講義資料(20040615):
働くインセンティヴは賃金か?
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働くということ活力生む知恵(2) 東京大学教授高橋伸夫氏(経済教室)
日本経済新聞朝刊(2004/06/09)
次の仕事で報いる日本型年功序列を生かせ
成果主義には本質的欠陥
成果主義によって人が懸命に働くことはない。人が懸命に働くためには仕事自体にやりがいを見いだせるシステムが必要である。そのためには、給料ではなく、次の仕事内容で報いる「日本型年功制」を生かして、その運用改善に取り組むのが最善である。
金銭的報酬は喜び奪う可能性
あるコンサルタントの発言に耳を疑った。「会社は苦しいのだから、成果主義を導入して従業員にやる気を出してもらうのは当然でしょう」
仮に会社が業績好調であれば、金銭を従業員に分配することは可能だ。実際、昔から行われてきた。しかし、昇給の原資にも事欠く会社が、金銭をインセンティブに使えるわけがない。成果を出しても給料は上がらず、報われないと不満が募る。人件費を抑制したいのであれば、経営者も責任を認めてベースダウンすればいい。そして、いかに金銭的報酬を使わず従業員をモチベートできるかに知恵を絞るべきだ。
それどころか成果主義には本質的欠陥がある。筆者が批判している成果主義とは、(1)できるだけ客観的にこれまでの成果を測ろうと努める(2)成果のようなものに連動した賃金体系で動機づけを図ろうする――ことである。(1)と(2)のどちらか一つでも満たせば、必ず弊害が発生する。
働いても働かなくても同じだと揶揄(やゆ)されてきた年功序列と比べれば、一見はるかに正当そうなので、成果主義はこれまでなかなか正面切って批判されてこなかった。しかし、給料を上げれば勤労意欲が高まるという前提自体が科学的根拠のない迷信である。
金銭を中心とする外的報酬による動機づけ理論は期待理論と呼ばれる。分かりやすく言えば、馬の鼻面にニンジンをぶら下げて、食いたかったら走ってみろという理論である。ところが、期待理論の創始者ブルームは、主著『仕事とモチベーション』の実質的な最終章で、パフォーマンスは目的そのものでもあり、個人は外的報酬とは無関係に、高いパフォーマンスから直接満足を引き出していると書いているのである。確かに、子供のころを思い出してみれば、誰だって、テストで百点をとれば、うれしかったはずである。それで親から「報奨金」がもらえるということがなくても。
むしろ報奨金は仕事の喜びを奪う可能性すらある。内発的動機づけで有名なデシは実験室に大学生を一人ずつ入れてパズルを解かせる実験を行った。実験の途中、一部の学生に解けたパズルの個数に応じてお金を支払うと、驚いたことに、無報酬のまま実験を続けた学生よりも、自由時間にパズルを解く時間が短くなったのである。つまり、お金をもらうと休憩するようになったのだ。
デシが引用している米国南部の小さな町でのエピソードも印象的だ。洋服仕立屋を開いたユダヤ人に嫌がらせをするために、少年たちが店先で「ユダヤ人、ユダヤ人」とやじるようになった。困った彼は、ある日少年たちに「私をユダヤ人と呼ぶ少年には十セント硬貨をあげよう」と言って、少年一人ずつに硬貨を与えた。大喜びした少年たちは、次の日もやじりに来たので、今度は五セント硬貨を与えた。そしてさらに翌日、「これが精一杯だ」といって一セント硬貨を与えると、少年たちは二日前の十分の一の額であることに文句を言い、「それじゃあ、あんまりだ」と言って二度と来なくなった。
仕事自体にやりがいを
どちらも、最初は楽しいから「仕事」をしていたのだ。ところが金銭的報酬が投げ込まれると、それが仕事と満足の間に割り込んで「仕事↓金↓満足」と金のために仕事をするようになってしまう。だから金がなくなると、満足も得られなくなり、仕事をする気もまた失せるのだ。
かくして、成果主義は失敗する。「成果を上げれば金をたくさん払うから、嫌な仕事でも文句を言わずに働け」では人は懸命には働かない。仕事自体にやりがいや面白さを見いだせるようなシステムを作らなければ、人は懸命には働かない。
ある程度の歴史を持ち、生き延びてきた日本企業の「日本型年功制」は本質的に、給料で報いるシステムではなく、次の仕事の内容で報いるシステムだった。給料は、後顧の憂いを取り除き、安心して働くために、動機づけとは切り離して、生活費を保障するという観点から年齢別生活費保障給型賃金カーブがベース・ライン(平均値)として設計されてきた。
この両輪が日本企業の成長を支えてきたのである。それは従業員が日々の生活の不安におびえることなく仕事に没頭し、仕事の内容そのものによって動機づけられるという内発的動機づけの理論からすると最も自然なモデルでもあった。
そもそも、先達が築きあげてきた日本型の人事システムを年功序列だと思い込むこと自体、企業人としての常識を疑う。明らかに年功序列ではない。仕事の報酬は次の仕事なので、まずは仕事、次いで賃金などの処遇に差のつくシステムだったのである。賃金カーブはあくまでも平均値であり、年齢が進むにつれて大きな差がついた。
それでも、成果を客観的かつ正確に測定できる方法さえ開発できたら事情が変わると言う人がいる。しかし、たとえば仮に大学向けに学生の学力を正確に測定できる画期的な試験方法が開発されたとしよう。大学が巨額の費用をかけて導入し、各教員も初年度には研修と指導を受けながらの実施に百時間ほどを要し、二年目以降は……。
もちろんこれは作り話だが、これで仮に正確な学力測定が可能になったとしても、本末転倒であろう。そんな金と時間があるのなら、授業を少人数編成にしたり、学生の個別指導に時間をかけたりした方が、はるかに学力向上に効果があるし、学生も喜ぶはずだ。
評価よりも人材育成を
それは企業にもそのまま当てはまる。エース級社員やダメ社員といった社内評価のはっきりした人以外は、評価に差をつけること自体が徒労なのだ。評価よりも、人材の育成にこそ金と時間をかけるべきだ。
そもそも主観より客観の方が良いという根拠はどこにもない。成果主義導入に積極的な人事の中には、マニュアルに則って客観的に点数をつけることで、客観性を装い、評価する側の責任を回避できると真顔でいう人がいたが、あきれる。本来評価というものは、おおげさにいえば、上司が己の全存在をかけて行うべきものであって、主観的なのだ。説明責任以前に、上司が結果に責任を負うべきものなのである。
だから客観的評価基準を採用すると、その無責任さが評価される側にもすぐに伝わる。毎年査定すると明言されれば、誰だって一年以内に「成果」の出せるような仕事ばかりをやるようになる。各人に目標を立てさせて、その達成度を見るなどと書けば、低めの目標を掲げるのが賢い人間というものであろう。成約件数を基準に挙げれば、件数を稼ごうとして採算度外視で契約をとってくる愚か者が必ず出てくる。そして、評価項目に書いていないような新しい仕事には誰も挑戦しなくなる。それをあなたは自分の目で見てきたはずだ。
どうか、十年先の未来を考え、希望の持てる事業とそれを支える人材を育ててほしい。それに適したシステムは、成果主義ではない。日本型年功制の方なのだ。せめて若者が、日々の生活の不安におびえることなく、仕事に夢中になって取り組めるような日本型年功制的な環境作りを心がけてほしい。彼らに仕事の面白さを教えてやってほしい。これは一大学教師としてのお願いである。
「成果主義がいいとは私も思わない。本当は成果主義導入で、それまでのシステムを壊したかったんですよ」と某社幹部は述懐した。そして組織は無残にも崩壊した。だから導入は正解だったなどという詭弁(きべん)を許してはいけない。
成果主義を導入しようとする人は、今のままではいけないと口にする。しかし同時に、結果的には日本型年功制の運用改善に落ち着く可能性が大だとも口にする。そこまで分かっているのなら、寄り道せずに、まっすぐにそこを目指すのが、従業員の生活を預かる人間のするべきことであろう。日本型年功制の運用改善こそベスト。どうかそのことに早く気がついてほしい。
たかはし・のぶお 57年生まれ。