2004年10月19日講義メモ
経済(史)と政治(史)の関連・・・20世紀前半は、どのような時代と考えればいいのか?
基本的に重要な事実・・・第一次世界大戦を引き起こした諸要因が未解決のまま残った時代。
高度な資本主義の発達・高度な工業生産力の発達、資源・原料・商品市場・資本市場をめぐる競争。
そのさい、経済外的諸要因が重要な役割。
世界において列強が植民地と勢力圏を分割し、その再分配をめぐって争うが帝国主義・植民地主義の時代
そして、世界経済恐慌・大量失業が発生するような資本主義の深刻な問題の露呈の時期。
しかし、単純に過去のことといえるか?
過去の諸要因と現在の世界の諸問題に関連性はないか?問題の背後にある諸要因に共通性はないか?
前回講義での例示(新聞記事・切り抜き配布)・・・東部ドイツ(ザクセン州、ブランデンブルク州)における選挙結果
左翼では、旧社会主義統一党の流れを汲む民主社会党の躍進・・・ブランデンブルク州で、第2党だったキリスト教民主党(コール政権として長期政権を維持した保守系の党)を抜いて、現在の国政の与党である社会民主党に迫る勢い。
右翼ではナチズムへの共感を隠さない極右政党ドイツ国家民主党の躍進・・・ザクセン州で、議席数ゼロから一挙に12議席。
ナチズムに対する反省がきわめて厳しく深く行われているとされるドイツで、この極右勢力の躍進をどう考えればいいのか?
過去の悲劇から何を学ぶべきか?
背景に、大量失業(20%にせまる勢い)、失業保険支給基準の厳格化、負担増の年金改革など。
東西ドイツ統合の重荷とヨーロッパ統合の重荷・・・二つの統合の積極面・プラスの面と、二重の重荷
極右勢力の主張する排外主義・民族主義(ナショナリズム)は、本当の意味で救いとなるのか?
建設的な解決策とは?
ヨーロッパが二つの世界大戦からまなんだこと、また現在も全体として追及していることは、偏狭なナショナリズムの克服、近隣諸国との対立や憎悪をあおるナショナリズム(排外的ナショナリズム)を克服し、建設的で平和的なナショナリズムを打ちたて強化すること。建設的平和的なナショナリズムは、リージョナリズムを求める。ヨーロッパという広い地域での経済的安定を樹立しようという発想・・・EU統合史
参考文献:拙稿:EUの「統合の前提−世界大戦・総力戦と水平的地域的統合の社会史的必然性―」永岑・廣田編『ヨーロッパ統合の社会史―背景・論理・展望―』日本経済評論社、2,004年、第2章。
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極右勢力と民衆
ナチズムと民衆‐この古くて新しい問題をどう考えるか‐
『歴史地理教育』誌インタヴュー:予定設問に対する準備メモを下敷きに。
(インタヴュー掲載記事は、【特集・ナチスの時代】『歴史地理教育』No.651、2003年3月)
1.
ナチズムとは? ヒトラー・ナチ党の考え方とは?
拙著『独ソ戦とホロコースト』(日本経済評論社、2001年)、および『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』(同文舘、1994年)が示していること(示そうとしたこと)は、ヒトラー・ナチズムの論理と行動・・・人種主義、帝国主義、マイノリティ抑圧、自民族至上主義(極端なナショナリズム、極端な愛国心・排外的な愛国心)、独裁、武力による領土拡張、ユダヤ人の迫害から抹殺政策への移行、実行
2.
ナチズムへの「民衆の熱狂的な支持」をどう取り扱うか?
拙著が扱う独ソ戦期ともなれば、すなわちヨーロッパ戦争が膠着し、ユダヤ人迫害からユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)政策の過程が進む時期は、決して、「民衆の熱狂的支持」とはいえない。
むしろ、民衆の気持ちが戦争の厳しさのなかでヒトラー・ナチズムにたいする熱狂から冷却へと移行するなかで、ドイツ人民衆が第1次世界大戦の敗北の体験を深刻に想起せざるを得ない状況が進展する。だからこそ、ライヒ保安本部・ナチ・エリート(各地のナチ等第管区指導者)がユダヤ人迫害政策から追放、そして殺害へと政策を過激化させ、高進した。
ドイツ人民衆は、「移住」させられるユダヤ人を傍観してみているが、熱狂してそれを推進しようとしている姿は見られない。
ヒトラーは、長期戦化、戦況の悪化とともに、民衆動員の前には姿を現さなくなった。
ヒトラーに対して民衆が熱狂的に指示している映像は、1940年のパリ入城まで、すなわち電撃線勝利の段階までというのが基本的事実ではないか。
3. 「なぜナチズムが起こったか」
第1次世界大戦が総力戦になったこと、ドイツが敗北したこと、その結果。
総力戦から脱出策の一つとして1917年にロシアで、1918年にドイツで左翼(マルクス主義など)による革命がおきたこと・・・キールにおける水兵の反乱、
第1次世界大戦の結果としてのヴェルサイユ体制が、帝国主義の論理で打ち立てられたこと。敗者に戦争責任ありとし、敗者から領土・植民地を奪い、敗者に賠償金を課すという問題。
勝者(イギリス、フランス、アメリカ、日本など)は植民地・帝国を維持。
二〇世紀の高度に工業力が発達し、経済の有機的関連が全国民・全国・さらには世界を網の目で結び付けている段階では、戦争は必然的に全経済構造を関係し、国民の全体、全階層を巻き込むものとなる。すなわち、総力戦とならざるを得ない.国民の総力を結集した戦争とならざるを得ない。
総力戦のために国民大衆を動員すること、国民大衆の戦争として戦争を行うことが必然となる。
ナチズムの場合、まさに、敗戦の体験から、国民を一まとめにすることの重要性を一番強く認識した。国民の一人一人までを総動員するにはどうしたらいいか、国民全体の利益を実現するものとして世界強国を建設すること、これがヒトラーに思想構造の根幹にあった。
4.
「なぜそうした事態になっていったのか?」
ヴェルサイユ条約からすれば、敗北すれば、すべての責任を負わされ、奴隷的屈辱の状態に貶められる、というのがドイツの体験であり、逆に、イギリスなども、ドイツに敗北すればどうなるかわからない、戦争責任をすべて負わされる、という過去の経験と力の論理の構造。
無賠償・無併合の論理が、ヴェルサイユ体制で実現しなかった。すなわち、第1次大戦の悲劇を通じても、なお、帝国主義の克服を先進帝国主義国が行えなかった。
帝国主義の世界的大衆的民衆的克服は、第二次世界大戦の総力戦の巨大な悲劇を通してはじめて。
二つの世界大戦の経験を通して始めて、反帝国主義・反植民地主義が世界の公理として確立。危うい冷戦をかろうじて持ちこたえ、戦後半世紀の全世界の人々の力でなんとか維持されてきたのではないか。
世界的な多面的重層的な民主主義の未成熟。
5. 「民主主義や批判派はなぜ支持されなかったのか」
(1) 支持の変遷。革命期・革命後数年、国民大衆の広汎な層から支持された。
(2) ワイマール体制の成立は、11月革命によるものであり、平和とパンを求める兵士・労働者・農民など全国民的支持によって実現した。その意味で民主主義が勝利した。
(3) ところが、世界で最も民主主義的な体制のワイマール体制は、ヴェルサイユ体制という深刻な問題を孕む世界体制のなかで道を歩み始めた。
(4) 第1次世界大戦のつけ(莫大な財政赤字と賠償問題)が戦後危機を引き起こし、民主主義体制を崩壊させるような事件(カップ一揆、フランスのルール占領や戦後インフレなど経済的混乱、ヒトラー一揆=ミュンヘン一揆)が相次いで起こったが、ひとまずはアメリカの支援で、経済的政治的危機を乗り切り、相対的安定期を迎えた。
(5) 相対的安定期(1924―1929)にはワイマール体制の民主主義と自由主義が国民的に支持された。ヒトラー・ナチ党のような過激な極右勢力は小さな政党にとどまっていた。
(6) しかし、大恐慌がアメリカを、そしてドイツを襲った。
(7) アメリカに発した経済恐慌は、アメリカ資本に依存していたドイツに大打撃となった。恐慌は世界に拡大し、大恐慌となった。ドイツ経済の復興安定をささせていたアメリカ資本などが引き上げ、ドイツは奈落の底に向かった。ワイマール議会体制で恐慌からの脱出策が成功しなかった。そのプロセスでナチスが勢力を拡大した。ナチスは、中間から右の国民大衆を結集して、急速に勢力を拡大し、第1党に上りつめた。
(8) だが、ナチスの帝国主義・人種主義・民族主義を批判する勢力、すなわちドイツ社会民主党やドイツ共産党など批判派に対する支持は、恐慌期といえども、相当な割合だった。とくに、ドイツ共産党の選挙での得票はむしろ増えた。
(9) ナチスと保守勢力は、恐慌脱出のため、「国民的結集」を目的とし、名目として、手を組むことになった。
(10) 「国民的結集」の政府である第1次ヒトラー政権は、左翼弾圧・独裁体制構築をはじめから目的とし、国会炎上事件などを通じて、批判派を非合法化し、逮捕し、それを実現していった。民主主義派や批判派は、弾圧され、投獄され、暴行を加えられ、国民との結合を奪われた。弾圧下の1933年3月選挙でも、社会民主党約800万、ドイツ共産党約400万票を獲得しており、多数の国民の支持があった。そのような国民的支持を背景にした政党の存在とその存在意義を奪うものとして、1933年3月の「全権委任法」があった。その成立は、民主主義的議会制度の破壊だった。
(11) 自分たちの支持政党を失った国民大衆に与えられたのは、「国民的政党」としてのナチ党であり、ナチ党は、その国民的性格を実証するために、再軍備を牽引車とする景気回復の諸政策を実行した。
(12) 急速な景気回復、数年での完全雇用実現で、ベルリン・オリンピックなどで、ナチ党の支持基盤は拡大した。軍需景気を梃子とする経済回復、完全雇用でしかなかったという厳しい現実は、再軍備がそうとうに進展して、国家財政が危なくなっても、国民大衆にはわからなかった。
(13) 軍需景気・再軍備景気の路線は、武力を背景にした国際的要求実現の政策と裏腹の関係にあり、国際危機を激しくしていった。ズデーテン併合(1938年10月)、チェコソロヴァキア解体(1939年3月)、ダンツィヒ問題からポーランド侵攻へ(1939年)と、軍事決着への道が推進された。
(14) ヴェルサイユ体制が孕んでいた問題を、このプロセスでナチスは逆手に取った。ラインラント進駐、オーストリア併合などは主権国家の権利の回復、諸国民の対等平等、民族自決など、国際的な民主主義原則を活用して、国民的熱狂を獲得しながら実現した(できた)。
(15) ドイツ国民の「民主主義」的意識は、このような政策においては活用され、実現された。民主主義派が実現すべき課題、民主主義派だけが本当に平和的に解決できる問題を、ナチスが実現した。民主主義的な「革命の課題を反革命が実現する」ということになった。だから、国民は、その「成果」=民主主義の実現(と感じられたこと)に熱狂した。
(16) それを実行する政党=ナチ党が帝国主義的民族主義・戦争政策実行の政党であることは、まだ普通の国民意識の表面からは消えていた。むしろ、ヴェルサイユ体制の帝国主義的政策を打破するという民主主義的側面が、大衆の心をつかんだ。レニ・リーフェンシュタール(ベルリン・オリンピックの映画監督として有名)の発言!
(17) 世界戦争の悲劇からまなばなければならない。ナチズム(自民族至上主義・人種主義と帝国主義の論理)や権威主義的勢力と民主主義派・批判派の諸勢力の対立としのぎ合いの全プロセスから、民主主義派・批判派の実力を強靭にしていくしかないことがわかる。民主主義派が、実力を国民的に拡大し、政治的経済的な問題処理能力を身につけ、文化的精神的に平和の論理を強靭にして必要がある。方法的見地:予防歴史学・建設的創造的歴史学の見地・・・悲劇を予防し、人類の歴史的到達点を踏まえ、前進させ、より人間的な社会を地球に建設していくための歴史認識・歴史科学・歴史学。
U.インタヴュー設問に関連して:
設問1.ユダヤ人は「なぜ憎まれたのか」→「なぜ殺されたのか」(という疑問)
(1)憎悪の論理=反ユダヤ主義(=社会の当面する問題との闘いの論理の一形態)、その思想潮流…差別・抑圧・憎悪の論理…その時代その時代の「悪」、「罪」、災害、災難の責任をユダヤ人にありとするイデオロギー(=闘いの論理、悪や罪災害・災難の真の解決ではなく、鉾先をそらす論理)。問題の根源をユダヤ人に「還元」していく手法。
キリスト教社会で2000年にわたるユダヤ人批判の伝統がある[1]。
ルター・・・「ユダヤ人とユダヤ人の嘘」におけるユダヤ教批判[2]
(2)帝国主義の論理・・・19世紀末―20世紀前半…帝国主義の時代(イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、アメリカ合衆国、オランダ、ベルギー、そして日本)。
ヒトラー・ナチズムの基軸目標としての世界強国建設、東方大帝国建設。
ヨーロッパにおける資本主義の発展と平行して、19世紀後半以降、ナショナリズム・民族主義が強い潮流となり、帝国主義の植民地争奪、植民地の支配抑圧のなかで、人種主義が台頭し、強まった。
宗教的な反ユダヤ主義の土壌の上に、人種主義的なナショナリズム・民族主義(帝国主義的民族主義、帝国主義的人種主義)が反ユダヤ主義を組みこむ。
ヒトラーはそのような思想潮流を自分のドイツ民族至上主義(ゲルマン民族、アーリア人種至上主義)の思想体系に位置付け、ユダヤ人を「犯罪人種」「犯罪民族」といった概念で最底辺に位置付け、差別抑圧することを正当化する。
ヒトラーはドイツ民族の栄光を切望し、世界強国ドイツの建設を自分の理想とした。
ヒトラーと多くのドイツ人にとって、第1次世界大戦はそのための戦争だった。
しかし、第1次世界大戦は敗戦という結果に終わり、ヴェルサイユ体制となった。平和とパンを求める11月革命によって戦争が終わり、左翼・革命勢力の政権によって講和が実現された。
ヒトラーをはじめとするドイツ帝国主義者にとっては、それら全体が容認できないことだった。ドイツ敗北と屈辱的ヴェルサイユ体制に責任あるものを求めなければならなかった。それは左翼・マルクス主義であり、それはユダヤ人の思想だとされた。敗戦、革命、左翼、ヴェルサイユの屈辱、戦後の経済混乱など、すべてはけっきょくのところユダヤ人・ユダヤ民族に責任があるものとされた。・・・反ユダヤ主義のイデオロギー回路=還元主義・・・ヒトラーの『わが闘争』で、すべての悪や害はユダヤ人に「還元できる」としている。
(3)差別・抑圧・憎悪の高進の結果としての迫害→殺害
ユダヤ人が大量に殺されるのはいつからか、ということが重要になる。
それはなんといってもドイツがソ連攻撃を開始してからである。
キーワード=「ユダヤ的ボルシェヴィズム」、ボルシェヴィズムの根源にあるものとしてのユダヤ人・ユダヤ民族、ユダヤ的ボルシェヴィズムが権力を握る国家がソ連という見方。ソ連の一般民衆と国家・党の指導者層を分離する武器としての反ユダヤ主義。
ソ連の激しい抵抗・・・ソ連における戦闘・進軍による荒廃地域の拡大。これに対し、ボルシェヴィキとユダヤ人を殲滅する強烈な戦闘心の高揚、広大な占領地域の治安平定を進める論理=ドイツに抵抗し、占領地の経済的諸困難の原因として、ユダヤ人迫害へ、そしてユダヤ人殺害へ。
ソ連の抵抗、そして英仏・米の抵抗と合い呼応しつつ、ドイツ支配下全域で反ドイツの多様な抵抗・・・支配下のヨーロッパの不穏要因を取り除く必要性。諸悪の根源としてのユダヤ人の排除、移送、そして殺害へ。
設問2 ホロコーストを進めた人はどんなドイツ人か?
(1)推進主体とその思想・イデオロギー・・・ユダヤ人大量殺害の中心的担い手・実行主体は、親衛隊最高指導者・ドイツ警察長官ヒムラーが率いる親衛隊・警察のエリート機構であり、ドイツ第三帝国の帝国保安本部である。これは治安警察・保安部長官ハイドリヒのもとに、秘密国家警察(ゲシュタポ)、刑事警察、治安情報収集機構としての保安部を統合したものである。対ソ戦初期から戦闘が終了した後に進駐しソ連各地でボルシェヴィキやパルチザン、そして大量のユダヤ人を殺害し、占領地で軍後方地域の治安平定に狂奔したのは、帝国保安本部の下部組織であり、アインザッツグルッペ(治安警察・保安部の機動部隊)であった。1942年春以降、ポーランドや西方占領地(オランダ、ベルギー、フランスなど)からユダヤ人を「東方へ移送」し、実際には絶滅収容所(ベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカ、アウシュヴィッツ、マイダネク、ヘウムノ)に送りこんだ中心部署は、ライヒ保安本部第W局B4(課長アイヒマン)であった。
ドイツとドイツ占領下の警察機構を掌握し、ホロコーストを中核的に推進したライヒ保安本部を実際に動かしていたテクノクラートは約300人ほどであった。素質に恵まれ、異常に若く、堅実な−ほとんどが法学部出身の―エリートだった。彼らに特徴的なのは、高い知的水準と親衛隊の熱狂的イデオロギーとの結合であった。彼ら親衛隊・警察のエリートは、第1次世界大戦の敗北の克服を共通の目標にし、世界強国ドイツ、東方大帝国ドイツの建設という基本的な理念と目標の担い手であった。彼らはその理念や目標を正当化するイデオロギーとしての人種主義(優等人種と劣等人種の階層制・ヒエラルヒー、アーリア人種の優秀性、アーリア人種、ドイツ人を頂点とする人種・民族による劣等人種の支配の正当化)の狂信的な担い手であった。彼らは「政治的世代」であった。一九〇〇年頃生まれた世代、第一次世界大戦には若すぎて積極的には参加していない世代、したがって前線経験が刻み込まれてはいない世代、しかし、少年時代に戦争に巻き込まれ、それ以上に戦争の結果を直接身にしみて体験した世代である。彼ら「政治的世代」のドイツ民族主義こそはホロコーストの問題を解く鍵である。犠牲者百万人から百五十万人とされるアウシュヴィッツ収容所の司令官ヘースも、熱狂的ドイツ民族主義がその思想の核心にあった。
(2)いつ頃、どういう状況下で、迫害から絶滅政策へ
追放政策=海外移住などドイツ以外への追放・移住政策・・・ユダヤ人を迫害し、ヨーロッパから追放する政策はナチ体制下でナショナリズムの政策が過激化し、国際的危機が高まるのと平行した。パリでドイツ大使館員がユダヤ人青年に殺害された事件を契機として引き起こされた1938年11月の「水晶の夜」事件がドイツ国内からユダヤ人を追放する政策を本格化させた。ハイドリヒがその任務を託された。
開戦と種々の移送計画・・・ポーランド侵攻後、ポーランド南東ルブリン地区にユダヤ人居留地を作る構想が、ついで四〇年夏の電撃戦勝利ではフランス植民地にユダヤ人を送り込むマダガスカル計画が、さらに対ソ攻撃準備の進展のなかでシベリアなどソ連地域への移送計画が練られた。ソ連攻撃準備でこの東方移送計画は延期され、大戦勝利に全力を投入することとなった。移送計画は戦後に実施されるものとされた。
移送計画の延期・戦後移送の計画・・・対ソ攻撃開始後、勝利の熱狂下で1941年7月末、ハイドリヒがヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決の立案を関係中央官庁と調整して進めることになった。しかし、対ソ戦に電撃的に勝利する見こみはしだいになくなり、ドイツ軍の被害は飛躍的に増大した。8月以降、ソ連の抵抗は激しくなり、アインザッツグルッペの抹殺作戦は老人婦女子を含む無差別なものになっていった。ドイツ軍は短期電撃的な勝利をもくろみ、戦争の長期化、越冬体制の準備はなく、まして捕虜を長期に収容する施設やその宿泊・食糧の準備もなかった。最終的には300万人以上のソ連戦時捕虜が死亡したが、その多くが緒戦段階で捕虜となり、41年末までに死亡した。
ドイツ支配下のポーランド、バルカン、チェコ、フランス、ドイツ国内でも治安状態、経済状態が悪化し、ユダヤ人排除の圧力が高まった。各地のナチ党指導者はヒトラーにユダヤ人排除を要請した。ポーランド総督府のフランク長官も41年3月から9月にかけ、ヒトラーに何度も総督府のユダヤ人の東方移送を懇請した。広大なドイツ占領下で「ごみため」のように扱われたポーランド総督府の状況、とくにユダヤ人の生活状態は厳しく、ゲットーの死亡者は非常に増えていた。
一時的回避策としての部分的疎開=移送政策・・・ついに1941年9月中旬以降、ドイツ国内やオーストリア、チェコからユダヤ人を一時的措置として東方に移送する計画が浮上した。しかし、この一時凌ぎの東方移送政策さえも、10月中旬、実行が非常に困難か不可能なことが明確になった。ルブリン地区では親衛隊・警察指導者グロボチュニクによる一酸化炭素ガスによる絶滅施設の建設が始まった。一時凌ぎとして実行された移送によってユダヤ人の一部はリガなど東方占領地で射殺され、一部は彼らの受け入れ余地を創出するため現地ゲットーのユダヤ人が射殺された。ドイツに併合されたリッツマンシュタット(ウッチ)のユダヤ人に対し、12月はじめ、近郊のヘウムノでガス自動車(ボックス型荷台に排気ガスを入れて走行中に一酸化炭素中毒死させる方法)による抹殺が始まった。
基本的政策転換(移送強行=絶滅政策へ)・・・1941年12月はじめのモスクワでのソ連の反撃、ドイツ東部軍の手痛い敗北、第三帝国の「冬の危機」、その上に日本の真珠湾攻撃(同年12月8日、現地時間では7日)を契機とする対米宣戦布告はユダヤ人問題の解決方法に決定的な転換をもたらした。
ヒトラーは39年1月30日の国会演説でふたたび世界戦争が勃発すれば、「世界のボルシェヴィキ化、すなわちユダヤ人の勝利ではなく、ユダヤ人の絶滅だ」と予言していた。いまやまさに世界戦争となった。しかも、ソ連の反撃で東部戦戦は危機にあった。
最近の研究によれば、12月12日、ヒトラーは、ゲッベルスに対し、かつての予言が「けっしてたんなる決まり文句ではない」と語り、戦時中のヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅を予告した。12月中旬から下旬、ヒトラーとヒムラーや東方占領地大臣ローゼンベルク、総督フランク、などとの会談の結果、ソ連占領地のすべてのユダヤ人の殺害が基本指針となり、ガスによる殺害の計画が推進されることになった。
ヒムラー、ハイドリヒが進めてきた「東方への移送」政策は、いまや絶滅収容所への移送強行策となり、それが基本政策となった。フランクは12月16日の総督府閣議で、「帝国の全構造を維持するためには、ユダヤ人と出会うところ、可能なところではどこでも、われわれが彼らを絶滅しなければならないのだ」と断言するにいたった。彼によればユダヤ人は「異常に害の大きな大食漢」だった。ユダヤ人に対する「仮借なき処置は発疹チフスとのエネルギッシュな闘いに属する」ことだともされた。そのユダヤ人を総督府は250万人持っていた。
ヴァンゼー会議・・・42年1月20日、ベルリン郊外ヴァンゼー(Am
Großen Wannsee56-58の豪邸=ユダヤ人富豪の邸宅だったのを親衛隊が取得・ハイドリヒが担当した国際刑事警察の部署の建物としても利用)で、「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の最終解決」を議題とする会議が開催された。
会議では移送強行の基本政策は決定済みだった。その基本政策を踏まえて、ドイツからユダヤ人を排除することが重要な問題となった。すなわち、ドイツ・ユダヤ人の定義がいちばん厄介な問題となった。ドイツ人とユダヤ人の混血児や婚姻関係をどう処理するかが複雑だった。ドイツ人の血が問題だった。ドイツ人の親類縁者の同様や反対が問題だった。
逆にいえば、完全ユダヤ人やドイツ以外のユダヤ人の移送に関してはなんら問題にならなかった。
総督府の代表は、移送作戦をまず最初に総督府から「開始するよう」要請した。総督府の場合、輸送問題が決して大きくないとした。実際に移送先・絶滅収容所は総督府内部にあった。逆に、「まさに」総督府ではユダヤ人は伝染病の保菌者として「はっきりとした危険」の要因だとした。総督府次官ビューラーは、移送対象となるユダヤ人の数を約250万人とし、「そのほとんどが労働不能である」とした。
42年3月以降、ルブリン地区のユダヤ人の「東方移送」が最初に建設されたベウゼッツ絶滅収容所へ移送された。ついで建設されたソビボールとトレブリンカの絶滅収容所へ移送が行われた。42年12月31日現在総督府のユダヤ人の数は、約30万人にまで減少していた[3]。
(3)ユダヤ人の労働投入と絶滅との関係は? 労働力政策と絶滅政策の相互関係
生存条件がポーランドやソ連のユダヤ人よりも良好だったライヒのユダヤ人でも、「異常な高齢化と生命の弱さLebensschwäche」のため、「異常な死亡超過」(誕生マイナス死亡)だった[4]。
総督府のユダヤ人ではっきりわかるように、ドイツ占領下の2年間の劣悪な生活条件でほとんどのものが労働不能と見なされるようになっていた。労働不能者の運命は、移送=抹殺であった。ごく一部の労働能力ある人びとがゲットー内に作られた工場や作業上で仕事にありついた。
リッツマンシュタット(ウッチ)のゲットーの例に見られるように、軍需に関連する小物類などを製造している場合、生きのびるチャンスがあった。不穏分子・危険分子として、ユダヤ人をヒムラーはできるだけ速やかに抹殺したかったが、労働力不足、軍需経済上の必要との折り合いできわめて限定的に労働投入されたというのが実情である。
1943年はじめ、労働投入されたユダヤ人の数は、ライヒ地域(旧ドイツ、オーストリア、ベーメン・メーレン)で生活していたユダヤ人7万4979人のうち、戦時重要労働配置として2万1659人であった。
このほか、戦時重要労働配置で投入されていたのは、ケーニヒスベクル管区でソ連ユダヤ人1万8435人、ブレスラウのシュメルト収容所に無国籍および外国籍ユダヤ人5万570人、ポーゼン管区、したがってリッツマンシュタット(ウッチ)を管轄する管区で、ゲットーにおける労働配置と収容所労働配置で旧ポーランド・ユダヤ人9万5112人であった。
強制収容所には、1942年12月31日現在で、9127人のユダヤ人がいた。そのうちおおいのは、ルブリン地区強制収容所の7342人、アウシュヴィッツの1412人であった[5]。
(4)アウシュヴィッツ第三収容所=モノビッツの意味・・・「ドイツ経済界の共同責任(Mitverantwortung)の象徴(Sinnbild)[6]」とされる。
モノビッツ・・・イ・ゲ・ファルベンの工場建設・・・ブナ(合成ゴム)生産プラント…戦時による調達困難・可能な限りの自給(アウタルキー)戦略…総力戦の戦時経済の必然的現象[7]
「大工業と親衛隊管理部はアウシュヴィッツで驚くべきやり方で手に手を取って仕事をした。ちいさな、当初 は一時的収容施設として利用された敷地を「第三帝国」の最大の絶滅施設に建設するのは、IGファルベンの物質的援助なしには、このように短期間では不可能だっただろう。この会社は他ではほとんど入手できなくなった建設資材を自社の「戦時必需」割り当てから提供して収容所長官の諸建設計画を支援した。これに対する見かえり(反対給付)は、イ・ゲ・ファルベンの1941年4月以降のアウシュヴィッツ・モノヴィッツ工場の建設のための囚人労働者の提供であった。こうした交換取引によってはじめて、建築本部Bauleitungは、ゲーリングとヒムラーによってすでに承認されていた収容所囚人の割り当てを実際に獲得することに成功した。収容所司令官ヘースは収容所建設が停滞していることからして、囚人を引き渡すことに何の関心もなかった。だから、囚人割り当てが親衛隊によってイ・ゲ・ファルベンに強制されたわけではない。むしろ、経営指導部が1941年春の建設開始のために必要な労働力の収容所からの派遣を親衛隊との直接の協力によって現地で手に入れなければならなかったのである。この時点でアウシュヴィッツがナチス絶滅政策の中心になろうとは見とおせなかったにしても、2万5000人以上の死にイ・ゲ・ファルベンが共同責任を持つ一線は越えられたのである。[8]」
囚人の非人間的食糧事情、彼らの消耗させる冷酷な労働投入
アウシュヴィッツにおける囚人労働の利用は、「国家の強制によるものではなかった。逆に、イ・ゲ・ファルベンのマネッジメントがイニシアティヴをとってコスト的に有利な強制収容所囚人を地域の抵抗gegen lokalen Widerstandを押し切って貫徹した[9]」。
設問3 ナチスにとっての独ソ戦の意味と敗北の意味
ナチスにとっての独ソ戦の意味・・・ヒトラー・ナチスにとって、東方大帝国の建設こそが基本目標であり、その実現のためにはソ連に勝つ。原料食糧の供給地。
東方大帝国の建設は、ヒトラーが『わが闘争』以来練り上げた唯一可能な領土拡張の道だった。東方大帝国を建設してこそ、大英帝国、アメリカ合衆国、日本のアジア帝国(大東亜共栄圏)などとの世界制覇の闘争を行えるというのが基本の考え方。
ナチスにとっての敗北の意味・・・ナチス・ヒトラーにとって、「冬の危機」以降しだいに明確になってきたソ連への敗北はボルシェヴィキへの敗北であり、第1次世界大戦で誕生したボルシェヴィキ型社会主義の勝利を意味した。したがって、ヒトラーが39年1月30日で予言したこととは逆に、世界大戦が始まって世界のボルシェヴィキ化、すなわち「ユダヤ人の勝利」が迫ってくることになる。これこそなんとしても阻止しなければならないというのがヒトラー、ヒムラーの課題意識。
ナチスの占領政策とポーランド、白ロシア、ウクライナ・ソ連の東欧系ユダヤ人・・・
1.カトリックが支配的なポーランド、バルト三国やウクライナなどにおけるキリスト教(ギリシャ正教、ロシア正教)・・・宗教的反ユダヤ主義の土壌
2.宗教的反ユダヤ主義と反コミュニズム・反スターリニズム・反ボルシェヴィズムとの結合・・・スターリニズムの社会帝国主義が、ポーランドやバルト諸国の反ユダヤ主義を刺激し、ナチス占領軍・ドイツ治安部隊の後押し(精神的物質的)で、ポグロム
3.ナチス・ドイツの反ボルシェヴィズム・反ユダヤ主義との共鳴関係
4.ナチス・ドイツはその軍への指針、親衛隊の行動指針において、現地民衆の反ユダヤ主義を利用、鼓舞・・・占領支配の武器に。
諸悪の根源を、占領者ドイツに向けるのではなく、ユダヤ人、ボルシェヴィキに向ける
そのような操作の武器としての反ユダヤ主義。
ドイツも含めたヨーロッパ諸国民・および人類にとってのナチスの敗北の意味・・・帝国の論理、帝国主義の原理の世界的破産、民主主義の原理の勝利、さしあたりは、ドイツ帝国主義支配の廃止という限定的なもので、民主主義や自由主義の原理の展開は時間をかけて。冷戦体制という枠組みのなかで。
西側ヨーロッパでも東側でも「共同体」の理念と論理
西側・・・ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体→ヨーロッパ経済共同体→ヨーロッパ共同体
東側・・・コメコンなど。
その帝国の論理を撃滅する手段が武力によるものでしかありえなかった現実・・・武力解放の中心的担い手の相互不信(相互の経済システムの根本的違い、一方は中央集権的戦時統制経済のソ連東欧圏、他方は自由主義・資本主義・社会的市場経済・福祉国家の西側陣営)=冷戦
相互不信=冷戦の解体は、緊張とベトナムなど世界各地の局地戦を孕みつつ、大局的な列強レベルの直接の熱い戦争を阻止した戦後五〇年の歴史=「平和」の歴史がもたらす。
歴史把握の新しい可能性・・・ソ連東欧の解体→冷戦思考・冷戦の桎梏からの解放、逆にまた、一面的な西側の論理に対する反発。
設問4 ホロコースト政策が進行したのはなぜか?
「戦時下の政治力学」として捉えるのが私の見地。
「戦時下の政治力学」が、「合理的」であるとみるか、「非合理的」であるとみるか、このものさしをあてることに私は違和感を持つ。
独ソ戦の展開から世界大戦化、同時に、総力戦化とドイツ敗退の諸要因の組み合わせ
激突する独ソの大軍、その後方地域問題、
激突する連合軍対枢軸、その後方問題、治安・経済問題
「殺す側の論理」・ヒトラー・ヒムラー・ハイドリヒ・帝国保安本部の論理
治安問題、
反撃・抵抗の諸勢力の鎮圧、その根源・源泉としてのユダヤ人
「殺される側の論理」・・・一般ユダヤ人大衆にとってはまったく関係のない罪、
ただ意味もわからず迫害されるだけ、
「理解不可能」「表象不可能」
「英米の論理」・・・第三帝国撃破の論理の優先・・・軍事優先の戦略、そこでは特別なマイノリティへの配慮はない。
英米は、ユダヤ人迫害、抹殺の進行を独ソ戦初期から無線傍受などでキャッチ[10]。
しかし、ユダヤ人救済という特別の措置はとらず。警告措置もとらなかった。
「歯止めはなぜなかったか?」
ナチスの側・「殺す側」・・・移送政策が挫折した段階で、殺す以外の選択肢を見つけられなかった.むしろ、殺すことを正当化するのが敗退の現実であり、憎悪の捌け口。
「ユダヤ人の側」・・・長期にわたり抵抗の武器を奪われていた。抵抗の意志ある者はレジスタンスなどへ。
ナチスを撃滅する力は、ソ連と米英の軍事力、それに呼応したヨーロッパ民衆の抵抗力しかなかった。その途中の経過では、抵抗圧力が、弱いもの・マイノリティ・ユダヤ人に集中された。
「教育の課題」・・・差別意識を持った人間が一大勢力になり、権力を握り、戦争をはじめ、そして敗北過程に入ったら、どうしようもない。抹殺の論理が当然の論理となる。
差別意識、差別勢力は、小さな芽の内に発見し、抑止する必要がある。
現在もインターネットなどで、差別意識が横行。それに対する抵抗力、批判力を要請する必要がある。
設問5 「ホロコースト[11]」から、普通の日本人がいま考えることはなにか?
ホロコースト・・・実に多様な諸要因・ベクトル群の合成としてホロコーストという結果が出現したのであり、引き起こされた。「六百万人の犠牲者」といったホロコーストの結果を知ることは大切だが、それだけでは不充分である。
その結果を引き起こした諸要因をできるだけ立体的に認識することが求められる。そのことが、ふたたびその危険に近づかないこと、その現象を引き起こさないために必要である。そして、それはたんに少数の人が認識すればいいというものではなく、できるだけ広範な人びとが認識しなければならない。
市民の正確で強靭な歴史認識こそが、ホロコーストを引き起こした諸要因への抵抗力となる。市民のなかに、科学的歴史認識という抗体を作りだし、強力なものにしていかなければならない。
ユダヤ人大量虐殺を引き起こした諸要因には、下記に列記したように、現在の日本や世界に存在する諸要因とおなじもの、共通のものがたくさんある。と同時に違っている諸要因もたくさんある。これらをより分け、マイノリティの迫害から殺害、マイノリティのなかでもまたその弱者(病人・老人婦女子)の殺害といった悲劇を引き起こさないようにする必要がある。
現代の世界・日本と当時とに共通する諸要因(例示)
1.宗教差別・迫害・追放
2.マイノリティ差別・迫害・追放
3.貧困、世界的大不況や大量失業
4.政治紛争の武力的解決→戦争
現代の世界・日本と当時とは違っている諸要因(例示)
1.帝国主義、植民地主義の否定
2.世界的な民主化の潮流と民主主義勢力、民主主義の政治体制
3.世界的な連帯の潮流
4.世界的な情報の相互発信・共有
現代世界も大きな二つの流れ(さまざまな中間項・中間形態)があることはもちろん)のぶつかり合い。
ホロコーストをめぐってもしかり。すなわち、
一方の極に、否定論・極右・ネオナチ・人種主義勢力、似非科学的勢力
他方の極に、正確な歴史認識を構築しようとする民主主義的科学的勢力
そのはざまに「普通の人びと」がいる。
「普通の人びと」がどちらに引っ張られるか、これが問題。
現代人にとって、歴史の悲劇から学ぶことが、すなわち、世界史の広く深い科学的な歴史認識が、大切。
悲劇を無駄にしていけない。
悲劇からこそまなばなければならない・・・・無残に犠牲になったたくさんの人々の生命を現代に生かす道。
悲劇の諸要因の冷徹な分析・解明!!・・・・歴史科学の任務・責務、同時に、これが歴史科学をやることの面白さ・楽しさ=無数の真実(真実の諸連関)と無数の真理(真理体系)を知る喜び!!
専門研究はその一端を担う。
[1] イエスの教えは、たとえば「目には目を」「歯に歯を」の復讐の論理に対し、「右の頬を打たれれば左の頬を」というような愛の論理を対置した。イエスの教え自体にはユダヤ教徒を抑圧し差別する思想はない。しかし、キリスト教が国家の宗教、支配宗教となるに及んで、ユダヤ教・ユダヤ教徒を差別し、賎民化した。その長い伝統がヨーロッパ・キリスト教社会にある。
[2] ゴールドハーゲンはこの要素を極端に一面的に過大評価。
[3] Poliakov/ Wulf, Das Drite Reich und die
Juden, 1955(1978), S.244.
[4] Ibid., S.246.
[5] Ibid., S.246-247.
[6] Bernd C. Wagner, IG Auschwitz.
Zwangsarbeit und Vernichtung von Häftligen des Lagers Monowitz 1941-1945,
M;nchen 2000, Einleitung, S.7.
[7] その深い意味は、つぎのことにある。高度に発達した工業化社会=生産の世界性、市場の世界性、原料資源調達の世界性、生産の地球的連関の時代、ところが、それが戦争で分断される。したがって、コストが高くても、生産が困難で、労働力不足でも、支配下で生産しなければならなくなる。生産の世界的展開を「広域経済圏」とはいえ狭い帝国内で、狭い地域内で自給するという不合理をやらなければならなくなる。生産と市場・消費の世界的調整を世界的に行えない人類の発達段階の現象。
[8] Bernd C. Wagner, IG Auschwitz.
Zwangsarbeit und Vernichtung von Häftligen des Lagers Monowitz 1941-1945,
M;nchen 2000, Einleitung, S.7
[9] Ibid., s.8.
[10] 石田勇治訳のアメリカの研究
[11] ホロコーストのは第二次世界大戦下で起きた悲劇であり、ホロコーストの理解は、第二次世界大戦の悲劇をどのように理解するかと深く関わる。
ある現象を多様な諸要因(諸契機)の重層的構造的組み合わせによって理解する方法に関連して、マルクスの恐慌理解・・・「世界市場恐慌はブルジョア経済のあらゆる矛盾の現実的な統合および強力的調整としてはあくされねばならない。これらの恐慌において統合される諸契機は、それゆえ、ブルジョア経済の各部面で出現し、展開されねばならぬ。そしてわれわれがこの経済のうちで前進してゆけばゆくほど、一面では、この矛盾の新たな諸規定が展開され、他面では、それのより抽象的な諸形態がより具体的な諸形態のうちに再現し包含さえることが立証されねばならない。」Marx-Lexikon zur Politischen Ökonomie,原典対訳マルクス経済学レキシコン、久留間鮫造編、大月書店、1.競争、「編集者のことば」より引用。