チャルマーズ・ジョンソン『アメリカ帝国への報復』集英社、20006月刊(200110月第2刷)

原著、Chalmers Johnson, Blowback:  The Costs and Cosequensec of American Empire, 2000

 

 

1.                    アメリカ帝国主義への報復

p.26 爆破事件は-アフリカのアメリカ大使館やニューヨーク市の世界貿易センター[1]、サウジアラビアの米軍基地宿舎など、どの爆破事件も-その原因が明らかだ。あるものから見ればテロリストであっても、別の者から見ると当然ながら自由の闘士であり、いわれのないテロ攻撃が罪のない市民を犠牲にしたとアメリカ政府当局者が非難しても、それはアメリカがかつて帝国主義的な行動をとったことへの報復である場合が多い。テロリストが罪のない無防備なアメリカ人を標的にするのは、海上から巡航ミサイルを発射し、B-52爆撃機で超高々度を飛び、ワシントンの指示にしたがって残忍かつ抑圧的な政権を支援するアメリカ軍兵士を狙うのは無理だと思うからにほかならない。防衛学会議のメンバーが1997年にテクノロジーの獲得に関する国防次官への報告書に書いているように、「過去のデータによれば、国際情勢へのアメリカの関与とアメリカに対するテロ攻撃とのあいだには強い相互関係がある。また、軍事力が劣るためにある国民国家がアメリカを公然と攻撃できない場合に、国境を越えた活動[ある国のテロリストが他の国でテロ活動をすること]がうながされる[2]

 

アメリカがなぜイラクの大量破壊兵器を口実に国連の正当な決議なしにイラク攻撃に踏み切ったか、その強引さの原因は何か? それを示唆するものが、次の文章である。

p.27

 「今日、世界のいたるところで、いずれ報復を招く下地がつくられつつある。たとえば、1991年の湾岸戦争から1998年までのあいだに、アメリカが主体となって実施したサダム・フセインのイラクに対する封鎖は、50万人のイラク国民が病気や栄養失調や医療の不足で死亡する結果をもたらしたと見られている。クリントン大統領の国家安全保障担当補佐官であるサンディ・バーガーは、この封鎖が「世界の歴史を通じて前例のない厳しいもの」であると胸を張った。だが、1999年になってもサダム・フセイン政権を打倒できず、アメリカの対イラク政策における唯一の目的は達成されていない。その一方で、生き残ったイラク人がアメリカの政府と国民に対して怨恨を抱くのは間違いない。・・・」

 

日本も報復の可能性に直面している

p.29

「報復はアメリカだけが直面している問題ではない。ロシアとかつてのロシアの衛星諸国の現状を見ても、帝国への報復がどれほど破壊的かわかる。1996年から97年までつづいたリマの日本大使館人質事件では、革命主義者である数人のペルー人が外交官全員を人質に取ったが、これも日本への報復と考えられる。アルベルト・フジモリ大統領の反ゲリラ政策を支持する日本と、ペルーに進出する日本の多国籍企業への報復である。・・・」

 

p.30

「帝国の国民は自分の国のしたことをすぐに忘れるが、何かされたほうの人びとはずっと覚えている。・・・」日本と中国、韓国・北朝鮮の事例

 「長年にわたって報復を招く原因となる行為として、戦争中の国が行う大虐殺があげられる。日本は今日にいたるまで、第二次世界大戦中に中国でやったことへの対応に苦慮している。南京大虐殺や、征服した国の女性を徴用して前線の兵士向けの売春婦として働かせたこと、捕虜にたいして陰惨な医学実験を行ったことなどは、戦時中の日本の残虐行為の一部に過ぎないにもかかわらず、日本の反動主義者は中国と朝鮮で行われた残虐行為をいまだに直視しようとしない。・・・」

 

 

p.30-31

「ヴェトナム戦争中の1070年代前半、リチャード・ニクソン大統領とヘンリー・キッシンジャー国家安全保障担当補佐官が命じたカンボジア爆撃では、第二次世界大戦中に日本に投下されたよりも多くの爆弾がカンボジアの農村部に投下された。この爆撃で100万人の農民のうちから少なくとも4分の3が殺され、ポル・ポトの率いるクメール・ルージュによる殺戮が正当化される結果となった。ポル・ポトが復讐と粛清を行ったため、主として都市部でさらに150万人のカンボジア人が殺された。

アメリカ人の一般的な考え方によれば、ポル・ポトはまれに見る生来の極悪人であり、ポル・ポト派による殺戮は文明社会では到底理解できない野蛮な行為とされている。しかし、ヴェトナム戦争中のアメリカ政府による残虐な所行がなければ、ポル・ポトはカンボジアの文化の中では決して政権に就けなかっただろう-毛沢東に率いられ急進化した無学な農民たちが、抗日戦争という破壊的な出来事がなければおそらく中国で合法的な地位を得られなかったのと同じように。

生き残ったクメール・ルージュの指導者を戦犯容疑で国際法廷にかけることをアメリカは呼びかけたが、ここで重要なのは、1975年から1979年までの犯罪に限定して裁くことを要求した点である。絨緞爆撃の終了後から、アメリカ政府がクメール・ルージュと協力してヴェトナム共産党-1978年にカンボジアに侵攻してクメール・ルージュを政権から追放し、カンボジアに安定をもたらそうとしていた-に対抗し始める前までの期間に限定することを、アメリカは求めたのだ。」

 

p.32

アメリカの秘密政策・・・コンゴ、グアテマラ、トルコ

1954年にアイゼンハワー政権の立案によってCIAがグアテマラの軍事クーデターを計画し、資金を提供してグアテマラの大統領を失脚させた。大統領の穏健な農地改革政策がアメリカの企業にとって脅威と見られたからである。これが1980年代のマルクス主義ゲリラの反乱につながり、CIAとペンタゴンはマヤ人の農民の大量虐殺を支援した。1999年の春、国連の後援による歴史解明委員会がグアテマラ内戦に関する報告書を発表したが、そこには「アメリカが政府軍将校団に対ゲリラ戦の訓練をほどこしたことが、大量殺戮の重要な要因」だったと明確に書かれている。「マヤ人の村はすべて攻撃を受けて焼かれ、ゲリラへの協力を防ぐために住民は惨殺された」。同委員会によると、アメリカ政府から資金をはじめとする援助を受けたグアテマラの軍事政権は、1981年から1983年までのあいだにマヤ人の村およそ400を破壊し、大量殺戮によって20万人の農民を殺したと見られる。・・・・」

 

p.33 ゲリラを支援する弁護士の逮捕・拷問・殺害(グアテマラの軍人で、CIAのスパイ)に関連して:

19993月にグアテマラを訪問したクリントン大統領は、「私がはっきりと言いたいのは、多くの人びとに暴力をふるって抑圧した軍隊や情報機関を支援したのは、間違いだったということです。アメリカはそのような過ちを二度と繰り返してはなりません。・・・アメリカはもう抑圧に荷担しません」と述べた。しかし、大統領が二度と他の国で「不正工作」をしないと誓ったその日に、アメリカ政府はトルコによる少数民族クルド人の弾圧を支持すると重ねて断言したのである。

 

 

 

 

2.                     



[1] 本書刊行年から見て明らかなように、これは、2001911日のことではなく、第一回目の爆破事件。

アフガニスタン内戦・ソ連が政府派で介入・参戦、これに対抗しアメリカがアフガニスタンのイスラム原理主義勢力を支援・・・「アメリカに助けられたムジャヒディンの一派は、わずか数年前にアメリカから地対空ミサイルのスティンガーを供与されていたが、湾岸戦争やイスラエルについてアメリカがとった行動や政策のためにアメリカを憎悪するようになった。1993年にムジャヒディンはニューヨークの世界貿易センターを爆破し、ヴァージニア州ラングリーで信号待ちをしていた数人のCIA職員を暗殺した。・・・」(同書、3132

 

[2] Ivan Eland, “Protecting the Homeland: The Best Defense Is to Give No Offense,” Policy Analysis(Cato Institute), no. 306(May 5, 1998), p.3.