oder falle, die Masse des zirkulierenden Geldes
mu゚ gleichm葹ig steigen oder fallen.
Der Wechsel in der Masse der Zirkulationsmittel entspringt hier allerdings aus
dem Geld selbst, aber nicht aus seiner Funktion als Zirkulationsmittel, sondern
aus seiner Funktion als Wertma゚. Der Preis der Waren
wechselt erst umgekehrt wie der Wert des Geldes, und dann wechselt die Masse
der Zirkulationsmittel direkt wie der Preis der Waren. Ganz dasselbe Ph舅omen w・de sich ereignen, wenn z.B. nicht der Wert des
Goldes s舅ke, sondern Silber es als Wertma゚ ersetzte, oder nicht der Wert des Silbers stiege, sondern Gold es aus der
Funktion des Wertma゚es verdr舅gte. In dem einen Fall m・te mehr Silber zirkulieren als vorher Gold, in dem andren weniger Gold als
vorher Silber. In beiden F舁len h舩te sich der Wert des
Geldmaterials ver舅dert, d.h. der Ware, die als Ma゚ der Werte funktioniert, daher der Preisausdruck der Warenwerte, daher die
Masse des zirkulierenden Geldes, das zur Realisierung dieser Preise dient. Man
hat gesehn, da゚ die Zirkulationssph舐e der Waren ein Loch hat, wodurch Gold (Silber, kurz das Geldmaterial) in
sie eintritt als Ware von gegebnem Wert. Dieser Wert ist vorausgesetzt bei der
Funktion des Geldes als Wertma゚, also bei der
Preisbestimmung. Sinkt nun z.B. der Wert des Wertma゚es selbst, so erscheint dies zun臘hst im Preiswechsel der
Waren, die unmittelbar an den Produktionsquellen der edlen Metalle mit ihnen
als Waren ausgetauscht werden. Namentlich in minder entwickelten Zust舅den der b・gerlichen Gesellschaft wird ein gro゚er Teil der andren Waren noch l舅gere Zeit in dem nun
illusorisch gewordnen, veralteten Wert des Wertma゚es gesch舩zt werden. Indes steckt die eine Ware die andre an durch ihr Wertverh舁tnis zu derselben, die Gold- oder Silberpreise der Waren gleichen sich allm臧lich aus in den durch ihre Werte selbst bestimmten Proportionen, bis schlie゚lich alle Warenwerte dem neuen Wert des Geldmetalles entsprechend gesch舩zt werden. Dieser Ausgleichungsproze゚ ist begleitet von dem
fortw臧renden Wachstum der edlen Metalle, welche im
Ersatz f・ die direkt mit ihnen ausgetauschten Waren einstrmen. In demselben Ma゚ daher, worin die berichtigte Preisgebung
der Waren sich verallgemeinert, oder ihre Werte dem neuen, gesunkenen und bis
zu einem gewissen Punkt fortsinkenden Wert des Metalls gem葹 gesch舩zt werden, ist auch bereits seine zu ihrer
Realisierung notwendige Mehrmasse vorhanden. Einseitige Beobachtung der
Tatsachen, welche der Entdeckung der neuen Gold- und Silberquellen folgten,
verleitete im 17. und namentlich im 18. Jahrhundert zum Trugschlu゚, die Warenpreise seien gestiegen, weil mehr Gold und Silber als
Zirkulationsmittel funktionierten. Im folgenden wird der Wert des Goldes als
gegeben vorausgesetzt, wie er in der Tat im Augenblick der Preissch舩zung gegeben ist.
Unter dieser Voraussetzung
also ist die Masse der Zirkulationsmittel durch die zu realisierende Preissumme
der Waren bestimmt. Setzen wir nun ferner den Preis jeder Warenart als gegeben
voraus, so h舅gt die Preissumme der Waren offenbar von der in
Zirkulation befindlichen Warenmasse ab. Es gehrt wenig Kopfbrechens
dazu, um zu begreifen, da゚, wenn 1 Quarter Weizen 2 Pfd. St., 100 Quarter 200 Pfd. St., 200 Quarter 400 Pfd. St. usw. kosten, mit der Masse des Weizens
daher die Geldmasse wachsen mu゚, die beim Verkauf den
Platz mit ihm wechselt.
Die Warenmasse als gegeben
vorausgesetzt, flutet die Masse des zirkulierenden Geldes auf und ab mit den
Preisschwankungen der Waren. Sie steigt und f舁lt, weil die Preissumme
der Waren infolge ihres Preiswechsels zu- oder abnimmt. Dazu ist keineswegs ntig, da゚ die Preise aller Waren gleichzeitig steigen oder
fallen. Die Preissteigerung einer gewissen Anzahl leitender Artikel in dem
einen oder ihre Preissenkung in dem andren Fall reicht hin, um die zu
realisierende Preissumme aller zirkulierenden Waren zu erhhn oder zu senken, also auch mehr oder weniger Geld in Zirkulation zu
setzen. Ob der Preiswechsel der Waren wirkliche Wertwechsel widerspiegelt oder
blo゚e Schwankungen der Marktpreise, die Wirkung auf
die Masse der Zirkulationsmittel bleibt dieselbe.
Es sei gegeben eine Anzahl
zusammenhangsloser, gleichzeitiger und daher r舫mlich nebeneinander
laufender Verk舫fe oder Teilmetamorphosen, z.B. von 1
Quarter Weizen, 20 Ellen Leinwand, 1 Bibel, 4 Gallons Kornbranntwein. Wenn der
Preis jedes Artikels 2 Pfd. St., die zu realisierende Preissumme daher 8 Pfd.
St., so mu゚ eine Geldmasse von 8 Pfd. St. in die Zirkulation
eingehn. Bilden dieselben Waren dagegen Glieder der uns bekannten
Metamorphosenreihe: 1 Quarter Weizen - 2 Pfd. St. - 20 Ellen Leinwand - 2 Pfd. St. - 1 Bibel - 2 Pfd. St. - 4 Gallons Kornbranntwein - 2 Pfd. St., so machen 2 Pfd. St. die
verschiednen Waren der Reihe nach zirkulieren, indem sie deren Preise der Reihe
nach, also auch die Preissumme von 8 Pfd. St., realisieren, um schlie゚lich in der Hand des Destillateurs auszuruhn. Sie vollbringen vier Uml舫fe. Dieser wiederholte Stellenwechsel derselben Geldst・ke stellt den doppelten Formwechsel der Ware dar, ihre Bewegung durch zwei
entgegengesetzte Zirkulationsstadien und die Verschlingung der Metamorphosen
verschiedner Waren.84 Die gegens舩zlichen und einander erg舅zenden Phasen, wodurch dieser Proze゚ verl舫ft, knnen nicht r舫mlich nebeneinander
fallen, sondern nur zeitlich aufeinander folgen. Zeitabschnitte bilden daher
das Ma゚ seiner Dauer, oder die Anzahl der Uml舫fe derselben Geldst・ke in gegebner Zeit mi゚t die Geschwindigkeit des Geldumlaufs. Der Zirkulationsproze゚ jener vier Waren dauere z.B. einen Tag. So betr臠t die zu realisierende Preissumme: 8 Pfd. St., die Anzahl der Uml舫fe derselben Geldst・ke w臧rend des Tags: 4 und die
Masse des zirkulierenden Geldes: 2 Pfd. St., oder f・ einen gegebnen Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses: Preissumme der
Waren / Umlaufsanzahl gleichnamiger Geldst・ke = Masse des als
Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes. Dies Gesetz gilt allgemein. Der
Zirkulationsproze゚ eines Landes in einem gegebnen
Zeitabschnitt umfa゚t zwar einerseits viele zersplitterte,
gleichzeitige und r舫mlich nebeneinander fallende Verk舫fe (resp. K舫fe) oder Teilmetamorphosen, worin
dieselben Geldst・ke nur einmal die Stelle wechseln oder nur
einen Umlauf vollziehn, andrerseits viele teils nebeneinander herlaufende,
teils sich ineinander verschlingende mehr oder minder gliederreiche
Metamorphosenreihen, worin dieselben Geldst・ke mehr oder minder
zahlreiche Uml舫fe zur・klegen. Die Gesamtzahl
der Uml舫fe aller in Zirkulation befindlichen gleichnamigen
Geldst・ke ergibt jedoch die Durchschnittsanzahl der Uml舫fe des einzelnen Geldst・ks oder die Durchschnittsgeschwindigkeit
des Geldumlaufs. Die Geldmasse, die bei Beginn z.B. des t臠lichen Zirkulationsprozesses in ihn hineingeworfen wird, ist nat・lich bestimmt durch die Preissumme der gleichzeitig und r舫mlich nebeneinander zirkulierenden Waren. Aber innerhalb des Prozesses wird
ein Geldst・k sozusagen f・ das andre
verantwortlich gemacht. Beschleunigt das eine seine Umlaufsgeschwindigkeit, so
erlahmt die des andren, oder es fliegt ganz aus der Zirkulationssph舐e heraus, da diese nur eine Goldmasse absorbieren kann, welche,
multipliziert mit der mittlern Umlaufsanzahl ihres einzelnen Elements, gleich
der zu realisierenden Preissumme ist. W臘hst daher die Anzahl der
Uml舫fe der Geldst・ke, so nimmt ihre
zirkulierende Masse ab. Nimmt die Anzahl ihrer Uml舫fe ab, so w臘hst ihre Masse. Weil die Masse des Geldes,
die als Zirkulationsmittel funktionieren kann, bei gegebner
Durchschnittsgeschwindigkeit gegeben ist, hat man daher z.B. nur eine bestimmte
Quantit舩 von Ein-Pfund-Noten in die Zirkulation
hineinzuwerfen, um ebenso viele Sovereigns hinauszuwerfen, ein allen Banken
wohlbekanntes Kunstst・k.
Wie im Geldumlauf ・erhaupt nur der Zirkulationsproze゚ der Waren, d.h. ihr
Kreislauf durch entgegengesetzte Metamorphosen erscheint, so in der
Geschwindigkeit des Geldumlaufs die Geschwindigkeit ihres Formwechsels, das
kontinuierliche Ineinandergreifen der Metamorphosenreihen, die Hast des
Stoffwechsels, das rasche Verschwinden der Waren aus der Zirkulationssph舐e und ihr ebenso rascher Ersatz durch neue Waren. In der Geschwindigkeit
des Geldumlaufs erscheint also die fl・sige Einheit der
entgegengesetzten und sich erg舅zenden Phasen,
Verwandlung der Gebrauchsgestalt in Wertgestalt und R・kverwandlung der Wertgestalt in Gebrauchsgestalt, oder der beiden Prozesse
des Verkaufs und Kaufs. Umgekehrt erscheint in der Verlangsamung des
Geldumlaufs die Trennung und gegens舩zliche Verselbst舅digung dieser Prozesse, die Stockung des Formwechsels und daher des
Stoffwechsels. Woher diese Stockung entspringt, ist nat・lich der Zirkulation selbst nicht anzusehn. Sie zeigt nur das Ph舅omen selbst. Der popul舐en Anschauung, welche mit verlangsamtem
Geldumlauf das Geld minder h舫fig auf allen Punkten der Zirkulationsperipherie
erscheinen und verschwinden sieht, liegt es nah, das Ph舅omen aus mangelnder Quantit舩 der Zirkulationsmittel
zu deuten.85
Das Gesamtquantum des in
jedem Zeitabschnitt als Zirkulationsmittel funktionierenden Geldes ist also
bestimmt einerseits durch die Preissumme der zirkulierenden Warenwelt,
andrerseits durch den langsameren oder rascheren Flu゚ ihrer gegens舩zlichen Zirkulationsprozesse, von dem es
abh舅gt, der wievielte Teil jener Preissumme durch
dieselben Geldst・ke realisiert werden kann. Die Preissumme
der Waren h舅gt aber ab sowohl von der Masse als den Preisen
jeder Warenart. Die drei Faktoren: die Preisbewegung, die zirkulierende
Warenmasse und endlich die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes, knnen aber in verschiedner Richtung und verschiednen Verh舁tnissen wechseln, die zu realisierende Preissumme, daher die durch sie
bedingte Masse der Zirkulationsmittel, also sehr zahlreiche Kombinationen
durchmachen. Wir z臧len hier nur die in der Geschichte der
Warenpreise wichtigsten auf.
Bei gleichbleibenden
Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel wachsen, weil die Masse der
zirkulierenden Waren zunimmt oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes abnimmt
oder beides zusammenwirkt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann umgekehrt
abnehmen mit abnehmender Warenmasse oder zunehmender
Zirkulationsgeschwindigkeit.
Bei allgemein steigenden
Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die
Masse der zirkulierenden Waren in demselben Verh舁tnis abnimmt, worin ihr
Preis zunimmt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes ebenso rasch zunimmt
als die Preiserhhung, w臧rend die zirkulierende
Warenmasse konstant bleibt. Die Masse der Zirkulationsmittel kann fallen, weil die
Warenmasse rascher ab- oder die Umlaufsgeschwindigkeit rascher zunimmt als die
Preise.
Bei allgemein fallenden
Warenpreisen kann die Masse der Zirkulationsmittel gleichbleiben, wenn die
Warenmasse in demselben Verh舁tnis w臘hst, worin ihr Preis f舁lt, oder die Umlaufsgeschwindigkeit des Geldes in demselben Verh舁tnis abnimmt wie die Preise. Sie kann wachsen, wenn die Warenmasse rascher
w臘hst oder die Zirkulationsgeschwindigkeit rascher
abnimmt, als die Warenpreise fallen.
Die Variationen der verschiednen
Faktoren knnen sich wechselseitig kompensieren, so da゚ ihrer best舅digen Unst舩igkeit zum Trotz die zu
realisierende Gesamtsumme der Warenpreise konstant bleibt, also auch die
zirkulierende Geldmasse. Man findet daher, namentlich bei Betrachtung etwas l舅gerer Perioden, ein viel konstanteres Durchschnittsniveau der in jedem
Lande zirkulierenden Geldmasse und, mit Ausnahme starker Perturbationen, die
periodisch aus den Produktions- und Handelskrisen, seltner aus einem Wechsel im
Geldwert selbst entspringen, viel geringere Abweichungen von diesem
Durchschnittsniveau, als man nach dem Augenschein erwarten sollte.
Das Gesetz, da゚ die Quantit舩 der Zirkulationsmittel bestimmt ist durch
die Preissumme der zirkulierenden Waren und die Durchschnittsgeschwindigkeit
des Geldumlaufs86, kann auch so ausgedr・kt werden, da゚ bei gegebner Wertsumme der Waren und gegebner Durchschnittsgeschwindigkeit
ihrer Metamorphosen, die Quantit舩 des umlaufenden Geldes
oder des Geldmaterials von seinem eignen Wert abh舅gt. Die Illusion, da゚ umgekehrt die Warenpreise durch die Masse der Zirkulationsmittel und
letztre ihrerseits durch die Masse des in einem Lande befindlichen
Geldmaterials bestimmt werden87, wurzelt bei ihren urspr・glichen Vertretern in der abgeschmackten Hypothese, da゚ Waren ohne Preis und Geld ohne Wert in den Zirkulationsproze゚ eingehn, wo sich dann ein aliquoter Teil des Warenbreis mit einem
aliquoten Teil des Metallbergs austausche.88
c) Die M・ze. Das Wertzeichen
Aus der Funktion des Geldes
als Zirkulationsmittel entspringt seine M・zgestalt. Der in dem
Preise oder Geldnamen der Waren vorgestellte Gewichtsteil Gold mu゚ ihnen in der Zirkulation als gleichnamiges Goldst・k oder M・ze gegen・ertreten. Wie die
Feststellung des Ma゚stabs der Preise, f舁lt das Gesch臟t der M・zung dem Staat anheim.
In den verschiednen Nationaluniformen, die Gold und Silber als M・zen tragen, auf dem Weltmarkt aber wieder ausziehn, erscheint die Scheidung
zwischen den innern oder nationalen Sph舐en der Warenzirkulation
und ihrer allgemeinen Weltmarktssph舐e.
Goldm・ze und Barrengold unterscheiden sich also von Haus aus nur durch die Figur,
und das Gold ist best舅dig aus einer Form in die andre
verwandelbar.89 Der Weg aus der M・ze ist aber zugleich der
Gang zum Schmelztiegel. Im Umlauf verschlei゚en n舂lich die Goldm・zen, die eine mehr, die andre weniger.
Goldtitel und Goldsubstanz, Nominalgehalt und Realgehalt beginnen ihren
Scheidungsproze゚. Gleichnamige Goldm・zen werden von ungleichem Wert, weil verschiednem Gewicht. Das Gold als
Zirkulationsmittel weicht ab vom Gold als Ma゚stab der Preise und hrt damit auch auf, wirkliches トquivalent der Waren zu
sein, deren Preise es realisiert. Die Geschichte dieser Wirren bildet die M・zgeschichte des Mittelalters und der Neuzeit bis ins 18. Jahrhundert. Die
naturw・hsige Tendenz des Zirkulationsprozesses, das
Goldsein der M・ze in Goldschein oder die M・ze in ein Symbol ihres offiziellen Metallgehalts zu verwandeln, ist selbst
anerkannt durch die modernsten Gesetze ・er den Grad des
Metallverlustes, der ein Goldst・k kursunf臧ig macht oder demonetisiert.
Wenn der Geldumlauf selbst
den Realgehalt vom Nominalgehalt der M・ze scheidet, ihr
Metalldasein von ihrem funktionellen Dasein, so enth舁t er die Mglichkeit latent, das Metallgeld in seiner
M・zfunktion durch Marken aus andrem Material oder
Symbole zu ersetzen. Die technischen Hindernisse der M・zung ganz diminutiver Gewichtsteile des Goldes resp. Silbers und der
Umstand, da゚ niedrigere Metalle urspr・glich statt der edleren, Silber statt des Goldes, Kupfer statt des Silbers,
zum Wertma゚ dienen und daher als Geld zirkulieren im
Augenblick, wo das edlere Metall sie entthront, erkl舐en historisch die Rolle von Silber- und Kupfermarken als Substituten der
Goldm・ze. Sie ersetzen das Gold in den Kreisen der
Warenzirkulation, worin die M・ze am schnellsten
zirkuliert und sich daher am schnellsten abnutzt, d.h., wo K舫fe und Verk舫fe unaufhrlich im kleinsten Ma゚stab erneuert werden. Um die Festsetzung dieser Trabanten an der Stelle des
Goldes selbst zu verhindern, werden gesetzlich die sehr niedrigen Proportionen
bestimmt, worin sie allein an Zahlungs Statt f・ Gold angenommen werden
m・sen. Die besondren Kreise, worin die verschiednen
M・zsorten umlaufen, laufen nat・lich ineinander. Die Scheidem・ze erscheint neben dem
Gold zur Zahlung von Bruchteilen der kleinsten Goldm・ze; das Gold tritt best舅dig in die Detailzirkulation ein, wird
aber durch Auswechslung mit Scheidem・ze ebenso best舅dig herausgeworfen.90
Der Metallgehalt der
Silber- oder Kupfermarken ist willk・lich durch das Gesetz
bestimmt. Im Umlauf verschlei゚en sie noch rascher als
die Goldm・ze. Ihre M・zfunktion wird daher
faktisch durchaus unabh舅gig von ihrem Gewicht, d.h. von allem
Wert. Das M・zdasein des Goldes scheidet sich vllig von seiner Wertsubstanz. Relativ wertlose Dinge, Papierzettel, knnen also an seiner Statt als M・ze funktionieren. In den
metallischen Geldmarken ist der rein symbolische Charakter noch einigerma゚en versteckt. Im Papiergeld tritt er augenscheinlich hervor. Man sieht: Ce n'est que le premier pas qui
cote.
Es handelt sich hier nur von Staatspapiergeld mit
Zwangskurs. Es w臘hst unmittelbar aus der metallischen
Zirkulation heraus. Kreditgeld unterstellt dagegen Verh舁tnisse, die uns vom Standpunkt der einfachen Warenzirkulation noch durchaus
unbekannt sind. Im Vorbeigehn sei jedoch bemerkt, da゚, wie eigentliches Papiergeld aus der Funktion des Geldes als
Zirkulationsmittel entspringt, das Kreditgeld in der Funktion des Geldes als
Zahlungsmittel seine naturw・hsige Wurzel besitzt.91
Papierzettel, denen Geldnamen,
wie 1 Pfd. St., 5 Pfd. St. usw. aufgedruckt sind, werden vom Staat 舫゚erlich in den Zirkulationsproze゚ hineingeworfen. Soweit
sie wirklich an der Stelle der gleichnamigen Goldsumme zirkulieren, spiegeln
sich in ihrer Bewegung nur die Gesetze des Geldumlaufs selbst wider. Ein
spezifisches Gesetz der Papierzirkulation kann nur aus ihrem Repr舖entationsverh舁tnis zum Gold entspringen. Und dies Gesetz
ist einfach dies, da゚ die Ausgabe des Papiergelds auf die
Quantit舩 zu beschr舅ken ist, worin das von ihm
symbolisch dargestellte Gold (resp. Silber) wirklich zirkulieren m・te. Nun schwankt zwar das Goldquantum, welches die Zirkulationssph舐e absorbieren kann, best舅dig ・er oder unter ein
gewisses Durchschnittsniveau. Jedoch sinkt die Masse des zirkulierenden Mediums
in einem gegebnen Land nie unter ein gewisses Minimum, das sich erfahrungsm葹ig feststellt. Da゚ diese Minimalmasse fortw臧rend ihre Bestandteile wechselt, d.h. aus stets andren Goldst・ken besteht, 舅dert nat・lich nichts an ihrem
Umfang und ihrem konstanten Umtrieb in der Zirkulationssph舐e. Sie kann daher durch Papiersymbole ersetzt werden. Werden dagegen heute
alle Zirkulationskan舁e zum vollen Grad ihrer Geldabsorptionsf臧igkeit mit Papiergeld gef・lt, so knnen sie infolge der Schwankungen der Warenzirkulation morgen ・ervoll sein. Alles Ma゚ geht verloren. ワberschreitet aber das Papier sein Ma゚, d.h. die Quantit舩 von Goldm・ze gleicher Denomination, welche
zirkulieren knnte, so stellt es, von der Gefahr
allgemeiner Diskreditierung abgesehn, innerhalb der Warenwelt dennoch nur die
durch ihre immanenten Gesetze bestimmte, also auch allein repr舖entierbare Goldquantit舩 vor. Stellt die Papierzettelmasse z.B. je
2 Unzen Gold statt je 1 Unze dar, so wird faktisch 1 Pfd. St. z.B. zum
Geldnamen sage etwa von 1/8 Unze statt von 1/4 Unze. Die Wirkung ist dieselbe,
als w舐e das Gold in seiner Funktion als Ma゚ der Preise ver舅dert worden. Dieselben Werte, die sich
daher vorher im Preise von 1 Pfd. St., dr・ken sich jetzt im Preise
von 2 Pfd. St. aus.
Das Papiergeld ist
Goldzeichen oder Geldzeichen. Sein Verh舁tnis zu den Warenwerten
besteht nur darin, da゚ sie ideell in denselben Goldquantis
ausgedr・kt sind, welche vom Papier symbolisch sinnlich
dargestellt werden. Nur sofern das Papiergeld Goldquanta repr舖entiert, die, wie alle andren Warenquanta, auch Wertquanta, ist es
Wertzeichen.92
Es fragt sich schlie゚lich, warum das Gold durch blo゚e wertlose Zeichen
seiner selbst ersetzt werden kann? Es ist aber, wie man gesehn, nur so ersetzbar,
soweit es in seiner Funktion als M・ze oder
Zirkulationsmittel isoliert oder verselbst舅digt wird. Nun findet
die Verselbst舅digung dieser Funktion zwar nicht f・ die einzelnen Goldm・zen statt, obgleich sie in dem
Fortzirkulieren verschlissener Goldst・ke erscheint. Blo゚e M・ze oder Zirkulationsmittel sind die Goldst・ke grade nur, solang sie sich wirklich im Umlauf befinden. Was aber nicht f・ die einzelne Goldm・ze, gilt f・ die vom Papiergeld
ersetzbare Minimalmasse Gold. Sie haust best舅dig in der Zirkulationssph舐e, funktioniert fortw臧rend als Zirkulationsmittel und existiert
daher ausschlie゚lich als Tr臠er dieser Funktion. Ihre
Bewegung stellt also nur das fortw臧rende
Ineinanderumschlagen der entgegengesetzten Prozesse der Warenmetamorphose W - G
- W dar, worin der Ware ihre Wertgestalt nur gegen・ertritt, um sofort wieder zu verschwinden. Die selbst舅dige Darstellung des Tauschwerts der Ware ist hier nur fl・htiges Moment. Sofort wird sie wieder durch andre Ware ersetzt. Daher gen・t auch die blo゚ symbolische Existenz des Geldes in einem
Proze゚, der es best舅dig aus einer Hand in
die andre entfernt. Sein funktionelles Dasein absorbiert sozusagen sein
materielles. Verschwindend objektivierter Reflex der Warenpreise, funktioniert
es nur noch als Zeichen seiner selbst und kann daher auch durch Zeichen ersetzt
werden.93 Nur bedarf das Zeichen des Geldes seiner eignen objektiv
gesellschaftlichen G・tigkeit, und diese erh舁t das Papiersymbol durch den Zwangskurs. Nur innerhalb der von den Grenzen
eines Gemeinwesens umschriebnen oder innern Zirkulationssph舐e gilt dieser Staatszwang, aber auch nur hier geht das Geld vllig auf in seine Funktion als Zirkulationsmittel oder M・ze und kann daher im Papiergeld eine von seiner Metallsubstanz 舫゚erlich getrennte und blo゚ funktionelle Existenzweise erhalten.
3. Geld
Die Ware, welche als Wertma゚ und daher auch, leiblich oder durch Stellvertreter, als Zirkulationsmittel
funktioniert, ist Geld. Gold (resp. Silber) ist daher Geld. Als Geld
funktioniert es, einerseits wo es in seiner goldnen (resp. silbernen)
Leiblichkeit erscheinen mu゚, daher als Geldware, also weder blo゚ ideell, wie im Wertma゚, noch repr舖entationsf臧ig, wie im Zirkulationsmittel; andrerseits wo seine Funktion, ob es selbe
nun in eigner Person oder durch Stellvertreter vollziehe, es als alleinige
Wertgestalt oder allein ad舍uates Dasein des Tauschwerts allen andren
Waren als blo゚en Gebrauchswerten gegen・er fixiert.
a) Schatzbildung
Der kontinuierliche
Kreislauf der zwei entgegengesetzten Warenmetamorphosen oder der fl・sige Umschlag von Verkauf und Kauf erscheint im rastlosen Umlauf des Geldes
oder seiner Funktion als perpetuum mobile der Zirkulation. Es wird
immobilisiert, oder verwandelt sich, wie Boisguillebert sagt, aus meuble in
immeuble, aus M・ze in Geld, sobald die Metamorphosenreihe
unterbrochen, der Verkauf nicht durch nachfolgenden Kauf erg舅zt wird.
Mit der ersten Entwicklung
der Warenzirkulation selbst entwickelt sich die Notwendigkeit und die
Leidenschaft, das Produkt der ersten Metamorphose, die verwandelte Gestalt der
Ware oder ihre Goldpuppe festzuhalten.94 Ware wird verkauft, nicht um Ware zu
kaufen, sondern um Warenform durch Geldform zu ersetzen. Aus blo゚er Vermittlung des Stoffwechsels wird dieser Formwechsel zum Selbstzweck.
Die ent舫゚erte Gestalt der Ware wird verhindert, als ihre
absolut ver舫゚erliche Gestalt oder nur verschwindende Geldform
zu funktionieren. Das Geld versteinert damit zum Schatz, und der Warenverk舫fer wird Schatzbildner.
Grade in den Anf舅gen der Warenzirkulation verwandelt sich nur der ワberschu゚ an Gebrauchswerten in Geld. Gold und Silber
werden so von selbst zu gesellschaftlichen Ausdr・ken des ワberflusses oder des Reichtums. Diese naive Form der Schatzbildung verewigt
sich bei Vlkern, wo der traditionellen und auf Selbstbedarf
gerichteten Produktionsweise ein fest abgeschlo゚ner Kreis von Bed・fnissen entspricht. So bei den Asiaten, namentlich den Indern. Vanderlint,
der die Warenpreise durch die Masse des in einem Land befindlichen Goldes und
Silbers bestimmt w臧nt, fragt sich, warum die indischen Waren
so wohlfeil? Antwort: Weil die Inder das Geld vergraben. Von 1602-1734, bemerkt
er, vergruben sie 150 Millionen Pfd. St. Silber, die urspr・glich von Amerika nach Europa kamen.95 Von 1856-1866, also in 10 Jahren, exportierte
England nach Indien und China (das nach China exportierte Metall flie゚t gro゚enteils wieder nach Indien) 120 Millionen Pfd. St.
in Silber, welches vorher gegen australisches Geld eingewechselt wurde.
Mit mehr entwickelter
Warenproduktion mu゚ jeder Warenproduzent sich den nervus
rerum, das サgesellschaftliche Faustpfandォ sichern.96 Seine Bed・fnisse erneuern sich unaufhrlich und gebieten unaufhrlichen Kauf fremder Ware, w臧rend Produktion und Verkauf seiner eignen Ware Zeit kosten und von Zuf舁len abh舅gen. Um zu kaufen, ohne zu verkaufen, mu゚ er vorher verkauft haben, ohne zu kaufen. Diese Operation, auf allgemeiner
Stufenleiter ausgef・rt, scheint sich selbst zu widersprechen.
An ihren Produktionsquellen jedoch tauschen sich die edlen Metalle direkt mit
andren Waren aus. Es findet hier Verkauf (auf Seite der Warenbesitzer) ohne
Kauf (auf Seite der Gold- und Silberbesitzer) statt.97 Und sp舩ere Verk舫fe ohne nachfolgende K舫fe vermitteln blo゚ die weitere Verteilung der edlen Metalle
unter alle Warenbesitzer. So entstehn auf allen Punkten des Verkehrs Gold- und
Silbersch舩ze vom verschiedensten Umfang. Mit der Mglichkeit, die Ware als Tauschwert oder den Tauschwert als Ware
festzuhalten, erwacht die Goldgier. Mit der Ausdehnung der Warenzirkulation w臘hst die Macht des Geldes, der stets schlagfertigen, absolut
gesellschaftlichen Form des Reichtums.
サGold ist ein wunderbares Ding! Wer dasselbe besitzt, ist Herr von allem,
was er w・scht. Durch Gold kann man sogar Seelen in das
Paradies gelangen lassen.ォ (Columbus, im Brief aus Jamaica, 1503.)
Da dem Geld nicht anzusehn,
was in es verwandelt ist, verwandelt sich alles, Ware oder nicht, in Geld.
Alles wird verk舫flich und kaufbar. Die Zirkulation wird
die gro゚e gesellschaftliche Retorte, worin alles hineinfliegt,
um als Geldkristall wieder herauszukommen. Dieser Alchimie widerstehn nicht
einmal Heiligenknochen und noch viel weniger minder grobe res sacrosanctae,
extra commercium hominum.98 Wie im Geld aller qualitative Unterschied der Waren
ausgelscht ist, lscht es seinerseits als
radikaler Leveller alle Unterschiede aus.99 Das Geld ist aber selbst Ware, ein 舫゚erlich Ding, das Privateigentum eines jeden werden kann. Die
gesellschaftliche Macht wird so zur Privatmacht der Privatperson. Die antike
Gesellschaft denunziert es daher als die Scheidem・ze ihrer konomischen und sittlichen Ordnung.100 Die moderne Gesellschaft, die schon
in ihren Kinderjahren den Plutus an den Haaren aus den Eingeweiden der Erde
herauszieht101, begr・t im Goldgral die gl舅zende Inkarnation ihres eigensten Lebensprinzips.
Die Ware als Gebrauchswert
befriedigt ein besondres Bed・fnis und bildet ein besondres Element des
stofflichen Reichtums. Aber der Wert der Ware mi゚t den Grad ihrer
Attraktionskraft auf alle Elemente des stofflichen Reichtums, daher den
gesellschaftlichen Reichtum ihres Besitzers. Dem barbarisch einfachen
Warenbesitzer, selbst einem westeurop臺schen Bauer, ist der
Wert unzertrennlich von der Wertform, Vermehrung des Gold- und Silberschatzes
daher Wertvermehrung. Allerdings wechselt der Wert des Geldes, sei es infolge
seines eignen Wertwechsels, sei es des Wertwechsels der Waren. Dies verhindert
aber einerseits nicht, da゚ 200 Unzen Gold nach wie vor mehr Wert
enthalten als 100, 300 mehr als 200 usw., noch andrerseits, da゚ die metallne Naturalform dieses Dings die allgemeine トquivalentform aller Waren bleibt, die unmittelbar gesellschaftliche
Inkarnation aller menschlichen Arbeit. Der Trieb der Schatzbildung ist von
Natur ma゚los. Qualitativ oder seiner Form nach ist das Geld
schrankenlos, d.h. allgemeiner Repr舖entant des stofflichen
Reichtums, weil in jede Ware unmittelbar umsetzbar. Aber zugleich ist jede
wirkliche Geldsumme quantitativ beschr舅kt, daher auch nur
Kaufmittel von beschr舅kter Wirkung. Dieser Widerspruch zwischen der
quantitativen Schranke und der qualitativen Schrankenlosigkeit des Geldes
treibt den Schatzbildner stets zur・k zur Sisyphusarbeit der
Akkumulation. Es geht ihm wie dem Welteroberer, der mit jedem neuen Land nur
eine neue Grenze erobert.
Um das Gold als Geld
festzuhalten und daher als Element der Schatzbildung, mu゚ es verhindert werden zu zirkulieren oder als Kaufmittel sich in Genu゚mittel aufzulsen. Der Schatzbildner opfert daher dem
Goldfetisch seine Fleischeslust. Er macht Ernst mit dem Evangelium der
Entsagung. Andrerseits kann er der Zirkulation nur in Geld entziehn, was er ihr
in Ware gibt. Je mehr er produziert, desto mehr kann er verkaufen.
Arbeitsamkeit, Sparsamkeit und Geiz bilden daher seine Kardinaltugenden, viel
verkaufen, wenig kaufen, die Summe seiner politischen ヨkonomie.102
Neben der unmittelbaren
Form des Schatzes l舫ft seine 舖thetische Form, der
Besitz von Gold- und Silberwaren. Er w臘hst mit dem Reichtum der
b・gerlichen Gesellschaft. サSoyons riches ou paraissons riches.ォ (Diderot.) Es
bildet sich so teils ein stets ausgedehnterer Markt f・ Gold und Silber, unabh舅gig von ihren Geldfunktionen, teils eine
latente Zufuhrquelle des Geldes, die namentlich in gesellschaftlichen
Sturmperioden flie゚t.
Die Schatzbildung erf・lt verschiedne Funktionen in der ヨkonomie der metallischen
Zirkulation. Die n臘hste Funktion entspringt aus den
Umlaufsbedingungen der Gold- oder Silberm・ze. Man hat gesehn, wie
mit den best舅digen Schwankungen der Warenzirkulation in Umfang,
Preisen und Geschwindigkeit die Umlaufsmasse des Geldes rastlos ebbt und
flutet. Sie mu゚ also der Kontraktion und Expansion f臧ig sein. Bald mu゚ Geld als M・ze attrahiert, bald M・ze als Geld repelliert werden. Damit die wirklich umlaufende Geldmasse dem
S舩tigungsgrad der Zirkulationssph舐e stets entspreche, mu゚ das in einem Lande befindliche Gold- oder
Silberquantum gr゚er sein als das in M・zfunktion begriffene. Diese Bedingung wird erf・lt durch die Schatzform des Geldes. Die Schatzreservoirs dienen zugleich
als Abfuhr- und Zufuhrkan舁e des zirkulierenden Geldes, welches seine
Umlaufskan舁e daher nie ・erf・lt.103
b) Zahlungsmittel
In der bisher betrachteten
unmittelbaren Form der Warenzirkulation war dieselbe Wertgr゚e stets doppelt vorhanden, Ware auf dem einen Pol, Geld auf dem Gegenpol.
Die Warenbesitzer traten daher nur in Kontakt als Repr舖entanten wechselseitig vorhandner トquivalente. Mit der
Entwicklung der Warenzirkulation entwickeln sich jedoch Verh舁tnisse, wodurch die Ver舫゚erung der Ware von der Realisierung ihres
Preises zeitlich getrennt wird. Es gen・t, die einfachsten
dieser Verh舁tnisse hier anzudeuten. Die eine Warenart
erheischt l舅gere, die andere k・zere Zeitdauer zu ihrer
Produktion. Die Produktion verschiedner Waren ist an verschiedne Jahreszeiten
gekn・ft. Die eine Ware wird auf ihrem Marktplatz
geboren, die andre mu゚ zu entferntem Markt reisen. Der eine
Warenbesitzer kann daher als Verk舫fer auftreten, bevor der
andre als K舫fer. Bei steter Wiederkehr derselben Transaktionen
unter denselben Personen regeln sich die Verkaufsbedingungen der Waren nach
ihren Produktionsbedingungen. Andrerseits wird die Benutzung gewisser
Warenarten, z.B. eines Hauses, f・ einen bestimmten
Zeitraum verkauft. Erst nach Ablauf des Termins hat der K舫fer den Gebrauchswert der Ware wirklich erhalten. Er kauft sie daher, bevor
er sie zahlt. Der eine Warenbesitzer verkauft vorhandne Ware, der andre kauft
als blo゚er Repr舖entant von Geld oder als
Repr舖entant von k・ftigem Gelde. Der Verk舫fer wird Gl舫biger, der K舫fer Schuldner. Da die Metamorphose
der Ware oder die Entwicklung ihrer Wertform sich hier ver舅dert, erh舁t auch das Geld eine andre Funktion. Es
wird Zahlungsmittel.104
Der Charakter von Gl舫biger oder Schuldner entspringt hier aus der einfachen Warenzirkulation.
Ihre Formver舅derung dr・kt dem Verk舫fer und K舫fer diese neuen Stempel auf. Zun臘hst also sind es ebenso verschwindende und wechselweis von denselben
Zirkulationsagenten gespielte Rollen wie die von Verk舫fer und K舫fer. Jedoch sieht der Gegensatz jetzt von
Haus aus minder gem・lich aus und ist gr゚erer Kristallisation f臧ig.105 Dieselben Charaktere knnen aber auch von der Warenzirkulation unabh舅gig auftreten. Der
Klassenkampf der antiken Welt z.B. bewegt sich haupts臘hlich in der Form eines Kampfes zwischen Gl舫biger und Schuldner und
endet in Rom mit dem Untergang des plebejischen Schuldners, der durch den
Sklaven ersetzt wird. Im Mittelalter endet der Kampf mit dem Untergang des
feudalen Schuldners, der seine politische Macht mit ihrer konomischen Basis einb・t. Indes spiegelt die Geldform - und das
Verh舁tnis von Gl舫biger und Schuldner
besitzt die Form eines Geldverh舁tnisses - hier nur den
Antagonismus tiefer liegender konomischer
Lebensbedingungen wider.
Kehren wir zur Sph舐e der Warenzirkulation zur・k. Die gleichzeitige Erscheinung
der トquivalente Ware und Geld auf den beiden Polen des
Verkaufsprozesses hat aufgehrt. Das Geld funktioniert jetzt erstens als
Wertma゚ in der Preisbestimmung der verkauften Ware. Ihr
kontraktlich festgesetzter Preis mi゚t die Obligation des K舫fers, d.h. die Geldsumme, die er an bestimmtem Zeittermin schuldet. Es
funktioniert zweitens als ideelles Kaufmittel. Obgleich es nur im
Geldversprechen des K舫fers existiert, bewirkt es den H舅dewechsel der Ware. Erst am f舁ligen Zahlungstermin
tritt das Zahlungsmittel wirklich in Zirkulation, d.h. geht aus der Hand des K舫fers in die des Verk舫fers ・er. Das
Zirkulationsmittel verwandelte sich in Schatz, weil der Zirkulationsproze゚ mit der ersten Phase abbrach oder die verwandelte Gestalt der Ware der
Zirkulation entzogen wurde. Das Zahlungsmittel tritt in die Zirkulation hinein,
aber nachdem die Ware bereits aus ihr ausgetreten ist. Das Geld vermittelt
nicht mehr den Proze゚. Es schlie゚t ihn selbst舅dig ab, als absolutes Dasein des Tauschwerts oder allgemeine Ware. Der Verk舫fer verwandelte Ware in Geld, um ein Bed・fnis durch das Geld zu
befriedigen, der Schatzbildner, um die Ware in Geldform zu pr舖ervieren, der schuldige K舫fer, um zahlen zu knnen. Zahlt er nicht, so finden Zwangsverk舫fe seiner Habe statt. Die
Wertgestalt der Ware, Geld, wird also jetzt zum Selbstzweck des Verkaufs durch
eine den Verh舁tnissen des Zirkulationsprozesses selbst
entspringende, gesellschaftliche Notwendigkeit.
Der K舫fer verwandelt Geld zur・k in Ware, bevor er Ware in Geld verwandelt
hat, oder vollzieht die zweite Warenmetamorphose vor der ersten. Die Ware des
Verk舫fers zirkuliert, realisiert ihren Preis aber nur
in einem privatrechtlichen Titel auf Geld. Sie verwandelt sich in
Gebrauchswert, bevor sie sich in Geld verwandelt hat. Die Vollziehung ihrer
ersten Metamorphose folgt erst nachtr臠lich.106
In jedem bestimmten
Zeitabschnitt des Zirkulationsprozesses repr舖entieren die f舁ligen Obligationen die Preissumme der Waren, deren Verkauf sie hervorrief.
Die zur Realisierung dieser Preissumme ntige Geldmasse h舅gt zun臘hst ab von der Umlaufsgeschwindigkeit der
Zahlungsmittel. Sie ist bedingt durch zwei Umst舅de: die Verkettung der
Verh舁tnisse von Gl舫biger und Schuldner, so
da゚ A, der Geld von seinem Schuldner B erh舁t, es an seinen Gl舫biger C fortzahlt usw. - und die Zeitl舅ge zwischen den verschiednen Zahlungsterminen. Die prozessierende Kette von
Zahlungen oder nachtr臠lichen ersten Metamorphosen unterscheidet
sich wesentlich von der fr・er betrachteten Verschlingung der
Metamorphosenreihen. Im Umlauf des Zirkulationsmittels wird der Zusammenhang
zwischen Verk舫fern und K舫fern nicht nur ausgedr・kt. Der Zusammenhang selbst entsteht erst in und mit dem Geldumlauf.
Dagegen dr・kt die Bewegung des Zahlungsmittels einen schon
vor ihr fertig vorhandnen gesellschaftlichen Zusammenhang aus.
Gleichzeitigkeit und
Nebeneinander der Verk舫fe beschr舅ken den Ersatz der M・zmasse durch Umlaufsgeschwindigkeit. Sie bilden umgekehrt einen neuen Hebel
in der ヨkonomie der Zahlungsmittel. Mit der Konzentration
der Zahlungen an demselben Platz entwickeln sich naturw・hsig eigne Anstalten und Methoden ihrer Ausgleichung. So z.B. die Virements
im mittelaltrigen Lyon. Die Schuldforderungen von A an B, B an C, C an A usw.
brauchen blo゚ konfrontiert zu werden, um sich wechselseitig bis
zu einem gewissen Belauf als positive und negative Gr゚en aufzuheben. So bleibt nur eine Schuldbilanz zu saldieren. Je
massenhafter die Konzentration der Zahlungen, desto kleiner relativ die Bilanz,
also die Masse der zirkulierenden Zahlungsmittel.
Die Funktion des Geldes als
Zahlungsmittel schlie゚t einen unvermittelten Widerspruch ein.
Soweit sich die Zahlungen ausgleichen, funktioniert es nur ideell als
Rechengeld oder Ma゚ der Werte. Soweit wirkliche Zahlung zu
verrichten, tritt es nicht als Zirkulationsmittel auf, als nur verschwindende
und vermittelnde Form des Stoffwechsels, sondern als die individuelle
Inkarnation der gesellschaftlichen Arbeit, selbst舅diges Dasein des
Tauschwerts, absolute Ware. Dieser Widerspruch eklatiert in dem Moment der
Produktions- und Handelskrisen, der Geldkrise hei゚t.107 Sie ereignet sich
nur, wo die prozessierende Kette der Zahlungen und ein k・stliches System ihrer Ausgleichung vllig entwickelt sind. Mit
allgemeineren Strungen dieses Mechanismus, woher sie immer
entspringen mgen, schl臠t das Geld pltzlich und unvermittelt um aus der nur ideellen Gestalt des Rechengeldes in
hartes Geld. Es wird unersetzlich durch profane Waren. Der Gebrauchswert der
Ware wird wertlos, und ihr Wert verschwindet vor seiner eignen Wertform. Eben
noch erkl舐te der B・ger in prosperit舩strunknem Aufkl舐ungsd・kel das Geld f・ leeren Wahn. Nur die Ware ist Geld. Nur das Geld ist Ware! gellt's jetzt ・er den Weltmarkt. Wie der Hirsch schreit nach frischem Wasser, so schreit
seine Seele nach Geld, dem einzigen Reichtum.108 In der Krise wird der
Gegensatz zwischen der Ware und ihrer Wertgestalt, dem Geld, bis zum absoluten
Widerspruch gesteigert. Die Erscheinungsform des Geldes ist hier daher auch
gleichg・tig. Die Geldhungersnot bleibt dieselbe, ob in
Gold oder Kreditgeld, Banknoten etwa, zu zahlen ist.109
Betrachten wir nun die
Gesamtsumme des in einem gegebnen Zeitabschnitt umlaufenden Geldes, so ist sie,
bei gegebner Umlaufsgeschwindigkeit der Zirkulations- und Zahlungsmittel,
gleich der Summe der zu realisierenden Warenpreise plus der Summe der f舁ligen Zahlungen, minus der sich ausgleichenden Zahlungen, minus endlich der
Anzahl Uml舫fe, worin dasselbe Geldst・k abwechselnd bald als Zirkulations-, bald als Zahlungsmittel funktioniert.
Z.B. der Bauer verkauft sein Getreide f・ 2 Pfd. St., die so als
Zirkulationsmittel dienen. Am Verfalltag zahlt er damit Leinwand, die ihm der
Weber geliefert hat. Dieselben 2 Pfd. St. funktionieren jetzt als
Zahlungsmittel. Der Weber kauft nun eine Bibel gegen bar - sie funktionieren
von neuem als Zirkulationsmittel - usw. Selbst Preise, Geschwindigkeit des
Geldumlaufs und ヨkonomie der Zahlungen gegeben, decken sich
daher nicht l舅ger die w臧rend einer Periode,
eines Tags z.B., umlaufende Geldmasse und zirkulierende Warenmasse. Es l舫ft Geld um, das der Zirkulation l舅gst entzogne Waren repr舖entiert. Es laufen Waren um, deren Geld舍uivalent erst in der
Zukunft erscheint. Andrerseits sind die jeden Tag kontrahierten und die denselben
Tag f舁ligen Zahlungen durchaus inkommensurable Gr゚en.110
Das Kreditgeld entspringt
unmittelbar aus der Funktion des Geldes als Zahlungsmittel, indem
Schuldzertifikate f・ die verkauften Waren selbst wieder zur ワbertragung der Schuldforderungen zirkulieren. Andrerseits, wie sich das
Kreditwesen ausdehnt, so die Funktion des Geldes als Zahlungsmittel. Als
solches erh舁t es eigne Existenzformen, worin es die Sph舐e der gro゚en Handelstransaktionen behaust, w臧rend die Gold- oder Silberm・ze haupts臘hlich in die Sph舐e des Kleinhandels zur・kgedr舅gt wird.111
Bei gewissem Hhegrad und Umfang der Warenproduktion greift die Funktion des Geldes als
Zahlungsmittel ・er die Sph舐e der Warenzirkulation
hinaus. Es wird die allgemeine Ware der Kontrakte.112 Renten, Steuern usw.
verwandeln sich aus Naturallieferungen in Geldzahlungen. Wie sehr diese
Umwandlung durch die Gesamtgestalt des Produktionsprozesses bedingt wird,
beweist z.B. der zweimal gescheiterte Versuch des rmischen Kaiserreichs, alle Abgaben in Geld zu erheben. Das ungeheure Elend
des franzsischen Landvolks unter Ludwig XIV., das
Boisguillebert, Marschall Vauban usw. so beredt denunzieren, war nicht nur der
Steuerhhe geschuldet, sondern auch der Verwandlung von
Naturalsteuer in Geldsteuer.113 Wenn andrerseits die Naturalform der
Grundrente, in Asien zugleich das Hauptelement der Staatssteuer, dort auf
Produktionsverh舁tnissen beruht, welche sich mit der
Unwandelbarkeit von Naturverh舁tnissen reproduzieren,
erh舁t jene Zahlungsform r・kwirkend die alte Produktionsform. Sie bildet eines der
Selbsterhaltungsgeheimnisse des t・kischen Reichs. Zieht
der durch Europa aufoktroyierte ausw舐tige Handel in Japan die
Verwandlung von Naturalrente in GeldrenteA8 nach sich, so ist es um seine musterhafte
Agrikultur geschehn. Ihre engen konomischen
Existenzbedingungen werden sich auflsen.
In jedem Land setzen sich
gewisse allgemeine Zahlungstermine fest. Sie beruhn teilweis, von andren
Zirkell舫fen der Reproduktion abgesehn, auf den an Wechsel
der Jahreszeit gebundnen Naturbedingungen der Produktion. Sie regeln ebenso
Zahlungen, die nicht direkt der Warenzirkulation entspringen, wie Steuern,
Renten usw. Die Geldmasse, die zu diesen ・er die ganze Oberfl臘he der Gesellschaft zersplitterten Zahlungen an gewissen Tagen des Jahres
erheischt ist, verursacht periodische, aber ganz oberfl臘hliche Perturbationen in der ヨkonomie der
Zahlungsmittel.114 Aus dem Gesetz ・er die
Umlaufsgeschwindigkeit der Zahlungsmittel folgt, da゚ f・ alle periodischen Zahlungen, welches immer ihre
Quelle, die notwendige Masse der Zahlungsmittel in gerademA9 Verh舁tnis zur L舅ge der Zahlungsperioden steht.115
Die Entwicklung des Geldes
als Zahlungsmittel erntigt Geldakkumulationen f・ die Verfalltermine der geschuldeten Summen. W臧rend die Schatzbildung als selbst舅dige Bereicherungsform
verschwindet mit dem Fortschritt der b・gerlichen Gesellschaft,
w臘hst sie umgekehrt mit demselben in der Form von
Reservefonds der Zahlungsmittel.
c) Weltgeld
Mit dem Austritt aus der
innern Zirkulationssph舐e streift das Geld die dort aufschie゚enden Lokalformen von Ma゚stab der Preise, M・ze, Scheidem・ze und Wertzeichen, wieder ab und f舁lt in die urspr・gliche Barrenform der edlen Metalle zur・k. Im Welthandel entfalten die Waren ihren Wert universell. Ihre selbst舅dige Wertgestalt tritt ihnen daher hier auch gegen・er als Weltgeld. Erst auf dem Weltmarkt funktioniert das Geld in vollem
Umfang als die Ware, deren Naturalform zugleich unmittelbar gesellschaftliche
Verwirklichungsform der menschlichen Arbeit in abstracto ist. Seine
Daseinsweise wird seinem Begriff ad舍uat.
In der innern
Zirkulationssph舐e kann nur eine Ware zum Wertma゚ und daher als Geld dienen. Auf dem Weltmarkt herrscht doppeltes Wertma゚, Gold und Silber.116
Das Weltgeld funktioniert
als allgemeines Zahlungsmittel, allgemeines Kaufmittel und absolut
gesellschaftliche Materiatur des Reichtums ・erhaupt (universal
wealth). Die Funktion als Zahlungsmittel, zur Ausgleichung internationaler Bilanzen,
herrscht vor. Daher das Losungswort des Merkantilsystems - Handelsbilanz!117
Zum internationalen Kaufmittel dienen Gold und Silber wesentlich, sooft das
herkmmliche Gleichgewicht des Stoffwechsels zwischen
verschiednen Nationen pltzlich gestrt wird. Endlich als
absolut gesellschaftliche Materiatur des Reichtums, wo es sich weder um Kauf
noch Zahlung handelt, sondern um ワbertragung des Reichtums
von einem Land zum andren, und wo diese ワbertragung in Warenform
entweder durch die Konjunkturen des Warenmarkts oder den zu erf・lenden Zweck selbst ausgeschlossen wird.118
Wie f・ seine innere Zirkulation, braucht jedes Land f・ die Weltmarktszirkulation einen Reservefonds. Die Funktionen der Sch舩ze entspringen also teils aus der Funktion des Geldes als inneres
Zirkulations- und Zahlungsmittel, teils aus seiner Funktion als Weltgeld.119 In
der letzteren Rolle ist stets die wirkliche Geldware, leibhaftes Gold und
Silber, erheischt, weswegen James Steuart Gold und Silber, im Unterschied von
ihren nur lokalen Stellvertretern, ausdr・klich als money of the
world charakterisiert.
Die Bewegung des Gold- und
Silberstroms ist eine doppelte. Einerseits w舁zt er sich von seinen
Quellen ・er den ganzen Weltmarkt, wo er von den
verschiednen nationalen Zirkulationssph舐en in verschiednem
Umfang abgefangen wird, um in ihre inneren Umlaufskan舁e einzugehn, verschlissene Gold- und Silberm・zen zu ersetzen, das
Material von Luxuswaren zu liefern und zu Sch舩zen zu erstarren.120
Diese erste Bewegung ist vermittelt durch direkten Austausch der in Waren
realisierten Nationalarbeiten mit der in edlen Metallen realisierten Arbeit der
Gold und Silber produzierenden L舅der. Andrerseits laufen
Gold und Silber fortw臧rend hin und her zwischen den verschiednen
nationalen Zirkulationssph舐en, eine Bewegung, die den unaufhrlichen Oszillationen des Wechselkurses folgt.121
L舅der entwickelter b・gerlicher Produktion beschr舅ken die in Bankreservoirs massenhaft konzentrierten Sch舩ze auf das zu ihren spezifischen Funktionen erheischte Minimum.122 Mit
gewisser Ausnahme zeigt auffallendes ワberf・len der Schatzreservoirs ・er ihr
Durchschnittsniveau Stockung der Warenzirkulation an oder unterbrochenen Flu゚ der Warenmetamorphose.123
[Marx: Das Kapital,
S. 211 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3525 (vgl. MEW Bd. 23,
S. 154 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 203 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3517 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 147 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 195 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3509 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 142 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 187 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3501 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 134 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 179 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3493 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 130 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 171 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3485 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 125 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 163 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3477 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 120 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 155 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3469 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 115 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 147 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 3461 (vgl. MEW
Bd. 23, S. 109 ff.)]
[2] 2003年2月3日朝日新聞朝刊に小林慶一郎客員論説委員による「早わかり『インフレターゲット論』」が掲載された。
「インフレターゲット」論が、
@ アメリカ経済学者クルーグマンの受け売りであること、
A そのクルーグマンの提唱するモデルでは、「日銀が日本経済全体のマネーの量を自由自在に操作できると仮定している」こと、
B その基本仮定自体が現実とあっていないこと(「日銀だけでなく民間の銀行部門が、日銀の供給する現金の10倍程度のマネー創造を行っていること」、
C 現状では、日銀が現金供給を増やしても、信用創造が行われないこと、
D 特例的に行われている日銀による民間銀行保有の株や土地の買い上げは、結局のところ、日銀の資産内容が現行の民間銀行と同じになるだけのこと、と言った諸論拠で、インフレターゲット論に否定的である。本HPの主張は、これによっても補強された。
「インフレが起きれば債務者が助かるから、不良債権問題もかなり軽減されるという期待」も、無理だとしている。
いずれにしろ、現在の長期不況を貨幣的原因に求め、貨幣的な解決を図ろうとする発想自体に根本問題があろう。小林論文は、そこまできちんと踏み込んだものではない。
生産構造の問題、世界の生産と市場構造の問題、日本が開発すべき新たな生産部門・市長開拓の問題、有効需要創出、その発見こそが、問題だが、ケインズ政策の最も肝心のことがどうして見なおされないのか、不思議である。
現実の社会では、まだ目に見えてきてはいないにしても、現在の日本が抱える問題を直視し、その問題解決のための製品開発に没頭している人々がいるはずで、その新たな芽の発見、促進こそが大切なことだろう。
たとえば、子持ちの女性が企業で働く条件はきわめて悪い。もっとしっかり働きたい.しかし、身近に託児所がないなど、せっかくの有能な女性が、その能力を十分に発揮で切るようになっていない。託児所があることで、子どもを預かるサービス(労働販売者)と子どもを預ける消費者(サービス労働購入者)の市場関係は創出される。子どもを預ける母親はその余裕の時間だけ充実した仕事(たとえば商品開発、自分の特技・専門性を生かした仕事そのための大学・大学院での研究)を行える。研究開発型の仕事こそは、地域・日本・世界で新しい需要創出(より人間的な、より充実した生活のための需要)を可能にする。サービス市場のいっそうの深化拡大こそは、現代社会の課題である。そこでの市民の能力開発・有効需要創出で大学・大学院はますます重要になる。
子どもを預かる、面倒を見ると言うこと一つ取っても,インターネット社会で、情報を有機的に統合し配信すれば、社会的分業(子どもを預かる人と子どもをアヅケル人のネットワーク・分業)ができ、ビアノ教師の女性はピアノ教室で教えることが可能になる一方、幼児を持ち、他人の幼児を預かる女性はいえのなかで社会的労働を行うことができ収入を得られるなど、可能性は非常にある。有効需要の相互連関は、社会の多くの人々が、その可能性を発掘すれば、立ち上がってくるものであろう。
その意味で、現在の不況・有効需要欠如を根本から打破出きるのは、市民の創意性・市民の需要であろう。
現在の閉塞状況は、この根本が見えないことにあろう。まさに「経済低迷の」基礎にある根本問題(現実の諸問題が提起している潜在的有効需要)がみえないことにあろう。
すなわち、インフレターゲット論の背景は、小林の指摘するように、一方では、「バブル崩壊後の12年間、相次ぐ景気対策と経済低迷による税収不足で、日本の政府債務残高早く700兆円(国内総生産の約1・4倍)に達している」現実にある。他方で、「財政政策(公共事業や減税)による景気刺激は、膨らんだ財政赤字を考えても、もう無理」だから、「その肩代わりを日銀の金融緩和でしてもらいたい」というものである。
じつに安易な政策提言が、インフレターゲット論なのである。
結局、問題を中央銀行である日銀によって解決しようとしう、じつにそこの浅いものなのである。経済問題の本質がまったく見えていないのが、インフレターゲット論である。
[3] 本日(2月4日)の『神奈川新聞』の記事「『個人向け国債』出足好調―投資家の安全志向鮮明、90機関で販売枠が完売―」によれば、「3日販売が始まった個人向け国際葉市況商品としては『異例の元本保証』(市場関係者)を前面に打ち出し」たもので、「元本我リスクがある通常の国債が大量に流通する市場に『一種のダブルスタンダードが持ちこまれた』(市場関係者)格好だ」と。
「税収不足に悩む財政当局は1400兆円に上る個人金融資産を、なんとか国債購入に振り向かせるため、日本国債という金融商品に、市場の原則を逸脱した措置を導入せざるを得ないところまで追い詰められたといえる」と。
すなわち、「通常の機関投資家向け国債は満期途中に売却すれば市況によっては元本を割りこむ。一方、個人向け国債は国家破産とならないかぎり、購入した個人がその損失をこうむることはない。逆に言うと暴落時の元本保証分は政府が新たに負担しなければならない」と。
「こうまでして個人の購入を進めようとしているのは、お得意さんだった機関投資家の引き受けが限界に達しているため」で、「国債市場は現在、有利な投資先が見当たらない機関投資家が資金を集中させ、歴史的な超低金利が続いているが、内実は『一種のバブル状態で暴落への不安が常に頭をかすめる』(都銀債権担当者)危うい状態だ」と。
「政府の償還能力に対する疑念も海外の格付け機関が表明している。何かのきっかけで相場が暴落すれば、銀行の保有残高だけで約74兆円にも上る金融機関の資産は決定的な打撃を被る恐れがあり、今後増え続ける国債をこれまでのお得意さんに丸投げできない状況だ」と。
「こうした中で個人投資家は財政当局にとって最後の頼みの綱となったといえる」と。
「最後の頼みの綱」を非常に限定的に、窮余の一策としてやるのか、あるいはそれに市大に依存するのか、ことはかなり危険である。「個人投資家」が、本当に「個人投資家」であるのか? 個人投資家がバブル期のように銀行などから金を借りて、市場原理を逸脱する「元本保証」の国債購入に走り出すことはないのか?
[4] 日銀マーケット・レビュー2003―J―1・花尻哲郎・二宮拓人・植木修康「米国の国債管理政策〜国債管理の手法と運用〜」、p.2.安定した信用と市場性(売買可能性)、流動性は相互関係にある。
[5] 日銀のHP(http://www.boj.or.jp/wakaru/keiki/wms.htm#b)は、以下のように定義し、説明している。
「マネーサプライ統計の定義
マネーサプライとは、一言で言えば「経済全体に供給されている通貨の総量」です。より具体的には、「一般法人、個人、地方公共団体など通貨保有主体が保有する現金通貨や預金通貨など『通貨』を集計したもの」です。銀行や保険会社など金融機関や中央政府は、この通貨保有主体には含まれません。このため、これらの主体が資産として保有する現金や預金等はマネーサプライ統計に含まれません。
日本銀行では、対象とする『通貨(マネー)』の範囲に応じて、M1、M2+CD、M3+CD、広義流動性の 4つの指標をマネーサプライ統計として作成・公表しています。これらの指標の定義は図表1のとおりです。
M1は、最も容易に決済手段として用いることができる現金通貨(紙幣や貨幣)と預金通貨(当座預金や普通預金など要求払預金)により構成されます。
M2+CDは、M1に国内銀行、信用金庫等の準通貨(大半は定期預金)およびCD(譲渡性預金)を加えたものです。定期預金は解約して現金通貨ないし預金通貨に替えれば決済手段になる金融商品です。このため、預金通貨に準じた性格を持つという意味で準通貨と呼ばれます。マネーサプライに関する 4指標の中では、M2+CDが、実体経済や物価との間における関係が相対的に安定的であるとされており、実際に注目度も高い指標です。日本銀行では、毎月の「金融経済月報」において、M2+CDの動向に言及しています。また、毎四半期の初めには、当該四半期におけるマネーサプライ(M2+CD前年比伸び率)の見通しも併せて公表しています。
M3+CDは、M2+CDに、郵便貯金のほか、信用組合、労働金庫、農業協同組合、漁業協同組合等の預貯金および金銭信託を加えたものです。これらはいずれも、M2+CDと同じような預金としての性格を備えた商品ですが、速報性や統計精度が劣るなどの理由で、別途M3+CDとして分類されています。
M3+CDまでが現金・預金ないし預金類似商品であるのに対し、広義流動性は、やや性格が異なります。広義流動性は、M3+CDに、何らかの「流動性」を有すると考えられる金融商品、具体的には、金銭信託以外の金銭の信託、投資信託、金融債、金融機関発行CP、債券現先・現金担保付債券貸借、国債・FB、外債を加えたものです。従って、かなり広い意味での"マネー"サプライ指標と位置付けられます。広義流動性は、このように幅広い金融商品を対象としていることから、それら金融商品間において預け替えの動きが生じた場合であっても、比較的安定的に推移するといった特色を有しています。実際、97年11月〜翌98年 2月にかけては、M2+CDが急速に伸びを高める一方、広義流動性は比較的安定的に推移しました。これは、97年11月に大手証券会社を含む金融機関が相次いで破綻し、金融システムに対する不安が高まったことから、投資信託を解約して預金に預け替える動きが急速に強まったことを反映したものでした。この時、投資信託からの資金流入を受けてM2+CDは急増しましたが、広義流動性は、預金、投資信託の双方を対象としていることから、そうした金融商品間における資金の流出入の影響を受けなかったわけです。」
詳しい「マネーサプライ統計の解説」は、http://www.boj.or.jp/down/siryo/data/exms.pdf