----------大塚久雄「地図―軽井沢随想―」[1]全集第9pp.218-220 より------

このごろは夏休みになるのを待ちかねて、この浅間山麓の高原にやってくるようになった。来るときはたいていヘトヘトといった感じだが、小鳥の鳴き声を聞いたり、清澄な空気を胸いっぱい吸ったりして1週間もたつと、疲れがすっかり取れてしまう。疲れがとれると、おもむろに仕事に取り掛かるので合うr。中断されないで一つの仕事に集中できるこの1ヶ月半は、われわれには実にありがたい。・・・・・・

ぼくは碓井峠の見晴しだとか、鬼押出しのような雄大な景観がひじょうに好きである。本式に登山ができなくなって[2]からもう相当長いせいでもあろう、私には天下の絶景である。あかず眺めているのは実に楽しい。ところで、ああいう雄大な見晴しを眺めているといつとはなしにあれはどこ、これはどこ、という話しになって、おのずから地図を見ることになってくる。こうして天下の絶景と地図を見比べていると、いつものことながら、職業意識がつい頭をもたげて、こんなふうなことが頭の方隅をかすめて通るのである。―

地図は、1枚の紙という平面の上に、線や点、それにさまざまな符号が印刷されているにすぎない。だから、そのなかをいくら探しても、あの雄大な浅間の姿や夕日に映える美しい山脈が見出されるわけではない。だいたい、地図というものは現実の大自然をそのまま描写し再現しているものではないのだから。ところで、そうであるからといって、だから地図は現実を正しくとらえていないとか、だからまた地図を作るためにはらわれた多くの人々の数々の労苦は誤っていたなどと、いうことができるだろうか。

試みに考えてみよう。芸術的価値のきわめて高いものであっても、絵画はあるいは登山の意欲をかきたてることがあるかもしれないが、それをいわば道しるべとしてあの山々を踏破することができるだろうか。山々を観照するのではなしに、踏破するために役立てようとするならば、ことさらに、雄大さや壮麗さも含めて、あの山々のさまざまな諸側面を、一たびは惜しげもなく捨象し、平面上の線や点に還元して、地図を作ってみなければならない。でなければ物の役には立たないだろう。地図はもちろん芸術作品ではない。しかし、それはそれとして、十分に独自の価値があり、対象を正確にとらえたものでありうる。この両者を混同するのは、おかしなことだと言わなければなるまい。

こういう、ある意味で分かりきったことをいうのに、少々気負ったふうになったのは、実はこのごろ喧しい「人間」の問題が何となしに頭にあるからなのである。われわれ社会科学者が対象をとりあつかうとき、その究極の基礎に「人間」の問題があることを決して忘れてはならない、と私は思っている。だからこそ、終戦直後「人間」の問題をともかくも前面に押し出してみたのだったが、そのときは相当ひどい反対を受けたわけだ。ところで、他方社会科学とくに経済学は「人間」の営みを研究対象としていながら、しかもそこでは生のままの「人間」は捨象され、姿も消してしまっている。それは社会科学がある点で地図と同じような実践的性格をそなえているからに他ならない。

生のままの「人間」がむやみに出てくるような経済学など、イデオロギーとしてなら別だが、物の役には立たない。そこでこうした方面が一方的に強調されると、こんどは逆に、経済学には「人間」の問題などおよそ無縁であるし、またそうでなければならない、というような考え方がでてくることにもなる。

およそ「人間」の問題などとまったく無縁であるような経済学は、やはり間違っていると思う。しかしまた、このごろときに見かけるような、過度に「人間」を強調するあまり、経済学や一部の歴史叙述(たとえば経済史)のなかに生のままの「人間」の姿がさしあたって見出されないからといって、そうしたものの価値を云々したり、他方社会科学者のほうが虚をつかれたような格好になったりする傾向は、実は私にはどうも解しかねるのである。



[1] 初出は、『東京大学新聞』195787日号。

 これは、昭和史論争を見ながらの感想であろう。その昭和史論争は、本学名誉教授・遠山茂樹、同じく本学名誉教授今井清一氏、そして昨年なくなった藤原彰氏の共同執筆による『昭和史』(岩波新書、1955年)に対する文学者・亀井勝一郎氏の批判(「人間が描かれていない」云々)を契機として、勃発したものである。

 この「地図」の主張は、文学・芸術の陣営からの攻撃にたいして、大塚が歴史学、社会科学の擁護の立場で発言したものである。

 私のここでの引用は、経済史・経営史・社会史を忘れ去った(無視した?、排除した?)カリキュラム案体系への批判であり、経済史・経営史・社会史の独自の価値の擁護である。

 

[2] 戦時中、誤診で、足を切断した。片足であったため、まさに「本式の登山」は無理であろう。また戦後は、胸も病んで長期療養だった。ゼミナールは自宅で行ったと聞いている。