「戦争と復興―占領と戦後再建の比較社会経済史―」

 

趣旨、目的など

 

 

 研 究 目 的

       @科学研究費の交付を希望する期間内に何をどこまで明らかにしようとするのか、

        A当該分野におけるこの研究(計画)の学術的な特色·独創的な点及び予想される結果と意義、

        B国内外の関連する研究の中での当該研究の位置づけ、

        

@   目的イラク戦争後における復興と経済・社会の再建が世界的課題となっている。このイラクの経済的社会的な戦後復興が直面している問題は多岐にわたる。生産設備の復興・再建と近代化、復興・再建の主体、生産主体の社会関係と精神構造の改革、宗教対立・民族対立の克服とナショナリズムのあり方、クルド族などマイノリティの統合、そうした諸課題をイラク人が主体的に担うための前提諸条件の整備と占領軍・占領機関の政治的経済的役割など、難問山積である。この難問群を考えていく鏡・比較素材を欧米と日本の歴史(経済史と社会史)から掘り起こそうというのが、今回の比較史的共同研究の目的である。

A   特に今回の共同研究で着目し解明していく諸論点、独自な点、特色、意義は、以下のとおりである。

   史上最初の総力戦(の萌芽)としての普仏戦争2度の大戦を導く確執の根因を作り出した。プロイセン・ドイツによる占領、パリ・コミューンとその鎮圧、その後の社会再建と経済発展は軍国主義、軍拡競争を必然的付随物としたが、その要因を明らかにする。これに対し、おなじフランスがヴィシー・レジスタンスから戦後改革においても経済改革を重視したが、罹災地復興計画、都市計画、社会保障制度の改革において、軍拡路線ではなく経済の安定的社会的発展の枠組みを作り出した。その実相を明らかにする。そのさいに、特に経済の「近代化」が大きな課題となり、アメリカニゼーションが追求され、そこでの「浸透するアメリカと拒まれるアメリカ」のせめぎあいのなかでフランス・モデルが構築されることになる。その個性的様相を明らかにする

そこでは欧州統合を推進する小国ベルギーの戦後復興のあり方の特徴も明らかにされる。

また、第一次大戦で激突したヨーロッパ諸国の戦後再建においては、統合へのさまざまの要因も形成される。まったく未開拓の問題領域として、ヨーロッパ諸社会の相互理解をうかめるうえで見落とすことができないのが文化交流であり、第一次大戦後の音楽と映画の国際的な流通、同時流行現象の経済的技術的背景の検討が、戦後復興の一側面をあきらかにするであろう。

   ドイツは第一次世界大戦とその帰結としてのヴェルサイユ体制で報復主義的民族帝国主義の広範な社会基盤が形成され、それによって第二次世界大戦を引き起こしたが、その帰結は領土縮小と一千数百万のドイツ人の追放・難民化であり、二つの体制の悲劇で「方向喪失」してしまったドイツ人の新たな社会経済理念の構築が過大となった。社会的市場経済の原理とマーシャル・プランのなかで西ヨーロッパ諸国民との的連帯、「共同体」構築という建設的方向性をとりもどすドイツ人の動向と理念が今一度、あらたな視点から明らかにされる。

   ヴェルサイユ体制と違った冷戦体制下のドイツ占領では、軍事権力による経済社会の民主化の推進がポイントであり、占領大国の民主主義・自由主義の質量が問題となる。そのポテンシャリティをはかるのが黒人問題である。日本では冷戦に視点を当てた黒人公民権運動の研究はまだ存在しない。黒人公民権運動とその成果を「冷戦」という総力戦体制との関わりで捉えなおし、世界の民主主義的再建のなかで明らかにする。

   イラク戦争後の再建で楽観的だったアメリカの態度の背景に第二次世界大戦後の日本占領の経験があったとされるが、それはいかなる意味なのか、戦後復興期(194554年)のアメリカ政府等による対日援助とその影響・効果と日本社会のあり方について検討し、今日のために比較史的素材を提供することは緊急の学問的課題でもある。対日援助を巡る日米間の交渉過程や援助の使途に関する国内諸機関・諸利害間の調整、さらに援助の効果などはまだ具体的に明らかにされておらず、まさにその解明は焦眉の課題でもある。

戦後復興・戦後社会の変容は地域の視点からも見ていく必要がある。その点を関東大震災の負の遺産に加えて戦禍の負担を克服せざるを得なかった横浜について明らかにする。戦後再建を全国的視点と地域的視点で立体的に解明することにより、比較史的素材が豊かに構築される。

B戦争の性格と戦後再建、戦後復興の個性的あり方を19世紀から冷戦体制まで含めて比較する研究は、管見のかぎりでは皆無であり、内外ともにまったく独自な比較社会経済史(比較社会史・比較政治経済史)の研究だと思われる。

 

基盤研究(B)

研究機関名

横浜市立大学

研究代表者氏名

松井 道昭

 

参考資料:

1.2004510日に入手した新潟大学・鷲見一夫教授の論文・講演内容:

講演:イラク占領と日本のODA 

論文:イラク復興支援50億ドル + 債権放棄の欺瞞性と違法性

2.イラク戦争とアメリカの「双子の赤字」、日本の膨大なドル買い介入 

団藤保晴HP142

巨大なドル買いと米国・双子の赤字(2004/02/19)

 

 

 

3.第二次世界大戦終了時のドイツ占領と米英仏ソ占領軍(平島健司「分断国家の成立・安定・変容」 

 木村靖二編『ドイツ史』(新版 世界各国史13)山川出版社、2001、第9章から)

 

p.335-338

 アメリカ、イギリス、ソ連は、戦時中から戦後処理に関する協議を始めていたが、各国の戦後構想は交錯し、ようやくポツダム会談を経て成立した協定も多くの対立の芽をやどしていた。

 ソ連は、ポーランドとの間に新国境を確定するために、オーデル・ナイセ線をドイツとポーランドの国境とする承認を迫ったほか、実物による賠償の厳格な取立てを主張した。これにたいして、イギリスは、同じくヨーロッパ大陸の勢力圏分割には関心をいだいたものの、第一次世界大戦後の賠償取立て決めの失敗を重くみてソ連の賠償要求には難色を示した。また、交渉にたずさわっていたチャーチルの保守党は戦後直後の選挙において敗北し、政権はアトリーが率いる労働党に委ねられた。

 一方、戦後におけるアメリカの優位を想定したローズヴェルトは、開かれた国際秩序という観点から勢力圏や国境の画定には強い関心を抱かず、問題を先送りする姿勢を示した。ドイツの国内秩序にかんする構想の具体化も遅々として進まなかった。44年には、財務長官モーゲンソーが、ドイツを全面的に非武装化し、分解して農業国とする計画を発表したが、その後、解体されたドイツはかえってヨーロッパを不安定化させる、という認識が強まったのである。

 たしかに、連合国は、ナチ党と集権的国家機構を解体し、軍国主義を根絶して社会を根底から民主化する、という点においては一致していたものの、占領事務を分担しながらともに民主化を進めていけるかどうかは未知数であった。実際、ポツダム協定は、ドイツを経済的統一体としてみなすことを定めたが、占領手段としては占領地区に区割りされた分割占領方式を想定したのである。すなわち、ドイツの最高統治権力は、フランスを加えた連合国4カ国の最高司令官が構成する管理理事会(ベルリンにおかれた)に帰属する一方、4つの占領区においてはそれぞれの最高司令官が最終決定権をもつ、と明記された。そのうえ、当初の方針に反して占領区ごとにドイツ側行政部局の設置が認められ、占領実務の進展とともに各国の占領政策の間に相違が広がることが予想された。

 連合国にとっては、食糧の供給や治安の維持など、差し迫った課題に対処するためにドイツ側から行政上の協力をえることが不可欠であった。地方レベルでは、非ナチ化に本格的に着手する前に旧体制の行政職員がそのまま用いられた。また、いずれの州においても、州首相や政府長官が占領軍によって直接任命された。

しかし、占領軍に対するドイツ側機関の構造は占領区ごとに異なった

アメリカは、いち早く州の設立を許可し、州首相が定期的な調整を行う州評議会を設置してドイツ側に広範な権限を委ねた。これに対して、

イギリスは、占領軍独自の中央官庁を設立し、ドイツ側の行政機関や州首相会議がこれに対峙した。両者の間に設けられた地区諮問委員会には政党や職能団体の代表も参加したが、これが軍政府のたんなる諮問機関の地位を脱して実質的な権限を持つためには時間の経過を要した。

ドイツ側行政がもっとも制限されたのはフランス地区であり、特別なかたちでザール地域がフランス本国に統合されたほか、三つの州が協力関係を制度化することは認められなかった。

以上の西側の3地区とは異なり、ソ連占領地区でははやくから中央主(ママ)権的な展開が見られた。州は早期に設立されたが、実質的な行政機能は州の上に設置された中央行政機関がはたした。また、西側の地区に先駆けてその活動を許可された政党は行政の優位を許さず、なかでも軍政府から特別の支援を受けた共産党が、行政の拠点を占めるにいたった。」