伊丹敬之(いたみ・ひろゆき)
『経営と国境』白桃書房、2004年
第1章
日本企業はいかに国境を越えてきたか
p.31 ドーナツ型空洞化ではなく、ピザ型拡大
p.32-33 日本企業の国内の事業活動と日本企業の海外現地法人との間の国際分業(三つの型):
①工程間分業としての 「日本源泉型分業」・・・現地法人の日本からの調達がじつは、日本の総輸出の37.3%にもなる という数字になって表れている。・・・自動車、エレクトロニクス
②「日本終点型分業」・・・日本市場向けの供給(つまり逆輸入)を目的とした分業体制・・・繊維産業、それにエレクトロニクスでも一部の消費財低価格製品
③「ネットワーク型分業」・・・エレクトロニクス産業・・・開発は日本、部品生産の一部は日本、別な部分はアセアン、最終製品の組み立ては中国、といったパターン。
p.17 表1-1、図1-8・・・・2001年度末、日本企業の現地法人分布・・全体12476社、うち北米2596、アジア6345、ヨーロッパ2147.
アジアでの現地法人数の増え方・・・95年がピークで700社、94,96年も400社。
p.42-43 「この3年間が異常なほどの海外法人増加、それもアジアでの増加の3年間であった・・・中小企業の東アジア進出ラッシュがあったのである。
こうした草の根的な東アジア進出は、日本の国内で作られてきた生産体制が東アジアへと外延的に拡大していったもの・・・つまり、アジアンネットワーキングが1990年代半ばから急速に深化したのである。
そのアジアンネットワーキングの中で、日本源泉型・日本終点型・ネットワーク型、三つのタイプの国際分業が大規模に行われるようになった。それは、日本企業の国際展開の努力によるばかりではなく、東アジア諸国の経済発展が現地に大規模な需要を作り出していたことも大きく貢献していた。東アジアは、人件費などのコスト条件の点で日本企業の生産基地としても意味のある条件をもっているのみならず、販売市場としての意義も大きな地域なのである。つまり、生産基地と市場と、二つの役割を同時に果たしうるポテンシャルを東アジアの国々はもっており、そのポテンシャルが開花し始めたのが1990年代だった。
そうした外国が日本にとって大規模に出現したのは、日本の歴史ではじめてのことである。日本にとって経済t系関係の深い大型の外国は、これまでアメリカであった。しかし、アメリカは市場としての意味は大きくても、生産基地としての役割をコスト優位性の観点から大きく持つ国ではなかった。したがって、アメリカとの分業は、限られた日本源泉型分業が主であった。たとえば、貿易摩擦回避のための組み立て工場、市場立地ですばやいサービスのための事業拠点である。ネットワーク型分業も日本終点型の分業もあまりない。」
p.44「東アジアのネットワーク形成・・・東アジアで生産が増え、その内の三割もが輸出に回るのなら、現地国には雇用や外貨獲得で大きなメリットがある。その生産増と東アジア諸国の国内需要増をまかなうための日本からの輸出が増えても、それはまだ政治的に許されるのである。だから、経済合理性を最大の動機として、東アジアでのネットワーク形成が進んだのである。」
「こうして、さまざまの国際分業が、日本列島をその分業のネットワークの中心として多様に展開されることとなった。その際の日本列島の役割は、開発・試作工業列島であり、資本財・中間財供給列島である。その列島からの供給を中心にして緊密な生産のネットワークが国際的に形成されてきている。そのネットワーク全体で生産される製品の販売先は、現地市場が第一で次に第三国市場であり、日本への逆輸入はそれほど大きな比重にはなっていない。」
p.45 アメリカ企業の国際分業・・・「オフショア生産」・・・産業間分業
日本企業の国際分業・・・「現地生産」・・・産業内分業
p.46 「日本企業の海外生産は、本国の生産システムとかなり密接に統合されていて(言いかえれば、あまり独立せず、「外延」として考えられている)、市場はもっと現地に向けられている。つまり、現地の市場に浸透していくために、本国と統合された生産基地を展開しているのである。
その統合のために、海外へ移転していく生産活動と日本に残る生産活動との間の緊密な体制をつくろうとする傾向が日本の産業には強い。そのために、単純な産業の一括移転が起きるのではなく、かなり複雑な工程間分業が生まれる。それが、真ん中に位置する日本で行われる作業の工夫の余地を生む。」
p.47 「前々項で、日本企業の海外生産が1990年代の半ばに急展開したこと、とくに東アジアへの展開が急速だったことを述べた。その背後のもっとも基礎的な経済要因は、円高という為替レートの変化だったと思われる。
第一の円高(1985年プラザ合意後の2年間に切り上げ幅39%)
第二の円高(1991年から95年まで・・・90年145円→95年94円、5年間で38%も切りあがる・・・95年4月79円75銭の過去最高値、春から秋口まで90円以下)
p.47-48「第二の円高は、1985年からの第一の円高にも驚異的に耐えてきた日本の産業にとって、最後のだめ押しにもひとしいものになったようである。コストダウンをして輸出でなんとかがんばるというパターンがもはや効かなくなり、日本企業は雪崩を打ったように海外への生産へと大きく転向していく。
アジアでの法人設立数の急増
海外生産比率の上昇
現地生産比率の上昇
p.48
その結果、日本の総輸出が停滞を始める
輸出の停滞の多くは、日本企業自身による海外生産によって海外需要への供給が代替されたから起きた
p.51「日本企業の国際化が、最初は輸出、次に直接投資、そしてグローバルな生産体制の構築と進んできた背景には、さまざまな世界経済の構造がからんでいる。」
第2章
世界の構造の中の国際化
第1節 第二次世界大戦後の世界と日本
■ゴールデンイヤーズと危機の70年代
p.52
1950年から73年までの二十数年間・・・「ゴールデンイヤーズ」(エリック・ホブズボーム『極端の時代』The Age of Extremes)・・・「波乱の多かった20世紀の中でも例外的に安定的な成長と続けた時期」
p.53
1970年代に入るまで為替価格もものの見事に安定
p.53-54
1970年初頭のつの大事件・・・第一、1971年のドルの金兌換停止(ニクソンショック)とそれにともなう国際通貨の固定為替相場から変動為替相場への移行、第二、1973年の第一次オイルショックとそれに伴う原油価格を初めとする資源価格の高騰
p.54 「為替とエネルギーという国際経済を支配する二つの基本要素の世界で、戦後の秩序が4半世紀むりに1970年代初めに崩れた・・・為替変動相場制は、通貨を価格メカニズムに徹底的に組み込む大きな枠組み変更であった。原油価格の4倍もの高騰は、世界のさまざまな商品・在の国際価格体系への巨大なゆらぎとなり、激しい価格調整を必要とさせた。」
ホブズボームのいう「危機の10年」・・・「二つの危機」・・・①通貨とエネルギーの価格変動に世界経済がさらされる危機、
②「政府の失敗」という非効率あるいは官僚組織の硬直性
p.55-56
■ 転換の80年代、グローバリゼーションの90年代
二つの危機に、共産主義体制の諸国で、冷戦構造の軍事費負担の重み・・・1989年ポーランドに非共産党政権→1991年ソ連崩壊
市場社会修正版諸国・・・イギリスのサッチャー、アメリカのレーガン・・・小さい政府、市場に任せる経済・・・第二次世界大戦後に行われた市場社会の「修正」をもとへ戻す作業を開始・・・市場原理主義的哲学が世界の流行・・・政府の介入を認めるケインズ型経済政策ではなく、シカゴ流の金融中心政策
・ ・・歴史の流れの「反転」
p.56
ソ連崩壊・・・市場経済原理の正しさの正当化、冷戦にアメリカが勝ったというアメリカの覇権の正当化
IT革命という巨大な技術革新・・・市場メカニズムの情報的効率・・・アメリカ主導によるアメリカの正当性
→90年代・・アメリカ主導のグローバリゼーション
旧共産圏諸国が一種の鎖国状態から開放されて一気にグローバル市場に参入してきた。
IT革命がグローバリゼーションの情報的負担を一気に小さくしていた・・・金融の国際化を一気に90年代にもたらした。
「世界中をカネが電子のスピードで動き回れるようになってしまった・・・」
p.57
世界の不安定化要因・・・「グローバリゼーションに不満を持つ人びとがさまざまの理由で登場し始めた・・・」
1999年シアトル、2000年プラハ、2001年ジェノバで、WTO,IMF、サミットといった大きな国際会議への抗議行動
■ 「安定」の受益者としての日本
まさに73年までの世界は日本にとって「ゴールデンイヤーズ」(ホブズボーム)
「冷戦構造は単に世界的な安定をもたらしただけではなく、日本にとってはとくに重要だった。日本が強大になっていく経済力に比して弱い安全保障の備えのままにアメリカに依存できたのは、アメリカ側に対ソ連の防衛の重しとしての日本列島というメリットがあったからである。」
p.60-61
「世界的な「安定」構造に支えられて、日本の産業は1970年代までに巨大な産業基盤を日本列島につくり上げることに成功した。そして、国内市場の規模の大きさと競争の激しさ、そして顧客の要求の厳しさが、日本企業の国際競争力の培養基となっていた。そのおかげで、第1章図1-1で見たように、世界の輸出の中で日本の占めるシェアは、70年代はじめまでほぼ一本調子でうなぎ上りを続けていたのである。日本企業が70年代までに輸出を中心に国境を越えて行けた背景には、世界のそうした「安定」構造があったのである。
さらに、1970年代までの産業と経済の蓄積があったからこそ、70年代初頭のオイルショックと変動為替相場制が生み出した巨大な不安定にも、日本の産業は世界でもっとも有効に対抗できた。ホブズボームが危機の10年と呼んだ70年代を世界でもっとも見事に乗り切ったのは、日本であった。
たとえば、為替が変動し始めた1973年から円高が急速に進んだ。しかし、それをものともしない非価格競争力[1]を日本の多くの輸出産業が持つにいたっていた。鉄鋼、電機、自動車などである。日本の輸出は70年代も伸び続けた。その結果、80年代前後にさまざまな産業で日本が世界一になっていく。
あるいは、1973年のオイルショックでエネルギー価格が4倍になっても、日本の産業は省エネをただちに実行し、石油輸入量を一切増やすことなく4%を越える経済成長を達成するという離れ業をやってのけた。そのための技術力、さらには細かな改善をする組織力が、70年代の日本企業にはすでに備わっていたのである。」
p.61-62
「二度のオイルショックは日本企業の国際展開に追い風にすらなった・・・
第一、・・・国内需要がのびなければ輸出を、という輸出ドライブが日本企業に起きた・・・
第二に、高くなったエネルギーを節約することから始まって企業の合理化努力を引き出した。そのために日本の企業の輸出価格を上昇させずにすんだ。それに対して、外国企業は原油コストの増加を価格転嫁した。その結果、日本企業の価格競争力はオイルショック以前よりもむしろ強化された。
第三に、オイルショックは外国の需要にも影響を与えた。石油消費効率の高い日本製品への需要が、急増したのである。それが典型的に起きたのは自動車だった。燃費のいい日本の小型車にアメリカの消費者の目が急速に向いたのはオイルショックの後だった。その後、日本車の対米輸出の快進撃が始まるのである。」
第2節
価格のゆがみと変動に振り回される日本
p.62
■ ゆがむ為替、貿易黒字、そしてバブル
「1979年の第二次オイルショックは、大半の国々には大きな打撃であった。アメリカも欧州も大きな打撃を受け、経済は危機的状況になる。その危機の中から、「市場主義社会」への回帰の動きがイギリスとアメリカで始まるのである。79年のサッチャー政権、81年のレーガン政権の誕生である。世界は、転換の80年代に入った・・・」
p.63 円とドルの関係の長期的傾向・・・ドル安・円高
1974-76(第一次オイルショック後)、79-85(レーガノミクス)の中休み期
とくに、80年代前半は「異常なドル高」
p.64
「この時期、アメリカはレーガノミクスの時代で、レーガン大統領[2]が強いアメリカを標榜し、巨大な財政赤字と貿易赤字をものともせずに極端なマクロ政策をとっていた時期である。その政策が、為替という国際的な調整に最も重要な価格をゆがめていたのである。いわばレーガンがドルを買い支えていた。ほんらいならば、おそらく1977年の1ドル210円から88年の1ドル130円まで、10年間をかけてゆっくりと下がって行くはずだったこのカーブが、85年まで230円で高原状態を続け、85年からガケを転げ落ちたのである。
高原状態の円安は日本の輸出競争力を大きく助け、また輸出の収益性を大きく保った。その上、1982年からは原油価格が下落を始める。図2-1にあるように、81年をピークに86年にはその5割を下回るところまでドル建ての原油価格は下がった。円と石油の二つの価格低下は、日本の国際収支に大きな影響を与えた。輸出の円建て金額が、輸出競争力の増加と同じドル金額の円換算額の増大という二つのインパクトで大幅に増えていく。それと同時に、石油の輸入代金の円換算額は自然に減る。その複合が、巨額の貿易黒字の累積を生んだ。81年には2兆円だった黒字額は、86年には14兆円弱にまで拡大する。
すべては1980年代前半の出来事であった。それまで戦後長い間、国際収支の天井で外貨準備が不足する危険から経済成長にブレーキがかかるという体質を日本経済は持っていた。それが、あっという間に巨大な経常黒字を恒常的に抱える経済に転換してしまったのである。つまり、日本経済に経常黒字によるカネ余り現象が発生するようになった。それが、バブルを引き起こした銀行貸出の異常な膨張につながったと思われる。」
p.65
「図2-2は、1980年から90年代にかけての経常収支balance of paymentと銀行の超過貸し出しの累積額を示すグラフである。超過貸し出しとは、GDPの増加を上回ってその年に銀行が貸し出しを増加させた額である。」
図2-2
1981年から85年・・・銀行の超過貸出累積額と経常収支累積額(「日本がためたお金の残高」)とがほぼ同じ額。
1986年以降のバブル期には黒字累積額をさらに上回って超過貸し出しが増えてしまった。
p.66
「超過貸出累積額は、1990年のピークで約93兆円・・・」
「日本経済の貿易収支balance of goodsが黒字累積を本格的に始めるのは1981年から・・・」
p.67-69
「日本の産業にとって1980年代は、79年の第二次オイルショックをあっけないほどスムースにこなした後、貿易摩擦で始まった・・・そのほとんどが対米であった。
対米貿易摩擦の歴史は長い。1967年鉄鋼、71年繊維、77年カラーテレビ、と対米輸出へのアメリカ側の制限そちがすでにとられていた。80年代に入る頃、摩擦熱はさらに高まっていた。オイルショックの影響で燃費のよい日本車のアメリカでの需要が大きくなって、対米自動車輸出が急増し、自動車でも摩擦が始まった。鉄鋼でも、78年から始まったトリガープライスという価格監視によるアメリカの輸入制限措置をめぐって、80年代に入ると風圧は強まっていた。日米の貿易収支ではほぼトントンであった半導体ですら、すでに80年には貿易摩擦が起きていた。・・・
その背景には、日本の産業の世界的プレゼンスがこの時期に急速に高まったことがあり、当時のアメリカ経済の不調があった。自動車生産が世界一になったのが1980年、鉄鋼生産も同じく80年に世界一になっている。半導体はやや遅れて86年に世界一になっている。・・・・その一方、80年のアメリカ経済はマイナス成長、82年には大きなマイナス成長になっていた。貿易摩擦は、アメリカへの輸入規制、あるいは世界的な貿易規制を生んだ。その結果、規制の対象となった製品の価格をゆがめた。
鉄鋼では、1978年には鉄鋼のトリガープライス制度という価格監視制度が始まり、82年まで続いた。アメリカへの「ダンピング」輸入を防ぐというのが公式の目的であった。これはまさに価格を自由に下げさせない規制であった。自動車では、「自主規制」という名の下に81年から日本からの対米乗用車輸出を制限するアメリカ政府の政策がとられると、それは日米両政府の黙認の下の販売量規制となった。半導体産業での86年から日米半導体協定も、アメリカへの輸入価格の監視が行われ、日本市場への輸入の量的最低限が保障されることになった。
三つの例ではいずれも、販売量を規制するにせよ、価格を規制するにせよ、一種のカルテルを政府が容認した結果をもたらした。アメリカ市場での需要が大きいのに量的規制を行えば、自然に製品価格は高止まりあるいは高価格シフトをする。
北米向けの自動車の平均販売価格は、対米自動車規制が始まるや否やぐんぐんあがり始める。・・・
半導体でも半導体協定の直後に価格の高止まりげんしょうが見られ、またアメリカ側を刺激しないように日本企業が半導体協定移行に投資を手控えたためにメモリーの需給が1980年代末に逼迫して価格がそこでもまた高止まりと言われている。・・そのころ日本側がもっとも神経を使ったのは」
[1] 「商品の品質,デザイン,ブランド,といった価格以外の要素が商品の競争力を大きく左右するとき,これらの競争力のことをいう。生産財では,納期やロットの確保などもこれに含まれる」『有斐閣 経済辞典第4版』
[2] 「レーガンは1976年にフォード大統領と共和党の大統領候補指名をあらそってやぶれたが、80年の大統領選挙では、民主党のカーター大統領をやぶり当選。選挙戦では、カーター政権での、イランのアメリカ大使館人質事件、パナマ運河を返還する新パナマ運河条約、ソ連のアフガニスタン侵攻問題を攻撃。国防の強化と対ソ強硬路線を強調して「強いアメリカ」を説いた。内政では政府を縮小することによる支出の削減やインフレの抑制を公約した。レーガン政権の経済政策はほとんどの社会福祉支出をカットし、大幅減税をすすめるもので「レーガン革命」といわれた。減税によって経済活動が刺激され、連邦の歳入がふえて財政収支のバランスがとれるはずだったが、レーガンの就任後4年の間に財政赤字は急激にふくれあがった。しかし、インフレ抑制と金利低下による経済回復がみとめられ、84年の大統領選挙では民主党のモンデールをおさえ、再選された。
レーガンはグレナダ侵攻(1983)、リビア爆撃(1986)など、外交では「強いアメリカ」を次々に実践、第三世界の不信をまねいた。また1986年10月、政府職員がイランに武器を売却、その利益をニカラグアの反政府勢力コントラの支援にあてていた問題が明るみにでて、レーガンはウォーターゲート事件(1972~74)以来最悪の政治スキャンダルにまきこまれた(イラン・コントラ事件)。87年、名誉挽回(ばんかい)をはかり、ゴルバチョフ・ソ連書記長とワシントンで会見、中距離核戦力(INF)全廃条約に調印し、さらに88年5月末にはモスクワをおとずれ、INF全廃条約の批准書を交換、緊張緩和路線による米ソ新時代の幕をひらいた。
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