初出:20030217
更新:03/02/18
第五篇
利子と企業者利得とへの利潤の分割 利子生み資本
V. Spaltung des
Profits in Zins und Unternehmergewinn. Das zinstragende Kapital.
第21章 利子生み資本
21. Das
zinstragende Kapital
「一般利潤率または平均利潤率を最初に考察したときには(第三部第二篇)、まだこの平均利潤率はその完成した姿ではわれわれの前に現れていなかった。というのは、その平均はまだいろいろな部面に投下された産業資本のあいだの平均とし現われていただけだからである。
Bei der ersten Betrachtung
der allgemeinen oder Durchschnittsprofitrate (Abschnitt II dieses Buchs) hatten
wir diese letztre noch nicht in ihrer fertigen Gestalt vor uns, indem die
Ausgleichung noch bloß als Ausgleichung der in verschiednen Sphären angelegten industriellen Kapitale erschien.
「この点は第四篇で補足され、そこではこの平均への商業資本の参加と商業利潤とが論究された。そこでは一般利潤率と平均利潤率とが前よりも狭い限界のなかで現われた。
Dies wurde erg舅zt im vorigen
Abschnitt, wo die Teilnahme des Handelskapitals
an dieser Ausgleichung und der merkantile Profit erörtert ward. Die allgemeine
Profitrate und der Durchschnittsprofit stellten sich jetzt innerhalb engerer
Grenzen dar als vorher.
「これからの展開の途上では、今後われわれが一般的利潤率とか平均利潤とか言う場合には、このあとのほうの意味でそういうのだということ、つまりただ平均率の完成した姿に関してのみそう言うのだということを、つねに念頭においていなければならない。
Im Fortgang der
Entwicklung ist im Auge zu halten, daß, wenn wir fernerhin von allgemeiner
Profitrate oder Durchschnittsprofit sprechen, dies in der letztren Fassung
geschieht, also bloß mit Bezug auf die fertige
Gestalt der Durchschnittsrate.
「この平均率はこれからは産業資本にとっても商業資本にとっても同じなのだから、ただこの平均利潤だけが問題にされるかぎりでは、産業利潤と商業利潤とのあいだに区別を設けることはもはや必要ではない。資本は、生産部面のなかで産業に投下されようと流通部面で商業に投下されようと、その大きさに比例して、同じ年間平均利潤をあげるのである。
Da diese nunmehr
füe das industrielle und merkantile Kapital dieselbe ist, ist es auch nicht
weiter nötig, soweit es sich nur um diesen Durchschnittsprofit handelt, einen
Unterschied zwischen industriellem und kommerziellem Profit zu machen. Ob das
Kapital innerhalb der Produktionssphäre industriell oder in der
Zirkulationssphäre merkantil angelegt, es wirft pro
rata seiner Größe denselben
jährlichen Durchschnittsprofit ab.
「貨幣―ここではある価値額の独立な表現として考えられるもので、この価値額が実際に貨幣として存在するか商品として存在するかにはかかわらない―は、資本主義的生産の基礎の上では資本に転化させられることができ、この転化によって、ある一定の価値から、自分自身を増殖し増大させる価値になる。それは利潤を生む。すなわち、それが資本家が労働者から一定量の不払労働、剰余労働、剰余価値を引き出して自分のものにすることができるようにする。
Geld - hier genommen als selbständiger
Ausdruck einer Wertsumme, ob sie tatsächlich in Geld oder Waren existiere - kann auf Grundlage der kapitalistischen
Produktion in Kapital verwandelt werden
und wird durch diese Verwandlung aus einem gegebnen Wert zu einem sich selbst verwertenden,
sich vermehrenden Wert. Es produziert Profit, d.h. es befähigt den
Kapitalisten, ein bestimmtes Quantum unbezahlter
Arbeit, Mehrprodukt und Mehrwert,
aus den Arbeitern herauszuziehn und sich
anzueignen.
「こうして、貨幣は、自分が貨幣として持っている使用価値のほかに、一つの追加的使用価値、すなわち資本として機能するという使用価値を受け取るのである。ここでは貨幣の使用価値とは、まさに、それが資本に転化して生みだす利潤のことなのである。このような、可能的資本としての、利潤を生産するための手段としての、属性において、貨幣は商品に、といってもひとつの独特な種類の商品に、なるのである。または、結局同じことになるが、資本が資本として商品になるのである。
Damit erhält es,
außer dem Gebrauchswert, den es als Geld besitzt, einen zusätzlichen
Gebrauchswert,
nämlich den, als Kapital zu fungieren.
Sein Gebrauchswert besteht hier eben in dem
Profit, den es, in Kapital verwandelt, produziert. In dieser Eigenschaft als mögliches Kapital, als Mittel zur Produktion des Profits, wird
es Ware, aber eine Ware sui generis. Oder was auf dasselbe herauskommt, Kapital
als Kapital wird zur Ware.55
「年間平均利潤率を20%と仮定しよう。そうすれば、100ポンド・スターリングの価値の機械を平均的条件の下で平均程度の知能と合目的的活動とによって資本として使用すれば、それは20ポンドの利潤をあげるであろう。したがって、100ポンドを自由に使うことができる人は、100ポンドを120ポンドにする力、つまり20ポンドの利潤を生み出す力を握っているわけである。彼は自分の手に100ポンド・スターリングの可能的資本をもっている。
Gesetzt, die jährliche Durchschnittsprofitrate sei
20%. Eine Maschine im Wert von 100 Pfd. St. w・de dann, unter den
Durchschnittsbedingungen und mit dem Durchschnittsverhältnis von Intelligenz
und zweckmäßiger Tätigkeit als Kapital verwandt, einen Profit von 20 Pfd. St.
abwerfen. Ein Mann also, der 100 Pfd. St. zur Verfügung hat, hält in seiner
Hand die Macht, aus 100 Pfd. St. 120 zu machen oder einen Profit von 20 Pfd.
St. zu produzieren. Er hält in seiner Hand ein
mögliches Kapital von 100 Pfd. St.
「この人がこの100ポンドを、現実にそれを資本として充用する別の人に1年間まかせておくとすれば、前者は後者に、20ポンドの利潤を生み出す力、つまり自分にとって費用もかからなければ自分が等価を支払もしない剰余価値を生産する力を与えるわけである。
Überläßt dieser Mann für ein Jahr die 100 Pfd. St.
einem andern, der sie wirklich als
Kapital anwendet, so gibt er ihm
die Macht, 20 Pfd. St. Profit zu produzieren,
einen Mehrwert, der ihm nichts kostet,
wofür er kein Äquivalent zahlt.
「後者が100ポンドの所有者に年末にたとえば5ポンドを支払うとすれば、すなわち生産された利潤の一部分を支払うとすれば、これによって彼はこの100ポンドの使用価値の代価を、つまりその資本機能、20ポンドの利潤を生産するという機能の使用価値の代価を、支払うわけである。
Wenn dieser Mann
dem Eigner der 100 Pfd. St. am Jahresschluß vielleicht 5 Pfd. St. zahlt, d.h. einen Teil des produzierten Profits, so zahlt
er damit den Gebrauchswert der
100 Pfd. St., den Gebrauchswert ihrer
Kapitalfunktion, der Funktion, 20
Pfd. St. Profit zu produzieren.
利子の定義・規定
----機能資本と資本所有(利子生み資本)との分離-----
「利潤のうちの彼が前者に支払う部分は利子と呼ばれる。だから、利子というのは、利潤のうちの機能資本が自分のポケットに入れないで資本の所有者に支払ってしまわなければならない部分を表わす特殊な名称、特殊な項目に他ならないのである。
Der Teil des
Profits, den er ihm
zahlt, heißt Zins, was also
nichts ist als ein besondrer Name, eine besondre Rubrik f・ einen Teil des
Profits, den das fungierende Kapital, statt in die eigne Tasche zu stecken, an den Eigner
des Kapitals
wegzuzahlen hat.
「100ポンドをもっているということが、その所有者に、利子を引き寄せる力、つまり自分の資本によって生産された利潤のいくらかの部分を引き寄せる力を与えるのだということは、明らかである。もし彼が100ポンドを他の人に渡さなければ、この人は利潤を生産することはできないであろうし、およそこの100ポンドに関しては資本家として機能することはできないであろう。
Es ist klar, daß der Besitz der 100 Pfd. St. ihrem Eigner die Macht gibt, den Zins, einen
gewissen Teil des durch sein Kapital produzierten Profits, an sich zu ziehn.
Gäbe er dem andern die 100 Pfd.
St. nicht, so könnte dieser den
Profit nicht produzieren, überhaupt nicht mit Beziehung auf diese 100 Pfd. St. als Kapitalist fungieren.56
注56「利潤をあげるといういとで貨幣を借りる人が利潤の一部分を貸し手に与えなければならないということは、自然的構成の自明な一原理である。」(ギルバート『銀行業の歴史と原理』、ロンドン、1834年163ページ) „Daß ein Mann, der Geld borgt, mit der Absicht, Profit davon zu machen, einen Teil des Profits dem Verleiher geben soll, ist ein selbstverständliches Prinzip der natürlichen Gerechtigkeit.“ (Gilbart, „The History and Principles of Banking“, London 1834, p. 163.)
学生諸君へのコメント:利潤も歴史的な経済現象、経済範疇であり、利潤の一部としての利子も歴史的現象、歴史的生成物として特別な諸条件を持っている。「自然的」なものではなく、人間社会・その生産関係がその発展の一定の段階で生み出したものである。
「ギルバートとともに(注56を見よ)ここで自然的公正を語ることは無意味である。生産当事者たちのあいだで行われる取引の公正は、これらの取引が生産関係から自然的帰結として生ずるということに基づいている。
Mit Gilbart (siehe Note)
von natülicher Gerechtigkeit hier zu reden, ist Unsinn. Die
Gerechtigkeit der Transaktionen, die zwischen den Produktionsagenten vorgehn,
beruht darauf, daß diese Transaktionen aus den
Produktionsverhältnissen als natürliche Konsequenz entspringen.
「法律的諸形態では、これらの経済的取引は関与者たちの意志行為として現われ、彼らの共通の意志の発現として、また個々の当事者にたいして国家によって強制されうる契約として現われるのであるが、このような法律的諸形態は、単なる形態として、この内容そのものを規定することはできない。このような形態はただこの内容を表現するだけである。この内容は、それが生産様式に対応し適合していさえすれば、公正なのである。生産様式と矛盾していれば、それは不公正である。
Die juristischen
Formen, worin diese ökonomischen Transaktionen
als Willenshandlungen der
Beteiligten, als Äußerungen ihres gemeinsamen
Willens und als der Einzelpartei gegenüber von Staats wegen
erzwingbare Kontrakte erscheinen, können als bloße Formen diesen Inhalt selbst nicht bestimmen. Sie
drücken ihn nur aus. Dieser Inhalt
ist gerecht, sobald er der Produktionsweise entspricht, ihr adäquat ist. Er ist
ungerecht, sobald er ihr widerspricht.
「奴隷制は、資本主義的生産様式の基礎の上では、不公正である。商品の質をごまかすこともそうである。
Sklaverei, auf
Basis der kapitalistischen Produktionsweise, ist ungerecht; ebenso der
Betrug auf die Qualität der Ware.
「100ポンドが20ポンドの利潤を生み出すのは、それが産業資本としてであろうと商業資本としてであろうと、とにかく資本として機能するということによってである。
Die 100 Pfd. St.
produzieren dadurch den Profit von 20 Pfd. St., daß sie als Kapital fungieren, sei es als
industrielles oder merkantiles.
「しかし、資本としてのこの機能に欠くことのできない条件は、それが資本として支出されるということ、つまり、貨幣が生産手段の購入(産業資本の場合)かまたは商品の購入(商業資本の場合)に投ぜられるということである。
Aber das sine qua
non dieser Funktion als Kapital ist, da゚ sie als
Kapital verausgabt werden, das Geld also ausgelegt wird im Ankauf von Produktionsmitteln (beim
industriellen Kapital) oder von Ware (beim merkantilen Kapital).
「だが、支出されるためには、貨幣がそこになければならない。もしも100ポンドの所有者Aがそれを自分の個人的消費のために支出するとか蓄蔵貨幣として手元におくとかすれば、その100ポンドは機能資本家Bによって資本として支出されることはできないであろう。
Aber um verausgabt zu werden, muß es da sein. Wenn
A, der Eigner der 100 Pfd. St.,
sie entweder zu seiner Privatkonsumtion verausgabte oder sie als
Schatz bei sich behielte, könnten sie von B, dem fungierenden
Kapitalisten, nicht
als Kapital verausgabt werden.
学生諸君へのコメント:現代の銀行・金融業の役割は、単に余剰資金=可能的資金をかき集め、それを現実に充用する機能資本家・営業企業会社に貸し与える媒介的機能だけにとどまっていない。機能資本家・営業収益を上げるべき企業・会社が、その現実市場の可能性を正確に読み取っているかどうか、適正な市場に対して資本を支出しようとしているかどうか、現実に利潤=営業収益をあげることができるかどうかを査定する役割も大きい。現実市場の現実的可能性を自己責任において読み取り評価し、資本を支出するのは金(貨幣・可能的資本)を借りる産業と商業の営業企業であるが、その市場読み取り能力を資本所有者(預金者=可能的資本を預ける企業や個人)の立場から評価する機能を、現代の銀行・金融業は担っている。それが不全に陥っているのが、現在の日本であろう。
資本所有者(たとえ小銭ではあっても諸君が銀行に預金する場合、その預金は可能的資本であり、諸君は資本所有者である。その貨幣(可能的資本)の機能資本への、それを実際に運用する企業への貸与は銀行・金融機関が行う・媒介するにすぎない.借りた企業は営業利潤・営業収益をあげて、その収益=利潤の中から契約にしたがって一定の利子を支払う)は、自分の所有するお金(貨幣)を資本として銀行・金融機関に預ける。
たくさんの余剰貨幣(企業では利潤=営業収益、遊休資金、減価償却費など、個人では将来のための預金など)を企業や諸個人から集めた銀行・金融機関は、それを資本として現実に機能させ、現実に利潤=営業利益をあげる会社・企業に貸し与える。
問題は、貸し与えた企業・会社が、本当に現実的に有効に借りた資本を支出できるかどうか、すなわち営業利潤=営業収益を上げることが出きるかどうか、である。
銀行・金融機関の機能は、したがって、貸す相手の企業が本当に営業収益をあげるのかどうか、その能力を持っているかどうか、その可能性があるかどうか、きちんと評価・査定できなければならない。不良債権とは、まさに、貸し与えた資本が、本当に収益をあげる企業・会社にではなく、営業利潤・営業収益をあげることができないような企業に対してであった、ということを意味する。
現代の競争条件のなかで、不良債権が他の銀行よりも多い銀行は、その意味で、貸し与える相手先企業の収益可能性、営業可能性、営業利潤取得可能性、市場可能性などを適性に査定・評価できなかった程度が、ひどいということである。l
それでは、現代の日本の銀行業が全体として不良債権に苦しんでいることはどう見ればいいのか? 現代の日本の企業・会社(産業と商業に携わる会社・企業、営業利潤・営業収益をあげるべき会社・企業)が、全体として、営業収益をあげることができないような構造になっているということである。生産能力過剰、流通能力過剰(百貨店業界の不況はまさに売り場面積・商業資本の相対的過剰を意味する)などに陥っている、ということである。
新たな市場、新たな商品、新たな有効需要を見出すしかない、ということであろう。現代社会は、必要なものがなくて困っていないか? 必要こそは発明・発見の母である。現実社会の必要のなかにこそ、新たな市場・新たな商品の可能性がある。青い鳥は、足元に、目の前の社会と世界、地球にあるのではないか? 現実が提起するその必要性に対して感受性が豊かなのはだれか? 感受性は研ぎ澄まされているか? 現実的直観力は養われているか?
さらにまた世界と地球を見渡すと、日本など高度資本主義諸国(それらの全体としての現在の市場規模からして過剰化した生産能力を持つ諸国)が生産する商品をほしがっている地域や国々や人々はないか?
高度工業国の生産過剰・生産能力過剰は、地球人類の潜在的欲望、潜在的需要、潜在的消費力・商品吸収力・潜在的市場規模からいって「相対的」であるに過ぎないのではないか?
「Bは自分の資本を支出するのではなく、Aの資本を支出するのである。だが、彼はAの意志にかかわりなしにAの資本を支出することはできない。だから、はじめに100ポンドを資本として支出するのは、実際はAなのである。といっても、彼の資本家としての全機能は、このように100ポンドを資本として支出することだけに限られているのではあるが。
Er verausgabt
nicht sein Kapital, sondern das von A;
aber er
kann das Kapital von A nicht verausgaben ohne den Willen von A. In der Tat ist es also A, der ursprünglich die 100 Pfd. St.
als Kapital verausgabt, obgleich sich auf
diese Verausgabung der 100 Pfd. St. als Kapital seine ganze Funktion
als Kapitalist beschränkt.
「この100ポンドに関するかぎりでは、Bが資本家として機能するのは、ただ、AがBに100ポンドを任せ、したがってそれを資本として支出するからに他ならないのである。
Soweit diese 100
Pfd. St. in Betracht kommen, fungiert B nur als Kapitalist, weil A ihm die 100
Pfd. St. überläßt und sie daher als Kapital verausgabt.
学生諸君へのコメント:諸君が金(貨幣)を銀行・金融機関に預けるとき、諸君は自分を 資本家として意識してはいないだろうが、現実の行為においては、資本所有者(可能的資本の所有者)として行動しているのである。現在の状況下で利子が極端に少ないのは(利子率が低いのは)、集まった資本を有効に高収益を上げて機能させる企業・会社がないということである。現代日本の企業・会社は全体としては、一方で資本蓄積過剰・余剰資金の過剰にあえぎ、他方で投資先の不足、営業チャンスの不足に悩んでいるということである。相対的な生産能力過剰が大量失業を生み出している。生産能力の過剰も、現代の日本社会の問題である。
「まず利子生み資本の特有な流通を考察しよう。それから二番目には、それが商品として売られる独特な仕方、すなわち貸し付けられるのであって譲渡されてしまうのではないという独特な仕方を研究しなければならない。
Betrachten wir zunächst die eigentümliche Zirkulation des zinstragenden
Kapitals. Es ist dann in zweiter Instanz zu untersuchen die eigne Art, wie es als Ware verkauft wird,
nämlich verliehen statt ein für
allemal abgetreten.
「出発点は、AがBに前貸しする貨幣である。この前貸は、担保つきでも担保なしでも行われうる。とはいえ、担保つきという形態は、商品引当の前貸とか手形や株式などのような債務証書引き当ての前貸を別とすれば、より古風な形態である。これらの特殊な形態は個々ではわれわれに関係がない。われわれがここで取り扱うのは普通の形態の利子生み資本である。
Der Ausgangspunkt ist das Geld, das A dem B vorschießt.
Es kann dies mit oder ohne Unterpfand geschehn; die erstere Form ist jedoch die
altertümlichere, mit Ausnahme der Vorschüsse auf Waren oder auf Schuldpapiere wie Wechsel, Aktien etc.
Diese besondren Formen gehn uns hier nichts an. Wir haben es hier mit dem
zinstragenden Kapital in seiner gewmhnlichen Form zu tun.
「Bの手で、貨幣は現実に資本に転化させられ、運動G - W - G'をすませてから、G'として、G + Gとして、Aの手に帰ってくる。ここでは、簡単にするために、資本がかなり長いあいだBの手に留まっていて期日ごとに利子が支払われるという場合は暫く問題にしないことにする。
In der Hand von B wird das
Geld wirklich in Kapital verwandelt, macht die Bewegung G - W - G' durch und kehrt
dann als G' zu A zurück, als G +G, wo G den Zins vorstellt. Der Vereinfachung halber sehen wir hier einstweilen
von dem Fall ab, wo das Kapital auf längre Zeit in der Hand von B bleibt und
die Zinsen terminsweise gezahlt werden.
「そこで、運動は次のようになる。G - G - W - G' - G'.
Die Bewegung ist also:
G - G - W - G' - G'.
「ここで重複して現われるものは、(1)資本としての貨幣の支出であり、(2)実現された資本としての、G'またはG + ΔGとしての、貨幣の還流である。
Was hier verdoppelt erscheint, ist 1. die
Verausgabung des Geldes als
Kapital, 2. sein Rückfluß als realisiertes
Kapital, als G' oder G + G.
「商業資本の運動G - W - G'では、同じ商品が2度持ち手を取り替える。または、商人が商人に売る場合には、もっと何度も持ち手を取り替える。しかし、同じ商品のこのような場所変換はそれぞれの商品の一つの変態、その買いかまたは売りを示しているのであって、その商品が最終的に消費に落ちるまでにこの過程が何度繰り返されようとも、そうなのである。
In der Bewegung des
Handelskapitals G - W - G' wechselt dieselbe Ware zweimal oder,
wenn Kaufmann an Kaufmann verkauft, mehrmal die Hände; aber jeder solcher Stellenwechsel derselben Ware
zeigt eine Metamorphose an, Kauf oder Verkauf der Ware, sooft
sich auch dieser Prozeß bis zu ihrem definitiven Fall in die Konsumtion
wiederholen mag.
「他方、W - G – Wでは、同じ貨幣の2度の場所変換が行なわれるが、しかし、それは商品の完全な変態を示しているのであって、商品はまず貨幣に転化させられ、次に貨幣から再び別の商品に転化させられるのである。
Andrerseits in W - G - W
findet zweimaliger Stellenwechsel desselben
Geldes statt, zeigt aber die vollständige Metamorphose
der Ware an, die erst in Geld und dann aus Geld wieder in eine andre Ware verwandelt wird.「
「これに反して、利子生み資本の場合には、Gの第1の場所変換は、決して商品変態の契機でもなければ、資本の再生産の契機でもない。Gは第二の支出ではじめてこのような契機になる。すなわち、このGで商業を営むかまたはそれを生産資本に転化させる機能資本家の手のなかではじめてそうなるのである。ここでGの第1の場所変換が表わしているものは、AからBへのGの移転または引渡し以外のなにものでもない。そして、この移転は、ある法律上の形式と留保との元で行われるのが常である。
Dagegen bei dem
zinstragenden Kapital ist der erste Stellenwechsel von G durchaus kein Moment, weder der Warenmetamorphose noch der Reproduktion des
Kapitals. Dies wird es erst bei
der zweiten Verausgabung,
in der Hand des fungierenden Kapitalisten,
der Handel damit treibt oder es in produktives Kapital verwandelt. Der erste
Stellenwechsel von G drückt hier nichts aus als seine Übertragung oder
Übermachung von A an B; eine Übertragung, die unter gewissen
juristischen Formen und Vorbehalten zu geschehn pflegt.
「このような、資本としての貨幣の二重の支出―その第一のものはAからBへの単なる移転である―には、この貨幣の二重の還流が対応する。それは、G' またはG +Gとして運動から機能資本家Bに還流する。次にBは再びそれをAに引き渡す。といっても、同時に利潤の一部分をつけて、実現された資本として、G + Gとして引き渡す。この場合、Gは全利潤に等しいのではなく、ただ利潤の一部分、利子でしかない。
Dieser doppelten
Verausgabung des Geldes als Kapital, wovon die erste bloße Übertragung von
A auf B ist, entspricht sein doppelter Rückfluß.
Als G' oder G +G fließt es zurück aus der Bewegung an den
fungierenden Kapitalisten B.
Dieser überträgt es dann wieder an A, aber zugleich mit einem Teil des Profits, als realisiertes
Kapital, als G +G, wo G nicht gleich dem
ganzen Profit, sondern nur ein Teil des Profits,
der Zins ist.
「Bに貨幣が還流するのは、ただ、Bが支出したものとして、機能資本として、とはいえAの所有物として、還流するだけである。だから、その還流が完全になるためには、Bはそれを再びAに引き渡さなければならない。しかし、Bは、資本額のほかに、自分がこの資本額で上げた利潤の一部分を利子という名目でAに引き渡さなければならない。なぜならば、AがBに貨幣を渡したのは、ただ、資本として、すなわち運動のなかで自分を維持するだけではなく、自分の所有者のために剰余価値を創造する価値として、渡しただけだからである。
Zu B fließt es
zurück nur als was er es ausgegeben hat, als
fungierendes Kapital, aber als
das Eigentum von A. Damit sein Rückfluß vollständig sei, hat B
es daher wieder an A zu übertragen. Außer der Kapitalsumme aber
hat B einen Teil des Profits, den
er mit dieser Kapitalsumme gemacht hat, unter dem Namen Zins an A abzugeben, da dieser ihm das Geld
nur gegeben hat als Kapital, d.h. als Wert, der sich nicht nur erhält
in der Bewegung, sondern seinem Eigner einen
Mehrwert schafft.
「この貨幣がBの手に留まっているのは、ただそれが機能資本であるあいだだけである。そして、その還流―約束の期限が来てからの―とともに、それは資本として機能しなくなる。しかし、もはや機能しない資本としては、それは再びAの手に、すなわちまだそれの法律上の所有者ではなくなっていないAの手に、返されなければならない。
Es bleibt in der
Hand von B nur, solange es fungierendes Kapital ist. Und mit seinem Rückfluß -
nach der abgemachten Frist - hört es auf, als Kapital zu fungieren. Als nicht länger fungierendes Kapital aber
muß es wieder rückübertragen werden an A, der nicht aufgehört hat, der juristische Eigentümer desselben
zu sein.
「この商品に特有な、すなわち商品としての資本に特有な、貸しという形態、それはまた他の取引でも売りという形態に代わって現われる形態であるが、それは、すでに、資本がここでは商品として現われるという規定から、または貨幣が資本として商品になるという規定から、出てくるのである。
Die Form des Leihens, die dieser Ware, dem Kapital als Ware eigentümlich ist,
übrigens auch in andren Transaktionen vorkommt, statt der Form des
Verkaufens, ergibt sich schon aus der Bestimmung, daß Kapital hier als Ware auftritt oder daß Geld als Kapital zur Ware wird.
「ここでは次のような区別をしなければならない。
Man muß hier unterscheiden.
「すでに見たように(第二部第一章)、またここで簡単に思い出すように、資本は流通過程では商品資本および貨幣資本として機能する。しかし、この二つの形態では、資本は資本として商品にならない。
Wir haben gesehn (Buch II,
Kap. I) und rufen hier kurz ins Gedächtnis zurück, daß das Kapital im
Zirkulationsprozeß als Warenkapital und Geldkapital fungiert. Aber in beiden
Formen wird das Kapital nicht als Kapital zur
Ware.
「生産資本が商品資本に転化したならば、それは市場に投ぜられ、商品として売られなければならない。市場ではそれはただ商品として機能するだけである。ここでは資本家はただ商品の売り手として現われるのであり、それは買い手が商品の買い手として現われるのと同様である。商品としては、生産物は流通過程でその売りによってその価値を実現しなければならず、貨幣としての転化した姿をとらなければならない。したがってまた、この商品が消費者によって生活手段として買われるか、それとも資本家によって生産手段として、資本成分として、買われるかということも、まったく問題にならない。
Sobald sich das produktive
Kapital in Warenkapital verwandelt hat, muß es auf den Markt geworfen, als Ware
verkauft werden. Hier fungiert es einfach als Ware. Der Kapitalist erscheint
hier nur als Verkäufer von Ware, wie der Käufer als Käufer von Ware. Als Ware
muß das Produkt im Zirkulationsprozeß, durch seinen Verkauf, seinen Wert
realisieren, seine verwandelte Gestalt als Geld annehmen. Es ist deswegen auch
ganz gleichgültig, ob diese Ware von einem Konsumenten als Lebensmittel oder
von einem Kapitalisten als Produktionsmittel, als Kapitalbestandteil, gekauft
wird.
「流通行為では、商品資本はただ商品として機能するだけで、資本として機能するのではない。
Im Zirkulationsakt fungiert das Waren kapital nur als Ware, nicht als Kapital.
「それが単純な商品とは違う商品資本であるのは、(1)それがすでに剰余価値をはらんでおり、したがってその価値の実現が同時に剰余価値の実現だからである。といっても、このことは、商品としての、一定の価格を持つ生産物としての、それの単純な存在を少しも変えるものではない。
Es ist Warenkapital
im Unterschied von einfacher Ware, 1. weil es bereits mit Mehrwert geschwängert ist, die Realisierung seines Werts also zugleich Realisierung von
Mehrwert ist; dies ändert
aber nichts an seinem einfachen Dasein als Ware, als Produkt von bestimmtem
Preis;
「(2)このような、商品としての商品資本の機能は、資本としての商品資本の再生産過程の一契機であり、したがって、商品としての商品資本の運動は、商品資本の過程の部分運動でしかないのだから、同時にまた資本としての商品資本の運動だからである。しかし、その運動がこういうものになるのは、売るという行為そのものによってそうなるのではなく、ただ、この行為と、この一定の価値額が資本として行う総運動との関連によってのみそうなるのである。
2. weil diese
seine Funktion als Ware ein Moment seines Reproduktionsprozesses als
Kapital ist und daher seine Bewegung als Ware, weil nur Teilbewegung seines
Prozesses, zugleich
seine Bewegung als Kapital ist; sie wird dies aber nicht durch den Akt des
Verkaufens selbst, sondern nur durch den Zusammenhang dieses Akts mit der Gesamtbewegung
dieser bestimmten Wertsumme als Kapital.
「同様に、貨幣資本としても、資本は事実上ただ単に貨幣として、すなわち商品(生産要素)の購買手段として、作用するだけである。この貨幣がここでは同時に貨幣であり、資本の一形態であるということは、買うという行為すなわち資本がここで貨幣として行う現実の機能からでてくるのではない。それは、この行為と資本のそう運動との関連から出てくるのである。なぜならば、それが貨幣として行うこの行為は、資本主義的生産過程を準備するからである。
Ebenso als Geldkapital
wirkt es in der Tat nur einfach als Geld, d.h. als Kaufmittel von Ware (den
Produktionselementen). Daß dies Geld hier zugleich Geldkapital, eine Form des
Kapitals ist, geht nicht hervor aus dem Akt des Kaufens, aus der wirklichen
Funktion, die es hier als Geld verrichtet; sondern aus dem Zusammenhang dieses
Akts mit der Gesamtbewegung des Kapitals, indem dieser
Akt, den es als Geld verrichtet, den kapitalistischen Produktionsprozeß
einleitet.
「しかし、それらが現実に機能し、現実に過程のなかでそれらの役割を演ずるかぎりでは、ここでは商品資本はただ商品として働き、貨幣資本はただ貨幣として働くだけである。
Aber
soweit sie wirklich fungieren, wirklich im Prozeß ihre Rolle spielen, wirkt
hier Warenkapital nur als Ware, Geldkapital nur als Geld.
「変態の個々の契機をそれ自身としてみれば、どの契機でも資本家は、たとえその商品が彼にとっては資本を表わすにしても、その商品を資本として買い手に売るのではなく、あるいはまた貨幣を資本として売り手に渡すのでもない。どちらの場合にも、彼は商品をただ単に商品として譲り渡すのであり、また貨幣をただ単に貨幣として、商品の購買手段として、譲り渡すのである。
In
keinem einzelnen Moment der Metamorphose,
für sich betrachtet, verkauft der Kapitalist die Ware als Kapital an den Käufer,
obgleich sie für ihn Kapital vorstellt, oder veräußert er das Geld als Kapital
an den Verkäufer. In beiden Fällen veräußert er die Ware einfach als Ware und
das Geld einfach als Geld, als Kaufmittel von Ware.
「資本が流通過程で資本として現われるのは、ただ、全過程の関連のなかだけのことであり、出発点が同時に復帰点として現われる契機、G - G' または W' - W'のなかだけの事である(他方、資本が生産過程で資本として現われるのは、資本家への労働者の従属と剰余価値の生産によるのであるが)。
Es ist nur in dem
Zusammenhang des ganzen Verlaufs, in dem Moment, wo der Ausgangspunkt zugleich
als Punkt der Rückkehr erscheint, in G - G' oder W' - W', daß das Kapital im
Zirkulationsprozeß als Kapital auftritt (während es im Produktionsprozeß als
Kapital auftritt durch die Unterordnung des Arbeiters unter den Kapitalisten
und die Produktion des Mehrwerts).
「ところが、この復帰の契機では、媒介は消え去っている。そこにあるものは、G'または G +Gであり(このGだけ増えた価値額が貨幣の形態で存在しようと、商品の形態で存在しようと、生産要素の形態で存在しようと)、最初に前貸しされた貨幣額・プラス・それを越える超過分すなわち実現された剰余価値に等しい貨幣額である。
In diesem Moment
der Rückkehr aber ist die Vermittlung verschwunden. Was da ist, ist G' oder G +
G (ob die um G vermehrte Wertsumme
nun in der Form des Geldes oder der Ware oder der Produktionselemente
existiere), eine Geldsumme gleich der ursprünglich vorgeschoßnen Geldsumme plus
einem Überschuß darüber, dem realisierten Mehrwert.
「そして、まさに
Und gerade in
diesem R・kkehrpunkt, wo das Kapital als realisiertes
Kapital, als verwerteter Wert existiert, in dieser Form - soweit er als
Ruhepunkt fixiert wird, imagin舐 oder wirklich - tritt
das Kapital nie in Zirkulation, sondern erscheint vielmehr aus der Zirkulation
zur・kgezogen, als Resultat des ganzen Prozesses. Sobald es wieder verausgabt wird, wird es
nie als Kapital an einen dritten ver舫゚ert, sondern als
einfache Ware an ihn verkauft oder ihm als einfaches Geld f・ Ware hingegeben. Es erscheint in seinem Zirkulationsproze゚ nie als Kapital, sondern nur als Ware oder Geld, und dies ist hier sein
einziges Dasein f・ andre. Ware und Geld sind hier nur
Kapital, nicht soweit die Ware sich in Geld, das Geld sich in Ware verwandelt,
nicht in ihren wirklichen Beziehungen zum K舫fer oder Verk舫fer, sondern blo゚ in ihren ideellen Beziehungen, entweder
zum Kapitalisten selbst (subjektiv betrachtet) oder als Momente des
Reproduktionsprozesses (objektiv betrachtet). Als Kapital existiert das
Kapital, in der wirklichen Bewegung, nicht im Zirkulationsproze゚, sondern nur im Produktionsproze゚, im Ausbeutungsproze゚ der Arbeitskraft.
Anders aber verh舁t es sich mit dem zinstragenden Kapital, und grade dies bildet seinen
spezifischen Charakter. Der Geldbesitzer, der sein Geld als zinstragendes
Kapital verwerten will, ver舫゚ert es an einen dritten, wirft es in
Zirkulation, macht es zur Ware als Kapital; nicht nur als Kapital f・ ihn selbst, sondern auch f・ andre; es ist nicht blo゚ Kapital f・ den, der es ver舫゚ert, sondern es wird dem dritten von vornherein als Kapital ausgeh舅digt, als Wert, der den Gebrauchswert besitzt, Mehrwert, Profit zu
schaffen; als ein Wert, der sich in der Bewegung forterh舁t und zu seinem urspr・glichen Ausgeber, hier dem Geldbesitzer,
nachdem er fungiert hat, zur・kkehrt; also sich nur f・ eine Zeitlang von ihm entfernt, aus dem Besitz seines Eigent・ers nur zeitweilig in den Besitz des fungierenden Kapitalisten tritt, also
weder weggezahlt noch verkauft, sondern nur ausgeliehen wird; nur ent舫゚ert wird, unter der Bedingung, nach einer bestimmten Zeitfrist erstens zu
seinem Ausgangspunkt zur・kzukehren, zweitens aber als realisiertes
Kapital zur・kzukehren, so da゚ es seinen
Gebrauchswert, Mehrwert zu produzieren, realisiert hat.
Ware, die als Kapital
verliehen wird, wird nach ihrer Beschaffenheit als fixes oder zirkulierendes
Kapital verliehen. Das Geld kann in beiden Formen verliehen werden, als fixes
Kapital z.B., wenn es in der Form der Leibrente zur・kgezahlt wird, so da゚ mit dem Zins immer auch ein St・k Kapital zur・kflie゚t. Gewisse Waren knnen der Natur ihres Gebrauchswerts nach immer nur als fixes Kapital
verliehen werden, wie H舫ser, Schiffe, Maschinen usw. Aber alles
verliehene Kapital, welches immer seine Form und wie die R・kzahlung durch die Natur seines Gebrauchswerts modifiziert sein mag, ist
immer nur eine besondre Form des Geldkapitals. Denn was hier verliehen wird,
ist immer eine bestimmte Geldsumme, und auf diese Summe wird denn auch der Zins
berechnet. Ist das, was ausgeliehen wird, weder Geld noch zirkulierendes
Kapital, so wird es auch zur・kgezahlt in der Weise, wie fixes Kapital
zur・kflie゚t. Der Verleiher erh舁t periodisch Zins und einen Teil des verbrauchten Werts des fixen Kapitals
selbst, ein トquivalent f・ den periodischen
Verschlei゚. Und am Ende der Frist kehrt der unverbrauchte
Teil des verliehenen fixen Kapitals in natura zur・k. Ist das verliehene
Kapital zirkulierendes Kapital, so kehrt es ebenfalls dem Verleiher zur・k in der R・kflu゚weise des zirkulierenden
Kapitals.
Die Art des R・kflusses ist also jedesmal bestimmt durch die wirkliche Kreisbewegung des
sich reproduzierenden Kapitals und seiner besondren Arten. Aber f・ das verliehene Kapital nimmt der R・kflu゚ die Form der R・kzahlung an, weil der Vorschu゚, die Ent舫゚erung desselben, die Form des Verleihens
hat.
In diesem Kapitel behandeln
wir nur das eigentliche Geldkapital, wovon die andren Formen des verliehenen
Kapitals abgeleitet sind.
Das ausgeliehene Kapital
flie゚t doppelt zur・k; im Reproduktionsproze゚ kehrt es zum fungierenden Kapitalisten zur・k, und dann wiederholt
sich die R・kkehr noch einmal als ワbertragung auf den Verleiher, den Geldkapitalisten, als R・kzahlung an seinen wirklichen Eigent・er, seinen juristischen
Ausgangspunkt.
Im wirklichen
Zirkulationsproze゚ erscheint das Kapital immer nur als Ware
oder Geld, und seine Bewegung lst sich in eine Reihe von
K舫fen und Verk舫fen auf. Kurz, der
Zirkulationsproze゚ lst sich auf in die
Metamorphose der Ware. Anders, wenn wir das Ganze des Reproduktionsprozesses
betrachten. Gehn wir vom Geld aus (und es ist dasselbe, wenn wir von der Ware
ausgehn, da wir dann von ihrem Wert ausgehn, sie also selbst sub specie des
Geldes betrachten), so ist eine Geldsumme ausgegeben und kehrt nach einer gewissen
Periode mit einem Inkrement zur・k. Der Ersatz f・ die vorgescho゚ne Geldsumme kehrt zur・k plus einem Mehrwert. Sie hat sich erhalten und vermehrt im Durchlaufen
einer gewissen Kreisbewegung. Nun wird aber das Geld, soweit es als Kapital
verliehen wird, eben als diese sich erhaltende und sich vermehrende Geldsumme
ausgeliehen, die nach einer gewissen Periode mit Zusatz zur・kkehrt und stets von neuem denselben Proze゚ durchmachen kann. Es
wird weder als Geld noch als Ware ausgegeben, also weder ausgetauscht gegen
Ware, wenn es als Geld vorgeschossen wird, noch verkauft gegen Geld, wenn es
als Ware vorgeschossen wird; sondern es wird ausgegeben als Kapital. Das Verh舁tnis zu sich selbst, als welches das Kapital sich darstellt, wenn man den
kapitalistischen Produktionsproze゚ als Ganzes und Einheit
anschaut, und worin das Kapital als Geld heckendes Geld auftritt, wird hier
ohne die vermittelnde Zwischenbewegung einfach als sein Charakter, als seine
Bestimmtheit ihm einverleibt. Und in dieser Bestimmtheit wird es ver舫゚ert, wenn es als Geldkapital verliehen wird.
Eine absonderliche
Auffassung der Rolle des Geldkapitals ist die von Proudhon (サGratuit・du Cr馘it. Discussion entre M.
F. Bastiat et M. Proudhonォ, Paris 1850). Leihen scheint Proudhon
deswegen vom ワbel, weil es nicht Verkaufen ist. Das auf
Zins Leihen
サest la facult・de vendre toujours de
nouveau le m麥e objet, et d'en recevoir toujours de nouveau le
prix sans jamais c馘er la propri騁・de ce qu'on vendォ.(p.9.)
Der Gegenstand, Geld, Haus
etc. wechselt nicht den Eigent・er, wie bei Kauf und
Verkauf. Aber Proudhon sieht nicht, da゚ beim Weggeben des
Geldes in Form von zinstragendem Kapital kein トquivalent daf・ zur・kerhalten ist. In jedem Akt des Kaufs und
Verkaufs, soweit ・erhaupt Austauschprozesse stattfinden, wird
allerdings das Objekt weggegeben. Das Eigentum des verkauften Gegenstands tritt
man immer ab. Aber man gibt nicht den Wert weg. Beim Verkauf wird die Ware
weggegeben, aber nicht ihr Wert, der in der Form von Geld oder, was hier nur
eine andre Form daf・, von Schuldschein oder Zahlungstitel zur・kgegeben wird. Beim Kauf wird das Geld weggegeben, aber nicht sein Wert,
der in der Form der Ware ersetzt wird. W臧rend des ganzen
Reproduktionsprozesses h舁t der industrielle Kapitalist denselben
Wert in seiner Hand (abgesehn vom Mehrwert), nur in verschiednen Formen.
Soweit Austausch, d.h.
Austausch von Gegenst舅den stattfindet, findet kein Wertwechsel
statt. Derselbe Kapitalist h舁t immer denselben Wert in der Hand. Soweit
aber Mehrwert vom Kapitalisten produziert wird, findet kein Austausch statt;
sobald Austausch stattfindet, steckt der Mehrwert bereits in den Waren. Sobald
wir nicht die einzelnen Austauschakte betrachten, sondern den Gesamtkreislauf
des Kapitals, G - W - G', wird best舅dig eine bestimmte
Wertsumme vorgeschossen und diese Wertsumme plus dem Mehrwert oder Profit aus
der Zirkulation zur・kgezogen. Die Vermittlung dieses Prozesses
ist allerdings in den blo゚en Austauschakten nicht sichtbar. Und es
ist gerade dieser Proze゚ von G als Kapital, worauf der Zins des
verleihenden Geldkapitalisten beruht, woraus er entspringt.
サIn der Tatォ, sagt Proudhon, サder Hutmacher, der H・e verkauft... erh舁t daf・ den Wert, nicht mehr und nicht weniger. Aber der
verleihende Kapitalist... empf舅gt nicht nur sein
Kapital unverk・zt zur・k; er empf舅gt mehr als das Kapital, mehr als er in den Austausch wirft; er empf舅gt ・er das Kapital hinaus
[Marx: Das
Kapital, S. 3206 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 6520 (vgl.
MEW Bd. 25, S. 354 ff.)]
[Marx: Das
Kapital, S. 3198 ff. Digitale Bibliothek Band 11: Marx/Engels, S. 6512 (vgl.
MEW Bd. 25, S. 350 ff.)]