「横浜市大の将来を考える」第2回 2003年3月8日

報告「あり方懇答申と市大の将来」

〜大学としての思想をもたなければその大学は滅びる〜

       横浜市立大学商学部助教授 新原道信

 

その壱 前口上 Vorrede 誰が、何を、いつ、どこで、どのように、なぜ*[1]

 

誰が:「さしたる成果もあげてこなかった」凡庸な教員〔「素人学者?」〕が

 

何を:「あり方懇答申と市大の将来」についての報告(「あり方懇」への応答)を

 

いつ:いまでなければいつ:「もはや大勢が決したいまごろなにをいっても」といい言うひとたちは、少し前には「とにかく   様子をみよう」「事態がはっきりしてから考えよう」と言っていた

 

どこで:カメリアホールは横浜市立大学人の広場だ!

 

どのように:迅速な「反応(reaction)」ではなく「応答(response)」

     「説明責任(accountability)」ではなく「応答する力(responsability)」

     自らがなにものであるかを表し出す力 

     「子供が泣き叫ぶような語り」(大江健三郎)で かたよった見方で*[2]

     

「もっともたやすき、実質のある堅固なものを外から裁くことである。より難しいのはその内実をつかむことである。しかし最も難しいのは、つかみそして自分で判断することを結びあわせて、おのれの表現にて表し出すことである」ヘーゲル『精神現象学』序論より

 

なぜ?  ・・・これは話しの中で表し出します!

 

 

その弐 「あり方懇」への応答 risposta

 

1 まっさらな気持ちで読みすすめていくと(普通の方に生じる可能性のある疑問を想像して見ますと、、、)

 

 

 

問題設定:公立大学の存在意義→市民・納税者の「納得」「満足」→「説明責任」

☆「納得」「満足」するのは具体的にどこの誰か? 

☆「目に見える」「迅速な」「対処」は「納得」「満足」につながるか?

 

評価:数値化(標準化)した場合に「わが国のトップレベルの大学ではない」「『十分な貢献』を行ってこなかったせよ、

   公立大学としては標準かそれ以上の実績をあげてきた」

 

☆当面は納得・満足されなくても存在意義がある場合もある(本当の意味での貢献)

 

問題講造の指摘と対処方法の提示:財政状況の悪化→「痛みをわかちあう大胆な改革」「思い切った抜本的大学改革」へ

 「経営合理化の実現」「具体的な数値目標の設定」「過去の1140億円の市債累積残高」

☆この講造はいかにして講造となったかを理解したほうがいい

☆「痛みをわかちあう大胆な」「思い切った抜本的」改革が成立する前提条件を明らかにしないと、それは単に抑圧移譲と 異端排除につながる危険性がある

 

「設置以来」「なりゆきで歩んできた」

☆「博物館の歴史」ではなく「ノミの市の歴史」に見える「歩み」の背後には応答の歴史がある

 

「大学の新たな使命を明確に」「横浜市の課題に、具体的に寄与」「もっとも進んだ経営管理」「市民のニーズに、積極的に」「目に見える形で還元」

☆これらが派生的に実現されるための前提条件は?

 

「責任ある対応」としての「大学改革」:

実践的教養教育:「プラクティカルなリベラルアーツカレッジ」「実習、実務家による講義、幅広い教養・基礎学問を修得」?

高度専門職業人養成:MBA、ロースクールへの進学

進級と卒業の学力チェック

☆「明確な目的意識をもった」無駄(あそび)のない純粋な「商品」の生産?

 

商・国際文化・理の三学部を一学部へ(☆リストラ?)

理系の大学院、研究所の「再編」(☆リストラ?)

理系の工学系へのシフト(☆お金かかる?)

 

「企業や市民ニーズに応える」 バーチャル・キャンパス、エクステンション・カレッジ、テレビ会議、、、、

☆当面の対応と本当の応答との違い

 

「大学の組織、人事」

 


      ↓市長

 


     ↓経営責任者

 


     ↓選考委員会

 


      ↓学長       ↓徹底したカリキュラム管理の責任者

 

 


      ↓人事委員会

 


      ↓主任教授    非公務員(年俸契約)だが定年まで保障

 


一般大学教員 (任期制・公募制)  評価制度の導入 教員数の抑制 実務家、専門家、外国人の積極的採用

 

「学費の値上げ」「市費による研究費の負担は原則としておこなわない」

 

☆この組織、人事制度、財政改善は、カリキュラム、入学システム、海外の大学との連携を実現させるか?

 

2 意図の結果の転倒による「愚者の楽園」への道*[3]

 

◇決断の先送り・・・「根本的に考えた上で」「きっちり将来予測を立てた上で」

 Cf.「既存の秩序に支持者はいるが新しい秩序は支持されない」(マキャベリ)

◇「適当に対応(外見だけ変えれば)しておけば、中身は変えないで済む」と思っていたのが、どうも雲行きがあやしくなっ たと驚き、なんとか少しでも火の手を逃れようと必死に身をよじる。私心は公的な言説によって覆いかくされる。

 「グローバルスタンダード、国際競争に乗り遅れないために、現実、国際社会から取り残されないために、生きのこる

 ために」。その言説に対しては「全肯定」以外は認められない。

◇同じ書式(枠組)で模範答案を書くことの競争。この統一書式への「帰依」こそが重要となり、「こういう状況なのですか ら、私は市民や学生のみなさんのために一肌脱ぎます」が「お決まりの文句」となる。しかしその実質は問われない。

◇「学崩壊」の最終形態。「他者感覚のなさ」「憶面のない自己中心」*[4]、「皮相な反応」*[5]、「退嬰主義」*[6]

◇「蜘蛛の糸」と「魔女狩り」*[7]

 

「知の生産と継承」が「賭け金」となっているのにもかかわらず、実際には“智”が馴致され溶解させられていくまさにその

その場所で*[8]、日々の要請にそこそこ対応しつつも、根本のところで、もとめられていることは何か。

 

「妥協したのではないかという嫌疑をあらかじめ甘受した上で、知的権力に対して、妥協が語られるその場で、相手がもっとも聞きたがらないこと、おそらく最も予想外のこと、その場にもっともそぐわないことを語ることによって、知的権力の武器を逆手にとるべきだ」P.ブルデュー『社会学の社会学』(藤原書店、1991年、9頁)

 

その参 よりゆっくりと、やわらかく、深く*[9]  

    lentius, suavius, profundius

    〜「勝ちとられた敗北」*[10]からの出発〜 

 

1 願望と企図〜いくつものもうひとつの“新”横浜市立大学のために〜

 

《横浜市立大学が大学であるための“願望”と“企図”》

 

◇文系学部はさまざまな知識の背骨となるべき“智”をめざすという点で共通している。

◇現在求められる“智”とは? 領域横断的な臨床の“智(cumscientia)” 

◇学部・大学院において個別科学にとどまらない学問のelaborationをおこなう。

◇学生は、複数の専門領域にふれることに挑戦することを標準とする(仮にそれが達成されないとしてもchallengingであることの重要性)。教員も長期的にはそれにふさわしいスタッフへと変化させていく。

◇この観点から現状を見るなら、早い時期での「囲い込み」が生じていることがなによりの問題だ。指導教員に「指導可能」な範囲の縮小再生産が余儀なくされる。それゆえ、少数の才気あふれる学生はモラールを低下させられる。

◇「初代となりゆく」学生の成長を阻害する暴力の縮減を目標とする。

◇すべてについてなにごとかを識ることを義務づける。主たる専攻以外に副専攻を選びチャレンジする。失敗した場合には進路変更可能なシステムとする〔ある学科に属していても単位修得や卒論指導などで実質的に他専攻の内容を履修可能とする、あるいは転学部、転学科の可能性をもっと大きくする〕。

◇学生・院生は「作品」をのこす。個別科学の枠組みをのりこえようとするもの。序説であるような「作品」を残す。

◇学生の問題意識に沿って指導する教員も勉強し研究の射程を変化させていく(metamorfose)。ゼミの教員は学生を囲い込むのでなく、ホームドクターの役割のみを果たす。

◇学部の4年間は、この「序説」を書くための修業時代(きちんと必要な無駄をする時代)。大学として、この形で「作品」をものした学生に対してはprestageをあたえる。

◇大学院入試はより間口を広くして一年間は自由に勉強する時期として「作品」を書く条件をより厳しくする。かなりの学生が単位取得満期退学もしくは中途退学となる(学歴書き換え機関となることを拒否する)。

 

  「真の実学」の府*[11]

 

「実学と文明開化」のリーダーとされた福澤諭吉は、実は逆に、「経験と勘」のみに頼ることを「無学」と批判し、現象の背後にあるもの探究しようとする姿勢、万物の学理を探究する学問を「物理学」と呼んだ。「空想は実行の原素なり」と言い、空想や霊的なものの尊重も含めて自然と社会のものごとの「理(ことわり)」の学を構想しようとしていた。「高尚の理は卑近のところにあり」といい、俗世のことがら、浮世のことがらを大切にした。それは理念と現実の恣意的接合をともなう二世界説ではなく、些細な現実の中から理念を構想し企図する想像力であった。

 

 

 

 

 

 

3 かたよったトタリティ、不均衡なシンメトリィをもった“異端”による“智”のセッション

 

 

◇異端=(classify,classificare)にそぐわない存在  

    Cf.丸山真男の晩年のテーマ 日本社会における正統と異端*[12]

同質・等質・単一・単相(einfach)でない集団の中でやりとりがなされること、とりわけ聴くことの意味  

純粋透見(Einsicht)、私念(Meinung)が敗北する場

 

 


                                 異人

                                 異端

                                 内なる異文化

                                 癌細胞

                                    ソクラテス

                                 ラモーの甥として登場するディドロ Cf.グールドナー、ブルデュー

                                 境界領域をいきるもの 動くひと 痛むひと 

betuixt and between   liminality

                                 EDGE   BORDER

 

 

◇“智”のセッション、かさねあわせる、つらねる。

 

 

 


                   統合→←紛争

 

 

 

 


               

 

一つの目的に対する合理目的性、効率性という観点から考えるのなら、それぞれの責任の所在と守備範囲を明確にして、その範囲内での合理的な思考と役割行動を行うことが期待される。これに対して、一見何度も互いの体験と時間とエネルギーを重複させつつ、またつねに内部矛盾を意識化させふりかえりつつ、多方向にしかも複線的、複合的な自己や他者へとはたらきかけていくことは、実践の“智”のレベルにおいてきわめて挑戦的な意味をもっている。このような試みは、瞬間的に、しかも動きの中においてしか成立せず、つねにメタモルフォーゼ(変成)していくことを運命としている。前者が統合/紛争モデルであるとするなら、後者は相互浸透、内なる異文化の動態とでもいうべきものです。

 

 

 

 

4 「世間知らず」なソクラテス*[13](あるいは宮沢賢治*[14])登場!! 

 

社会の医者。身体の「根茎」(根のつらなり、島々のつらなり)のメタモルフォーゼをかたわらにあってうながすひと。

homines patientes  自らの病とともにある社会の医者 素速く鋭利に線をひくことをひとまず思いとどまり、逡巡する 岐路にたたずむ、社会の病者であり自らを助けることを学んだ経験から他者に惜しみなく与える

もっとも苦しんでいる人間の発せられない声を聴く 痛む、傷む、悼む 考えることは存在と契りを結ぶこと

山師、詐欺師、ひとたらし

 

活字に書かれた原則をうけいれるようではありたくない。自分の舌とかペンとかだけでなく、不随意筋の動きを考えにいれた哲学をつくりたい。自分の思想をつくりだす原思想と、しっかりかみあう思想をつくることが問題だ。 鶴見俊輔

 

“今日、愛については誰も語っている。誰が怒について真剣に語ろうとするのであるか。怒の意味を忘れてただ愛についてのみ語るということは今日の人間が無性格であるということのしるしである。切に義人を思う。義人とは何か。怒ることを知れる者である。” 三木清

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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参考資料:願望の横浜市立大学への企図 

Porgetto NYCU

大学としての思想をもたなければその大学は滅びる。 

 

1.横浜市立大学の思想とは何か 〜横浜アカデミア〜

 

(1)元横浜市立大学学長・三枝博音の「鎌倉アカデミア」の精神とその遺産を継承し、臨床の“智”を創造する場として、あらたな“アカデミア”を具現化する。

(2)あらゆるレベルの政治的社会的力関係がうずまく統治不可能な現実の中で、自らをふりかえり、その場の状況を把握し、苦境を打開・突破する力をそなえた「社会のオペレーター」を育成する。

(3)地域社会における文化的・社会的な活動との交流によって、地域に埋め込まれた大学として地域社会形成に寄与する。

 

Responsibility 状況への応答 

Challenging &Playing 大学が大学であるための理念と目標

・前人未踏の地に勇気と余裕をもって歩んでいくための“ ”を形成する場としての大学の土台造りをする。

・状況を把握し、苦境を打開・突破する力をそなえた社会の智者を育成する。

・<教育を支える研究>、<研究を可能とする組織>、<組織にささえられた学部・大学院・研究所・病院>。

→大学以外の組織ができることはやらない。大学にしかできないことをやる。

→学部・院修了者との長期的関係の維持、創設

→理想的教育研究の場としての領域横断的なセクションをつくり自己革新をつづけていく(metamorfose

 

2.横浜市立大学の教員・学生に求められるもの

 

Challenging&Playing   社会の智者の育成  “智”の職人の育成 

 

同時代性      →具体的社会的現実に対して持つ意味を問い自らの存在を証し立てる

問題志向性     →具体的な焦眉の問題に接近する

複合性       →生活者を断片化することなく複合的に把握する

複数性と相補性   →領域横断的、地域的かつ地球的など複数の視覚・立場からの現実把握と対話をおこなう 

根源性       →可変的な状況変化の背後にある根本問題をゆっくり、やわらかく、深く考える

 

★.横浜市立大学の教員・学生に求められる能力

 

伝統のある中小規模の公立大学や国立大学では、教員・学生の数がすくなく、一人一人の教育力、組織力、などが本当に大切となる。そこでは、研究能力のみならず、人間的な教育力、指導力、組織力をあわせもった人間が必要とされる。

 

ゆっくりと Slow  is  beuautiful

やわらかく Sweet  is  not noisy, ecological and grounded

深く       Profound , Radical, Not Skin deep

 

かたよったリアリティ

不均衡なシンメトリィ

串刺しにされた“智(cumscientia)”

 

3.横浜市立大学で学問するということ

 

「素人」の学をするということ−−「神々は細部に宿り給う」−−

 

 あえて体系化をいそがない「素人」の学として横浜市立大学の学問をたてたい。「素人」の学とは何か。ブローデルや増田四郎の言葉をまたずとも、歴史学や哲学や社会学、あるいは民俗学などは、特別な専門家でなくてもなしうる学問、総体としての現実をそのものとして把握するための武器となる学問である。阿部謹也は、増田四郎の学風について以下のように述べている。

 

「著者の歴史家としての特徴は素直な心で歴史を見るという姿勢にある。それは簡単なように見えて至難のことである。自分の心に素直に従い、しかも史料に即し、歴史を見てゆくということはなまはんかな研究者には不可能なことのように見える。そのような態度がどのようにして生まれたのかを考えてみると冒頭で述べた東京商科大学における学問のあり方に行き着くであろう。東京商科大学において商業経済以外の学問を志すことは容易なことではなかった。日本社会を近代化し、合理化するという目的は根底にあったものの、日常生活の中では実学の府において実利とは関わりがなさそうに見える学問を志すのであるから周囲の抵抗も少なくなかったと思われる。」「そのような環境の中で学問に向かう者はその学問の意味を自ら確認し、周囲に対して主張しなければならなかったのである。東京帝国大学を中心とする大学においては事態はまったく異なっていた。例えば東京帝国大学の史学科に席を置く者はその研究対象が何処の国のどんなテーマであっても、その研究をすることが国家によって保障されていたから、周囲にたいしてそのテーマの正性を主張する必要などなかったのである。しかし東京商科大学においては自分が何故そのテーマにこだわり、それが日本にとって何故必要なのかを常に周囲に対して主張し続けなければならなかったのである。」「そのことは逆に東京商科大学における商学経済学以外の分野の研究者がその研究の問題関心を深めてゆく上で大きな助けともなったのである。三浦新七、寺田成友、上原専禄といった教師達は皆同じような状況の中で苦しみ、その研究内容を深めていったのである。本書の著者も同様であった。著者がしばしば「自分を素人であります」と述べるのは本当にそう思っているからであり、自分を素人であると規定するところで日本の社会に対してなんらのグループをつくることなく、いわゆる世間に与せず、自分の思うところを研究し、発表することができたのである。したがって著者にとっては都市と市民意識の問題は単なる研究テーマ以上のものであり、自分の存在をかけた問なのであった。」(阿部謹也「増田史学の根底にあるもの」増田四郎『都市』ちくま学芸文庫版1994年の解説より)

 

 イタリアにおいて「哲学(filosofia)」、「哲学者(filosofo)」というのは狭く閉じられた知識人のサロンの中でのみ生き、新聞の文化欄や学会のはやり言葉を、適度に話しの中におりまぜつつ、同時代やふつうの人々に対してはつねに批判的、懐疑的なポーズをとりつづける人を意味する。また、アメリカの社会学者から「日本の社会学者はあまりに『哲学的(philosofical)』だ」といわれる時には、地を這うような実証とは縁遠く、日本社会であれ他の社会であれ、実際の社会そのものではなく欧米言語で書かれた文献のみを「迅速に処理し」、縮小再生産しているだけだという批判をよみとることができる。

 ならば「サロン(に棲息するためだけ)の知」をこえる、「素人」の学としての地域と人間の学(哲学、歴史学、社会学、民族学、民俗学、人類学を含み込んだ)とはいったいいかなるものなのか。すくなくともその学は、静態として存在するのではなく一個人が生きる姿そのものであるはずだ。論文を書いたり、市民運動をしたりするかもしれないが、究極の姿は、やはりソクラテスだ。「素人」の学に体系があるとするなら、それは、「実体が主体である」(Hegel)というテーゼが自己展開されている個々人の内にしか存在しえないはずだ。

 

“智(cumscientia)”へのパトス

 

「最近における都市問題の論議をみるに、その大部分は公害や住宅、あるいは交通問題や都市改造などを中心とした対策論か、さもなければ首都圏整備や産業都市計画、あるいは大胆なメガロポリス論のような未来論であり、そこに生活するものの団体意識の在り方については、ほとんど触れられていないといううらみがある。科学技術の進歩、経済構造の変化にともなう都市そのもののあわただしい変貌が、このような対策論ないし未来論をさかんにしているものと考えるが、それだけで市民の精神的なきずなや自治の運営が、健全に育成されると思うのは大きな誤りである。具体的な地域社会にはぐくまれる精神をどう考えればよいのかという問題を織りこんでこそ、はじめてわたくしたちの生活の場が定着する可能性をみつけることができる。」(増田四郎『都市』筑摩叢書版1968年4月5日付の「あとがき」より)

 

著者は常に「自分は素人として歴史学を学んできた」と語っておられる。

著者はかつて「精神史として社会経済史を描いてみたい」と語ったことがあった。

「社会経済史を営む研究者の数は多い。しかしその背後に精神史の核がうかがえるような研究者の数は極めて少ないのである。」

「著者の歴史家としての特徴は素直な心で歴史を見るという姿勢にある。それは簡単なように見えて至難のことである。自分の心に素直に従い、しかも史料に即し、歴史を見てゆくということはなまはんかな研究者には不可能なことのように見える。そのような態度がどのようにして生まれたのかを考えてみると冒頭で述べた東京商科大学における学問のあり方に行き着くであろう。東京商科大学において商業・経済以外の学問を志すことは容易なことではなかった。日本社会を近代化し、合理化するという目的は根底にあったものの、日常生活の中では実学の府において実利とは関わりがなさそうに見える学問を志すのであるから周囲の抵抗も少なくなかったと思われる。」「そのような環境の中で学問に向かう者はその学問の意味を自ら確認し、周囲に対して主張しなければならなかったのである。東京帝国大学を中心とする大学においては事態はまったく異なっていた。例えば東京帝国大学の史学科に席を置く者はその研究対象が何処の国のどんなテーマであっても、その研究をすることが国家によって保障されていたから、周囲にたいしてそのテーマの正当性を主張する必要などなかったのである。しかし東京商科大学においては自分が何故そのテーマにこだわり、それが日本にとって何故必要なのかを常に周囲に対して主張し続けなければならなかったのである。」「そのことは逆に東京商科大学における商学・経済学以外の分野の研究者がその研究の問題関心を深めてゆく上で大きな助けともなったのである。三浦新七、寺田成友、上原専禄といった教師達は皆同じような状況の中で苦しみ、その研究内容を深めていったのである。本書の著者も同様であった。著者がしばしば「自分を素人であります」と述べるのは本当にそう思っているからであり、自分を素人であると規定するところで日本の社会に対してなんらのグループをつくることなく、いわゆる世間に与せず、自分の思うところを研究し、発表することができたのである。したがって著者にとっては都市と市民意識の問題は単なる研究テーマ以上のものであり、自分の存在をかけた問なのであった。」(阿部謹也「増田史学の根底にあるもの」増田四郎『都市』ちくま学芸文庫版1994年の解説より)

 

§良知力『向こう岸からの世界史』の阿部謹也先生の解説より

「歴史研究というものは自分の外に起こってきた出来事を観察し、分析し、叙述するものだと考えている人がいるようである。そのような考え方もありうるであろう。しかし私たちは歴史研究をそのようなものとは考えていないのである。私たちにとって社会史研究とは自分の奥底に深くわけ入ってゆく試みであり、ただ外を見ることではない。外的事象と対応するものを自分の中に発見できないでどうして外的事象を理解することができるだろうか。」「良知さんは思想史家として出発し、思想史を完成する中で社会史に接近し、社会史を自分の者とする過程で逝ってしまわれた。本書と『青きドナウの乱痴気』の中で良知さんの思いは十分に書かれている。もとよりこれらは「歴史なき民」とい考え方に修正を加え、1848年革命におけるプロレタリアートの視点を強調しようとする観点から描かれたものであって良知さんの心情を吐露するために書かれたものではない。しかし対象への深い愛情がないところにどのような歴史叙述が可能だろうか。本書の叙述が生き生きとしているのは良知さんが賎民やプロレタリアートに寄せる想いが深かったからであり、それ故にこそこれまで見過ごされてきた緒事実がよく見えるようになったのである。」阿部謹也先生自身の言葉

→事実を見るための深いinteresse、愛情、語られなかった想いをすくいとろうとするパッション!!

「飛躍した言い方になりますが、いま僕は、自分の学問が自分の中でもっともっと跛行的にならなければダメだ、もっと負うべきものは負わなければウソだ、という気がしています。・・僕の子供の頃、『中央公論』か『改造』か、覚えていませんがとにかくむずかしい雑誌が一冊家に転がっていました。僕の家にはそんな雑誌を読む人間はいませんでしたから、きっとどこからか迷い込んできたのでしょう。オヤジがそれを取り上げて言ったものです。おまえも大きくなったらせめてこのくらいの本を読むようにならなければ、と。つまらないことを覚えているものですが、僕はいまそれを想い出すと、要するに『やりきれねえなあ』と感じるのです。多分にひがみ根性をふくめて申し上げますが、学者でも上流中流の家庭にお育ちになった方々は、このやりきれなさはおわかりにならないと思います。そうした方々の学問−それは往々にして僕らの及びもつかぬ知的構成力をもっていますが−と僕らの学問とはおのずから異なってこなければならぬはずです。だが、実際は僕はそのやりきれなさを『学問のなかで』まだ背負っていない。それを背負わぬかぎり、少なくとも僕にとって学問がきれいと、まねごとに終わるのですが。・・僕は学者になれず、また学者になってはならないのです。それは自分の肉親や仲間を踏み台にしながら背伸びして疑似文化をつかみえた者の負い目です。・・」良知力1972年

→旅の途上で違う道を歩くようになった先輩、友人たち。

 

§『向こう岸からの世界史』「あとがき」より

 

「本書には、1974年から約4年間にわたって雑誌等に寄稿された文章が集められている。論文もあれば、回想録風の文章もあり、またウイーン便りなどもあって、雑多な印象を与えるかもしれないが、しかし、これらの文章の中を流れているテーマもモティーフも、ほぼ一貫している。筆者として言いたいことがあってはじめてこれらの文章が書かれたのであるから。とはいえ筆者の心底を流れている言いたいことをいうのは、当の本人にとっても必ずしも明確な姿をとってはいない。それは思想化された主張というよりも、むしろ心のひだに積み重なってきた一つのわだかまりだからである。そしてそのわだかまりは、私なりの精神の現象学を展開しようにも展開しえないいらだちとつながっている。私の両親は故郷をはみ出て東京に流れてきた貧民の部類に属するから、本書の中私なりのモティーフをふくらませていくなかで、私もいつしか自分の心の生誕の地に発する経験の軌跡を描いていたのかもしれず、この小さな本をとおしていつしか自分の育った古巣にたちもどろうとしていたのかもしれない。」

「実は、1975年春、ウィーンに滞在していた私は、突然病いに襲われた。若い友人たちや私の妻が真夜中に私を病院に担ぎこんでくれ、長時間の手術の後、九死に一生を得ることができた。・・この病気のために本書は資料研究的な側面で決定的な制約を受けることになった。・・しかし私にとっての困難はもっと別なところにあった。大きな手術をこれまで三度も受けて、体がずたずたにされてみると、なによりも、自分を襲ってくる索漠たる想いとたたかうことなくしては、一言半句といえどもものが書けなくなってしまった。人間の本質的価値への確信をぬきにした歴史研究などありえぬと、いま私は自分の実存の崩壊をとおして感じとることができる。」

 

4.教養教育 Cf.2002/2003年度の講義要綱

 

全学生が同じレベルの教養を身に付ける。その後も各学府の中でひきつづき教養の度合いを高める。

学府(特に教養学府)で必要な教師像と実態とのギャップ

教養学府でやる教育とは何かをつめる。教養教育のイメージ。

一年間は学部をこえたクラス編成とする。チューター制度。

 

入門編ではなく高度なトレーニングを要求する(ICUもしくは旧制高校のタイプ)。

個別科学の根となりうる学、本物の“智(cumscientia)”にふれる場とする。

大学全体として教養学府の重要性を認めそれにふさわしい“智(cumscientia)”の職人を配置する。

教養学府で学んだことの意義は卒業して10年後くらいの学生に聞けばよい。

教養学府には、語学、情報、思想、自然、人間、社会などの部屋を作る。

 

5.学部・大学院教育

 

・前人未踏の地で“初代”となりゆく学生の成長を促す。

・AO入試の導入、カリキュラムは緩く、退学勧告、厳格な卒業試験、入りやすく出にくいシステムへ

・複数の専門領域への挑戦し、学部・専門の枠をこえて、学生も教員も問題意識に沿ってメタモルフォーゼしていく。

・長老の“智”の活用

 

・目標:学生も教員も“初代”たれ! “初代”となりゆく学生の成長を阻害する暴力の縮減を目標とする。

・入学者受け入れ:入学後の選抜、AO入試の導入(テーマ設定) 

・教育体制・教育支援体制:カリキュラムは緩く(学生を囲い込まない)、退学勧告、厳格な卒業試験(口頭試問等)の導入

教育体制・教育支援体制、教育成果、学生支援、教育の質の向上のシステム:学生は、複数の専門領域にふれることに挑戦することを標準とする(仮にそれが達成されないとしてもchallengingであることの重要性)。教員も長期的にはそれにふさわしいスタッフへと変化させていく。

教育内容・教育方法:@すべてについてなにごとかを識ることを義務づける。A主たる専攻以外に副専攻を選びチャレンジする。失敗した場合には進路変更可能なシステムとする〔ある学科に属していても単位修得や卒論指導などで実質的に他専攻の内容を履修可能とする、あるいは転学部、転学科の可能性をもっと大きくする〕。B学生・院生は「作品」をのこす。個別科学の枠組みをのりこえようとする萌芽をもつもの。序説であるような「作品」を残す。C学生の問題意識に沿って指導する教員も勉強し研究の射程を変化させていく(metamorfose)。ゼミ(研究室)の教員はホームドクターの役割を果たす。D学部の4年間は、この「序説」を書くための教養時代と考える。大学として、この形で「作品」をものした学生に対してはprestageをあたえる。E不本意ながら、この条件を満たさない学生が形式的に卒業することも当面は認めざるをえないが、入りやすく出にくいシステムへと暫時切り替えていく。

・退職・退官された元大学教授や社会の智者に、総合的な学問論を講義してもらう(これを高度教養教育の土台とする)。

 

◇“新”横浜市立大学の大学院教育T

・複数の研究領域・言語・文化等に通じた教員と学生

・テーマごとに院生(修士+博士)を募集

・学部+Mrのリベラルアーツ/独立博士のシニアコース/社会人向け大学院

・饗宴(symposion)形式のゼミナール

 

・複数の研究領域・言語・文化等に通じた教員と学生の集う場。個別科学にとどまらない学問のelaborationをおこなう。

・大学院入試はより間口を広くして一年間は自由に勉強する時期として「作品」を書く条件をより厳しくする。かなりの学生が単位取得満期退学もしくは中途退学となる。

・共同研究のテーマごとに院生(修士+博士)を募集する(5年をめどの共同研究のメンバーとして)。

・学部と修士二年間のリベラルアーツ、独立博士課程のアカデミックスクール(国内外のポスドクやPHD Candidate、シンクタンク、研究者などとの共同研究をおこなう)、社会人向け大学院(プロフェッショナルスクール、ExtensionSchool、生涯教育などを含む)などに機能分化をする。

・教員の移動を可能とし、縦割りの系とは異なる学部・院で個々の教員が教えられる体制とする(境界領域専攻をつくる)。

・教員は、“智の職人”として、大学外の人材を引き寄せる力をもつ

・問題設定をする異なるディシプリンをもった複数の研究者による合宿研究会をおこない、この場に大学院生等が参加し「場違い」であることを自覚しつつ最先端の“智”の地平を学ぶ(Cf.京都大学人文研のスタイル)。

 

◇“新”横浜市立大学の大学院教育U

 ex.NPO、NGO、国際機関等で働く専門家のための社会人大学院

 

§一年間で900時間 講義600時間 実習300時間 平日 月〜金 9時〜6時までのインテンシブなコース

↓自分で実習の場を探すためのフィールドワークをおこなう

↓政策評価をおこなう

↓自分が実習する場所を探して交渉する。

↓実習をする。

↓論文を書く。

↓この段階に達した者が共同研究プロジェクトに参加する。

 

§修了後の社会的役割

自治体、教育、企業へ  管理的仕事 行政職 コーディネーターとして

社会的サービスの現場で NPO 協同組合 社会的企業 ソーシャルワーカー 福祉職として

 

学生は卒論でNPO法や社会的協同組合研究や、資金調達法などについての研究をしてきた経済学部、法学部、社会学部、政治学部など出身の学生。そのほか、数学や生物学を学んできた学生もいる。受講生は各種の奨学金をもらっている。講座の運営には、信用金庫、商工会議所、県、市などから援助金をもらう。

 

実習の内容は、以下の手順でおこなわれる。

@NPOや協同組合などの運営についてコンサルタントとして入り込める場所を自分で探してくる。全国各地から来ているので自分の地元でおこなう場合が多い。

Aテーマによって、実習生、若手の大学教員(チューター)、NPOや協同組合の受け入れ担当者(チューター)の三者の組合せを決め、相談の上すすめていく。メンバーの選定やメンバー間の調整についてはコーディネーター(実習をおこなうための実習助手:経済学部を卒業した後、人材教育について大学院で学んでいる)が責任をもつ。

B600時間の座学、300時間の実習の後、学生は論文に相当する報告書を執筆する。

 

 

§修了後の社会的役割

自治体、教育、企業へ  管理的仕事 行政職 コーディネーターとして

社会的サービスの現場で NPO 協同組合 社会的企業 assistenti sociali 福祉職として

 



*[1](グローバリゼーションの名の下に「暴挙」が頻発する状況下では)「特定の地域の文化の現場について、経験的な問いを発すること(誰が、何を、いつ、どこで、どのように、なぜ)であって、現場検証から一般原則を導き出す作業を避け、拒絶するのに、あえて理論家を気どる必要もない。私たちに必要なのは、背後に横たわる大きなプロセスや縦横のネットワークを分析し、自分がおこなったケース・スタディに意味づけをすることである。グロスバーグも言うように、私たちは、人と場所に応じて様々に異なるグローバリゼーションの構造と実態を語れなければならない。」Morris, Meaghan, "Globalisation and its Discontents", 1999=「グローバリゼーションとその不満」『世界』20014月号,pp.266-278.

*[2]身体の奥の眼から社会を見る。身体の表面にではなくて身体の奥に眼がある。その眼は、自分自身と世界を同時に見る。自己と対象を分離して分析的に見るのではなく、両者を重ね合わせ二重写しにして見る。不定形な自己を身体でわかる、重ね合わせる。

*[3]「とにかく根本的に」「きっちり将来予測を数字でしめして」とかの「原則論」をくりかえし、その実現へと至 る膨大で細かなやりとり、水面下での葛藤、消耗、蹉跌にふれることはない。「わたしは悪くない」「あの時はしかたなかった」「自分だけじゃない、他のひともやっていた」「友達の車は大きい」(重要人物と知己であると強調する)「うまくいかないのはあいつのせいだ」「わ、わたしにも責任が及ぶのでしょうか」。

*[4]○○中心主義centrism

「○○は、少人数のていねいな教育をしていい教育をしているので特に悲観的な状況ではない」

「こちらの提示するカリキュラムと教育方法に賛同し純粋に○○を勉強したいという一定の質の学生に教えればよい。」

→この純化・純粋な形態での入試・教育を阻害する要因(非○○の学生・教員)とは切り離しをはかりたい。

*[5]皮相な表層的な対応skin deep

「まわりからいろいろいわれるのでなにかやっているという形をとらないとまずい。」

「社会人向けが世の流れだが、すでに乗り遅れているのでいまさらやってもしかたない。」

*[6]退嬰主義immobilismo

「(いかなる理由であれ)負担をふやすのはいやだ」「面倒なことは避けたい」「無給助手になってくれる院生、語学・情報教員ならいてもらってもいい」「大学教員は好き勝手ができる特権階級だ」(→この特権、既得権益を守るために長いものにまきこまれていくという選択をしつづけるものもここに含まれる)

*[7]この十年ほど、将来構想の試みは、いずれも失敗に終わりましたが、最大の阻害要因となってきたのは、「根本的に考えた上で」「きっちり将来予測を立てた上で」という言説でした。間接的にそれを支えてきたのは、危機意識のなさと自己中心、そして退嬰主義でした。

*[8]『アウトブレイク』というアメリカ映画が想起される。「先進都市社会」の住人にとっては単なる「荒野」、「都会人」からは、そこに暮らすひとびとも土地も空気もまったくの無であるかのように扱われてきたアフリカの小さな村で発生した治療不可能な熱病。近代社会の効率性のメタファーでもあるような軍隊組織が選択した「対処」の方法は村自体の根絶、つまり爆破であった。根絶されたはずのウィルスは、猿の中で生き続けた。その猿をペットショップに密輸しようとする男があらわれたことから、この「異物」は、突如、システム化された都市社会に「闖入」してきた。contamination<contaminatus = con+tangere  すべてふれてよごす →contact・・・突然の病におそわれたひとびとは「異物」として「隔離」され、脱出を試みる「市民」は「消去」される。身体全体の抵抗力を高める方向ではなく、メスで切り取り、放射線で焼きつくし、化学物質で殺すことによって「異物」を絶滅させるというありかたと、軍事的な力の行使との相似。「客観的な解決を地球的見地で」おこなうために「大統領命令」で町を破壊する。

*[9]ゆっくりと、やわらかく、深く、こころに入れ墨をするように。その対極のskin deep・・・いまなにが表層的なのか。明治国家が作った「樽」が温存された。日本のインテリが持っている思想性の浅さ。skin deepとならない方法は、刺青をすること。こころに刺青をするように、、、。しかしこの問題を、「本物はなにか」というふうに立てたくない。真理は間違いから逆算される。間違いの記憶を持っていること。これは消極的な能力だと思われるかも知れないが、これは気合いの入った後ろ向きだ!!原爆に撃たれて負けた。これを受けとめる。もともと日本人はある程度この能力(後ろ向きの真理発見能力)を持っていた。吉川英治、津田佐右吉、山路愛山などの「敗者の想像力」。連綿とつづいている。勝てば官軍というskin deep。敗者の想像力を保ち続けることが未来につながる。「こころに刺青をするように(吉増剛三)」。skin deepでない沖縄。地上戦の記憶はぬぐえない。受け身の“智(cumscientia)”的能力。記憶は弱者の武器である(ミラン・クンデラ)。死んだひとびとが知事のうしろにすわっている。

*[10] たとえばこんな先達の言葉が想起される。

◇当面のたたかいに勝利するという幸運に見まわれるようなたたかいを僕はしてこなかった。だけれどもこうしたたたかいをしてきたものは、そのことを嘆く必要もないしまた嘆くことはできない。なぜなら誰が強制したわけでもなく、自ら意識的に選びとったたたかいなのだから。 アントニオ・グラムシ

◇誠者天之道也、誠之者人之道也(誠は天の道なり、これを誠にするは人の道なり) 

◇朝に道を聞かば、夕に死すとも可成り 

*[11]私がどうにか大学に入学した時、祖父がやって来て、まだ幼く、ものごとの道理を識らない私に、こう語った。「大学には『哲学』学はあっても哲学はない。そんな無駄なことではなく実学をやれ。どうしてもやるなら日本人のための哲学をしなさい」。いまになってふりかえってみれば、それは、福澤諭吉の言うところの“真の実学”をせよとのメッセージだった。ガラス越しに対象を観察するだけの「観相」(学校という市場の内部でのみ成立する「理論」)でも、盲目的な実践(果てしなき対処療法、理念なき帳じり合わせの応用)でもなく、学校に閉じこもらず、弾の当たる場所に我が身を投げだしつつ、現実の濁流そのものの中から、ことがらの魂、理(ことわり)を見出し、練り上げていくところの“真の実学”をすることこそが学問であり、大学で学ぶ者の使命であるといわれたのだ。

*[12]丸山はなぜ異端を考えたか。外来の思想は、上から入って下降する過程で変質する。歴史意識、政治意識、倫理意識を考える。「古層」をのりこえない限り、われわれは民主主義を獲得できない。意識することで、突然の噴出(関東大震災における朝鮮人虐殺など)を防ぐことができる。

*[13](たったひとりで、「走らぬ馬を刺す虻(あぶ)」のように)

ペロポネソス戦争期に,重装歩兵として北ギリシアに2回,ボイオティアに1回従軍し,賞賛すべき忍耐心と沈着の勇を人々に印象づけた。また,このとき以外にはアテナイの町を離れることがなかった。ソクラテスはたったひとりで扇動された民衆に立ち向かった。戦争敗北の責任はすべて批判者ソクラテスへとむけられた。街の若者を惑わせたという罪で彼はとらえられた。自分たちの生き方に疑問を投じた人物を、中央市場での「裁判」にかけた。そこでは無作為に選ばれた陪審員たちが、彼を死刑にしようとした。水瓶から水が流れ出るわずかな時間での弁論。自らの信念をかけて話した。「深く考えない人生など生きるに値しない」。牢獄での最後の日々、毒杯を仰ぎ死の瞬間まで、かれは考え、泣き崩れる弟子達との対話をつづけた。「不屈の戦士」という神話に踊らされ、敗北を抱きしめた後、自分を見つめふりかえる力をアテネの都市民は身につけ、アカデミアが生まれた。→有限性の自覚!

*[14]自然科学と化学、人間学、文学が、独自のありかたの《かたよったトータリティ》の“智(cumscientia)”を身体に刻み込んでいた宮沢賢治。その独自の足場から、農学校に通う若者達に向き合った。具体的なひとりひとりがかかえる事情(父の病気、畑の土壌)に対して敏感に聴く力を持っていた(Cf.田中正造の流域科学、玉野井芳郎のエコロジーの経済学)森を歩き、そこに宿った精霊たち、岩や木、植物、動物、ひとびとの内奥と対話し、それらの相互浸透のさまを、身を削るようにして、借りてきた言葉や外側の論理でなく、ことがらの内に宿る必然的なつらなりに即してわきあがってくる言葉で記した“智(cumscientia)”の職人だった。賢治は、<いくつものもうひとつのイーハトーボ>の生命力を殺さぬように、ゆっくりと、やわらかくふれ、うけとめ、発酵し醸成していくのを待った。