アメリカの大学における「任期制」と「年棒制」

福井直樹(上智大学)

 

持ち時間が5分ということなので、ごく手短かにお話しします。僕はアメリカの大学院を出まして、ポスドクになり、それから就職活動をして、テニュアトラック(将来はテニュアにつながっていくが、現在はテニュアが付いていないポスト)のアシスタントプロフェッサーというので就職しました。最初、私立大学のペンシルヴェニア大学に就職しまして、それから公立大学であるカリフォルニア大学に移りました。それからずっと、いろんな審査を受けて、テニュアをとってフルプロフェッサーになりまして、今度は学科長になって人事をやる側になっていろいろやってきました。それで去年から日本に戻ってきました。ということで、アメリカに居て唯一とは言いませんが、一番多く学んだのは大学の人事システムじゃないかと思うんです(笑)。不本意ながら(研究の時間を取られますから)いろいろと人事に関わりましたので。各論を今日詳しくお話ししようと思ったのですが、そういう事をするのには、ちょっと時間が足りないようですので、もし、質問などありましたら、ディスカッションの中でお答えするということにして、先程、広渡さんのお話を聞いていまして、いちばん根本的なところを本日はお話しした方が良いと思います。

 

根本的なところで、さっきの永井さんや阿部さんの講演なんかとひっかけて言いますと、一般に思われていることとは全く逆に、敢えて刺激的な表現を用いますと、「年俸制」も「任期制」もアメリカの大学にはほとんど採用されていない、というふうに僕は思います。これはもちろん極端な言い方でして、部分的にはもちろんこういった制度が入ってきているのですが、そもそも年俸制というのは具体的にどういうものなのか、今日ここに来るまで実は良く分からなかったので、さっきの永井さんの特徴づけを見て、あっ、そういうことを言っているのかと初めて分かったわけでして、もしあれが年俸制というのでしたら、アメリカの企業ではおそらく広く採用されているのでしょうが、アメリカの大学、特に所謂「研究中心大学」(リサーチ・ユニヴァーシティ)ではほとんど採用されていないということだと思います。これがどういうことを意味するかと言いますと、一般に日本では、市場原理主義が蔓延しているその大元がアメリカだというふうに思われているわけですが、そしてそれはある程度事実なのですけど、大学は違うと言うことですね。アメリカの経済システムは、もちろん資本制ですから、そして資本制の権化みたいなところがありますから、市場原理主義的な動きというのは非常に強くあるわけです。しかし、大学は経済原理とは異なった原理で運用されるべきであるというふうに、大学人がアメリカの場合、信じていて、そういう信念を守るために、外側の(市場原理が支配する)社会と常に闘っているというようなところがあるわけです。それで、ねばり強く闘い続けることによって、学問を動かしているダイナミズムというものは、決して市場原理主義的なものとは相容れない面が多くあるのだということを(少しでも油断していますと浸食されますから)、社会全体に対して間断なく訴え続ける、というのがこの何十年間かのアメリカの大学の歩みだったのではないかと思います。

 

そういった努力のひとつの大きな成果がいわゆるテニュア制度でして、テニュア制度というのは(年齢差別に当たるとしてアメリカでは定年制が否定されていますから)、一度とってしまえば文字通りの終身雇用です。従って、雇用主としては、アメリカの社会では特にそうですが、そんなコストの高いものはなるべく廃止してしまいたいわけです。ですから、もちろん最初はテニュア制度などは存在しなかったわけです。AAUP(アメリカン・アソシエーション・オブ・ユニバーシティ・プロフェッサーズ)ですか、アインシュタインが深く関わっていた大学教員の全国的組合があるのですが、そこが、非常にいろんな闘争を組みまして、なんとか勝ち取って一度ひとつの大学でテニュア制度が採用されると、今度はアメリカの競争社会の原理が働きはじめまして、他の大学も出さざるを得ないんですね。どうしてかと言うと、さきほどお話しにあった大学間競争がありますから、優れた研究者の取り合いになる。そして、優れた研究者は、もちろん身分保証がきちんとある方が落ち着いて研究できるわけですから、より良い研究環境を求めてそちらに動くようになります。そうなると他の大学もテニュアを出して優れた研究者を自分の所に呼ばざるを得なくなるのです。そういうようなことが、うまい具合に働いて、いわゆるリサーチ・ユニバーシティ(研究中心大学)と呼ばれている大学では、テニュア制度というものが広く定着してきた、ということです。

 

このテニュア制度というのは、絶対的な権利、要するに、アカデミック・フリーダムを守るための絶対的な身分保障なわけです。学問の自由を守るための絶対的な権利ですから、もちろんそれを一度とってしまったら研究をやめちゃう人がいる、そういう場合はどうなるんだというような問題が、当然浮上してきまして、そういった問題は、大学の中で厳しい審査をしてなんとか対処する、外からの介入は許さないという原理を、アメリカの大学は非常な努力をもって守っているわけです。そしてそのようなきびしい審査を行うためには、これが根本の問題なのですが、研究成果、教育の成果というものをどのようにして評価していくのかという問題が出てくるわけで、この問題に関しては、各論に入らないと具体的なことは何も言えないのですが、一つ評価の問題に関して指摘しておきたいのは、先程阿部さんが最後の方に色々と、再任審査のあり方、同意の取り方等の問題を細かく挙げている部分ですね、たとえば、不本意な、あるいは不当と思われる評価を受けた時にどのようにして本人が異議申し立てを出来るかとか、その類いのことですね。そういうことも非常に細かく、例えばカリフォルニア大学などでは決まっています。最終的にはもちろん外部に持っていって、訴訟を起こすというような道も開けています。その場合も、先ほど言ったAAUPなどが随分助けてくれます。まあ、そこまで行く人はなかなか居ないのですが、学内の、いわゆるオンブズマンというかテニュア・アンド・プリヴィレッジ・コミッティーというのがありまして、そこに持っていって争うということなども起こっています。このように、何重にも、いわばバックアップ態勢を設けて、学内で処理していく、知識人のコミュニティーの中で処理していくというのがアメリカの大学の基本的姿勢であって、そこに役人であるとか産業界の意向であるとかが介入する余地はないのです。そして、社会に対しては常に緊張関係を保ちながら、大学の存在・意義を社会にアピールしていくというダイナミズムが、おそらく、アメリカの大学がいちばん成功した例であると多くの国で思われている重要な側面なのであって、決して市場原理主義的なものが、アメリカの学問が進歩してきた理由ではないのではないかというのが、内部から見てきた者の率直な意見です。

 

まあ、総論で言うとそういうことなのですが、では、業績評価等を具体的にどのようにして行うのかというような話に入りますと、これは一筋縄ではいきません。もちろん完璧な評価システムなどはどこにも存在しませんから、個々のケースに関してディスカッションしていかなくてはいけないのですが、全体として見ますと、アメリカの大学はこうだという風に、日本の大学改革の文脈でいろいろと言われている事柄のほとんどは、無知か誤解か、あるいは意図的な曲解か、そういうものに基づいている。要するに、結論が決まっていて(この結論を決めているのが大学人・研究者でないことは言うまでもありません)、そちらの方に話を持っていきたいがゆえに、アメリカでは云々と言うと、まあ、通りがいいから、それで持って来るというケースが非常に多いわけで、そういう物言いには騙されないようにしなくてはいけない。アメリカのシステムを日本で採り入れるかどうかはまた別ですし、日本の社会に合うかどうかも別ですけど、そもそも事実として「アメリカのシステム」なるものの認識が間違っている。間違った認識に基づいていろいろと議論をしても空回りしてしまうだけなのではないかと思います。また、細かいことは色々ディスカッションの時間にでもお話ししたいと思います。