横浜市立大学の改革案に反対する数学者の声明
平成16年2月14日
私たち数学者は、先般明らかにされた横浜市立大学の改革案(「横浜市立大学の新たな大学像」、以下「大学像」)には基礎学問の研究に携わる数学者として看過出来ない問題が多々あり、この案が実行されればひとり市大の問題でなく日本の大学の在り方に負の影響を与えることは必至と考え、ここに反対の意志を表明します。
「大学像」には、数理科学科をひきつぐものと考えられる「数理情報コース」の理念・内容として次のように書かれています。
「数理科学と情報科学の基礎学問を教育し、IT技術やシミュレーション等に習熟した人材の育成を行う数理情報コースを置く。」「数理科学の基礎理論や情報理論の教育を行い、IT・計算機、シミュレーションなどを支える現代社会の情報技術を含む、基盤科学技術の基礎を担う人材を育成する。」
これ以上の詳しい内容はまったく書かれていませんが、これを文字通りに読めば、これまで市大の数理科学科が果たして来た数学という基礎学問の研究教育とは相当異質である「IT・計算機、シミュレーション」などを教育することとなり、これまでの伝統を引き継ぐものとはなっていません。
決して大規模ではありませんが、これまで実業界や教育界に多くの人材を供給してきたことに加え、いくつかの世界的な数学研究を生み出し、数学者の養成という意味でも数学界に一定の貢献をしてきた市大の伝統がここで打ち切られることになるとすれば、これは日本のいや世界の数学界にとって惜しむべきことです。
また、研究費については、次のように記述されています。
「研究は、外部資金を獲得して行う。」「一方、大学の経費を原資とする研究費は、大学が地域貢献や若手人材育成等必要と認めた場合、競争的資金として効果的に活用する。」
これでは、数学研究のような基礎学問の研究を続けていくことは出来ません。数学研究は紙と鉛筆だけで出来るわけではありません。学術雑誌という媒体を通し、あるいは、直接の研究集会を通して、世界の研究が交流することによって初めて学問の発展があることは、実際に数学研究に携わっている我々にとっては自明のことです。また、数学のように直接の応用を目的としていない研究に対して外部資金を獲得することは非常に困難です。もしも、この案が実行されれば、実際に学術雑誌や学術書の購入が不可能となり数理科学の研究はまったく不可能となるでしょう。
およそ、大学での研究は非常に専門性の高いものであり、数理科学もその例外ではありません。案が示すように非専門家が多数入った人事委員会で選考などの人事を行うとすれば、仮に意図的でなくとも、専門的な観点からは不適当な人事が行われる可能性が生じます。しかも、横浜市はすでに「学長と理事長の分離」を既成事実として理事長予定者を発表しました。大学を独立法人にすることと学長と理事長を分離することは、これから市会で議論することがらであり、このふたつが決定してから理事長の決定が行われるのが筋です。このように先走った行為は市民の代表たる市会を軽視するものであり、まさに、大学を行政が不当に支配する恐れを感じさせるものです。公立大学においても、学問の自由を担保するための教授会の自治は尊重されなければなりません。国立の独立行政法人大学と同様、実質的な選考は各教授会で行い、研究評議会で承認するという体制とすることが必要です。
また、「新たな大学像」では「原則として全教員を対象として任期を定めて任用する制度とする」とし、教員全員の任期制を取るとしています。さらに、給与については「年俸制」を謳っています。
あらゆる学問研究が精神の集中を必要とすることは言うまでもありませんが、とりわけ、数学研究のように頭脳を研究に集中させ、それを持続し続けることによってしか研究成果を得ることが出来ない学問分野にあっては、自分の待遇や任期について神経を取られることは研究にとって致命的な障害となり得るものです。流動性を確保するために、一部の限られたポストに任期制や年俸制を導入することは、大学教員の任期法の趣旨にも合致し意味のあるものですが、全教員を対象として任期制を採用することは、上に述べた理由に加え、継続的な大学運営に責任を持つ体制がとれない恐れもあり、大変乱暴な構想であると言わざるを得ません。このように教員の身分を不安定化することは,非専門家による人事とあいまって,行政による大学支配が現実のものとなる恐れが強く懸念されます。
以上の理由により、私たちは横浜市大の改革案を根本から再検討することを要望するものです。
数学者有志 (3月15日現在151名) 代表 玉野研一(横浜国立大学)
呼びかけ人(27名):
松本幸夫(東京大学)、中神祥臣(日本女子大学)、鈴木俊夫(山梨大学)、
志賀徳造(東京工業大学)、秋山茂樹(新潟大学)、高野恭一(神戸大学)、
飯高茂(学習院大学)、平野載倫(横浜国立大学)、津久井康之(専修大学)、
今野紀雄(横浜国立大学)、黒木哲徳(福井大学)、坂内英一(九州大学)、
北田泰彦(横浜国立大学)、野崎昭弘(大妻女子大)、山口孝男(筑波大学)、
小林一章(東京女子大学)、樋口保成(神戸大学)、松本堯生(広島大学)、
白岩謙一(名古屋大学名誉教授)、佐藤文広(立教大学)、石井仁司(早稲田大学)、
岸本晶孝(北海道大学)、織田孝幸(東京大学)、三井斌友(名古屋大学)、
吉田克明(日本大学)、秋山仁(東海大学)
賛同者(124名):
保倉理美(福井大学)、稲葉尚志(千葉大学)、福原真二(津田塾大学)、増島高敬(自由の森学園・和光学園)、井上尚夫(熊本大学)、浅田明(Freelance Mathematician)、柳原二郎(千葉大学名誉教授)、楫 元(早稲田大学)、石村隆一(千葉大学)、土屋信雄(桐蔭横浜大学)、岡部恒治(埼玉大学)、浪川幸彦(名古屋大学)、植野義明(東京工芸大学)辻下 徹(北海道大学)、二木昭人(東京工業大学)、関本年彦(成城大学)、瀬山士郎(群馬大学)、一山稔之(亜細亜大学)、大森英樹(東京理科大学)、吉田正章(九州大学)、坂内悦子(九州大学)、千原浩之(東北大学)、大貫義郎(名古屋大学名誉教授)、西山 豊(大阪経済大学)、西川青季(東北大学)、片瀬 潔(学習院大学)、風間英明(九州大学)、田口雄一郎(九州大学)、宮崎直哉(慶應義塾大学)、木村良夫(神戸商科大学)、浅野 洋(神奈川大学)、宮川鉄朗(金沢大学)、
前田定広(島根大学)、隅山孝夫(愛知工業大学)、渡辺敬一(日本大学)、横山良三(大阪教育大学)、池田敏春(九州工業大学)、西田康二(千葉大学)、坂本隆則(福岡教育大)、牟田正憲(九州産業大学)、吉川通彦(島根大学名誉教授)、三輪拓夫(島根大学)、河部裕子(桐蔭横浜大学)、西森敏之(北海道大学)、深谷賢治(京都大学)、佐藤篤之(明治大学)、黒木玄(東北大学)、藤井道彦(京都大学)、中屋敷厚(九州大学)、谷口良明(西日本工業大学)、松元重則(日本大学)、森 真(日本大学)、松山善男(中央大学)、阿部孝順(信州大学)、吉川智教(早稲田大学)、
庵原謙治(神戸大学理学部)、梶原健司(九州大学)、中尾愼宏(九州大学)、坂元国望(広島大学)、谷島賢二(学習院大学)、増田哲(神戸大学)、金子晃(お茶の水女子大学)、儀我美一(北海道大学)、宮岡洋一(東京大学)、高野清治(横浜国大)、加藤久男(筑波大学)、伊藤光弘(筑波大学)、大塚厚二(広島国際学院大学)、厚山健次(崇城大学)、藤原大輔(学習院大学)
田中 敏(八戸高専)、古用哲夫(島根大学)、高崎金久(京都大学)、広中由美子(早稲田大学)、楳田登美男(姫路工業大学)、増田哲也(筑波大学)、安藤 豊(東京水産大学名誉教授)、
大河内広子(東京薬科大学)、金戸武司(筑波大学)、水谷忠良(埼玉大学)、福井敏純(埼玉大学)、御前憲廣(日本大学)、杉田公生(東海大学)、一ノ瀬 弥(信州大学)、上坂洋司(日本大学)、川村一宏(筑波大学)、佐藤 肇(名古屋大学)、福田拓生(日本大学)、蓮井 敏(京都産業大学)、根上生也(横浜国立大学)、塩路直樹(横浜国立大学)、南 就将(筑波大学)、
栗原 章(日本女子大学)、峰村勝弘(日本女子大学)、久保淑子(日本女子大学)、松井 卓(九州大学)、渡辺恵一(新潟大学)、片山良一(大阪教育大学)、渡邉誠治(新潟工科大学)、
齋藤悟史(福島県立磐城高等学校)、後藤聡史(上智大学)、渡辺恵一(新潟大学)、
長田まりゑ(大阪教育大学)、古谷 正(新潟大学)、渡辺純成(東京学芸大学)、大内本夫(大阪女子大学)、綿谷安男(九州大学)、日合文雄(東北大学)、渚 勝(千葉大学)、間瀬茂(東京工業大学)、田栗正章(千葉大学)、田中秀和(筑波大学)、佐分利豊(千葉短大)、狩野 裕(大阪大学)、安田正實(千葉大学)、今野良彦(日本女子大学)、古森雄一(千葉大学)、
江口正義(東京海洋大学)、手嶋吉法(理化学研究所)、前園宜彦(九州大学)、桂 利行(東京大学)、大和 元(鹿児島大学)、杉山高一(中央大学)、伊藤 隆(群馬大学)
この声明はすでに2月14日に発表しましたが、ここしばらくは新しい賛同者を受けつけます。数理科学教室から学長への質問状に詳しく書かれているように、数理情報コースはなくなり、数理科学教室は名実ともに消滅することになると思われます。これが確定した段階で、この声明とは別の運動を始めることになるのではないかと思っています。
(http://suuri.sci.yokohama-cu.ac.jp/ 参照)
なお、工学分野で研究されているある方から次のようなコメントを頂きました。本人の了解を得てここに紹介させて頂きます。
横浜市立大学 一楽重雄
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独立行政法人の研究機関に身を置き、いわゆる「IT分野」で、情報技術を製造業に活用する試みに携わっている者です。数学のお世話になることも多く、常日頃より感謝しております。数学以外の理工系分野の人間は、数学の多大な恩恵に預かっているのに、一般に感謝の気持ちが足りなさ過ぎると思います。いうまでもなく、数学は常に、最も本質的な貢献を科学技術に対してもたらし続けています。最先端技術と呼ばれているような物も、数学無しでは一つも成り立ちません。
昨今、国の予算は、研究とはとても呼べない開発プロジェクトにどんどんつぎ込まれており、実用化とか産学共同研究などをキーワードとする「ブーム」を煽っています(逆に、ブームに乗って予算が決まっているのか?)。そのようなプロジェクトを完全否定するつもりは無いですが、数学を始めとする基礎研究を粗末にするならば、本末転倒です。
悪しき時流に流されて、元々僅かな予算しか使っていない数学者から金を巻き上げようなどとは言語道断です。以前、財務省の役人さんに面と向かって言ったこともありますが、見た目が派手なプロジェクトに巨額な研究予算をつぎ込むのは、呆れるほどの無駄遣いです。なぜならば、それらは研究ではなく、やれば必ず出来ると分かっている開発を企業に金をばら撒きながらやっているだけだからです(研究の名を借りた公共事業なのか?)。
数学を始めとする基礎研究をしっかりと保護することこそ、予算の有効活用の為の大前提です。「開発プロジェクト」などは残った予算でやればいいことです。スポーツの世界では明確ですが、基礎を疎かにすると良い結果は絶対に生まれません。これは、学問の世界でも全く同じで、基礎研究を疎かにし続けると、日本の科学技術は完全に空洞化して行きます。「日本には独創性が無かった」などとおっしゃる評論家がおられますが、過去の日本人数学者の独創的な研究成果は世界的にも注目されおり、複数のフィールズ賞受賞者はその象徴でもあります。数学などの基礎研究を粗末に扱うことは、間違いなく将来の日本の科学技術界を全く魅力の無い模倣技術集団へと貶めていくでしょう。
数学者の方々は、優れた研究をしているのに(優れているが故に?)、謙虚過ぎるのではないでしょうか。今の世の中の悪しき風潮に対しては、皆さんの真っ当な意見をもっともっと強く表明して戴きたいです。
将来の我々(応用分野の人間)の為にも、どうぞ宜しくお願いいたします!