横浜市立大学の改革に関する意見書

 

柳澤 悠 (横浜市市民、東京大学教授、元横浜市立大学助教授)

2003825

 

 私は、かつて横浜市市立大学に奉職し、貴大学の自由で活発な研究教育の環境の中で、研究者としても教育者としても、育てていただいた、という深い感謝の念をもっております。第二の母校のように思っています。今回の貴大学の「改革」問題について、横浜市民として、また、現在、他大学で研究教育に携わっているものとして、さらに「第二の母校」の問題として、他人事でない、心痛の気持ちをもって推移を見守ってきました。

 そのため、市内の大学人や元市大教員などによる『「横浜市立大学のあり方懇談会」答申に関する訴え』に加わって、貴方の改革に際して慎重な配慮をお願いいたしました。このたび、「大学改革案の大枠の整理について(821日つけ)」を拝見しました。多くの点で、大学人の「訴え」の内容が十分に顧慮されていないことに、残念だという気持ちを抑え切れません。

 それで、いささか遅くなってしまいましたが(国際会議発表の準備で忙しい1ヶ月をすごしていました)、私の個人的な見解として、以下の提案と、提案にかかわるいくつかの論点についての意見を申しのべ、貴委員会のご考慮をいただきたく、お願い申し上げます。

 

 

[1] 提案

横浜市立大学 「地域研究交流学環」(仮称)の構想 案

 

 横浜市立大学の商学部・国際文化学部・理学部・医学とそれぞれに対応する研究科を全体としてつなげる、新たな大学院研究科(学環)を設置し、新たな部局(教授会)を作る。修士課程(専修課程)を中心とする。地域の問題を学術的な観点から文理融合によって研究・教育するとともに、地域の問題にかかわる市民の実践的な経験(ボランティーアやNPOなどを含む)を学術研究に取り込み、両者の融合的な発展をはかる。

 

■専攻: 

「地域産業研究専攻・都市法専攻」

「日本アジア関係専攻・異文化交流専攻」

「地域環境研究専攻」

「地域医療専攻」

「基礎文化・科学専攻」

 不登校問題など地域の教育問題なども扱えるよう、構想する。

 

■教育対象:学部終了の一般学生および社会人

■課程:専修課程は、最短1年で修士号取得が可能とする。

 

■組織の原則

 1.教授会を作る。

 2.10年時限。可変的な構造。

 3.教員は、経済研究所の人員ほか数人は現学部から供出して学環を主務として学部教育を兼坦するが、他はほとんどが学部からの兼坦とする。数人の純増をえて、純増分の一部は任期制にする(弁護士など現場の経験をもった方を呼びやすいように)。

 4.任期制は、新規増設の教員定員の一部に限り、人事決定の方法については現在の原則を堅持する。

■キーワード

 (1)市大の既存学部・研究科の成果の維持発展。

 (2)学部間のリンク、文理融合。

 (3)地域の問題の全国的学術的観点からの研究・教育。

 (4)市民の経験と学問との結合。

 

 

[2]提案の背景となる論点

(1)「大学基準協会による市大評価」の意見の尊重を

 市大が受けた本格的な外部評価は、大学基準協会によるものである。この評価報告書は、(a) 4学部への分離や大学院の設置・拡充は時代の要請に応えた改革として、評価できる。(b)また、教育研究では地域との連携に関して、十分な考慮がされている。しかし、() 4学部間の連関が不十分である。()大学院の実態を充実し、(e)高レベルの大学として発展すべきである、という点が骨子となっている。

 大学基準協会は「大学評価・学位授与機構」が創設されるまでは、日本で唯一の大学評価の機関であり、市大に関するこの結論は、大多数の人が同意できる極めて妥当な結論のように思える。市大は、勧告をそのまま実現する必要はないが、改革に当たっては、この結論には最大限の考慮を払う必要があろう。

 この評価を尊重する限り、現在の四学部と大学の体制を維持することによって、今日までの市大の成果を継承し、かつ、4学部・研究科間の連携を実現するために、上記の「学環」がもっとも適切な組織形態であろう。

 なお、現在の日本の大学改革に関しての最大の焦点は、賛否の意見はあれ、「大学への外部評価」の問題である。その点で、「あり方懇談会」の答申が、上記の大学基準協会による外部評価について一顧だにせず、基準協会評価が指し示す方向に基本的に逆行する答申(学部合併、教養大学化)を行なっていることは、同懇談会が現時点の大学改革の基本問題を知らずに議論を進めてきたように思われる。

 

(2)教員人事について

(2)-1. 現行の教授会による教員人事選考の方式を堅持すること。

 東京大学名誉教授の柴垣和夫氏は、ある大学の人事問題の訴訟に関連して次のように述べてる。「大学における教員の人事権が、実質的に教学に責任をもつ教授会にあることは、大学自治の根幹として、日本の権威あるまともな大学が維持している原則であり、国際的にも広く認められた原則です。もちろん、そのことが実現していない大学が存在することは小生も承知しており、したがってその欠如をもって違法とまではいえないでしょうが、そういう大学は決して敬意をもって評価されていないことも確かです。」

 この柴垣氏の意見は、ほとんどの大学人が共有している見解であり、「東京大学憲章」も「教員人事は基本組織の議を経てこれを行なう」と記して、教授会による教員人事決定を自明のこととしている。小生の知人も、教授会に人事権がない大学に就職したら、必死で別の大学の職を探して移動してしまった。市大がかかる大学にならないよう、心から望む。なお、アメリカの事情について、大学教育の質的低下を克服するための方策に関する、次の高等教育担当の高官の発言は示唆的である。

「9 質的低下の克服      学術的な事柄は教授団メンバーが決定しなければならないことを政府の行政官は理解する必要がある。教授団メンバーは、教授団の任用や昇進、入学許可や学業水準、学生の試験や評価、カリキュラムの開発やその内容、及び、学内での表現や思想の自由などに対する主要な統制権を保持しなくてはならない。」ケネス・H・アシュワース(高木英明・井口千鶴・秦由美子訳)『アメリカの高等教育―質的低下克服への道』教育開発研究所、平成9年、114-5頁)。

 

(2)-2.教員任期制の全面的な採用は、教員水準の決定的な劣化に帰結する。

 大学が真理追究の場として実現されるためには大学の自治と学問の自由が保障されなくてはならないが、教員の長期雇用の保証はそのための不可欠の条件である。

 アメリカの American Association of University Professors “1940 Statement of Principles of Academic Freedom and Tenure” の中で、アカデミック・フリーダムの重要性をうたい、テニュア(永久在職権)がアカデミック・フリーダムを実現する方法であるという。「テニュア(永久就職権)は、次の目的のための手段である。(1)教育と研究の自由と校外活動の自由、(2)有能な男女をひきつけうるに十分な経済的な保証をおこなうこと」。そのために、トータルの任期制雇用期間の最大限を規定している。実際に、アメリカの大学では、Ph.Dを取得したものは、1-2年程度のポスドクのポストを経た後に、数年間のテニュア・トラックの職を得て、その期間の終了時に審査を受けて通ればテニュアつきになる。分野によって異なるが7−8割は審査をパスしてテニュアを獲得するようであるが、失敗すると任期制期間の最大限規制から大学関係の職場を去ることになる。

 実態的にも、アメリカの研究大学では、テニュアもちが教員の過半を占めて、審査をパスすればテニュアが取れるテニュア・トラックを含めれば8割を占めて、全くのノンテニュアトラックは、80年代で10%以下、現在は増えていてもせいぜい20%程度である(橋本鉱一「アメリカにおける大学教員」『学位研究』15号)。およそ、「大半がノンテニュアトラック教員」という「あり方懇談会」答申が主張する方向とは、アメリカの実態はまるで違うことを示している。

 アカデミック・フリーダムの観点からテニュアを与えるからだけでない。上記のStatementもいうように、優秀な人材を確保するためにもテニュアを与えねばならないからである。優秀な教員はできるだけ早くテニュアが取れるテニュアトラックの職を得ようとする。ノンテニュアトラック(いつまでも任期制)で残るのは、テニュアの取れる力のない研究・教育者だけになる。日本で「ほとんどの任期制」を行なう場合も同様であろう。例外は、「任期制」と称しても、実質は任期終了時に確実に再雇用することを事実上全員が了解しているか、あるいは医師や弁護士、薬剤師など、大学の職を辞めても生計の維持が可能で、かつ大学における職の経験が短期間であれその後のキャリヤにプラスに働きうる場合であろう。そうでなければ、永久任期制で残る人材は、テニュア取得が困難なような種類の人材だけであろう。

 その点で、日本のある四年制の私立大学の例は示唆的である。この大学は、リベラル・アーツの学部一つの大学で、教員はほとんど全員が任期制で、「優秀な教員は任期を更新して、最終的には定年年齢まで更新を繰り返すことができる」制度である。英語による教育を重視するために大半の教員は英語圏の大学を出ている。開学後10年前後を経過したが、教員の半分以上は採用後2年以内で、5年以上の雇用者は4分の1程度に過ぎない。開学時からの雇用者は10%代に過ぎず、教員の大半が数年以内に移出していることが分かる。残った教員は、優秀だから任期が更新されたのか?開学時からの継続雇用者のうち、博士号をもっているのは3分の1のみで、あとは修士号のみである。ほとんどアメリカの大学出身者であるから、修士号のみの所持者が多く任期を更新していることの意味は推測にかたくない。この条件であれば、一般に、博士号をもつ教員は、一刻も早く他大学のテニュアトラックのポストに移動してゆこうというのは当然の行動形態であろう。この大学の昨年度の入学定員充足率は、50%にも満たない率であったことも記しておこう。

 「良貨は移出し、悪貨のみ残る」可能性が高いのは、制度設計からして当然のことで、任期制の導入のもつ深刻な危険性を、アカデミック・フリーダムの観点からだけでなく、教員労働市場の観点からも真剣な検討を加えられることを望む。

 さらに、任期延長等の人事が主任教授や「人事委員会」等の裁量にゆだねられる程度が大きい場合、これらの危険性が倍増することにも、留意が必要であろう。