プロジェクトR3学部解体縮小案に反対し、国際教養学部[1]新設しよう!

文科系博士課程を堅持しよう。博士(学術)を「研究院」文科系教員で担おう!

 

要旨:

 1.研究院(教員組織)と学府(教育・研究指導の場として学部・大学院等)の概念的組織的区別に賛成

 2.その上で、だからこそ、新学部=国際教養学部を創設しなければならない。定員100

   研究院から2530名程度を国際教養学部担当者として出すものとする。

 3.文科系大学院博士課程廃止[2]は犯罪的行為であり、本学の文科系の歴史に泥を塗るものである。文科系博士課程の存続発展の構想を堅持すべきである。大学院博士課程進学・入学希望者がいた場合にそれに柔軟に対応できる博士(学術)の課程を堅持すべきである。

 

 

 

------研究室日誌における批判と趣旨説明--------

 

2003821日 19日の日誌で、今回の「新たな大学像」に批判的コメントを加え、取るべきところは、研究組織(研究院)と教育組織(学府)を分けることであるとした。そして、商・国際文化・理の3学部を一つの総合科学部に合併してしまうことは、ディシプリンにもとづく学部そのものの存立根拠を失う、大学破壊・大学解体路線として反対した。

 

三つ以上の学部・大学院を「総合科学の府」、「諸科学の総合の府」と位置付け、総合科学府という名称を与えることは可能だが、伝統となっている学部名を抹消してしまうことは何ら積極的な意味も発展をも意味しない。総合経営科学部、国際文化学部、国際教養学部というように文科系3学部に再編して学部をむしろ増やすべきである。

 

大学の研究教育を担う主体=大学教員集団が所属する組織としての「研究院」、一人一人の専門、一人一人が教育・研究指導を担当する学部や大学院と違った組織としての「研究院」という発想・構想は、21世紀の新時代・諸科学諸地域の融合と総合の時代において個々人の研究者を直接統合する組織形態として有益で先進的だろう。

 

だが、時代の最先端を走り、諸科学の統合的発展を主体的に担う研究者の問題状況と意識状況とそれにもとづく組織形態を高校を出たばかりの学生諸君に押しつけるのは無理である。全国どこにもないような(オンリーワンといっても社会的通用性と先端性のない、また内容の不明確な)学府を大学生や社会に押しつけるのは傲慢である。

そもそも学府の理念が明確になっていない。きちんと議論されていない。3学部統合という結論を先にひねり出した性格が強い。新次元の内容が盛りこまれていない。そのような発展的内容を盛り込むためには議論が必要だが、まったく秘密主義に徹して、議論は行われていない。

 

そもそも、学部の下部単位として学府があるという構成は、社会的通念からすれば、学部の下部単位としての学科をただ名称だけ「学府」とつけかえて、あたかも学科よりは上にあるかのように見せかけ、その実、いくつもの「学府」を大枠としては「総合科学部」という大枠でくくることによって、全国的伝統的な「学科」に相当するものですよ、といっていることになる。このような欺瞞的な体系は、決して社会から認知されないでむしろ軽蔑されるであろう。積極的理念の提示が必要である。

 

研究院(研究教育者=主体の組織)と学府[3](その能力発言の場=活動の場=学生・院生・社会人などへの教育・研究指導の場)とを概念的に区別すること、その学府の下部単位として、学部を置くこと、これが本道である。

学府の内部・下部構成として、総合経営学部(これも総合をつけただけで古いもので、総合経営科学部というように新次元の内容を盛り込めるようにすべきだろう、従来の経営学部とは一味も二味も違うものにしなければならないだろう)、国際文化学部、理工学部、医学部、そして国際教養学部を設定すべきである。21世紀初頭の大改革で、学部はむしろ増やすのである。それが可能なのは、教員組織を「研究院」に統合し、教員相互間の狭い学部の壁を取り払うからである。

 

国際教養学部は、グローバル化の時代を生き抜き、国際的諸機関・組織(国連や国連関係機関、世界各地で活躍する国際的NGO組織、その他)で働くことを目指す人々の学部とすればいい。したがって、諸学問を学ぶことも大切だが、英語のほかにフランス語やドイツ語、中国語、など語学にとりわけ力を注ぐ学部とすればいいのではないか。商学部から100名程度の定員を振り向ければいいだろう。一例だが、総合経営学部250名、国際文化学部175名、理工学部175名、国際教養学部100名、と言った定員数なら、わかりやすいのではないか。

 

その国際教養学部を主として担当するスタッフは、研究院のなかから(商学部・国際文化・理学部・経済研究所に所属していた人々を中心に)選抜して2530名程度で構成すればいいのではないか。これに対応するのは、商学部で年来出てきた第3学科(グローバル地域学科)構想の要員、それに国際文化学部でも都市地域学科など新たに構想されている要員、そして、経済研究所のスタッフ5名で構成出きるのではないか。

 

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2003819(3) 昨日「第3回プロジェクトR委員会次第」およびその審議事項(「プロジェクトR資料」)を入手した。

@     やはり、3学部解体・縮小という「あり方懇」とそれをお膳立てした官僚が主導する経済主義的「改革」案に教学側が屈服した内容となっている。医学部と国際総合科学部という2学部への縮小案である。

A     仮にこの構想に取り入れるべき点があるとすれば、研究組織(研究院)と教育組織(学府)を分けることである。しかし、3学部を一つにしてしまうことは、ディシプリンにもとづく学部そのものの存立根拠を失う。三つ以上の学部・大学院を「総合科学の府」、「諸科学の総合の府」と位置付け、総合科学府という名称を与えることは可能だが、伝統となっている学部名を抹消してしまうことは何ら積極的な意味も発展をも意味しない。総合経営科学部、国際文化学部、国際教養学部というように文科系3学部に再編して学部をむしろ増やすべきである。そうした発想のない今回のプラン、せっかくの歴史的発展を後退させてしまう構想では、市大のランクは一段階、いや数段階落ちるだろう。

 

B     驚くべきことに文科系においては博士課程を全廃している。これまた大学の格を何段も引き下げる時代逆行的なことを提案するものであり、幾多の先人の苦労を嘲笑し水泡に帰させるものである[4]。「発展する国際都市・横浜とともに歩み、教育を重点に置き・・・・」という「明確な目標」とは、結局、文科系の博士課程を廃止するという政策を意味するのである。

 

これまで、経済、経営、国際文化にも博士課程(最近の用語で正確には博士後期課程)はあった。それを発展させるというのではなく、廃止するという堕落ぶりである[5]。この安易さ(やすきにながれる精神)を何というべきか? 博士課程を維持しようとする真剣な努力を回避し、文科系のなかの低い水準に合わせるというこの怠惰な精神朝令暮改の精神!

大学基準協会の市大評価「4学部への分離や大学院の設置・拡充は時代の要請に応えたもので、評価できる。しかし、4学部間の連関が不十分である。大学院の実態を充実すべきである。」とあったことなどは、学内の一部の人間と新しく落下傘でやって来た事務局責任者などの眼中になく、学内学外から情報が発信されていても探知しようとせず勉強もしないということだろう。このような怒りが出てこないとすれば、いったい博士課程を創設維持してきた苦労はどうしたのか、といいたい。

経済学研究科に博士課程が出来たのはわずかに7年ほど前であり、国際文化の博士課程もそうである。そうした博士課程は、長期経済不況のどん底で院生も増やすことが出来なかったとしても、それでもって、その短期的動向で長年の努力の結果やっと創設された博士課程をつぶしてしまうというこの安易な発想は、許されないだろう[6]。その当然の発想が小人数で事務官僚に引きずりまわされた委員会(幹事会)からは出てこないのである。

 

研究者養成をあきらめたということであるが、同時に、高度教養人を多数抱える横浜市・神奈川県の公立大学として、定年退職後の市民・県民の学術研究への専心(その成果のまとめとしての博士の学位取得)の可能性をとざすということである。ある市民は、「定年後、余生をかけて、道祖神の研究をまとめ博士の学位を取りたい」と希望し、またある市民は「本当は考古学に興味を持っていた。定年退職後は、この本当にやりたかったことを大学でやりたい」といっている。有名なシュリーマンのような初心を抱きつづけている市民は多いであろう。

そのようなニーズを掘り起こすことこそ、公立大学はやるべきだろう。このような高度教養人の高齢化社会の、市民社会の中核となるべき横浜市の公立大学において、文科系の博士課程を廃止するなどという無教養の構想が出てくるというのは、愕然とするほかない。それが「プラクティカルなリベラルアーツ」を標榜する人々の行うことである。リベラルアーツを本質的に大切にするのではなく、飾りにしているに過ぎないことがよくわかる。このような構想を出す人々が、いかに教養を語るにふさわしくないかが歴然とする[7]。少なくとも私はそう考える。

 

博士課程を維持するためにこそ、教員には高い研究・最先端の研究が求められる。大学院博士課程を創設する際に、○合教授が一定必要数、設置基準で求められることは、何を意味するのか? その審査が厳しいというのは何を意味するのか?

○合教授の意味と意義を知ろうとしないし、その必要条件について触れられたくないものだけが、このような案を通すのである。もし修士課程だけでいいとしたら、博士課程担当者に求められる最先端の高度の(したがって必ずしもプラクティカルではない、いやむしろ本質的にはプラクティカルではない)研究者を擁する必要がなくなる。

仮に、博士課程に院生が少なくても、したがって単純・粗雑な経済効率主義からすれば博士課程を維持すること自体は非効率的であっても、博士課程を維持しているということから要請される研究水準の高さ・先端性の象徴(その一定の証明)となること、それだけに大学人に厳しい自己研鑽とその成果の公開(学生・院生、市民・日本・世界への貢献)が求められるということ、こうした本質的に重要なことがわかっていないのである。

文科系で現在博士課程を担当している有資格者を結集して博士(学術)Phdをきちんと維持しておかなくては、それこそ国際教養時代の公立大学としては、志の低い、格の低い、大学になってしまうであろう。国際教養大学どころか、博士課程廃止などということ自体、無教養大学を意味するだろう。

 

大学における研究の意味と意義、博士課程を持つことの意味と意義など知ろうとも考えようともしない一部大学人と傲慢横柄な事務局責任者のひねり出した案であろうし、それに抗し得なかったプラン策定委員会の軟弱ぶりに対して、怒りを禁じえない。このような案がサイレント・マジョリティなどと称して、まかり通ることには黙っていることは出来ない。それは横浜市大の歴史に泥を塗るものである。

 

C     そのようなプラン策定委員会の屈服ぶりからして、独立行政法人化の場合、国立大学法人法や公立大学法人法の本則ではなく例外規定にすがりつき、学長と理事長を分離する.教学と経営を分離するという屈辱的案を飲みこみ、飲みこまされた案となっている。しかも、単なる分離ではない。眼目は経営が教学の上にくることである。理事長の下に学長が置かれ、副理事長になるという案になっている。はじめに結論ありきである。「教員は商品だ、商品は経営に口を出すな[8]」という大学教員を侮辱した声が、表面に掲げられた美名の裏面で鳴り響いているとみなければならない。学長を組織上も理事長の下においてしまえば、事務局が堂々と「経営に口など入れさせないで」牛耳れる、と思っているであろう。これまで、何十年もの現行学則のもとで、職務分掌上、学長の指揮下にあった事務局長や総務部長が学長をないがしろにし、評議会を無力化することをやってきたとすれば、そのシステムを公然と大学のシステムとして制度化するということである[9]

 

これは、大学の独立ではない。大学の独立性・自律性が高まるのではなく、市長任命の事務局サイド=理事長権限の拡大である。学問の自由の制度的保障としての大学の自治は削減される。大学であって大学でないことになろう。事務局独裁、経営独裁は、この体制では強化され、大学の生き生きとした発展は望めないだろう。経営と研究教育を分離出きるなどという発想こそが、大学の本当の発展を考えたことのない人々が考えることだろう。

憲法学のスタンダードワーク・芦部信喜著・高橋和之補訂『憲法(3)』岩波書店、20029月刊、p.158159によれば、

 

「3 大学の自治

 学問研究の自主性の要請は、とくに大学について、「大学の自治」を認めることになる。大学の自治の観念は、ヨーロッパ中世以来の伝統に由来し、大学における研究教育の自由を十分に保障するために大学の内部行政に関しては大学の自主的な決定に任せ、大学内の問題に外部勢力が干渉することを排除しようとするものである。それは、学問の自由の保障の中に当然のコロラリーとして含まれており、いわゆる「制度的保障」の一つということも出来る(第五章三3参照[10])。

大学の自治の内容としてとくに重要なものは、学長・教授その他の研究者の人事の自治と、施設・学生の管理の自治の二つである。ほかに、近時、予算管理の自治(財政自治権)をも自治の内容として重視する説が有力である

 

市長の任命する理事長のもとに経営権(予算管理の自治権)を握られ、学長が服属する構造(この間すでに、どれだけ本庁関内とのパイプ=予算獲得・配分の手段を通じて大学が屈辱的な状態におかれてきたことか)は、憲法が保障する人権(学問の自由)、その制度的保障としての大学の自治の破壊につながる。そのような重大問題を抱えた「独立行政法人化」(公立大学法人化)の法律の例外規定をプラン策定委員会が認め進言するなどというのは、大学人としてはきちがい沙汰ではないかと感じる。「あり方懇」答申と事務局主導の発想に引きずられ屈服したとしか考えられない。大学人の側に大学の自治の見地からの毅然とした態度や主体性がないことに、悲しさを感じる。

 

芦部『憲法』は、つづけて次の様に述べる(p.159)

 

()人事の自治 学長・教授その他の研究者の人事は、大学の自主的判断に基づいてなされなければならない。政府ないし文部省による大学の人事への干渉は許されない。1962(昭和37)に大きく政治問題化した大学管理制度の改革は、文部大臣による国立大学の学長の専任・監督権を強化するための法制化をはかるものであったが、確立された大学の自治の慣行を否定するものとして、大学側の強い批判を受け、挫折した。」

 

 



[1] 今までの学部に加えて、学部増設なら、発展的である。

 

[2] 理科系も、博士課程をむしろ充実するのが、公立大学としての使命ではないか?

[3] 『広辞苑』によれば、

ふ【府】

#くら。特に、宮廷の文書・財貨を納める所。「府庫・秘府」

#役人が事務を執る所。役所。「国府・政府・幕府

#事物や人の多く集まる所。みやこ。転じて、物事の中心。「学術の―」「首府」

#江戸時代、幕府のあった江戸の地。「在府・御府内」

#行政区画の一。

#中国で唐から清まで設けられ、一般に県の上に位したもの。

#普通地方公共団体の一。現在は京都・大阪の2府。「府下・府民」

→都道府県。

#国の行政機関の一。実質上は省と同じ。総理府の類。[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

 

また、学府は、広辞苑によれば、

がく‐ふ【学府】

学問の中心となる所。学校。「最高―」[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

となっている。

 

学府は学問の中心となるところの意味であり、学校といってもいいものである。だから、小学校、中学校、高等学校も学府であり、大学が「最高学府」ということになる。

 そのような概念からすれば、学府を「学部」の下部単位(学科かそれを変形したもの)とするのは疑問である。

 

 教員組織を学部と切り離し、「研究院」とすること自体大変革である。教員組織を専門分野を越えてひとつに統合したことの実質的効果をあげる事がもっとも大切なことであり、そこにおいてこそ実は教員個々人の教養が、総合的知性が試される。研究院という場を設定して、21世紀のグローバル化、諸科学・諸ディシプリンの有機的発展的統合を図る努力は、研究院こそが行うべきで、その成果を学府において還元していくべきである。

 

 

[4] 「プロジェクトR」に反映した「あり方懇」答申などをお膳立てした事務局責任者の粗雑な理解(『部外秘資料21 大学運営(組織・意志決定)の一つの発言記録)によれば、「教員に自分の学部をどういう方向にもっていきたいというパッションがない」と。

だが、文理学部を国際文化学部と理学部に分け、専門学部に発展させたのは、強靭なパッションがなくてはできなかったのではないか?つづけて、大学院に博士課程まで創設したのは、強烈な行動力と使命感があっての、たくさんの大学人の辛苦があってのことではないのか?

 なにも歴史を知らない人間が、財政危機の時期に落下傘で降りてきて、いいたい放題のことをいっている。多かれ少なかれ、このような人物が2―3年ごとに、事務局責任者としてやってくるとすれば、大学人のパッションは生き生きとしてくるか? それとも真剣に努力することがばかばかしくなるか?

 

また、『部外秘資料2の「(2)教育目標、教員人事など、大学としての基本的方針が不明確である」として、次のようにも言っている。

「○どういう教育していくかという理念がはっきりしていない。
○教員募集の際に本学の理念を明確に示すべきだ。理念を共有したメンバーで大学を構成し
 ていくことが必要。」

 

学則第1条が掲げる理念がある。学則 第1章 目的 1 横浜市立大学は、国際港都横浜市における学術の中心として、真理の探究につとめ学生に高い教養と専門の学術を教授し、知的、道徳的及び応用的能力に富む人材を育成するとともに、世界の平和と人類の福祉に貢献し、あわせて市民の実際生活並びに文化の向上発展に寄与することを目的とする。」

 これが本学の理念である。この崇高な目的のどこが不明確か?

そんなことを勉強もしていない。学則無視・評議会無視の粗暴な行動を取る事務局責任者だから、学則などは丹念に検討していないのであろう。

 

 

[5] これに対応する事務局の発想は、『部外秘資料2によれば、

「○大学院の特勤は億単位だ。院生を持たない教員になぜ支払わなければならないのか。実 
 質的な公平性が必要だ」というものである。

 

 院生を持たない教員と院生を持つ教員をきちんと分析したのか?

 どのような教員がどのような院生を集めているのか、検討したのか?

 そもそも、例えば経済学や経営学の大学院の修士課程の定員が10名であるとき、それぞれ二五名の教員がいるとすれば、院生を持たないときがあっても不思議ではない。カリキュラム体系からして必要な陣営を構築しておかなければならない。院生をもたないときでも、研究を行い、大学院入試の問題作成はじめ各種委員をこなさなければならない。基礎的な負担は当然である。大雑把にコストだけを強調して、教学の必要性を考えてみようとしない経営主義・経済主義。

 なにも考えないで問題点と見えるものだけを投げつければ、このようになる。これが、「プラクティカルなリベラルアーツ」を推進する発想か?

 

 

[6] 実際には、博士課程を創設するに際して、ほとんど金をかけていない。そのように金ももかけず人員も増やすこともなかったため、経済主義の人々にとっては、つぶしてもなにも損したようには考えられないのだろう。大学に博士課程があるかないかでランクが違うのだということ、その意味は計算できないのだろう。

 このような短期間でくるくる変わる態度、創設したと思ったら廃止するという態度は、大学人として(大学経営を行う横浜市として)、歴史に残る汚点となろう。

 

[7] 国公立のように、「授業料の等しい大学が二つある場合、人は自分の能力開発により適しており、自分の社会的関心をより満足させてくれそうなほうを選ぶ」という経済法則・選択の法則(ロバート・A・マンデル著竹村健一訳『マンデルの経済学入門(Man and Economics)』ダイヤモンド社、2000年、p.29)からすれば、文科系の博士課程を廃止する経済主義的で縮小的なプロジェクトRで作りかえられる市立大学は、選ばれないだろう。

 

[8] 事務局責任者の本音を露骨に示した『部外秘資料2によれば、

(4)教員と職員の役割分担が不明確である

    教員は教学に関することをするのが本筋。大学の運営にタッチするなら、責任も持つべきで
 ある。(引用者注:事務局の責任社の発言であることは明確)
○教員はこの大学で何がしたいのか。専門職として生きていくならば、極端にいえば予算にな
 ど興味を持たなくていい
。予算に興味をもつなら、責任を持ってもらいたい。例えば、金が足
 りなければスクラップを出すことだって必要となる。(引用者注:事務局の責任者の発言であることは明確)
○運営については、分離したほうがいい。教員は商品だ。商品が運営に口だして、商品の一 
 部を運営のために時間を割くことは果たして教員のため、大学のためになるのか
。(引用者注:事務局の責任者の発言であることは明確、「大学のため」を称しながら、事務局責任者の経営権を確保、カリキュラム・人事と予算が表裏一体であることの無視、カリキュラム・人事を経営が牛耳ることの正当化)
○全てに優れた人はいない。教員が全く運営にタッチしないのではなく、今は無理でも、ある年
 齢まで経験したらその人は以後運営のみに携わるとか、そのようなことも将来的には採用し
 てもいいのではないか。(引用者注:大学教学サイドの弱弱しい発言)」

 

独立行政法人化、大学が法人格を獲得し、行政からの独立性・自律性を確保する、という本来の趣旨からすれば(それが現在の法のもとで、大学の自治、学問の自由、学問と大学の社会的貢献、科学技術の発展のために本当に有意義な制度になっているかが問題であり、国立大学法人法も公立大学法人法についても、まさにその憲法的に重要なことが危険に曝されないようにと、付帯決議をつけているくらいである、付帯決議の多さから見ても欠陥法案であることは歴然としている、安易に独立行政法人の美名に騙され、思考停止してはいけない)、大学人が教学と経営に綜合的統合的に責任を持つのは当然である。大学の法人格の統合性を保障するためには学長が理事長を兼務する必要がある。経営優位ではなく、真理探求・科学技術文化の研究教育・その担い手が優位に立たなくてはならない。それが最高学府としての大学というものの本質にもとづく機能分担のあり方であるべきだ。

 プロジェクトRの資料は、学則を何十年にもわたって無視してきた体制を正当化しようとするものである。しかも、理事長優位を制度化し、学長を下位においている。経営優位、経済主義といわなければならない。「教員は商品だ、理事長の下において、一応は副理事長という名目を与えておけば、学長など牛耳るのはたやすい」という本音がオブラートで包まれている。

 カリキュラムの一つ一つ、一人の非常勤講師をとっても、予算の裏づけなくしては機能しない。「予算になど興味を持たなくていい」などという傲慢無礼で無知なことを大学の重要会議で豪語する人間を、大学に送りこむことを今後も可能にするシステムが、「理事長の元に服属させる副理事長・学長」という構図であろう。

 

[9] なぜ、教員サイドがこのように侮辱されるのか?

教員サイドに事務局責任者の任命権、選任権がないからである。学長が理事長を兼ねないかぎり、任命権はないだろう。

現在の学則で学長が職務分掌上、上位に位置することが明確に規定されていても、任命権、降格権、勤務評定権がないから、関内の方だけをみていればよく、学長が何を言おうが何も痛くも痒くもなく、傲慢な事務局責任者は言いたい放題をいうのである。傲慢な事務局責任者を学長が首にすることが出きれば(すなわち理事長をかねるならば)、あのような言いたい放題は不可能だろう。もっと礼節をわきまえ、慎重にきちんと研鑽をつんだことを言うであろう。

 

[10] 第五章三3(芦部『憲法(3)』、p.84-85)・・・人権宣言は、個人の権利・自由を直接保障する規定だけでなく、権利・自由の保障と密接に結び合って一定の「制度」を保障すると解される規定を含んでいる。このような個人的権利、とくに自由権と異なる一定の制度に対して、立法によってもその核心ないし本質的内容を侵害することが出来ない特別の保護を与え、当該制度それ自体を客観的に保障していると解される場合、それを一般に制度的保障という。ワイマール憲法下の学説に由来する。

 しかし、いわゆる制度的保障の理論は、人権との関連では、制度の核心―ワイマール憲法のように「法律の留保」をともなう基本権の本質的内容―を立法権の侵害から守る事を目的とするものであるから、伝統的な「法律の留保」(第二章1()参照)の思想を否定している日本国憲法のもとでは、その働く範囲も法的意義も、著しく限定されたものとして解すべきである。ある種の人権(信教の自由、学問の自由、財産権など)について制度(政教分離、大学の自治、私有財産権など)の保障が語られるとしても、その内容は人権の保障に奉仕するためのものでなければならない。

 ところが、伝統的な制度的保障の理論は、制度が人権と併存の関係を保ち、人権保障U奉仕する機能を果たすことをつねに確保するとは限らず、むしろ、制度が人権に優越し、人権の保障を弱める機能を営む可能性すらある理論である。したがって、伝統的な制度的保証の理論を日本国憲法の人権について用いるとしても、@立法によっても奪うことの出来ない「制度の核心」の内容が明確であり、A制度と人権との関係が密接であるもの、に限定するのが妥当である。その例として、大学の自治と私有財産制度が考えられる。」