正確な脚注の表示などのためには、直接、下記の永岑研究室HPにアクセスされたい。(永岑)

 

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総合理学研究科長
榊原徹様

下記のように研究室HP:

 http://eba-www.yokohama-cu.ac.jp/~kogiseminagamine/Nisshi.htm

で意見を公開しています。
別のルートからすでにご存知かとは思いますが、メールアドレスを発見できましたの
で、直接意見をお送りします。
早急に明解な態度表明を、文書で(アカウンタビリティのため)公開されることを希
望します。
このメールも、私の研究室HPで公開することにします。問題は、大学の生命にかかわ
ることですので。


2003
224
ながみね



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@2003
221日 「市大を考える市民の会」通信第4号:第1回シンポジウム記録集を頂
戴した(矢吹教授HP掲載済み)。広く市民の関心を呼び、市民の大学問題への能動的参
加の素材となれば、すばらしい。



ところで、昨日の総合理学研究科の科長選挙では現科長が再選されたそうである。総
合理学研究科・佐藤真彦教授HP掲載資料の削除を求めると言う前代未聞の言論抑圧行
為を行った人物を研究科長に再選するということはどういうことなのか? 一体何人
の人がそれを可とし、何人の人が別の人に投票したのか? 市民社会において汚職事
件などを引き起こした議員などが辞職に追い込まれることは珍しくない。大学におけ
る言論の自由の問題は、市民社会における汚職事件よりも軽いのか? 大学という最
も言論や思想の自由が保障されなければならない場においては、いちばん重要な問題
だといってもいいのではないか。

自由で理性的な言論の最大限の保障なくして、大学は活力ある発展を行えるのか?
「辣腕」事務局責任者にそこまで屈服するのか?そのような無原則的な軟弱な精神にこ
そ「辣腕」事務局責任者はつけこむのではないか?そのように屈服した精神で自由な研
究はできるのか?大学の原則問題をそのように軽く考えるのか?かつて横浜市大は
「金はないが自由はある」と評されたという。その自由な大学でこそ何人もが世界的業
績を上げたのではないか。過去の世界的業績を上げた人をきちんと見ているか?その
ような人(たとえば浅島氏)とのコンタクトはあるのか?

理学部が独立し大きな予算を獲得して、かえって学問研究にとっていちばん重要な自
由な精神・自由尊重の精神・活発な理性的相互批判の精神がいつのまにか失われてい
るのではないか、摩滅しているのではないか?

研究予算はかなりの額に上っていても、きちんと消化し、着々と研究成果・実績をあ
げているのではないのか?研究教育の実績、研究成果さえあげていれば(どんどんそ
れを設置主体である市民に情報公開していけば)、何を萎縮する必要があるのか?た
んに予算の事務処理を行う事務局責任者を恐れることはないのではないか?実利主義
にとりこまれ、大学の研究教育にとっての本質的に重要なこと(言論・思想の自由、
科学的批判の自由、精神の自由、大学の自治の原則)が忘却されているのではない
か。そうだとすれば、恐るべきことではある。

そのような重大問題に関して、総合理学研究科のみなさんはどのように判断されたの
であろうか?この抑圧事件に関する研究科としての明解な態度表明はいつになったら
あるのだろうか?学長が指示したという検討委員会はどうなったのか?



          以上、総合理学研究科長選挙の最終結果だけを耳にした段階で
書いた。その後、選挙経過の情報が得られた。正確なデータは、教授会議事録公開請
求で確認されたいが、寄せられた非公式情報によれば、第1回投票は次のような結果
であったという。

「第一回投票では、
小島28
榊原19
加藤19
白票1
であったと記憶しています」と。

          これを見るかぎり、現科長がストレートで再選されたのではな
く、多くの批判者がいたことがわかる[3]。明確な批判の存在自体、きわめて健全な
ことだ[4]

その批判は、もちろん言論抑圧に対する批判(このファクターがどの程度のウエイト
だったのかは今後の展開が明らかにするだろう)だけではなく、投じられた候補者の
顔ぶれを見るかぎり、内実としては多様な利害関心・問題関心からのものであろう。
昨年秋の歴史的決議(池田総務部長指揮命令による評議会からの事務局総退場事件収
拾に関する学長への批判的決議)の不履行に対する科長批判も明確なかたちで出てい
るであろう[5](あるいはその決議の背後にあった危機認識・不利益予測など)

2回投票の票の分布をまだ知らないが、最終結果(ぎりぎりの結果だったのか、大幅
な差だったのか、などいろいろ考えられるが)もまたそのような多様な問題関心・利
害関心からの、ある意味での「苦渋の選択」と解したい[6]

          それにしても、総合理学研究科としては、特定問題、すなわち
言論抑圧問題に関しては、ほかの諸問題と切り離して、きちんとした態度表明が必要
なのではないかと感じる。曖昧にしておくことは、かえって問題を深刻化させるので
はないかと危惧する[7]。総合理学研究科はきちんと問題を明らかにし、検討結果を
早急に全学に示されるよう希望する。また、部局長会議は検討委員会を設置するとい
う学長の指示をどのように具体化しているのか、学長はこの重大問題の検討をどこま
で進展させているのか、検討の進み具合はどうなっているのか、全学に明らかにされ
たい。小手先のごまかしが通用しない問題であることを忘れないように、とりわけ総
合理学研究科長と学長の注意を喚起しておきたい。ここで曖昧な態度で逃げると、ま
た次に同じような問題が出てくるだろう。一回ごとにきちんと問題をすっきりさせて
おいだほうがよいと感じる。
--------
脚注:
  昨年秋、評議会からの事務局総退場の暴挙を許してはならない、学長の収拾のし
方は許されない、と総合理学研究科は圧倒的多数で歴史的決議をあげた。その決議を
執行する責任は研究科長にあった。ところが、歴史的決議を現科長はじっさいにはき
ちんと評議会で表明しなかった。小川学長と事前にうち合わせ、うやむやにしてし
まった。その意味では、そのときに本当は研究科としては、辞任させるべきほどの問
題であったろう。今回の言論の自由の抑圧問題も、うやむやにしてしまおうとするの
かもしれない。それは許されないだろう。言論抑圧問題の重大さと、研究科会議決定
の執行責任という責任と、二つとも重大な問題である。科学者としてうやむやにして
はいけないことだ。2度あることは3度ある。うやむやにしていては、今後、取り返し
のつかないような事が起きるのではないかと、危惧する。

  批判が、実利主義的な研究費分配のいがみ合い・利害対立だけでないことを願
う。
 「研究交付金」制度が、大学の内部対立を激化させることになっているのではない
か、危惧される。
自然科学系にとって研究費配分が研究遂行上、決定的に重要だということは分かる
が、その配分についてもできるだけ公正でオープンな原則を確立していく必要はあろ
う。その場合に、やはり基礎的研究費のきちんとした公平な確保は必要だろう。

  寄せられた意見によれば、榊原研究科長への批判は、言論弾圧の問題もあるが、
その前に、昨年秋の「八景研究科委員会の決議の取り扱いの件もあります」と。自分
で「背任行為とも言える」行動をとったこと、「研究委員会の決議を報告事項として
評議会に報告」するなどという、「民主主義のイロハを知らない」行為を心中深く
怒っている人々がいるということである。総合理学研究科長は「アカウンタビウリ
ティ」を言葉の上では発言しているようであり、問題はその実践である。アカウンタ
ビリティ(社会的説明責任)は民主主義の原則を構成するものである。アカウンタビリ
ティの原則を自らの行為にあてはめ、研究科長自身が行った非民主的「背信行為」に
ついて、研究科と大学内外に説明すべき(大学内外・社会に対するアカウンタビリ
ティのためには、文書で正々堂々と説明する必要がある)であろう。そのようなこと
をしないかぎり、こそこそと非民主的背信行為を行うものが研究科長という管理職の
立場にいつづけられるのだ、大学というのは何とひどいところだということになりか
ねない。

  このHPを見た別の人から、第2回以降、最終投票までの詳細な次のような非公式
情報が寄せられた。(公式情報は、議事録公開原則が確立しているので、公開請求
し、議事録を見ていただきたい。)
3
回も投票が行われたのだ。まさに、予想した通りの「苦渋の選択」、「苦渋の結果」
だったわけである。

投票総数67,過半数34.
小島:榊原:加藤:白票の順で下記に得票数を列記.
1回投票28:19:19:1
第2回投票28:22:15:2
第3回投票30:34:−:3(第3回は上位2名の決戦)

いずれの候補にもくみし得ない白票も1人から3名に増えている。
結果的には、この白票3名がかりに第2位の候補に投じても結果は変わらなかったわけ
だ。

 そういえば、先ごろ行われた国際文化学部の学部長・研究科長選挙でも、最終的に
は接戦だったとか。始めた何人かの候補が上がり、ついで各人(上位何名か)が政策・
抱負・態度(からだが弱いので辞退だとの意思を表明する人などありと)を述べて選挙
をやりなおし、最終的には1票差だったとの非公式情報を得ている。ただ、いずれの
有力候補も結局は評議員になったということで、その意味では国際文化は一応、全学
部的執行部体制になったということかもしれない。

  ありうべき誤解を避けるためにいえば、私は、人間ではなく、言論抑圧行為を批
判している。個人としての科長には、これまで何度かお話する機会があったが、むし
ろ好感を持てる人物でもある。そのような部分が今回の再選という結果が意味すると
ころ(一要素)でもあろう。しかし、「地獄への道は善意で敷き詰められている」ともい
われる。「善意」は、主観的・個人的で無原則的なものであってはならないし、実利主
義的なものであってはならない。昨年秋の研究科決議の不執行問題(学長との無原則
的馴れ合い)と合わせ、「善意」の原則的批判が必要である。
大学の自治や学問の自由、言論の自由、科学的批判の自由という客観的原則的基準で
考え行動しなければならないとき、あいまいなことは許されない、理非曲直を明らか
にしなければならない、と私は考えた。「HP削除要求」という圧力をかけた重大な「過
ちをあらたむるに、はばかることなかれ」ではないか。言論の自由を守る佐藤真彦教
授の信念ある態度こそ大学人の態度だ、正しいのは佐藤真彦教授だと主張しているわ
けである。その信念に共鳴し、それを支持し、その私の考え方が正しいかどうか、ご
検討ご批判が可能なように批判文書も公開し、身をさらけ出しているところである。




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A2003
27日 研究室に来て、パソコンを立ち上げて驚いた。総合理学研究科・佐
藤真彦先生の勇気ある資料公開[35]に対し、削除させようとするなど、言論弾圧・抑
圧が行われたのである(総合理学研究科・佐藤真彦教授の公開意見・経過報告:矢吹
先生からの情報、矢吹先生HP)。あまりのひどさに、すぐには考えがまとまらない。
じっくり考えて、意見をこのHPで公開し、世の人々からのご批判を仰ぐことにしよ
う。いずれにしろ、まさに大学内部における言論の自由、社会における公的な問題に
関する言論の自由など、憲法的問題になってきたことだけは確かである(以上、920
)



検討すべきは、まずはつぎのような事実確認・諸論点であろう[36]

  

資料(議事録)は本当に「部外秘」に値するものか? 

その判断はだれがしたのか? 

その判断に追随したのはだれか?

その判断に疑問をいだき、批判したものはいないのか?

当該資料を「部外秘」とした責任者はだれか? 

その根拠・論拠はなにか?

秘密とすべき箇所はどこか?[37]

「秘密」とすべきだと判断した根拠、その論拠とされたことは、はたして大学の
「戦略」を考えるという公的な問題、大学の生命、大学の将来という根本的な公的問題
に照らし合わせて、妥当か?

情報公開における道義性とはなにか? もしも、当然にも(公的利益=公共の利
益=大学の利益=大学の生命の利益と論理を判断規準とすれば、当然にも)公開すべ
き内容の議事録を非公開(秘密)にしたとすれば、それ自体が道義的に問題となる。総
合理学研究科の検討で、佐藤教授の行動を「道義的に問題だ」とする意見が出たようだ
(佐藤真彦教授公開情報参照)、その道義性の問題は、じつは、内容に即して判定さ
れなければならない。 その場合には、かえって、「部外秘」としたこと自体が、大学
人としてあるまじきことになり、その道義性が問題となる。他人を非難する論拠・も
のさしは、必然的に、その非難者自身の頭上にも落ちてくる。「道義」の規準を持ち出
したものは、今後の調査過程で、その妥当性が問われることになる。

企業(私的利益を追求する民間企業)における内部告発の法的保障さえ制度化され
ようという民主主義の現在の到達点からして、大学、しかも公立大学において、秘密
とすべきでないものを秘密として隠蔽・封鎖することは許されるか? 秘密とはなに
か、これが決定的に問題となる。 

企業の論理(私的利益追求)からすれば、企業内部秘密の告発は「道義的」に(
員・社内倫理により?)罪とされ、告発者自身が不利益処分される。しかし、秘密隠
蔽が公的・公共的・社会的には、幾多の悲劇・多大の被害を生んだ。企業内部の利益
(
私的利益、近視眼的・短期的・表面的利益)からする秘密(その護持・隠蔽)は、社会
の利益と論理、公共の利益、市民の生命や利益の論理に反する場合がある。企業内の
普通の社員、地方自治体・国家の公務員などは、一人一人としては弱い立場にある。
その人が重大な秘密(だが公開することが社会と公共の利益となる秘密)を知った場
合、どうするか? どうすべきか? 弱い立場の告発者(しかし社会と市民の公共的
利益を守る勇気ある人・責任感のある人)を守らなければ、企業秘密が蔓延し、市民
や社会の生命と利益が失われる。それが、内部告発保護の法律制定の背景であり、論
理である。その公共の論理は、地方公共団体でも国家でも同じであろう。むしろ、公
的団体であればあるほど、その点には厳しい態度が求められるであろう。

今回の議事録「部外秘資料」公開問題で、事務局責任者は、「地方公務員の守秘義
務」を持ち出したようだ(上記、佐藤真彦教授公開情報参照)。事務局(責任者)がこ
れを持ち出す事例は結構ある[38]。まさに、これが今回の場合あてはまるのかどう
か。それこそ重大問題となろう。このような脅迫や不正確な守秘義務理解に屈してい
いかどうか、それが問題だ。だれがそんな発言をしたのか? その人物には説明責任
がある。このことを明確に指摘しておきたい。いずれ調査委員会でその点が明確にさ
れるべきである。

大学の部局長で構成する「戦略会議」の議事録は、どのような意味で秘密なのか?
どうして秘密にしなければならないのか?どこを秘密にしなければならないのか? 
合理的な説明が必要である[39]。 「部外秘」とした事に関するアカウンタビリティが
求められている。その議事録は、教授会議事録とどのように違うのか?教授会議事録
はすでに公開原則が確立している。教授会議事録公開に関しては、迅速に処理できる
ように、教授会議事録公開システムも構築されている。公開原則を無視していい理由
はなにか?[40] 

われわれの場合で言えば、情報公開対象は、戦略会議議事録である。科学技術の
自由で豊かな発展、大学の生命・大学の発展に関わる問題、大学の自治や学問・思想
・言論の自由という憲法的規準からすれば、戦略会議[41]の議事録をとうてい「部外
秘」として隠しておくことは許されないと佐藤真彦教授は判断されたのであろう。そ
の個人的判断に基づく勇気ある[42]情報公開が、佐藤真彦教授の研究室HPにおける議
事録公開である。その民主主義的行動を押さえ込もうとしたこと自体、現在の社会の
到達点から言っても、相当に問題となろう。したがって、総合理学研究科長の「削除」
要求や、「監督不行き届き」発言(上記の佐藤真彦教授公開情報)は、大学自治破壊、
学問・思想・言論の自由の抑圧活動として、逆に、今後、学内外で重大な社会問題と
なろう。

言論抑圧こそは、大学の自治の根本精神、科学技術の自由な発展の制度的法的保
障という人類史的・世界的・憲法的な意味で、批判されるべきではないか?

言論に対しては、キチンと理路整然と言論による批判で応える(学長声明、戦略
会議責任者声明、その他の形式で)のが、言論の自由の本質的構成要件である。人目
に触れないように削除するように求めたとすれば、「言論弾圧」といわれてもしかた
がないのではないか? その事実(削除要求=言論抑圧の事実)自体を消し去ることは
できない。学長設置の委員会は、日本と世界が注目する重大な原理的問題を検討する
ことになる。堂々たる調査検討、その検討過程と検討結果の全面的な公表を期待し、
要求する。

P  HP
における意見公開について[43]・・・佐藤真彦教授の研究室HP掲載が、大学情
報システムの「公共財」という一般的な性質から問題とする意見があるようだ。この発
想自体、公共の意味をまったく考えない、軽薄な意見だ。大学を構成する「財」には考
えが及ぶが、大学を構成する主体・個人の公的責任・公共的責任をしっかり考えたこ
とのない人の発言だ。

情報公開は、あくまでも佐藤真彦教授の個人研究室HPで行われているにすぎな
い。大学の公式HPではない。その点をはっきりつかんでおかなければならない。佐藤
真彦教授個人の大学問題に関する責任ある(こそこそ隠れて陰で発言しているもので
はない)見解表明、資料=情報公開の態度を人目に触れさせたくない理由はなにか?
 大学問題(将来構想)には、多様な(時に対立的な)見解がある。それらの構想につ
いて、公然と議論を戦わせてこそ、本当の(民主的な)大学改革ができるのではない
か? 橋爪座長の発言が新聞を通じて報道されているのに、なにも大学として反論し
ないことこそ問題ではないか?戦略会議で議論するさまざまの人の意識内容・意識水
準がわかる資料を隠すことこそ、問題ではないか。外部からの、そして内部における
無理解・暴言に対し、拱手傍観していて、大学を守り発展させることができるのか?

佐藤真彦教授の意見が、いまのところ、大学の「公式」見解でないことは事実か
もしれない。しかしそのことは、個人研究室HPと大学公式ページとの違いから明確で
はないか? だれも、佐藤真彦教授の見解を、現在の大学の公式見解だとは思わない
であろう[44]。佐藤教授は、総合理学研究科長や学長・部局長会議の態度自身を問題
とし、経過報告を公開されているのである。

私もそうであるが、佐藤教授は、自分の意見を自分の意見として自分の責任で研
究室のHPで公開しているだけであろう。この意見表明の方法は決して他人に自分の意
見を押しつけるものではない。自分の意見を明確にし、他人からの批判を可能にして
いるのである。教授会や各種委員会などの場で自分個人の意見表明に長時間をとるこ
とは、場合によっては許されない。それに比べて、HPにおける明確な意見の表明は、
人に迷惑をかけない方法、じつに物静かなやり方ではなかろうか。読むに値しないな
らば読まなくていい。HPにおける情報公開・意見表明というやり方こそは、こそこそ
と隠れて「寝業師」的に動き回ることに比べて、正々堂々たる態度、民主主義的な態度
だといえないか。佐藤教授の意見が間違っていると思う人は、陰に(これはすでにお
こなわれているであろう)陽に批判すればいいのである。むしろ、問題があると考え
るなら、公然と批判することが大学人としての義務でさえある。

21 
大学問題(大学改革、そのあり方、どう進めるべきか、未決定の諸問題、これか
ら構想し作り上げていくべきプランの諸問題)という公的公共的なテーマに関する議
論だからこそ、それぞれの大学人が自分の研究室のHPを立ち上げ、責任を持って自分
の意見を公開すればいいのである。その諸氏百家の議論の百家争鳴・百花繚乱の中
で、真に有力な意見が生き残り、影響力を持つように育てていけばいいのである。そ
れこそ大学らしい民主主義的理性的やり方ではないか?

22 
そのような現代的意見公開、公論の場としては、HPはすばらしいものだと考え
る。公式見解もどんどん大学HPで公開すべきである。毅然とした意見を関係各部局責
任者が即座にだせないこと、公式見解をただちに出せないこと、これこそ大問題だ。

23 
大学というところは、公式(学長、評議会、各部局長、教授会、事務局責任者そ
れぞれ)の見解と各教授の個人的見解が違っていれば、むしろ、それが明確にわかる
ようにする言論の自由こそが大切である。大学(いや民主主義社会においてはどこで
も)は、いろいろな意見のなかから大学(社会)を構成する各人が自分の頭で公正、正
義、真実や真理を考え、意見を述べ、発見していく、創造していくことが、むしろ貴
重なのではないか? その模範となるべき機関・組織こそが理性の府たる大学であ
り、真理探究につとめる大学の使命(学則第1)ではないか。

24 
またそのような使命をになった大学という最も自由で創造的な場での活発でオー
プンな議論を、可能な限り最大限、関心ある市民に公開し、市民がフォローして、市
民としての認識を豊かにし鍛えていくことが大学の役割ではないか? 市民社会の言
論の自由を豊かに発展させることは大学の使命ではないか? まさにその試みが、各
研究室での各個人の責任でのHP作成ではないか? 今だ、HPを通じる意見表明が少な
いことこそ問題ではないか?[45]

25 
民主主義精神の深化・発展、各人の自立的精神、各人の個性・自立性・自律性と
公的・公共的意思の形成のあり方において、いちばん大切なのは各人(学長として、
各部局長として、評議員として、教授として、そして事務局責任者として)の責任あ
る公的な意見表明ではないか? 

26 
私は以上で展開したように、戦略会議という公的組織の、大学の将来を左右する
改革問題の議論の内容は完全にオープンにすべきだという立場である。佐藤教授が勇
気を持って公開に踏み切られた現在の資料(議事録)でも、公的な地位にある発言責任
者の個人名が隠されている[46]という意味で、不充分な情報公開だと考える。助教授
クラスの弱い立場の人々の発言は別としても、教授以上の人々、および事務局責任者
の発言は個人名とともに完全に公開すべきだと考える。

27 
かくして、今回の問題は、まさに大学における民主主義と言論の自由、大学の自
治の成熟度が試される問題であろう。これに対する社会の関心度は、また市民と社会
の民主主義の成熟度と関係するだろう。



しっかりとこの問題を大学人全体が真正面からとらえ、考え抜くことが求められてい
るであろう。委員会が設置されるとのことだが、議論は公開し、各発言者の多様で時
に対立的な発言内容を明記し(その意味で本格的な議事録を作成し)、正々堂々と議論
すべきであろう。それこそ大学らしい言論の自由の保証された検討のし方であろう
(10
 時50分、14時半、15時、1540分、16時半、29日、210日、推敲・添削)


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永岑三千輝
横浜市立大学大学院経済学研究科・商学部
236
0027 横浜市金沢区瀬戸222
Tel.045-787-2125
、  Fax.045-787-2096
E-Mail
nagamine@yokohama-cu.ac.jp
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