利潤率」とは、通俗的には、たとえば有斐閣『経済辞典』によれば、次のように定義されている。

 

(A)稼得される資本所得の投下された資本価値額に対する比率のこと。

 分析目的によって、投下資本価値額として固定資本のみをとりあげたり、また他人資本を除く自己資本(その場合には資本所得も企業利潤に限定される)を用いたりすることがある。

 (B)→総資本利益率」の意味。

 

「総資本利益率Return on total assets[1]ROA

 資本利益率の一種で、当期の利益額を使用総資本の平均有高で除して算定した比率のこと。

 経営体の立場からみた企業の綜合的収益性を表わす指標である。

 この比率は、分子の利益数値として何を用いるかにより、

総資本総利益率、

総資本営業利益率

総資本税引前当期純利益率、

総資本当期純利益率、などに分かれる。」

 

マルクスが分析の対象にしている利潤率は、総資本営業利益率にあたるものである。

 

 

 

 

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20030131利潤率

 

『資本論』第3巻、第2 利潤率

2. Die Profitrate

 

「資本の一般的定式は、G‐W‐G である。すなわち、ある価値額が、それよりも大きい価値量を流通から引き出すために、流通に投げこまれるのである。このより大きい価値額生み出す過程は資本主義的生産であり、それを実現する過程は資本の流通である。

 Die allgemeine Formel des Kapitals ist G - W - G'; d.h. eine Wertsumme wird in Zirkulation geworfen, um eine größre Wertsumme aus ihr herauszuziehn. Der Prozeß, der diese größre Wertsumme erzeugt, ist die kapitalistische Produktion; der Prozeß, der sie realisiert, ist die Zirkulation des Kapitals.

 

                    学生諸君へのコメント: 現実の資本主義の社会での、剰余価値の生産と実現の乖離の可能性

            生産が流通を忘れ、流通が生産を忘れる。現在の長期不況は、世界経済と日本経済のまさにこの根本問題に関係している。

 

            

「資本家が商品を生産するのは、その商品そのもののためでもなければ、その商品の使用価値またはこの使用価値の個人的消費のためでもない。資本家にとって実際に問題になる生産物は、手でつかめる生産物そのものではなく、生産物の価値のうちこの生産物に消費された資本の価値を越える超過分である。

Der Kapitalist produziert die Ware nicht ihrer selbst wegen, nicht ihres Gebrauchswerts oder seiner persönlichen Konsumtion wegen. Das Produkt, um das es sich in der Tat für den Kapitalisten handelt, ist nicht das handgreifliche Produkt selbst, sondern der Wertüberschuß des Produkts über den Wert des in ihm konsumierten Kapitals.

 

「資本家は総資本を、それのいろいろな成分が剰余価値の生産で演ずる役割の相違を顧慮することなしに、前貸しする。彼はこれらの成分をすべて一様に、単に前貸資本を再生産するためだけではなく、前貸資本を越える価値超過分を生産するために、前貸しする。

Der Kapitalist schießt das Gesamtkapital vor ohne Rücksicht auf die verschiedne Rolle, die seine Bestandteile in der Produktion des Mehrwerts spielen. Er schießt alle diese Bestandteile gleichmäßig vor, nicht nur um das vorgeschoßne Kapital zu reproduzieren, sondern um einen Wertüberschuß über dasselbe zu produzieren.

 

 

学生諸君へのコメント: Exploitation搾取と訳され、それが定着している。その訳語は、道徳的な感情が入りこみやすい翻訳であり、その点では中立的な「収取」といった訳語のほうが、経済科学的には妥当だろう。「搾り取る」という語感は、経済法則としての必然性を表現するものとしては、感情に傾きすぎていると思われる。正当な取引関係(一定の労働日、一定労働時間、社会的に妥当な労働条件、社会的に平均的な労働強度、社会的ん妥当な賃金)であっても、資本主義的関係では、剰余労働が資本の掌中にはいるということ、このことが忘れ去られる危険性があるからである。通常の、平均的社会的な条件でも剰余労働、剰余価値を資本が取得するということ、これが経済法則としては重要である。それでは、現実の日本に「搾取」の現象はないか? そんなことはない。現在の長期不況化で非常に後半に広がっている現象、すなわち「サービス残業」(ただ働きを余儀なくされる事態)は、搾取以外の何物でもないだろう。「サービス残業」による疲労の蓄積、健康障害などは、まさに「搾取」という概念こそがぴたりとあてはまる現象である。経済法則とその現実の異常な表れとは、いずれもきちんと把握すべきものだろう。しかし、他人からただでものを奪い取ることは搾り取る以上の盗みにあたる。あたかも「自発的な」形態を装いながら、実際に支払われる残業時間内では処理できない仕事量を与えることは、実質的には、他人の労働をただで盗むことに他ならない。ただで他人からもの(労働量)を奪うことは、刑法にも違反することであろう。どこかの会社(たしか、消費者金融のある業者)が刑法で訴えられたのは、当然のことだろう。そのようなことが、中小零細企業だけではなく、世界のビッグビジネスでも起きていることは、新聞が報道しているところである。(たとえば、数日前の朝日新聞にはトヨタのサービス残業に関する記事が出ていた。)経済法則が問題にするのは、正常な労働条件であっても、支払労働と不払労働があること、利潤の恒常的普遍的発生の根拠は、人間の剰余労働にあること、これを明らかにしたのがマルクスである。

 

 

 

「彼は、自分が前貸しする可変資本の価値を、ただ、それを生きている労働と交換することによってのみ、生きている労働搾取することによってのみ、より大きい価値に転化させることができる。しかし、彼が労働を搾取することができるのは、ただ、彼が同時にこの労働の実現のための諸条件、すなわち労働手段や労働対象、機械や原料を前貸しすることによってである。すなわち、自分が持っている価値額を生産条件の形態に転化させることによってである。

Er kann den Wert des variablen Kapitals, den er vorschießt, nur in höhern Wert verwandeln durch seinen Austausch mit lebendiger Arbeit, durch Exploitation lebendiger Arbeit. Aber er kann die Arbeit nur exploitieren, indem er gleichzeitig die Bedingungen für die Verwirklichung dieser Arbeit, Arbeitsmittel und Arbeitsgegenstand, Maschinerie und Rohstoff vorschießt, d.h. indem er eine in seinem Besitz befindliche Wertsumme in die Form von Produktionsbedingungen verwandelt;

 

 

          学生諸君へのコメント: 現代では、生産の圧倒的支配的部分を株式資本を所有する法人企業が担っている。所有(資本の所有)と経営が分離する現代において、経営者は資本の剰余価値取得のための機能を遂行する人格であり、資本の要求を代弁し代表する。非労働者である法人(資本)が生産手段を所有する。剰余価値、その転化形態としての利潤は、法人資本が取得する。現代では、個人資本家は、中小零細企業家として、非常に狭い範囲でしか経済活動を担ってはいない。法人企業の資本金別・経済規模別統計がそれを示す。たとえば20029月発表の売上高の規模別統計(第1表売上高の推移、下段、規模別)など参照。この統計の第5表・第3図など付加価値(人件費+支払利息・割引料+動産・不動産賃借料+租税効果+営業純益)とその構成比変化も参照。人件費=可変資本部分=労働者の取得部分(ここから生計費を確保し個人の所得税など貢租効果を支払う)、その他は「剰余価値部分=資本と土地所有の取得分そして租税」である。これまでのマルクスの叙述において、また今後のマルクスの叙述において、現代のような法人資本主義のもとでは、「資本家」というところは、「資本(その所有者)」と置きかえて読むことが必要であろう。

 

 

「そもそも彼が資本家であるのは、また、そもそも労働の搾取過程を企てることができるのは、ただ、彼が労働条件の所有者として単なる労働力所持者としての労働者に相対しているからでしかない。すでに第一部で明らかにしたように、非労働者によるこの生産手段の所有こそは、労働者を賃金労働者に転化させ、非労働者を資本家に転化させるのである。

wie er überhaupt nur Kapitalist ist, den Exploitationsprozeß der Arbeit überhaupt nur vornehmen kann, weil er als Eigentümer der Arbeitsbedingungen dem Arbeiter als bloßem Besitzer der Arbeitskraft gegenübersteht. Es hat sich schon früher, im ersten Buch, gezeigt, daß es grade der Besitz dieser Produktionsmittel durch die Nichtarbeiter ist, welcher die Arbeiter in Lohnarbeiter, die Nichtarbeiter in Kapitalisten verwandelt.

 

「資本家にとっては、自分は可変資本から利得をたたきだすために不変資本を前貸しするのだというように事情を見るか、それとも不変資本を増殖するために可変資本を前貸しするのだというように見るか、すなわち、機械や原料により大きい価値を与えるために貨幣を労賃に投ずるのだと見るか、それとも労働を搾取することができるようにするために貨幣を機械や原料に前貸しするのだと見るかは、どちらでもかまわないのである。

    Dem Kapitalisten ist es gleichgültig, die Sache so zu betrachten, daß er das konstante Kapital vorschießt, um aus dem variablen Gewinn zu schlagen, oder das variable vorschießt, um das konstante zu verwerten; daß er Geld in Arbeitslohn auslegt, um Maschinen und Rohmaterial höhern Wert zu geben, oder das Geld in Maschinerie und Rohmaterial vorschießt, um die Arbeit exploitieren zu können.

 

「ただ資本の可変部分だけが剰余価値を創造するのではあるが、それが剰余価値を創造するのは、ただ、他方の諸部分すなわち労働の生産条件も前貸されれるという条件のもとでのみ行われることである。資本家はただ不変資本を前貸しすることによってのみ労働を搾取することができるのだから、また彼はただ可変資本を前貸しすることによってのみ不変資本を増殖することができるのだから、彼にとってはこれらのことは観念のなかではみな同じことになってしまうのであり、しかも、彼の利得の現実の度合いは可変資本に対する割合によってではなく総資本にたいする割合によって、すなわち剰余価値率によってではなく利潤率によって規定されており、この利潤率はあとで見るようにそれ自身は同じままでもいろいろに違った剰余価値率を表わすことが出きるのだから、ますますそうなのである。

Obgleich nur der variable Teil des Kapitals Mehrwert schafft, so schafft er ihn unter der Bedingung, daß auch die andren Teile vorgeschossen werden, die Produktionsbedingungen der Arbeit. Da der Kapitalist die Arbeit nur exploitieren kann durch Vorschuß des konstanten Kapitals, da er das konstante Kapital nur verwerten kann durch Vorschuß des variablen, so fallen ihm diese in der Vorstellung alle gleichmäßig zusammen, und dies um so mehr, als der wirkliche Grad seines Gewinns bestimmt ist nicht durch das Verhältnis zum variablen Kapital, sondern zum Gesamtkapital, nicht durch die Rate des Mehrwerts, sondern durch die Rate des Profits, die, wie wir sehn werden, dieselbe bleiben und doch verschiedne Raten des Mehrwerts ausdrücken kann.

 

「生産物の費用のなかには、生産物の価値成分のうち資本家が支払ったすべてのもの、または彼がその等価を生産に投じたすべてのものがはいる。これらの費用は、資本が単に維持されるために、またはその最初の大きさが再生産されるために、補填されなければならないのである。

  Zu den Kosten des Produkts gehören alle seine Wertbestandteile, die der Kapitalist gezahlt, oder für die er ein Äquivalent in die Produktion geworfen hat. Diese Kosten müssen ersetzt werden, damit das Kapital sich einfach erhalte oder in seiner ursprünglichen Größe reproduziere.

 

「商品に含まれている価値は、商品の生産に費やされる労働時間に等しく、またこの労働の総量支払労働不払労働とから成っている。これに反して、資本家にとっての商品の費用は、商品に対象化されている労働のうちの彼が支払った部分だけからなっている。

  Der in der Ware enthaltne Wert ist gleich der Arbeitszeit, die ihre Herstellung kostet, und die Summe dieser Arbeit besteht aus bezahlter und unbezahlter. Die Kosten der Ware für den Kapitalisten bestehn dagegen nur aus dem Teil der in ihr vergegenständlichten Arbeit, den er gezahlt hat.

 

「商品に含まれている剰余労働は、労働者には支払労働とまったく同じ労働を費やさせるにもかかわらず、また支払労働とまったく同じに価値を創造し価値形成要素として商品にはいるにもかかわらず、資本家にとってはなんの費用もかからないのである。

Die in der Ware enthaltne Mehrarbeit kostet dem Kapitalisten nichts, obgleich sie dem Arbeiter, ganz so gut wie die bezahlte, Arbeit kostet, und obgleich sie, ganz so gut wie jene, Wert schafft und als wertbildendes Element in die Ware eingeht.

 

資本が取得する利潤、資本の所有者が取得する利潤、すなわち、その意味での

「資本家の利潤は、自分が代価を支払っていないものを売ることができるということから生ずる。剰余価値または利潤は、まさに商品価値が商品の費用価格を越える超過分なのである。すなわち、商品に含まれている総労働量が商品に含まれている支払労働量越える超過分なのである。

Der Profit des Kapitalisten kommt daher, daß er etwas zu verkaufen hat, das er nicht bezahlt hat. Der Mehrwert resp. Profit besteht gerade in dem Überschuß des Warenwerts über ihren Kostpreis, d.h. in dem Überschuß der in der Ware enthaltnen Gesamtsumme von Arbeit über die in ihr enthaltne bezahlte Summe Arbeit.

 

資本(その所有者である資本家)にとっては

「だから、剰余価値は、それがどこから生まれるにせよ、とにかく前貸総資本を越える超過分である。だから、この超過分は総資本にたいしてm/Cという分数で表わされる割合をなしているのである。このCは総資本を意味するものである。こうしてわれわれは、剰余価値m/vとは別物である利潤率m/C = m/(c + v)を得るのである。

Der Mehrwert, woher er immer entspringe, ist sonach ein Überschuß über das vorgeschoßne Gesamtkapital. Dieser Überschuß steht also in einem Verhältnis zum Gesamtkapital, das sich ausdrückt in dem Bruch m/C, wo C das Gesamtkapital bedeutet. So erhalten wir die Profitrate m/C = m/(c + v), im Unterschiede von der Rate des Mehrwerts m/v.

 

可変資本で計られた剰余価値の率は剰余価値率と呼ばれ、総資本で計られた剰余価値の率は利潤率と呼ばれる。この二つの率は、同じ量二つの違った仕方で計ったものであって、尺度が違っているために同時に同じ量の違った割合または関係を表わすのである。

    Die Rate des Mehrwerts gemessen am variablen Kapital heißt Rate des Mehrwerts; die Rate des Mehrwerts gemessen am Gesamtkapital heißt Profitrate. Es sind zwei verschiedne Messungen derselben Größe, die infolge der Verschiedenheit der Maßstäbe zugleich verschiedne Verhtnisse oder Beziehungen derselben Größe ausdrücken.

 

「剰余価値利率の利潤率への転化から剰余価値の利潤への転化が導き出されるべきであって、その逆ではない。そして、実際にも利潤率が歴史的な出発点になるのである。剰余価値と剰余価値率とは、相対的に、目に見えないものであって、探求されなければならない本質的なものであるが、利潤率は、したがってまた利潤としての剰余価値の形態は、現象の表面に現われているものである。

    Aus der Verwandlung der Mehrwertsrate in Profitrate ist die Verwandlung des Mehrwerts in Profit abzuleiten, nicht umgekehrt. Und in der Tat ist die Profitrate das, wovon historisch ausgegangen wird. Mehrwert und Rate des Mehrwerts sind, relativ, das Unsichtbare und das zu erforschende Wesentliche, während Profitrate und daher die Form des Mehrwerts als Profit sich auf der Oberfläche der Erscheinungen zeigen.

 

利潤率が歴史的な出発点

「個々の資本家について言えば、彼が関心をもつ唯一のものは、商品の生産のために前貸しした総資本にたいする剰余価値の、または自分の商品を売って得られる価値超過分の、割合だということは明らかである。

 Was den einzelnen Kapitalisten angeht, so ist klar, daß das einzige, was ihn interessiert, das Verhältnis des Mehrwerts oder des Wertüberschusses, wozu er seine Waren verkauft, zu dem für die Produktion der Ware vorgeschoßnen Gesamtkapital ist;

 

「他方、資本の特殊な諸成分にたいするこの超過分の特定の割合にも、またその諸成分とこの超過分との内的な関連にも、彼はただ関心をもたないだけではなく、むしろ、この特定の割合やこの内的な連関については自分の目をくらますことのほうが彼の関心事なのである。

während ihn das bestimmte Verhältnis dieses Überschusses zu, und sein innerer Zusammenhang mit den besondren Bestandteilen des Kapitals nicht nur nicht interessiert, sondern es sein Interesse ist, sich blauen Dunst über dies bestimmte Verhältnis und diesen innern Zusammenhang vorzublasen.

 

超過分が流通から生ずるかの外観・・・実際には、「生ずる」のは直接的生産過程であり、流通以前に作られている。流通過程は、その実現だけ。

 

「商品の費用価格を越える商品価値の超過分は直接的生産過程の生ずるのではあるが、それは流通過程ではじめて実現されるのであって、それが流通かちえから生ずるかのような外観をますますもちやすくなるのは、この超過分が実現されるかどうか、またどの程度に実現されるかは、現実には、競争のなかでは、現実の市場では、市場の状況にかかっているからである。

    Obgleich der Überschuß des Werts der Ware über ihren Kostpreis im unmittelbaren Produktionsprozeß entsteht, wird er erst realisiert im Zirkulationsprozeß, und erhält um so leichter den Schein, aus dem Zirkulationsprozeß zu entspringen, als es in der Wirklichkeit, innerhalb der Konkurrenz, auf dem wirklichen Markt, von Marktverhältnissen abhängt, ob oder nicht, und zu welchem Grad, dieser Überschuß realisiert wird.

 

「ここで論ずる必要もないことであるが、ある商品がその価値よりも高く売られたり安く売られたりしても、ただ剰余価値の分配の変化が生ずるだけであり、また、このような分配の変化、すなわちいろいろな人々が剰余価値を受け取る割合の変化は、剰余価値の量やその性質を少しも変えるものではないのである。実際の流通過程では、第二部で考察したような諸転化が行われるだけではなく、これらの転化が現実の競争すなわち価値よりも高いかまたは低い価格での商品の売買と同時に行われるので、個々の資本家にとっては、彼自身が実現する剰余価値は、労働の直接的搾取によって定まるのと同様に彼らどうしのごまかしあいによっても定まるのである。

Es bedarf hier keiner Erörterung, daß, wenn eine Ware über oder unter ihrem Wert verkauft wird, nur eine andre Verteilung des Mehrwerts stattfindet, und daß diese verschiedne Verteilung, das veränderte Verhältnis, worin verschiedne Personen sich in den Mehrwert teilen, weder an der Größe noch an der Natur des Mehrwerts irgend etwas ändert. Im tatsächlichen Zirkulationsprozeß gehn nicht nur die Verwandlungen vor, die wir in Buch II betrachtet, sondern sie fallen zusammen mit der wirklichen Konkurrenz, mit Kauf und Verkauf der Waren über oder unter ihrem Wert, so daß für den einzelnen Kapitalisten der von ihm selbst realisierte Mehrwert ebensosehr von der wechselseitigen Übervorteilung, wie von der direkten Exploitation der Arbeit abhängt.

 

 

「流通過程では労働期間のほかに流通期間が作用することになり、それによって、一定の期間実現可能な剰余価値の量が制限される。そのほかにも、流通から生ずる契機で直接的生産過程に規定的に干渉するものがある。この両者、直接的生産過程と流通過程とは、いつでも互いに食いこみ合い、侵入し合っており、そのためにそれぞれの特徴的な区別標識が紛らわしくなるのが常である。

 Im Zirkulationsprozeß tritt neben der Arbeitszeit die Zirkulationszeit in Wirksamkeit, die hiermit die Masse des in einem bestimmten Zeitraum realisierbaren Mehrwerts beschränkt. Es greifen noch andre, der Zirkulation entspringende Momente in den unmittelbaren Produktionsprozeß bestimmend ein. Beide, der unmittelbare Produktionsprozeß und der Zirkulationsprozeß, laufen beständig ineinander, durchdringen sich und verfälschen dadurch beständig ihre charakteristischen Unterscheidungsmerkmale.

 

「剰余価値の生産も価値一般の生産も、流通過程では、前に示したように、新たな規定を受け取る。資本はその諸転化の連鎖を通る。最後に、資本はいわばその内的な有機的生活から外的な生活関係にはいる。この関係のなかでは、資本と労働が相対するのではなく、一方では資本と資本とが相対し、他方では諸個人もまた再びただ買い手と売り手として相対するのである。

Die Produktion des Mehrwerts wie des Werts überhaupt erhält im Zirkulationsprozeß, wie früher gezeigt, neue Bestimmungen; das Kapital durchläuft den Kreis seiner Verwandlungen; endlich tritt es sozusagen aus seinem innern organischen Leben in auswärtige Lebensverhältnisse, in Verhältnisse, wo nicht Kapital und Arbeit, sondern einerseits Kapital und Kapital, andrerseits die Individuen auch wieder einfach als Käfuer und Verkäufer sich gegenüberstehn;

 

「流通期間と労働期間とは互いに交錯する軌道を描き、したがってどちらも一様に剰余価値を規定するかのように見える。資本と賃労働とが相対している元来の形態は、外観上はこの形態から独立な諸関係の混入によって変装させられる。剰余価値そのもの労働時間の取得の産物としては現われないで、商品の費用価格を越える商品の販売価格の超過分として現われ、したがって費用価格がたや すく商品の固有価値として現われ、そのために利潤は商品の内在的な価値を越える商品の販売価格の超過分として現われるのである。

Zirkulationszeit und Arbeitszeit durchkreuzen sich in ihrer Bahn und scheinen so beide gleichmäßig den Mehrwert zu bestimmen; die ursprüngliche Form, worin sich Kapital und Lohnarbeit gegenüberstehn, wird verkleidet durch Einmischung scheinbar davon unabhängiger Beziehungen; der Mehrwert selbst erscheint nicht als Produkt der Aneignung von Arbeitszeit, sondern als Überschuß des Verkaufspreises der Waren über ihren Kostpreis, welcher letztre daher leicht als ihr eigentlicher Wert (valeur intrinséque) sich darstellt, so daßder Profit als Überschuß des Verkaufspreises der Waren über ihren immanenten Wert erscheint.

 

           学生諸君へのコメント: 現在のわが国で横行する「サービス残業」(実質上の強制的時間外労働)、下記のマルクスの叙述を裏づけないか?

 

「もちろん、直接的生産過程でも剰余価値の性質は絶えず資本家の意識にのぼるのであって、それは、すでに剰余価値の考察にさいして他人の労働時間に対する資本家の貪欲などがわれわれに示したとおりである。

    Allerdings tritt während des unmittelbaren Produktionsprozesses die Natur des Mehrwerts fortwährend in das Bewußtsein des Kapitalisten, wie seine Gier nach fremder Arbeitszeit etc. uns schon bei Betrachtung des Mehrwerts zeigte.

 

「しかし、(1)直接的生産過程そのものも一つの消滅していく契機でしかないのであって、それは絶えず流通過程に移っていき、また流通過程も生産過程に移って行くのであり、したがって、生産過程で明瞭または不明瞭に浮かび上がってくるところの、そこで得られる利得の源泉すなわち剰余価値の性質に関する予感も、せいぜい次ぎのような観念と並んで同権の一契機として現れるに過ぎないのである。その観念というのは、実現された超過分の源泉というのは、生産過程からは独立な、流通そのものから生ずる、したがって労働にたいする資本の関係にはかかわりなく資本に属する運動だという観念である。

Allein: 1. Es ist der unmittelbare Produktionsprozeß selbst nur ein verschwindendes Moment, das beständig in den Zirkulationsprozeß, wie dieser in jenen übergeht, so daß die im Produktionsprozeß klarer oder dunkler aufgedämmerte Ahnung von der Quelle des in ihm gemachten Gewinns, d.h. von der Natur des Mehrwerts, höchstens als ein gleichberechtigtes Moment erscheint neben der Vorstellung, der realisierte Überschuß stamme aus der vom Produktionsprozeß unabhängigen, aus der Zirkulation selbst entspringenden, also dem Kapital unabhängig von seinem Verhältnis zur Arbeit angehörigen Bewegung.

 

「しかも、このような流通上の現象は、ラムジやマルサスやシーニアやトレンズなどのような現代の経済学者たちによってさえも、ただちに次のようなことの証拠としてあげられるのである。すなわち、資本は、その単に物的な存在において、まさに資本を資本とするところの労働に対する社会的関係からは独立に、労働と並んで、労働からは独立に、剰余価値な源泉である、ということの証拠としてあげられるのである。

Werden diese Phänomene der Zirkulation doch selbst von modernen Ökonomen, wie Ramsey, Malthus, Senior, Torrens usw., direkt als Beweise angeführt, daß das Kapital in seiner bloß dinglichen Existenz, unabhängig von dem gesellschaftlichen Verhältnis zur Arbeit, worin es eben Kapital ist, ein selbständiger Quell des Mehrwerts neben der Arbeit und unabhängig von der Arbeit sei.

 

         学生諸君へのコメント:つぎの「搾取」は、ドイツ語がAuspressungであり、、経済学的には、すでに述べたように、資本=賃労働関係の法則的性格を明確にするためにExploitationの訳としてあてるべきだとした「収取」ではなく、「搾取」のほうが近いであろう。マルクスにおいても、現実の無理な剰余労働収取関係を反映して、法則的に表現すべきところを、そうでない表現を使っているということである。

 

―(2)原料の価格や機械の摩滅分などとともに労賃をも含んでいる費用という項目のもとでは、不払労働の搾取Auspressung von unbezahlter Arbeitは、ただ、費用のなかにはいるいろいろな品目のうちの一つにたいする支払の節約として、すなわち、ただ、一定量の労働に対するより少ない支払として、現われるだけである。この節約は、原料をより安く買い入れたり機械の摩滅分を減らしたりするのとまったく同じなのである。こうして剰余労働の搾取Abpressungはその独自な性格をなくしてしまう。剰余価値に対する剰余労働の独自な関係はわからなくなる。そして、このことは、第1部第六篇で明かにしたように、労働力の価値Werts der Arbeitskraft労賃Arbeitslohnという形態で表わされることによって、いっそう助長され容易にされるのである。

-      2. Unter der Rubrik der Kosten, worunter der Arbeitslohn flt, ebensogut wie der Preis von Rohstoff, Verschlei der Maschinerie etc., erscheint Auspressung von unbezahlter Arbeit nur als Ersparung in der Zahlung eines der Artikel, der in die Kosten eingeht, nur als geringre Zahlung für ein bestimmtes Quantum Arbeit; ganz wie ebenfalls gespart wird, wenn der Rohstoff wohlfeiler eingekauft, oder der Verschlei der Maschinerie verringert wird. So verliert die Abpressung von Mehrarbeit ihren spezifischen Charakter; ihr spezifisches Verhtnis zum Mehrwert wird verdunkelt; und dies wird sehr befrdert und erleichtert, wie Buch I, Abschn. VI gezeigt, durch die Darstellung des Werts der Arbeitskraft in der Form des Arbeitslohns.

 

 

資本のすべての部分一様に超過価値(利潤)の源泉として現われるということによって、資本関係は不可解にされる

    Indem alle Teile des Kapitals gleichmäßig als Quelle des überschüssigen Werts (Profits) erscheinen, wird das Kapitalverhältnis mystifiziert.神秘化される!

 

「とはいえ、利潤率をつうじての移行によって剰余価値が利潤という形態に転化させられる仕方は、すでに生産過程で起きている主体と客体との転倒がいっそう発展したものであるにすぎない。

 Die Art, wie mittelst des Übergangs durch die Profitrate der Mehrwert in die Form des Profits verwandelt wird, ist jedoch nur die Weiterentwicklung der schon während des Produktionsprozesses vorgehenden Verkehrung von Subjekt und Objekt.

 

「すでに生産過程でわれわれは労働のすべての主体的な生産力資本の生産力として現われるのを見た。一方では、価値が、すなわち生きている労働を支配する過去の労働が、資本家において人格化される。他方では、逆に、労働者が、単に対象的な労働力として、商品として、現われる。

Schon hier sahen wir sämtliche subjektiven Produktivkräfte der Arbeit sich als Produktivkräfte des Kapitals darstellen. Einerseits wird der Wert, die vergangne Arbeit, die die lebendige beherrscht, im Kapitalisten personifiziert; andrerseits erscheint umgekehrt der Arbeiter als bloß gegenständliche Arbeitskraft, als Ware.

 

「このような転倒された関係からは、必然的に、すでに単純な生産関係そのもののなかでも、それに対応する転倒された観念、移調された意識が生ずるのであって、この意識は本来の流通過程の諸転化や諸変形によっていっそう発展させられるのである。

Aus diesem verkehrten Verhältnis entspringt notwendig schon im einfachen Produktionsverhältnis selbst die entsprechende verkehrte Vorstellung, ein transponiertes Bewußtsein, das durch die Verwandlungen und Modifikationen des eigentlichen Zirkulationsprozesses weiterentwickelt wird.

 

「リカード学派において知ることができるように、利潤率の諸法則を直接に剰余価値率の諸法則として説明しようとしたり、またはその逆の説明をしようとしたりすることは、まったく転倒した試みである。

    Es ist, wie man bei der Ricardoschen Schule studieren kann, ein ganz verkehrter Versuch, die Gesetze der Profitrate unmittelbar als Gesetze der Mehrwertsrate oder umgekehrt darstellen zu wollen.

 

資本の観点からは、すなわち、その所有者、資本の人格的表現としての資本家の頭のなかでは、

 

資本家の頭のなかでは、もちろんこの二つの法則は区別されはしない。m/Cという表現では、剰余価値は総資本の価値で計られているが、この総資本は剰余価値の生産のために前貸しされたもので、この生産中にその一部分は全部消費されてしまうが、一部分はただ充用されているだけである。

In dem Kopf des Kapitalisten unterscheiden sie sich natürlich nicht. In dem Ausdruck m/C ist der Mehrwert gemessen am Wert des Gesamtkapitals, das zu seiner Produktion vorgeschossen und in dieser Produktion teilweise ganz konsumiert, teilweise nur angewandt worden ist.

 

「じっさい、m/Cという比率は前貸資本全体の増殖度を表わしている。すなわち、剰余価値の概念的な内的な関連と性質とに対応させて考えれば、それは、可変資本の変化の大きさ前貸総資本の大きさに対してどんな割合になっているかを示しているのである。

In der Tat drückt das Verhältnis m/C den Verwertungsgrad des ganzen vorgeschoßnen Kapitals aus, d.h. dem begrifflichen, innern Zusammenhang und der Natur des Mehrwerts entsprechend gefaßt, es zeigt an, wie sich die Größe der Variation des variablen Kapitals zur Größe des vorgeschoßnen Gesamtkapitals verhält.

 

学生諸君へのコメント:「可変資本の変化の大きさ」すなわち、剰余価値率と前貸総資本の大きさ(総資本の価値量)との間には、直接的な内的な関連はない。ここがポイント。剰余価値を計る物差し(v/m)と利潤率を計る物差し(m/C)の違いをよく理解する必要がある。

 

「それ自体としては、総資本の価値量は、剰余価値量にたいしてどんな内的関係もなしてはいない。少なくとも直接にはそうである。

  An und für sich steht die Wertgröße des Gesamtkapitals in keinem innern Verhältnis zur Größe des Mehrwerts, wenigstens nicht unmittelbar.

 

学生諸君へのコメント: 不変資本は労働の客体的条件(機械設備、原料など)

 

「総資本・マイナス・可変資本、つまり不変資本は、素材的要素から見れば、労働の実現のための素材的諸条件、すなわち労働手段と労働材料とから成っている。一定量の労働が商品に実現され、したがってまた価値を形成するためには、一定量の労働材料と労働手段とが必要である。

Seinen stofflichen Elementen nach besteht das Gesamtkapital minus das variable Kapital, besteht also das konstante Kapital aus den stofflichen Bedingungen zur Verwirklichung der Arbeit, Arbeitsmitteln und Arbeitsmaterial. Damit ein bestimmtes Quantum Arbeit sich in Waren verwirklicht, und daher auch Wert bildet, ist ein bestimmtes Quantum Arbeitsmaterial und Arbeitsmittel erheischt.

 

「つけ加えられる労働の特殊な性格に応じて、労働の量と、この生きている労働がつけ加えられるべき生産手段の量との間には、一定の技術的な割合が生まれる。したがってまた、そのかぎりでは剰余価値または剰余労働の量生産手段の量とのあいだにも、一定の割合が生まれる。

Es findet je nach dem besondern Charakter der zugesetzten Arbeit ein bestimmtes technisches Verhältnis statt zwischen der Masse der Arbeit und der Masse der Produktionsmittel, denen diese lebendige Arbeit zugesetzt werden soll. Es findet also insofern auch ein bestimmtes Verhältnis statt zwischen der Masse des Mehrwerts oder der Mehrarbeit und der Masse der Produktionsmittel.

 

「たとえば、労賃の生産のために必要な労働が1日に6時間だとすれば、労働者は、6時間の剰余労働を行うためには、すなわち100%の剰余価値を生みだすためには、12時間労働しなければならない。彼は、12時間では6時間に消費する生産手段の2倍を消費する。

Wenn z.B. die notwendige Arbeit zur Produktion des Arbeitslohns 6 Stunden täglich beträgt, muß der Arbeiter 12 Stunden arbeiten, um 6 Stunden Mehrarbeit zu tun, um einen Mehrwert von 100% zu erzeugen. Er verbraucht in den 12 Stunden doppelt soviel Produktionsmittel wie in den 6.

 

「しかしそれだからといって、彼が6時間でつけ加える剰余価値は、6時間とか12時間とかに消費される生産手段の価値とはまったくなんの直接関係もない

Aber deswegen steht der Mehrwert, den er in 6 Stunden zusetzt, durchaus in keinem unmittelbaren Verhältnis zu dem Wert der in den 6 oder auch in den 12 Stunden vernutzten Produktionsmittel.

 

「この生産手段の価値はここではまったくどうでもよいのである。ただ、技術的に必要な量が問題になるだけである。原料や労働手段が安いか高いかということは、まったくどうでもよいのである。ただ、それが必要な使用価値をもっていさえすれば、そして吸収されるべき生きている労働にたいして技術的に定められた割合でそこにありさえすれば、それでよいのである。

Dieser Wert ist hier ganz gleichgültig; es kommt nur auf die technisch nötige Masse an. Ob der Rohstoff oder das Arbeitsmittel wohlfeil oder teuer, ist ganz gleichgültig; wenn es nur den erheischten Gebrauchswert besitzt und in der technisch vorgeschriebnen Proportion zu der zu absorbierenden lebendigen Arbeit vorhanden ist.

 

 

「といっても、1時間では重量xポンドの綿花が紡がれて、それにはaシリングかかるということを知れば、もちろん、12時間では12xポンドの綿花=12aシリングが紡がれるということもわかるのであり、その場合には、6の価値に対してと同じに、12の価値に対して尾剰余価値の割合を算出することができるのである。

Wei ich jedoch, daß in einer Stunde x Pfund Baumwolle versponnen werden und a Schillinge kosten, so weiß ich natürlich auch, daß in 12 Stunden 12 x Pfund Baumwolle = 12 a Schillinge versponnen werden, und ich kann dann das Verhältnis des Mehrwerts zum Wert der 12 so gut wie zum Wert der 6 berechnen.

 

「しかし、生産手段の価値に対する生きている労働の割合がここにはいってくるのは、ただ、aシリングが重量xポンドの綿花の呼び名として役立つかぎりでのことである。なぜならば、綿花の価格が変わらないかぎり、一定量の綿花は一定の価格をもっており、したがってまた逆に一定の価格は一定量の綿花の指標として役立つことができるからである。

Aber das Verhältnis der lebendigen Arbeit zum Wert der Produktionsmittel kommt hier nur herein, soweit a Schillinge als Name für x Pfund Baumwolle dient; weil ein bestimmtes Quantum Baumwolle einen bestimmten Preis hat und daher auch umgekehrt ein bestimmter Preis als Index für ein bestimmtes Quantum Baumwolle dienen kann, solange der Baumwollenpreis sich nicht ändert.

 

6時間の剰余労働を取得するためには、12時間の労働をさせなければならず、したがって12時間分の綿花を準備しなければならないということを知っており、また12時間のために必要なこの綿花量の価格を知っていれば、そこには一つの回り道を通ってではあるが、綿花の価格(必要量の指標としての)と剰余価値との割合がある。

 Wenn ich weiß, daß ich, um 6 Stunden Mehrarbeit anzueignen, 12 Stunden arbeiten lassen, also Baumwolle für 12 Stunden parat haben muß und den Preis dieses für 12 Stunden erheischten Quantums Baumwolle kenne, so existiert auf einem Umweg ein Verhältnis zwischen dem Preis der Baumwolle (als Index des notwendigen Quantums) und dem Mehrwert.

 

しかし、その逆に原料の価格から原料の量を、たとえば6時間にではなく1時間に紡ぐことのできる量を、推定することは決してできない。だから、不変資本の価値と剰余価値とのあいだには、したがってまた総資本の価値(=c+v)と剰余価値とのあいだにも、内的な必然的な関係はなにもないのである。

Umgekehrt kann ich aber nie aus dem Preise des Rohmaterials schließen auf die Masse des Rohmaterials, die z.B. in einer Stunde und nicht in 6 versponnen werden kann. Es findet also kein inneres, notwendiges Verhältnis statt zwischen dem Wert des konstanten Kapitals, also auch nicht zwischen dem Wert des Gesamtkapitals (= c + v) und dem Mehrwert.

 

「剰余価値率が分かっていて、剰余価値量が与えられていれば、利潤率が表現するものは、それが実際にそれであるところのもの、すなわち剰余価値のもう一つの計り方にほかならず、労働と交換されることによって直接に剰余価値を生み出す資本部分の価値にたいしてではなく、総資本の価値に対して剰余価値を計ることにほかならない。

    Wenn die Rate des Mehrwerts bekannt und seine Größe gegeben ist, drückt die Profitrate nichts andres aus als das, was sie in der Tat ist, eine andre Messung des Mehrwerts, seine Messung am Wert des Gesamtkapitals, statt an dem Wert des Kapitalteils, aus dem er durch dessen Austausch mit Arbeit direkt entspringt.

 

ところが、現実には(すなわち現象界では)事柄は逆になる

Aber in der Wirklichkeit (d.h. in der Erscheinungswelt) verhält sich die Sache umgekehrt.

 

「剰余価値は与えられているが、しかし、それは商品の費用価格を越える商品の販売価格の超過分として与えられている。その場合、超過分がどこから出てくるか、生産過程での労働の搾取からか、流通過程で買い手をだまして利をことからか、それともその両方からかということは、相変わらず不可解である。

Der Mehrwert ist gegeben, aber gegeben als Überschuß des Verkaufspreises der Ware über ihren Kostpreis; wobei es mysteriös bleibt, woher dieser Überschuß stammt, aus der Exploitation der Arbeit im Produktionsprozeß, aus der Übervorteilung der Käufer im Zirkulationsprozeß, oder aus beiden.

 

「そのほかに与えられているものは、総資本の価値にたいするこの超過分の割合、すなわち利潤率である。費用価格を越える販売価格のこの超過分を前貸総資本の価値に対して計算することは、非常に重要であり、また自然でもある。というのは、これによって実際に、総資本増殖された割合、すなわちその増殖度が見いだされるからである。

 Was ferner gegeben, ist das Verhältnis dieses Überschusses zum Wert des Gesamtkapitals, oder die Profitrate. Die Berechnung dieses Überschusses des Verkaufspreises über den Kostpreis auf den Wert des vorgeschoßnen Gesamtkapitals ist sehr wichtig und natürlich, da hierdurch in der Tat die Verhältniszahl gefunden wird, worin sich das Gesamtkapital verwertet hat, oder sein Verwertungsgrad.

 

「だから、この利潤率から出発するならば、この超過分労賃に投ぜられた資本部分との独自な関係を推定することはとうていできないのである。マルサスがこの道によって剰余価値の秘密を、また資本の可変部分にたいする剰余価値独自な関係の秘密を見抜こうとして、どんなにこっけいなとんぼ返りをやっているかは、もっと後のほうの一章(全集26巻、剰余価値学説史)で示されるであろう。

Wird von dieser Profitrate ausgegangen, so ist also durchaus auf kein spezifisches Verhältnis zwischen dem Überschuß und dem in Arbeitslohn ausgelegten Teil des Kapitals zu schließen. Man wird in einem spätern Kapitel sehn, welche drollige Bocksprünge Malthus macht, wenn er auf diesem Weg hinter das Geheimnis des Mehrwerts und des spezifischen Verhältnisses desselben zum variablen Teil des Kapitals durchzudringen sucht.

 

「利潤率そのものが示しているものは、むしろ、資本の同じ大きさの諸部分に対するこの超過分の一様な関係であって、資本は、この観点から見れば、固定資本と流動資本との区別のほかにはどんな内的な区別も示さないのである

Was die Profitrate als solche zeigt, ist vielmehr gleichmäßiges Verhalten des Überschusses zu gleich großen Teilen des Kapitals, das von diesem Gesichtspunkt aus überhaupt keine inneren Unterschiede zeigt, außer dem zwischen fixem und zirkulierendem Kapital.

 

「そして、この固定資本と流動資本との区別を示すのも、ただ、超過分が二通りに計算されるからでしかない。

すなわち、1には費用価格を越える超過分という単純な量として。このような、超過分の1の形態では、流動資本は全部費用価格にはいるが、固定資本のほうは摩滅分だけしか費用価格にはいらない。

Und diesen Unterschied auch nur, weil der Überschuß doppelt berechnet wird.

Nämlich erstens als einfache Größe: Überschuß über den Kostpreis. In dieser seiner ersten Form geht das ganze zirkulierende Kapital in den Kostpreis ein, während vom fixen Kapital nur der Verschleiß in ihn eingeht.

 

「さらに第2には、前貸資本の総価値にたいするこの価値超過分の割合として。

  この場合には、固定資本全体の価値が流動資本の価値と同様に計算にはいる。

Ferner zweitens: das Verhältnis dieses Wertüberschusses zum Gesamtwert des vorgeschoßnen Kapitals.

Hier geht der Wert des ganzen fixen Kapitals so gut wie der des zirkulierenden in die Rechnung ein.

 

         学生諸君へのコメント:価値の実体としての労働、剰余価値の実体としての剰余労働、そうしたものの競争的諸関係のなかでの現象形態として利潤()を捕らえることのできない通常の意識においては、資本の区別は、流動資本と固定資本としかない。地球の周りを太陽が動いているという現象(ここでは、利潤率、利潤)は、地球の自転と公転とが科学的に明らかにされた後でも(ここでは剰余価値率、剰余価値)、われわれの日常の意識においてはありのままの現実である。目に写るままの現実が科学的真理だとすれば、科学は必要ないことになる。通常の経済学は、まさにこの最も根本的なところで、いまだに現象にとらわれ、現象に振りまわされている。

 

「つまり、流動資本はどちらの場合にも同じ仕方で計算にはいるが、固定資本のほうは、一方では流動資本とは計算の違う仕方で計算にはいり、他方では、流動資本と同じ仕方で計算にはいるのである。こうして、流動資本と固定資本との区別がここでは唯一の区別としてせまってくるのである。

Das zirkulierende Kapital geht also beidemal in derselben Weise ein, während das fixe Kapital das eine Mal in einer verschiednen, das andre Mal in derselben Weise wie das zirkulierende Kapital eingeht. So drängt sich der Unterschied zwischen zirkulierendem und fixem Kapital hier als der einzige auf.

 

「こういうわけで、この超過分は、もしそれが、ヘーゲル的に言って、利潤率からそれ自身に反射してくるならば、言いかえればそれがより詳しく利潤率によって特徴づけられるならば、資本が1年または一定の流通周期のうちにそれ自身の価値を超えて生み出す超過分として現われるのである。

    Der Überschuß also, wenn er, hegelisch gesprochen, sich aus der Profitrate in sich zurückreflektiert, oder anders, der Überschuß, näher durch die Profitrate charakterisiert, erscheint als ein Überschuß, den das Kapital über seinen eignen Wert hinaus jährlich, oder in einer bestimmten Zirkulationsperiode, erzeugt.

 

「それゆえ、利潤率は剰余価値率とは数的に違っており、他方、剰余価値と利潤とは事実上同じであり数的にも等しいのであるが、それにもかかわらず、利潤剰余価値の転化形態なのであって、この形態では剰余価値の源泉も、その存在の秘密もおおい隠され消し去られているのである。じっさい、利潤剰余価値の現象形態であって、剰余価値は分析によってはじめて利潤からむきだされなければならないのである。

  Obgleich daher die Profitrate von der Rate des Mehrwerts numerisch verschieden ist, während Mehrwert und Profit in der Tat dasselbe und auch numerisch gleich sind, so ist der Profit jedoch eine verwandelte Form des Mehrwerts, eine Form, worin sein Ursprung und das Geheimnis seines Daseins verschleiert und ausgelscht ist. In der Tat ist der Profit die Erscheinungsform des Mehrwerts, welcher letztre erst durch Analyse aus der erstern herausgeschält werden muß.

 

                      学生諸君へのコメント:まさにこの利潤を分析し、源泉としての剰余価値を発見したところにマルクスの科学的発見がある。労働価値説、すなわちアダム・スミス以来の古典派の経済学(価値の実体としての労働)をふまえ、それを発展させ、飛躍させたわけである。この根本のところが、100年以上たっても、ほとんどの人に理解されていない。しかし、ソ連東欧の崩壊、冷戦体制崩壊後のグローバル化(世界的市場経済化・資本主義化)の現実のなかで、科学的真理を直視する条件は、以前よりは増したといえよう。諸君の熟考を期待する。

 

「剰余価値では資本と労働との関係はむ出しになっている。

Im Mehrwert ist das Verhältnis zwischen Kapital und Arbeit bloßgelegt;

「資本と利潤との、すなわち資本と剰余価値―といっても一方では流通過程で実現される、商品の費用価格を超える超過分として現われ、他方では総資本に対する割合によって詳しく規定された超過分として現われる剰余価値―との関係のなかでは、資本は自分自身に対する関係として現われるのであり、この関係のなかでは資本は本源的価値額としてそれ自身が生み出した価値額から区別されるのである。

im Verhältnis von Kapital und Profit, d.h. von Kapital und dem Mehrwert, wie er einerseits als im Zirkulationsprozeß realisierter Überschuß über den Kostpreis der Ware, andrerseits als ein durch sein Verhältnis zum Gesamtkapital näher bestimmter Überschuß erscheint, erscheint das Kapital als Verhältnis zu sich selbst, ein Verhältnis, worin es sich als ursprüngliche Wertsumme von einem, von ihm selbst gesetzten Neuwert unterscheidet.

 

                      学生諸君へのコメント:すべての力が資本(企業)にあるように見える現実は、資本の源泉、利潤の源泉が労働であるという科学的真理を洞察しないことに由来する。この洞察は今まで見てきたように、すでになされている。しかし、目に写る現象としては、地球が不動で太陽が地球の周りを回るようにみえることが続くように、利潤を取得して増殖を続けるのが資本であり、資本の力の増大に帰結するため、生みの親である労働(その主体である労働者=働く人々)は、弱い立場に置かれるのである。

 

 

「資本はこの新価値を生産過程と流通過程を通るそれ自身の運動のなかで生み出すということ、これは意識されている。しかし、どのようにしてそれが行われるのかは、今では不可解にされていて、資本そのものにそなわる隠れた性質から出てくるように見えるのである。

Daß es diesen Neuwert während seiner Bewegung durch den Produktionsprozeß und den Zirkulationsprozeß erzeugt, dies ist im Bewußtsein. Aber wie dies geschieht, das ist nun mystifiziert und scheint von ihm selbst zukommenden, verborgnen Qualitäten herzustammen.

 

            学生諸君へのコメント:商品取引資本(商業資本・商業利潤)や貨幣取引資本(貨幣取扱い資本)、商人資本、利子生み資本などなどが現実社会には存在し、それらが利潤を分配する諸法則が入りこんで、資本の増殖の基礎にあることがますます不可解にされる。すなわち、

 

「われわれが資本の価値増殖過程を追跡して行けば行くほど、ますます資本関係は不可解になるであろうし、ますますその内部組織秘密をむきだしにしなくなってゆくであろう。

    Je weiter wir den Verwertungsprozeß des Kapitals verfolgen, um so mehr wird sich das Kapitalverhältnis mystifizieren, und um so weniger das Geheimnis seines inneren Organismus blolegen.

 

「この篇では、利潤率は数的に剰余価値率と違っている。これに反して、利潤と剰余価値とは、ただ形態だけが違っている同じ数量として取り扱われている。つぎの篇では、どのように外面化が進んで、利潤が数的にも量的にも剰余価値とは違う量として表れるようになるかを見るであろう。

    In diesem Abschnitt ist die Profitrate numerisch von der Rate des Mehrwerts verschieden; dagegen sind Profit und Mehrwert behandelt als dieselbe numerische Größe, nur in verschiedner Form. Im folgenden Abschnitt werden wir sehn, wie die Veräußerlichung weitergeht und der Profit auch numerisch als eine vom Mehrwert verschiedne Größe sich darstellt.

[Marx: Das Kapital, S. 2643 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 5957 (vgl. MEW Bd. 25, S. 51 ff.)]

[Marx: Das Kapital, S. 2651 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 5965 (vgl. MEW Bd. 25, S. 55 ff.)]



[1] Assetsとは、資産であるが、資本という訳を当てている。

 英語の訳としては厳密には、総資産利益率というべきだと思われる。

総資産=総資本(=負債+資本)という理解で、この訳が当てられているのであろう。

 

 ただ、資産と資本の関係については、曖昧さを残した用語法がまかり通っているようである。すなわち、有斐閣『経済辞典』によれば、

 

「総資本total capital: 企業に投下された個別資本の総体のこと。一時点における資産と負債・資本の合計である。企業に投下された総資本は、その機能形態から資産と呼ばれ、その調達。源泉形態から負債・資本と呼ばれる」と。

 

 この定義に見られる曖昧さは、一方で、機能形態(資産)と源泉形態(負債・資本)との区別をしながら、他方で、「一時点における資産と負債・資本の合計」として、総資本を定義している。

貸借対照表において、資産勘定(機能形態)と負債・資本勘定(源泉形態)は「合計」されることはない。機能形態と源泉形態を「合計」するということ自体、意味不明の定義である。誤った定義と言うべきである。

ただ、「合計」は普通の理解のように、「負債・資本の合計」という意味にも読めるが、それならば、明確に、はじめから、総資本は、機能形態では資産(総資産)であり、その源泉形態では負債と資本の合計である、と区別して規定するのが分かりやすい。

 

 

マルクス的に言えば、GWpW’―G’

          (期首)   (期末)

 G,G’は、負債と資本を合わせたものでこれが投下された総資本(期首、期末は利益を含む)

     負債と資本の違いは、当初資本の調達形態の違いである。調達形態は違っても、合計して総資本として機能する。

 W,W’は、資産(期首)、資産(期末)

 

ただし、マルクスが、利潤分析の段階まででは、利子生み資本を考察の対象にいれていないので、その点の注意が必要。

ただ、その源泉の違い(自己資本か他人資本か、つまり資本か負債かの区別)を別として、現実の営業活動には、負債と資本の合計総資本total capitalとして、生産手段などの購入に当てられる。

源泉の違いは、生み出された利益(利潤)の取得の形態の違いとなる。自己資本の場合、利益とり、他人資本(負債)の場合、利子が支払われることになる。