「市民の会」カメリアフォーラムからコピーしたもの、お呼び「科学者憲章」(日本学術会議)

 

 

学問の自由、大学の自治はなぜ必要か

 −国民の「探究の自由」・「精神の自由」・「知る権利」の不可欠の構成要素−

 

 

日本国憲法第23条(学問の自由)

学問の自由は,これを保障する.

 

教育基本法第10条(教育行政)

@  教育は,不当な支配に服することなく,国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである.

A  教育行政は,この自覚のもとに,教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない.

 

ユネスコ高等教育に関する世界会議1998-10-9,パリ),『21世紀の高等教育に向けての世界宣言:展望と行動』第9条(b)

高等教育機関は広い知識と深い意欲を備えた市民を育成しなければならない.それは,批判的思考力を持ち,社会の様々な問題を分析してその解決をはかり,社会に対する責任を担うような人物でなければならない.

 

 

 

堀尾輝久『いま,教育基本法を読む』(岩波書店 2002より

私は,学問の自由と教育の自由を共通に支える基盤が,国民一人ひとりの探求の自由であり,精神の自由であり,知る権利であって,その中に,教育の自由も学問の自由も位置づけられると考えています.

「学問の自由」自体も,それが国民の人権規定の一つであり,大学人の特権的自由ではないことは,憲法上の構成を見れば明らかなことです.「学問の自由」は国民の真理・真実を学び知る権利と一体のものであり,「学問のすすめ」の呼びかけはすべての人間に向けられているのです.

 

 

 

家永三郎集第10巻『学問の自由・大学自治論』(岩波書店,1998年)より.

「戦前よりもかえってプレステージの低落した戦後の大学が,・・・局部的にしばしば自治を侵害されながらも,いまだ滝川事件のような正面からの直接侵害を経験することなしに今日にいたったのは,戦後の大学が,戦前と違い,明確な成文法によって戦前には与えられていなかった大幅の自治を公認されているためであると思う.その成文法とは何かといえば,それは第一に憲法二十三条の規定であり,第二には学校教育法と教育公務員特例法である.」(p.338,339)

 

「結論.」

「その第一は,日本の近代的大学が,学生または教授・学生の自主的組合から発生した西洋の大学と違い,最初から国家権力が官僚機構の一環として設立したものであり,常に国家権力の強い統制下に置かれてきたものであるという歴史的特性を無視して,大学管理制度の問題点を論ずることは,きわめて危険であるということである.現行の大学管理にさまざまな問題があろうとも,日本においては,国家権力による大学自治の侵害の危険を防止することこそ,大学管理制度の中心的主眼点であることを瞬時も忘却すべきではない.・・・多くの外国(カナダ・米国・スイス・西ドイツ等)には,中央政府に文部大臣もいない.制度上中央政府は教育問題に介入しないのである.・・・文部省が大学管理の改革の範と仰ぐアメリカでは,いまだに教育は一つの省をなさず,健康や社会福祉と同居している.・・・それ以上に問題なのは,イギリスやアメリカの場合,純粋にサービスを機能としているのに,日本の文部省は,政党による政治支配の窓口である点だ・・・.」(p.378)

 

 「第二に,・・・大学の自治を確保するためには,・・・大学内部において,学長・学部長・評議会・事務局長等の中央機関に過大な権限を与えることが,外部からの大学の自由侵害にきわめて好都合な条件を提供する場合が多いことを注意しなければならない.・・・大学の管理はどこまでも全教授の総意の反映する場所である教授会を中心に考えるべきである・・・.」(p.379,380)

 

 「第三に,戦前の大学が,慣習法上の自治権をひとたび獲得しながら,最後までそれを完全に守りぬくことのできなかったのが,成文法上に自治権を明記されていなかったことによる,という上来の歴史的考察の結論を想起するとき,戦後における大学の自治を支えている成文法,すなわち日本国憲法と教育公務員特例法の改悪を絶対に許してならないことが,容易に理解せられるであろう.」(p.381)

 

 「第四に,・・・現行制度の下において大学自治を実質的に空洞化させるにあずかって最も有力な,大学財政を通しての政府のリモート-コントロールを阻止するため,大学財政の独立のための積極的方策を研究すべきである.」(p.381)

 「・・・私は歴史家として,歴史の示すところに従って,大学自治の保障を全うするためには,最小限右のごとき条件の達成が不可欠の要請である,と結論しないではいられないのである.」(p.382)

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http://www.sanseido-publ.co.jp/publ/daigaku_jiti_rekisi.html

伊ヶ崎暁生『学問の自由と大学の自治』(三省堂,2001年)より.

はじめに

 二十一世紀初頭、改めて学問の自由と大学の自治のあり方が問われてきていることから本書はその理念、歴史と今日の大学問題についてまとめたものである。

 学問の自由とは、真理探究の自由であり、学問的知的研究活動の自由であって、学問的見解の自由、その発表・表現の自由、学問的見解を教育することの自由が含まれる。学問研究は、真理を探究しようとする人間の理知的営みであり、神話的迷信や感性的独断に対する理性的認識を意味しているが、常識を科学に高め、また常識を科学に置き換え、公認の真理への自由な懐疑と検討、また新たな事実に対する自由な追求によって進歩するものであるところから、学問外の諸権威の干渉・統制を排除する自由が要請される。憲法が思想および良心の自由、表現の自由の保障に加えて「学問の自由」(第23条)を設けているが、それは学問研究が常に新しいものを生み出そうとする営みであって、歴史の発展に寄与するところが大きかった反面、それだけに時の為政者による迫害を強く受けたことから、とくにこれを制度的に保障したものであるといえよう。

 

 大学の自治とは、大学が政治上・宗教上・行政上その他の権力または勢力の干渉を排して、大学構成員の意志に基づいて研究と教育の自由を行使することである。それは真理の探究を使命とする大学を大学たらしめ、学問の自由が機関としてとった形態であり、学問の自由を保障するための制度的慣行といえよう。大学自治の内容には、大学の学長・教授その他の研究者の選任にあたっての自主性研究や教育内容の自主性大学施設や学生の管理の自主性が含まれる。警察権力の直接介入からの自治は、学問・思想・言論などの自由を実質的に保障するうえで不可欠である。

 

 これらは第二次世界大戦終了前、学問の自由と教育の自主性が不当に拘束されていたことへの批判と反省に裏づけられているとともに、知的研究活動に対する弾圧に抗した幾多の先覚者たちの抵抗と主張が結実したものである。それとともに、戦後にあっても半世紀にわたり、その遺産を発展させるべく努力とたたかいが展開されてきた。

 

 しかし、様々な中央統制・行政権の拡大、財政誘導、法改正を通して、実質的な大学自治の空洞化が進行してきている。その顕著な現われが、政府主導の国立大学の独立行政法人化の動向である。政府は行政改革・国家公務員削減策の一環として、公共性の高い政府機関に法人格をもたせて独立させる構想を立て、その対象に全国九九の国立大学を加えた。

 

 学長任命制、中期計画の認可とその評価による法人の改廃を含む事業全体の見直しなど、大学が政府の支配下におかれ、真理の探究という学問の本質から程遠い「効率性追求」の事業体に変質し、日本の学問の衰退をもたらすおそれがあるとして大学側からの強い反発が引き起こされている。「採算のとれない哲学や文学、数学などの基礎学問は大学から消えていく」「学問の自由・大学の自治が失われる」などの危惧が表明されている。

 

 このように、学問の自由・大学自治の問題は過去のことにとどまらず、二十一世紀の今日重要性を増していることは、最近のユネスコの勧告や宣言にも表われている。「教育および教育研究への権利は、高等教育機関での学問の自由と自治の雰囲気のなかでのみ十分に享受することができる」(ユネスコ「高等教育の教育職員の地位に関する勧告」1997年) 、「社会に対する十分な責任と説明責任を負いながら、一連の権利および義務として考えられる完全な学問の自由と自治とを享受しなければならない」(ユネスコ高等教育世界会議「二十一世紀にむけての高等教育世界宣言」1998年)などがそれである。

 

 学問の自由と大学の自治を求めることと表裏をなすのが専門家集団としての社会的責任の明確化である。大学において学問研究の健全な発達をはかり、有益な応用を推進し、高等教育機関にふさわしい人材養成を進めることは社会の要請であるとともに、研究と教育の専門家としての果たすべき任務である。すなわち専門家集団としての社会的責務を自らの意思に基づいて国民の前に明らかにすることが求められる。1980年、日本学術会議が四年間の討議にもとづき、全会一致で「科学者憲章」を採択したが、それは国民的基盤に立つ大学の建設のためには欠かせないものの一つであろう。

 

 国立大学の独立行政法人化問題を含む大学改革にむけて、改めて大学の生存権ともいうべき学問の自由と大学の自治について議論がまきおこることを期待し、また国民の大学を「知る権利」とその説明責任について本書がその参考文献の役割を果すことを願っている。

2001年8月、伊ヶ崎 曉生

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http://ac-net.org/dgh/00510-hirose.html

「大学の自治と人事の自治」より.

大学の自治と人事の自治

5月9日付の自民党文教部会・文教制度調査会提言は、いよいよ大学の自治の根幹に関わる「学長選考の見直し」を打ち出してきました。定評のある憲法の教科書から関連部分を抜粋します。

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芦部信喜『憲法』岩波書店より

「憲法23条は、『学問の自由は、これを保障する』と定める。……学問の自由の保障は、個人の人権としての学問の自由のみならず、とくに大学における学問の自由を保障することを趣旨としたものであり、それを担保するための『大学の自治』の保障をも含んでいる。」(134頁)

 

「2 学問の自由の保障の意味

憲法23条は、まず第一に、国家権力が、学問研究、研究発表、学説内容などの学問的活動とその成果について、それを弾圧し、あるいは禁止することは許されないことを意味する。とくに学問研究は、ことの性質上外部からの権力・権威によって干渉されるべき問題ではなく、自由な立場での研究が要請される。時の政府の政策に適合しないからといって、戦前の天皇機関説事件の場合のように、学問研究への政府の干渉は絶対に許されてはならない。『学問研究を使命とする人や施設による研究は、真理探究のためのものであるとの推定が働く』と解すべきであろう。

 

第2に、憲法23条は、学問の自由の実質的裏付けとして、教育機関において学問に従事する研究者に職務上の独立を認め、その身分を保障することを意味する。すなわち、教育内容のみならず、教育行政もまた政治的干渉から保護されなければならない。」(136頁)

 

「3 大学の自治

 学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、『大学の自治』を認めることになる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究教育の自由を十分に保障するために、大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。それは、学問の自由の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる『制度的保障』の一つと言うこともできる。

 

 大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である。

 

 (1)人事の自治  学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許されない。1962年(昭和37年)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、文部大臣による国立大学の学長の選任・監督権を強化するための法制化をはかるものであったが、確立された大学自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を受け挫折した。」(137頁) 

http://ac-net.org/dgh/99121-hirose.html

「大学の自治・学問の自由」と「アカウンタビィリィティ」の問題について   富山大学教育学部 広瀬 信

http://fcs.math.sci.hokudai.ac.jp/dgh/00516-fujita.html

 

 

大学憲章

我ら大学人は我が国の大学125年の歴史を振り返り、先人の教えと、大学の歩んで来た道を吟味し、輝かしい伝統と、業績、そして、忌まわしい過ちの全てを理解し、誇るべき伝統を未来に伝え、過ちを再びくり返すことの無いよう、ここに大学憲章を制定し、我らの基準・軌範とし、これを遵守することを誓うものである。

 

大学とは、個人の尊厳を重んじ、真理と世界の平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造を目指す教育を行う高等教育機関である。

 

我が国の大学は、100年あまりの短い歴史のうちにも、高度な教育を国民に提供し、国の各方面の指導者を要請する傍ら、優れた研究成果をもって、学問研究のレベルを世界の水準までに高めることに多大な貢献をして来た。東洋の一小国から、今日、世界第二の大国と言われるまでに我が国が成長したのも大学教育に負う所が多い。

 

 一方、大学と行政との関係においては、明治初期に我が国に学校教育の制度が導入された時、西欧の大学の長い歴史の教訓として培われて来た学問の自由、学の独立、大学の自治の概念も紹介されたが、我が国では、この概念は政権に支持されるには至らず、政権によって教育が支配され、国家主義教育が大学をはじめ初等中等教育をも支配し、我が国を戦争へと導く精神的背景の形成手段として使用されてしまった苦い経験がある。戦後、これへの反省から、憲法で学問の自由が保証され、教育基本法にも学の独立の精神が唱われている。これらの精神に基づけば、大学における教育研究は、大学の良心に基づき国民に対し直接に責任を負うものであり、普遍的真理の探究と教育と言うその使命から、その時々の政権に支配されるてしかるべき性質の物では無いといえる。これらはしかし、国の定めた法であり、大学人が自らの学問教育の基本理念を宣言したものでは無い。

 

 そこで我らは、大学の崇高な目的を達成するために、そして、再び過ちをくり返さないために、大学に不可欠な以下の諸条項をここに記す。これらは、大学の設置形態のいかんに関わらず大学に保証されなければならない権利と大学が守らなければならない義務として、大学人および国民が銘記すべきものである。

 

「教育研究の目的」

第1条 大学における教育研究は世界の平和と人類および地球上の生命の福祉に資するもので無くてはならない。

 

「教育と研究」

第2条    大学は人類が蓄積して来た英知に加え、その時代の最新の知識を教授し、考える力を育成し、文化の創造と発展に寄与する場で

ある。この目的遂行のためには、大学が先端的研究の場であり、教員はその研究の遂行者でもあることが必要である。

 

「大学の社会的貢献」

第3条 大学と大学人は、大学における研究活動を通して知り得た知識、技術等を社会に還元する義務を持つ。大学人は地域および世界に向けて、知識の普及を計らなければならない。

 

「教育の中立」

第4条 国公立大学およびその教員は、特定の政党あるいは宗教を支持し、またはこれに反対するための政治あるいは宗教教育その他、政治的、宗教的活動をしてはならない。なお、この条文は特定の政治あるいは宗教団体に関する事柄を研究対象とすることを禁ずるものでは無い。

 

「学問の自由」

第5条 大学における学問の自由、真理探究の自由の権利は、日本国憲法第23条によって、保証されなければならない。

 

「学の独立」

第6条 大学における教育は、大学の良心に基づき国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものであり、何人も(行政と言えども)これを不当な支配のもとに置くことは出来ない。教育基本法第10条に規定されている所は大学教育にも適用され、遵守されるべきものである。

 

「大学の自治」

第7条 学問の自由と学の独立を担保するためには、大学の自治が保証されなければならない。学長をはじめとする教員人事の自主選考権、大学の管理運営権、大学の理念、目標、計画の自主決定権は大学構成員に帰属するものとする。

 

「大学人の義務」

第8条 前三条に規定した「学問の自由」、「学の独立」、「大学の自治」の学問教育における三権は、国家と大学、あるいは、権力と学問の関係の長い歴史の教訓の中から生まれた、大学が有すべき基本的な権利であり、義務でもある。この三権がおかされようとする時、大学人は全力を斗してこれを阻止しなければならない

http://matsuda.c.u-tokyo.ac.jp/forum/message/1015.html

 

「国立大学独立行政法人化で得するものは誰か」 辻下 徹(北海道大学大学院理学研究科) tujisita@math.sci.hokudai.ac.jp
2000年06月27日より.

2000年6月14日の国立大学協会総会直後から独立行政法人化を肯定する発言が異様に増えていますね。総会合意の意図を巡って学内外で混乱が生じていることを象徴しているような印象を受けます。しかし、選挙で与党が弱体化したことにより、また、文部大臣履歴者が3名も落選したことにより、文部省の高等教育政策が世論から是認されていると強くは言えない状況になりました。今後の事態の進展は、大学側の見識と行動に大きく依存する状況であると思います。

私自身は昨年8月に国立大学独立行政法人化の内容を知って愕然とし、さらに、それを不可避とする学内の雰囲気に二度愕然とした者です。独立行政法人通則法を30分でも目を通せば誰でもこれは危ないと思うし、条件闘争程度のことで問題が解消できるような代物ではないことは1目瞭然である、と私は思っています。それ以来、このような馬鹿げた設置形態を種々の恫喝に負けて国立大学が受け入れるようなことがあってはならぬ、という一念で、99大学での「情報格差」を解消し連帯してこの危機に対処するために、個人的なサイト
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Cafe/3141/dgh/
を作り、独立行政法人化が何かを知ってもらうよう努力しております。

しかし、この掲示板での法人化の議論を見ると、未だに独立行政法人制度を理解せずに議論している方がおられるようで、三度、愕然としています。そこで、以下の小論を参考までに紹介します。
 なお、日本の国立大学制度は世界にも希有の優れた大学制度で、様々な運用上の不自由さや財政的な圧迫にもかかわらず、高品質の「学問の自由」が制度的に保障され(どのような理想的な制度にも必ず居る例外的な悪用者を除いては)、多くの教員が研究と教育に情熱を注いでいます。これは日本が世界に誇ってよいものでしょう。

英国の政治制度の専門家である小堀眞裕氏が数学セミナーの今月号2000-7 p40 に面白いことを書いています。
「最後に、今ご存知の通り、政府は国立大学を独立行政法人化しようとしていますが、実は、まことに皮肉なことですが、国から自律性をもちつつ、独立の法人ではなく、構成員も国家公務員で、長も自ら選挙して選んでいるという英国のエージェンシーとそっくりな組織は、日本では国立大学です。そういう意味では、その国立大学をクワンゴ化しよう政府は躍起になっていると居えるでしょう。こうした方向が
本当に国民のためになるのかどうか、きわめて疑問です。」(小堀眞裕「独立行政法人は英国のエージェンシーよりも、英国の特殊法人(Quango)に近い」)
http://www.asahi-net.or.jp/~YE9M-KBR/


 

国大独法化で得する者は誰か、辻下 徹
5月26日、文部省は臨時国立大学長会議を召集し国立大学の独立行政法人(以下、独法)化の詳細を詰めるための調査検討会議への参加を要請し国立大学協会は6月14日の総会で、法人化を容認したわけではないことを強調しつつ会議へ参加することを決めた。独立行政法人化のような根本的制度変更は世紀に何度もできることではない。誰にとって得か、長期的に得か、得は幻想ではないのか、そもそも損得で考えてよいか、等の吟味は省けない。

文相は5月26日の学長会議で、独法化により法人格を得て、文相の干渉から大学は解放され「運営の自由」を得るメリットを言葉を尽くして説いているが、国立大学にとってのデメリットは大きい。昨年11月の大蔵省財政制度審議会制度改革・歳出合理化特別部会の議論によれば、科学技術立国の資金は国立大学のスクラップアンドビルドから捻出されることになっている。独立行政法人化後は、国立大学は残存数が予め少なく決められたサバイバルゲームを強いられるのである。より根本的デメリットは、サバイバルゲームで生き残る大学も学問の自由の法的保障を失うことだ。学問・教育の基盤整備を目的とする運営の自由のために学問・教育自身の自由を失うのは馬鹿げた主客転倒だ


国立大学に学問の自由は今現在あるだろうか。財政難と厳しい行政指導の下、運営は窮屈だが、少数ながら自由を望む者には自由は明確に存在する。(政・財・官は、国立大学に学問の自由が存在すること自身に問題があると言っている。)
しかし、本当に、独法化で学問の自由が失われるのか。独法大学で学問の自由を保障するものは善意だけである。学長の、大学評価機構の、文部科学省の、総務省の、財務省の良識と善意だけである。

なぜ学問の自由は必要なのか。理由を二つ挙げよう。学問の自由を守るのは既得権益を守ることではない。縛られようとしている者が手足の自由を求めるのは既得権益を守ることだろうか。研究者・教育者にとっての手足の自由、それが学問の自由であり、それを保障するものが大学の自治である。学問の自由がない所では似非研究しかあり得ない。国策のために学問の自由を圧迫すると国策研究自身も委縮する。研究者には周知の現象だ。もう一点。学問の自由は大学のもつ批判能力の基盤である。社会の隠れた問題点を発見し掘り下げ解決策を追求することも学問の活動だ。これは大学の社会的存在理由の一つを形成するが、国策に反することも多いため学問の自由には絶えず圧力がかかる

「国が資金を出している以上大学が国に従うのは当然だ。」----今世紀前半に日本の大学はこの論理を受け入れ批判力を失い総力戦体制の推進装置の一つとなった。数百万の命が失われた直後の悔いの中で、同じ誤判断の波が絶えず打ち寄せることを予見した人達が、祈る思いで憲法第23条という防波堤を築いたに違いない。予見は的中し今同じ誤判断を国立大学は犯そうとしている。多くの人の犠牲の上に建てられた憲法第23条「学問の自由は、これを保障する」は、独法化に屈することを教育者・研究者にも禁じている。

独法化で得すると思う者はだれか。学内では、高額研究費を人件費に回せることに魅力を感じている人がいる。産学連携は独法大学の業績として高く評価されるので、企業は研究費だけで独法大学の人的資源を自由に利用できる。独法化で見掛け上公務員定員削減が実現し公約を達成できる政党がいる。文部省は大学の自治に阻まれ実現できなかった長年の懸案が一気に解決できるだけでなく、各大学に監事というポストができ、天下先が飛躍的に増える。

しかし、一般の国民には、地方の大学が減り学費は値上がりするだけだ。それだけでなく、社会と自然を様々な角度から日頃自由に分析し問題点を察知できる潜在的能力を持つ存在が激減してしまう。国立大学独法化は強者の短期的利益を除くと、何の得もないだけでなく長期的には底知れない損失をもたらすものであることは明白である。


国立大学制度廃止は21世紀日本の質を左右する国民的関心事である。国民的な議論どころか大学審議会の議論も経ずに政官主導で実務的に強行されようとしている国立大学制度廃止計画を白紙に戻し、新千世紀日本の健全なスタートを損なうことのないようにしてほしい。

 


この文章は「高等教育フォーラム」に投稿されたものです。

 

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/znet/kenkai030310a.html

大学の教育・研究を文科省の「許認可事項」にしてはならない― 国立大学法人法案についての見解 ―国立大学独法化阻止全国ネットワーク

http://www.geocities.jp/chikushijiro2002/UniversityIssues/obedient-universities.htm

文部省の違法行為・従順な大学(「科学・社会・人間」* 53号,957月発行に掲載.これを引用している書籍)佐賀大学 豊島耕一

http://www003.upp.so-net.ne.jp/znet/znet/docs/igasaki021227.html

国立大学法人化と教育基本法第10

伊ケ崎暁生(元富山国際大学教授・教育学)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

--------------------------科学者憲章-----------------------

総合理学研究科・佐藤真彦先生のHPで、次の箇所が名に止まり、この本を購入(20030418)した。伊ヶ崎暁生『学問の自由と大学の自治』(三省堂,2001年)より 学問の自由とは、真理探究の自由であり、学問的知的研究活動の自由であって、学問的見解の自由、その発表・表現の自由、学問的見解を教育することの自由が含まれる。・・・大学の自治とは、大学が政治上・宗教上・行政上その他の権力または勢力の干渉を排して、大学構成員の意志に基づいて研究と教育の自由を行使することである。それは真理の探究を使命とする大学を大学たらしめ、学問の自由が機関としてとった形態であり、学問の自由を保障するための制度的慣行といえよう。大学自治の内容には、大学の学長・教授その他の研究者の選任にあたっての自主性、研究や教育内容の自主性、大学施設や学生の管理の自主性が含まれる。

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 まだ一部しか呼んでいないが、考えさせられるところが多い。

 

ここでは、3章 科学者の社会的責務と科学者憲章 から、その冒頭に掲げられた、日本学術会議の声明を書き抜いて、みずからの反省材料としよう。

 

 

「大学憲章」でもふれられているが、「学問の自由と大学の自治を求めることと表裏をなすのが、専門家集団としての社会的責任の明確化である」(伊ヶ崎

 

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科学者憲章について(声明)

昭和55424

日本学術会議第79回総会

 

 日本学術会議は、わが国における科学研究の健全な発展を期するため、国の責任を定めることを趣旨とする科学研究基本法の制定を1962年と1976年の2回にわたって政府に勧告し、その実現を要望してきた。この科学研究基本法といわば表裏をなすものとして、本会議はここに科学者憲章を公にすることによりその遵守を決意し、科学者が自らの負う責務を国民の前に明かにするとともに、わが国の科学者がこの憲章の精神にのっとり、任務を遂行することを期待する。

 

科学者憲章

 科学は、合理と実証を旨として、真理を探究し、また、その成果を応用することによって、人間の生活を豊かにする。科学における真理の探究とその成果の応用は、人間の最も高度に発達した知的活動に属し、これに携わる科学者は、真実を尊重し、独断を拝し、真理に対する純粋にして厳正な精神を堅持するよう、努めなければならない。

科学の健全な発達を図り、有益な応用を推進することは、社会の要請であるとともに、科学者の果たすべき任務である。科学者は、その任務を遂行するため、次の五項目を遵守する。

 

1.     自己の研究の意義と目的を自覚し、人類の福祉と世界の平和に貢献する。

2.     学問の自由を擁護し、研究における相違を尊重する。

3.     諸科学の調和ある発展を重んじ、科学の精神と知識の普及を図る。

4.     科学の無視と乱用を警戒し、それらの危険を排除するよう努力する。

科学の国際性を重んじ、世界の科学者との交流に努める。