発言 「大学の理念を社会とともに創造すること」

                            広渡清吾

 

(1)大学改革と科学技術投資の促進は、いま、先進国レベルでの世界的イシューになっています。これらが経済のグローバル化のなかで、各国の競争力の源泉とみなされているからです。競争のなかで、大学政策のあり方についてのグローバル標準といったもが収斂されつつあります。それは、おおまかにいえば、大学間競争の促進、大学間格差の積極的承認と分業、大学の経営の効率化、産官学の連携推進 です。

 この4月に日本の国立大学の法人化がスタートします。各国立大学法人は、法人化の根拠法である国立大学法人法の規定により外部者を半数以上のメンバーとする経営協議会を発足させます。この経営協議会には大学側の委嘱によって、多くの経済界の人々が参加します。日本経済新聞は、これを報道して「法人化−経済人頼み?」と評していますが、ここにも大学が置かれている現状が示されています。

 公立大学については、公立大学協会がかねてから国立大学の法人化と横並びで公立大学法人法を制定して、大学の役割と特質を配慮した法人化とすべきことを要求してきました。しかし、これは実現せず、公立大学の法人化は、地方独立行政法人法という地方の公営企業など一般の独立行政法人化をおこなうための法律に基づいて行われるものとなりました。この法律に公立大学について若干の配慮は行っていますが、独自に国立大学法人法が制定され国立大学についてはそれなりの大学の特質への配慮が行われたのに比べると、大きな差が生じました。

 国の大学行政においては、文科省に専門官僚制が維持されており、大学の特有の制度や論理について理解し、配慮をするノーハウが存在します。これに対して地方自治体の場合、そのような専門官僚制がなく、知事や市長のトップダウン式の指示のもとで知事部局・市長部局の直接的な要求が大学側に向けられているという現状があり、公立大学の改革・法人化は、相対的にみて、国立大学よりもさらに困難を抱えているのではないかと思います。

 

(2)今日のシンポジウムのキーワードは、大学の任期制・年俸制・評価制度ですが、これらのシステムの設計や問題点を考えるときには、「大学とは何か」という基本問題に立ち戻る必要があります。もちろんこの場合、「大学とは何か」は、それに対してすべてについて明確な答えがすでに用意されていると考えているわけではありません。大学の歴史的経験を踏まえながら、大学が社会との対話を通じて責任をもって作り上げていくものと考えています。

 学校教育法第52条は「大学は学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする」と規定しています。大学にとって本質的なものは、「学術の論理」であり、「経営の論理」ではありません。大学に経営は必要ですが、経営は学術をサポートするものであって、経営の手段に学術が利用されるのではありません。この観点からみて、経営と学術の関係を象徴的に示すのが、公立大学法人化に際して、理事長と学長が別々に置かれ、かつ、学長が副理事長として経営の長である理事長の下にあるという体制がとられることです。国立大学の法人化の議論に際してここはもっとも重要な争点の一つとなり、国立大学法人では理事長をおかず、学長が理事会を含めて大学のトップにあることを法律的に明確にしました。

 「学術の論理」とは、知ることを追求する自由、知ったことを伝える自由、そのような自由の担い手の集団としての自治、そしてこのような自由と自治を確保するための自己規律の倫理と社会に対する責任を要素とするものだと考えています。大学を設置しようとする者は、こうした学術の論理、自治と自由を保障するためのシステムを作り、かつ、財政保障をする責任を負うのであり、これができないようであれば大学を設置する資格がないわけです。この自由と自治のシステムの中核は、メンバーを研究者のピア・レビュで選考する人事制度であり、また、自治集団のリーダーを集団自らが選出する選挙制度であるといえます。大学は、この自由・自治の行使による知の営みをを通じて、社会に対していかに責任をはたすかを厳しく自己点検し、点検の内容を公開し、社会の評価を受けとめ、大学のあり方をさらに前進させるという自覚とそのためのシステムを整備することが同時に求められます。

 

(3)任期制の問題ですが、任期制それ自体がいいとか、悪いとかの議論は適切ではないと思います。問題となる状況に対して、任期制が活用できる場合も十分あると考えています。しかし、そのような条件と効果を吟味することなく、「全員任期制の採用」などということは、人々を脅かしたり、世間の耳目を集めたりする意図があるのならともかく、合理的な制度とはまったくいえません。大学教員任期法でも、任期を付けることのできる場合を3つに限定して列挙しています。任期制を適用する場合は、その目的を明示し、それが自由な教育と研究を発展させることになるのか、研究者のキャリア形成をエンカレッジすることになるのか、研究者の責任遂行に役立つのか、人事管理の都合や人件費節約のために行われているのではないか、などの点から吟味して十分に耐えられるようなものであるべきでしょう。

 年俸制は、国立大学法人化によって教職員が非公務員化することとの関連で、新しい給与制度としてわたし自身も検討したことがあります。たとえば、5年間のプロジェクト研究として外部資金をえた場合に、このプロジェクトの研究者を5年任期で採用するとすれば、退職金の先渡分を含めて年俸制で給与を支払うことには合理性があるだろうと思います。しかし、これも「全員年俸制」とか、「とにかく年俸制の導入」とか、目的と効果を明確にせず、大学教師が野球の選手のように1年ごとの数字の評価で給与が算定できるという前提で提案が行われているのならば、ほとんど信じがたいものがあります。

 もしこのような信じがたいがことが行われるとすれば、このような制度を運営すること−真面目に運用されるならばですが−には行政コストが嵩み、効率化にかえって反するようなことになりかねず、かつ、より深刻に研究教育のあり方を歪めることになるのではないかと恐れます。

 評価制度は、大学の自己規律・倫理と社会に対する責任を実行するために必要で、かつ不可欠なものだと考えています。法的にも国公私立を問わず大学は、自己評価を行い公表すること、またいわゆる認証評価機関による評価を受けることを義務づけられています。それゆえ問題は、どのような評価制度が適切で、合理的であるかということです。評価といっても目的、方法、対象によってさまざまなシステムがあります。目的でいえば、「ランキング」は、相対評価で順位をつけるものであり、「エヴァリュエーション」は、たとえば目的や計画に対して達成度を評価するようなものであり、また「アクレディテーション」は一定の要件を充足しているかどうかを審査するもの、という具合です。対象でいえば、組織全体のパフォーマンスの評価や個別の人にそくしての業績評価が区別されるでしょう。さらに方法でいえば、外部者による評価であるか、ピア・レヴューであるかなど、で分かれます。わたしは、大学にとっての評価制度の本質的役割は、大学の使命をはたすための大学の自己努力のエンカレッジにある、と考えています。評価の目的設定について「大学とは何か」の基本から吟味し、対象、方法を適切に選択することが重要です。社会の側でたとえば、ここで述べてきたような意味での大学らしい大学をランキングするような試みがでてきて、大学についての議論が生まれてくることがむしろ望ましい状況と言えるかもしれません。

 

 大学が現在抱えている困難について、社会は決して同情的ではありません。この困難の重大な意味を社会に伝え、一緒に「大学とは何か」を作り出すムーブメントがないと乗り切れない時代にあるのではないかと思います。