東京外国語大学海外事情研究所・研究報告116<資料集>『論争・ポーランド現代史の中の反ユダヤ主義』小原雅俊・松家仁、共編訳、19973月、

133<続・資料集>『論争・ポーランド現代史の中の反ユダヤ主義』小原雅俊・松家仁、共編訳、19983月。

 

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研究報告116<資料集>より

 

第一部

 

ヤン・ブウォンスキ「哀れなポーランド人がゲットーを見つめている」1987年[1]

 

p.4

中世・・・イギリスやフランスやスペインがユダヤ人を追放したときには、彼らは他ならぬポーランドに避難所を見いだした・・・

 

ところが、

 

18世紀の半ばからは、近代のヨーロッパでは、ポーランドの非寛容はいつも悩みの種・・・

 

しかし、

 

18世紀末までに3次に渡る分割で、ポーランドは、プロイセン、ロシア、オーストリアによって分割された。

 

 強国・大国による隷属下のポーランド・・・・「私たちは隷属下にあったのです。まず第一に自分のことを考えなければなりませんでした。」

 

「・・・ユダヤ人はポーランド語さえ話しませんでした・・・・」

 

「最初の頃のポグロムが起こったのはウクライナで・・・。それを挑発したのはツァーリの警察[2]・・・・」

 

p.5

第一次大戦後、ポーランドは独立回復・・・「そこにロシアからのたくさんのユダヤ人」が流入、1934年以降は、「ドイツから受け入れ」

 そのポーランドで、「ユダヤ人の境遇は少しも改善されませんでした。逆に反ユダヤ主義がますます陰険になっていきました・・・」「ユダヤ人をまるで二級公民のように扱い・・・」

 

1942年にはワルシャワでは8人のポーランド人に対して市内のユダヤ人が4人いた・・・」

ポーランド人のなかには、「ユダヤ人を見分けて彼らをドイツ人に引き渡した」ものもいた・・・

 

ポーランドにおけるドイツ占領・・・「ユダヤ人をひとり匿ったかどで家族全員が銃殺された・・・子どもも含めて・・・」

 

 

キリスト教世界全体の問題:

p.11

第二次大戦後のキリスト教社会における反ユダヤ主義の反省・・・脚注()196265年に開かれた第2ヴァティカン公会議の三つの宣言のうち、

Nostora aetate(「キリスト教以外の諸宗教に対する境界の態度についての宣言」、通称『諸宗教宣言』)は、最後にイエスの死を「当時のすべてのユダヤ人に、ましてや現代のユダヤ人に負わせてはならず、キリスト教世界においてユダヤ人に対して行われた迫害は嘆かわしいことである」と述べた。

キリスト教教会の側からのユダヤ人に対する姿勢の根本的転換をもたらしたものとされる。

 

「ユダヤ人を“呪われた”民族、キリストの死に責任がある民族とみなす、従って共同体から締め出され、切り離され、排斥される“べき”民族とみな」してきたキリスト教社会(と「教会」)の間違いを認める。

 

「古代には一神教教徒としてのユダヤ人は嫌われていた・・・一方中世にはヨーロッパの接着剤は宗教的一体性であったから、ユダヤ人だけでなく、神を違った仕方で、あるいは違った神を崇拝していた者は皆、たちどころによそ者・・・と見えるようになった・・・・」

キリスト教の「教会の宗教行事がユダヤ人に対する反感を煽り、彼らを辱め、孤立させておいた・・・・」

 

 

19世紀同化主義の問題点

p.12

19世紀の同化主義的な人々や「最高に開明的な知性ですら」、「もしユダヤ人であることをやめるなら」、「もし“文明化する”のなら入れてあげましょう」と。

あるいは、「ユダヤ人の影響力を制限することに協力するユダヤ人だけをポーランド人と認めてよい、といった具合」

 

被支配者・被抑圧者の中での問題性

ポーランドは、ヒトラー・ドイツに攻撃され、占領されて、「家を失い、その家の中で占領者がユダヤ人を殺し始めた。・・・・」

しかし、ポーランド人の中で、多かれ少なかれ反ユダヤ主義の感情や観念を持っていた人々、あるいは政治的に無関心な人々は、「それは自分たちの問題ではないとみなし」たり、「ヒトラーがわれわれのためにユダヤ人“問題”を片付けてくれたのをひそかに喜んでいた・・・・」

 

 

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p.16ff

スタニスワフ・サルモノヴィッチ「ステレオタイプの深いねと長い生命」1987年

 

冒頭のブウォンスキ教授のエッセーに対するたくさんの批判。

 

ヴウォンスキ批判のなかに表出された現代ポーランドの「反ユダヤ主義感情」

 

p.17

「若い世代(40歳以下)の大部分はおそらく生まれてこの方本物のユダヤ人を見たことがないに違いない。ところが神話はなおも続いている。・・・・今日のフランス―民主主義と博愛の揺籃の地―に反ユダヤ主義がしつこく残っているのと同じように」

 

反ユダヤ主義の「ステレオタイプは生命力が長い」、「特徴的なのは主として農村並びに小都市出身のある種の青少年社会の現象・・・・」

 

国民民主党Narodwa Demokracja[3]のイデオロギーに起源を持つ有害な伝統」としての反ユダヤ主義

 

p.18

にもかかわらず、「けっしてそれほど小規模なものであったわけではないポーランド人の、占領期のユダヤ人に対する支援・・・・」

 

「われわれの面前でなされたドイツ人による絶滅の実際がポーランド社会に持ち込んだ(あるいは表面化させた)醜いことがらの一切について包み隠さず大声で語ることが必要だ・・・」ドイツ占領当局に協力したポーランド警察、「紺色警察などの不名誉な役割は言わずもがな、ある時は強欲なポーランド農民の、ある時はぞっとするようなポーランド小市民の、・・・(生き残った被害者が苦い思いで記憶にとどめた)役割について語ることがあまりにも少なかった」

 

p.19

反ポーランド主義のステレオタイプ・・・・「―主にアングロサクソン世界で広がった―18世紀のプロイセン・ロシアによるポーランド分割の正当性を根拠づけるプロパガンダのなかにその起源がある」

 「反ポーランド主義的な見解の中心的な担い手は、ポーランド出身のユダヤ人ではなく、時には本物のポーランド人を一度も目にしたことがない人々・・・」

p.20

反ポーランド主義の主要な宣伝の担い手・・・「ポーランドとポーランド人について、プロイセンの文学とプロイセンの歴史記述(フライタークG.Freytag、トライチュケTreischke、その他何百もの二流、三流の彼らのエピゴーネンたち)が、表現し、,広めたステレオタイプ・・・」

 

平均的アメリカ人のポーランド人イメージ・・・「アメリカ合衆国へ移住したポーランド人の最初の世代が、主に農村部の、遅れた地域出身の人々・・・・総じて否定的なポーランド人像のためにたっぷり滋養分を届けた・・・・教養のない、強欲な無骨者、荒くれ者、ギャングでなければ大酒のみ、そして反ユダヤ主義者・・・というものである。」

 

反ユダヤ主義・・・「今日では一般に認められているキリスト教会のきわめて大きな不名誉な役割・・・・」

 

 

「西欧の民主主義と自由主義の時代以前にどこでユダヤ人が安穏に暮らせたろうか」

 

「16−18世紀のシュラフタ国家[4]における寛容がユダヤ人社会にもたらしたすぐれた果実・・・・」

 

p.21「今日われわれはよく知っている(W.Lacquerなど)が、ヨーロッパのユダヤ人の、せめて一部分なりと救うために多くのことを成し遂げることが可能であった1941~44年の間に、アメリカ・アングロサクソンの指導者層は―そして当時中立を保っていた国々の政府と同様に―ドイツの計画の実現を阻止するために事実上何もしなかったことである。同じ指導層が、とりわけアメリカ合衆国の指導層が、今日しばしば、ヒロイズムあるいはヒューマニズムの不十分さを理由に・・・ポーランド社会批判の先頭に立っているのである。いったいこれがアングロサクソン的(ステレオタイプだ!)偽善でなくてなんであろうか?」

 

 

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ヴィワディスワフ・シワ=ノヴィツキ「ヤン・ブウォンスキに回答する」1987

 

 

p.24 「あの残酷な占領者のテロが強まった時期のポーランド人の英雄的行為のことを記憶すべき・・・・おそろしいい占領の歳月のわれわれの姿勢を恥じる必要はない・・・苦しみに喘ぐヨーロッパの中で、この点でわれわれを見下し、われわれの道徳的義務についてわれわれに説教できるような国民を挙げるのは容易ではないに違いない」

 

p.25-26ユダヤ人は何世紀にもわたって民族として生き延びてきた。・・・・西欧の国々を追放されてポーランドに逃れ、そこにわが家を見出した・・・彼らはみずからの「祖国」を追われて、世界の多くの国へと向かった。バラバラに小グループに分かれて生き延びながら、どこにあっても互いの間の連絡を見出すすべを知っていた。きわめて大きな部分がユダヤ人のまま留まった。ポーランドとヨーロッパにおいてのみならず、アメリカ諸大陸においてもである。・・・『彼を十字架に付けよ、十字架に付けよ』と叫んだ人々の血の1パーセントしか流れていないことをたとえこの上なく明らかなこととして証明できるにせよ―彼らの民族は生き延びているのである。・・・」

 

p.26

「異邦の地で、異なる宗教を信じ異なる習慣を持った人々の中で幾世紀にもわたって生き延びるためには―みずからの独自性を保つ必要があった。・・・彼らが暮らしていた社会の中に自らの社会を作り出さねばならなかった。・・・・」

 

「この自分自身の社会を作り出し、互いの結びつきを保ちながら、ユダヤ人たちは彼らが暮らしていた地域の民族のために著名な学者や偉大な芸術家や知識人、政治家、大金融業者、エコノミスト、経営者、詩人、すぐれた作家を提供してきたし、今も提供している。自らの国家を持たないために彼らは困難な条件のもとで活躍していたが、それが彼らに、遠い昔からの彼らの文化の伝統にもとづいた類まれな知的努力を要求することになり、世界のどの民族にもできなかった木分けて非凡な人間を生み出したのである。この人たちもまた極めて多くの場合、普通自らのユダヤ社会と何らかの結びつきを保ってきたのであった。

 しかし、他国の領土の、別の民族集団の中での独特な暮らしの問題、少数民族の暮らしの問題はポーランドでは特に鮮明に姿を現した。それはまさに、遠い昔からの(宗教的)寛容の結果、国内の住民全体に対するユダヤ人住民の比率が最も高かったためであった。しかも、この住民はほとんどもっぱら都市の中心地に居住していた結果、避けがたい難問を生じさせ、誰の罪でもない諸問題を生み出してきたのであった。」

 

p.26-27

「ポーランドで卸売業の圧倒的部分」、「小売業の大部分」、「ポーランドで大部分の資本を所有していた」のは、ポーランド人多数民族ではなく、「約10%のユダヤ人少数民族」。

p.27

 大群のユダヤ人プロレタリアートが存在・・・・ポーランド人の間でよりもユダヤ人の間で、豊かなものと貧しいものの格差がずっと大きかった」、「ユダヤ人プロレタリアート」は「地下室にではなく屋根裏部屋に、ポーランド人プロレタリアートよりも往々にしてもっとみじめな環境の中に住んでいた・・・」

 

「ポーランドの大学における反ユダヤ主義的騒動や騒々しい“入学許可定員”[5]、あるいは許しがたい座席ゲットー[6]・・・」

 

反ユダヤ主義を先鋭化する要因・・・街頭での反ユダヤ主義的騒動・・・「騒動は昂揚するナショナリズムの波からだけでなく、大部分が都市に住んでいたユダヤ人住民の方が学校に入りやすく、ユダヤ人住民の数に対して、中等学校を修了し、大学に入学するユダヤ人のパーセンテージが、中等学校卒業証書を持ち、大学に進むポーランド人住民の全ポーランド人の数に対するパーセンテージよりはるかに高かった事実からも生じていた。・・・」

 

p.27-28「この、きわめて重要な、非常に大きな比重を持った厖大な数のポーランドのユダヤ人社会は、内的には非常に細分化されていたが、しかし全体としては圧倒的に、自らの固有の暮らしを全ポーランド人社会の傍らで営んでいた。・・・ポーランド社会ではまったく想像していなかった巨大なジェノサイドをドイツ人が実施するのを容易にする結果は、そこから生じたのである。ユダヤ人もまたそれを想像していなかったし、しかもほとんど最後の瞬間までそうであった。」

 

p.28「ドイツ人は比較的簡単にユダヤ人住民をゲットーに集めたが、そのために、ほとんどの場合、彼らのかつての居住地を利用した。」

  「ユダヤ人社会もポーランド人社会もともに生物学的絶滅の危険に直面させられた。とはいえ、ポーランド人社会は―占領下のあらゆる残虐行為にもかかわらず―はるかに容易な環境の下に置かれていた・・・・そのためにおそらくかなりの程度、ポーランド人社会は占領者に対してはるかに能動的な姿勢を取ったのであった。最初から著しい犠牲者を出しながら、とてつもなく大きな複雑な地下活動組織をつくりあげ、積極的抵抗に取り組むことによって、ドイツ軍が占領した領土で大きな戦力を維持せざるを得なくさせたし、彼らがユダヤ人住民の大量殺戮に取り掛かったときには、総督管轄地域は最も火のつきやすい地域のひとつであり、ワルシャワはジャングルに譬えられはじめたものであった。・・・・」

 

過酷な条件の中で暮らすユダヤ人の「大群とそれぞれの個人は無抵抗のうちに救いを見ていた・・何世紀もの、いやそれどころか数千年に及ぶ、しばしばこの上ない苦難に満ちたものであった過去の経験は、彼らにはそれほどまでに説得力を持ち得たのだ。なぜなら、この経験はしかし、20世紀がもたらすこととなる恐るべきジェノサイドについては語っていなかったからである。」

 

1943年春には、戦争の終結はもう近からずとも遠くなかった。民族の救済を無抵抗の中に求め、どんな犠牲を払ってでも圧迫に耐え抜こうとするのは道理にかなっているように思われた。

 われわれポーランド人にとって、あれこれのシュテットルの数千人のユダヤ人住民が鉄道駅まで少なくとも数キロの道路に、数人の、時には6人、時には4人の、普通の小銃を装備した監視兵によって連れ出されていたのは、しばしば驚きであった。総督管轄地域の中ではそうであったし、第二共和国の東部領においても同様であった。逃亡は、少なくともまだある程度体の利く人にとっては一切特別な困難はなかったとしても、誰も逃亡しなかったのである。ここでもまた集団の群棲本能や長老たちの命令、逃げることができる者たちの逃亡は残された老人や女性、子供に対する弾圧を招くことになるであろうという懸念が働いていたに違いない。・・・

 無抵抗は―群衆の中で耐え抜き、ドイツ当局の命令に服従することに救いを求めたことは―ユダヤ人援助の可能性の第一の、基本的障害であった。」

 

ワルシャワ・ゲットー蜂起

1943年春・・・「ついに思いもよらぬ恐るべきフィナーレへの驚愕。その驚愕が、もはや失うべきものは何もなくなった時に、ただ最後の英雄的なゲットー蜂起の行為のみに立ち上がらせることになったのである。だが、ユダヤ人たちがもっと速く蜂起を開始しなかったからと言って不思議ではないのではなかろうか。目を見張るばかりのワルシャワ蜂起の決起でさえ、ソ連軍の側からの緊急支援を期待し得たし、期待したのではなかったか。もっと早いゲットーの中での蜂起は、集団自殺行為でしかなかったろうし、そこで暮らしていた人々はかなりの部分がせめて戦争終結まで生き延びられると期待しておかしくはなかったのである。」

 

 

 

第二部

 

ミハウ・チフィ、書評「死者の回想(はじめて出版されたゲットーのユダヤ人警官の回想録)」、1993

 

p.31

  ゲットーのユダヤ人警官ペレホドニク・・・「ホロコーストの証人であり、犠牲者であり、協力者」

 

  1916年生まれ、農業技師、戦前はワルシャワ近郊の町オトフォツクの映画館主。

1941年にそこのゲットーの警察(占領者に協力する警察)にはいり(「運び出されないために」)、1942819には自らの妻と2歳の娘をトレブリンカ行きの汽車に送って行った

 なぜそうしたかといえば、警察官の家族は出かけることはない、という署長の言葉を信じたからだった。そして、真実が明るみに出たときには、彼の同僚のひとりのように、警察の腕章を外し、機関車の後ろの第4車輌に向かう勇気がなかった。コルチャックではなかったのだ。・・・「去年の819日、私の中で何かが死んだ」とペレホドニクは書きとめた。「もはや苦しむことができない生きた人間が後に残った。(・・・・)自分自身の間もない破滅の意識すら私をとりみださせはしなかった」。

 

p.32 回想録(証言と懺悔)は、1943年秋に書き上げ、親しいポーランド人のもとに隠した。

「これは正直で本当の懺悔だ。残念ながら私は神の赦免を信じていないし、人間うちではひとり私の妻だけが―そうすべきではないが―私の罪を許してくれることができるであろう。」

 さらにその先でこう書く。「もしも私が神や天国や地獄、死後の褒美や罰を信じていたなら、何も書かなかったろう。すべてのドイツ人が、死んだ後、地獄で焼かれると分かっているだけで私には十分だったろう。」

 

売り物の生命

 

「憐れみも要領のよさも幸運も、ユダヤ人には金銭抜きでは何の役にも立たなかった・・・・」

1941年にはオトフォツクのゲットーで、「裕福に暮らし,収容所への移送を恐れることなく身なりを整え、食べ、飲んでいた。金を払えばいつでも危険を免れることができた。この頃は、貧乏人はむくんで、飢えか病気でたちまち死んでいった。大部分の人はそれを気にかけなかった。」

 

犠牲者の地獄

 

p.33

 「ペレホドニクはまた、大部分のユダヤ人は同情に値しないと断言する。なぜなら彼らは受身に、あるいはまったく卑劣に振る舞っているからだ。彼の回想録には、絶滅を生き延びた者なら用いないであろうような言葉が書かれている。『母親たちは、泣き声でドイツ人に隠れ家を知らせたりしないように幼い子供に毒を飲ませ、息子たちはもはや救いの手だてがなくなった時、自分の両親に毒を飲ませた』。

 彼の母も、息子が自分に毒を飲ませるのではないかと恐れていた。その前に、まだオトフォツクで身を隠していた時に、彼女は姉に死を宣告している。彼女を床下の隠れ家に入れさせなかったのである。『荷物用の場所はあったが、わたしのおばのためには――場所がなかった』。そしておばは自分から車輌に出かけていったのであった。

 ペレホドニク自身、回想録の中では、少なくとも弱い性格の人間として登場している。もし、必要物資を家族全員に届けてくれていた父がいなければ、チャンスはなかったに違いない(ワルシャワの隠れ家から外にでられないような、いわゆる「悪い顔つき」をしていたからだ)。それなのに彼は絶えず父の信心ぶりとエゴイズムとけちを批判している。父がまマレー度がキロ、ワルシャワより5グロシュ安いからと言って危険を冒して延々ヴィラヌフ(ワルシャワ南端の住宅地区:ヤン3世・ソビェスキ王のバロック様式の宮殿がある)まで電車に乗っていった、と腹立たしげに記している。

 父は19439月に、息子より一年早く死んだ。

 

共犯者の地獄 

p.33-34

ペレホドニクは、オトフォツク・ゲットー内での警察勤務については、「ごくわずかしか書いておらず、誰にも危害を加えたことはないと断言している。しかし、他のユダヤ人警官の卑劣な行為は隠さない。身代金が払えない貧乏人たちを集めて輸送列車に送る様子を包み隠さず叙述している。また大移送の後の1942年の夏、ワルシャワで警官たちが店を略奪した様子を書いており、「そもそもひとりの警官が別の警官によって絶えずかすめ取られているのである」。

 

 

ポーランドのホロコースト

p.34

一般のポーランドの読者にはペレホドニクの回想録は「特に受け入れがたい」ものだが、書評者によれば、ペレホドニクは、ポーランド人に「共同責任があること」を認識させてくれる、という。

ペレホドニクは書いた。

「ますます頻繁にポーランド人がゲットーを訪問している」と1941を回想している。

「彼らはいろんなものを二束三文で買う気だ―なぜなら彼らの説明するところでは―『移住させられる時には、どっちみち置いていくんだろう』というわけだ。私の管理人で、ほとんど妻と一緒に育てられた女も突然私たちの家に顔を出した。我々は――はっきりと感じ取れるように――彼女にとってはもはや生ける屍である以上、誰が我々の持ち物を、とりわけ寝具を死後、遺贈するに相応しいだろうか。多分こんなに長く我々を知っており、こんなに好いている彼女ただ一人のはずだ。厄介払いするために黒いスカートだけあげると、彼女はひどくびっくりし、憤慨して立ち去った」。

オトフォツク・ゲットーの閉鎖直前にはポーランド人警官たちが、1942819日に50両の貨車が「発注された」ことを知った。そして、「この知らせを、ユダヤ人の仕立て屋や靴屋から注文した品を―仕上がっていたかどうかに関わりなく―略奪するためだけに利用した」。彼らは誰にも危険を知らせなかった

 

P.34-35

作戦の後、ゲットーの通りに死体とわずかな数のユダヤ人警官が残るとすぐに、「ポーランド人たちは柵を乗り越え、斧で扉をたたき壊し、手当たり次第なんでも略奪した。時には略奪者たちは殺されたユダヤ人に躓くことがあったが気にしない。まだ冷たくなっていない死体を前にして言い争い、殴り合っては枕やスーツを互いに奪い合った」。

付近の森は農夫たちが取り巻き、ユダヤ人から略奪した。町には恐喝者達が待ち伏せていた。

オトフォツクのユダヤ人の家には過ぎに新しい借家人が引っ越してきた。こうした家のほとんどは残った。ペレホドニクの家も今日までたっている。

 

困難な死の依頼

p.35

 「人間は遠い昔から死に意味を与えることを必要としてきた。文化のおかげでその必要を満たしてきた。伝統や宗教、文学、芸術が人類の始まりから死と苦悩と苦痛を飼いならしてきた。・・・文化は我々に鎮痛剤として必要なのである。・・・

もっと多く死者に耳を傾けることは我々の役に立つことであろう。今がちょうどチャンスだ。」

 



[1] 日本語の訳者・松家仁(小樽商科大学助教授)氏からのご教示によれば、

 

「哀れな・・・」については英訳も・・・。こちらも参照するとわかりやすい・・・
http://webcat.nii.ac.jp/cgi-bin/shsproc?id=BA19413961
、とのことである。

 

 

[2] 日本における関東大震災のときの朝鮮人への迫害行為は、だれが主導したか?

 ドイツのユダヤ人迫害・殺害の中心機関・主体的推進機関は、ドイツ警察長官・親衛隊最高指導者ヒムラー率いる帝国保安本部(長官ハイドリヒ)・・・その部局として、第4部が秘密警察(ゲシュタポ)、第3局が内国情報部。

 治安不安定、不穏な状態の責任をマイノリティに求め、マイノリティをいけにえとする手法は、非常に普遍的な手法。

 ハイドリヒは、意識的にその方針を命令文書で指示。

[3] P.17,脚注(14)・・・この政党は、「19世紀末―20世紀初頭のポーランド・ナショナリズムを指導した政党。その指導者がロマン・ドモフスキ(1864−1939)。この党の綱領には、ユダヤ人やウクライナ人に同化もしくは排除しか認めない立場を掲げていた。ポーランド・ユダヤ人にとってポーランド人の偏狭なナショナリズム反ユダヤ主義の真髄と捉えられるところがある。」

 

[4] マイクロソフト・エンカルタから・・・・

1386年、ポーランド女王ヤドビガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド名ヤギエウォ)が結婚して、ポーランド・リトアニア連合王国が生まれた。連合王国は1410年にドイツ騎士修道会をうちやぶり、ヨーロッパにおける自国の地位を確立した。

 

ヤギエウォ朝時代(13861572)はポーランドの黄金時代といわれる。カジミエシュ4(在位144792)は、ドイツ騎士修道会との十三年戦争で西プロイセンとポモジェを奪回した。一方、この間に地方のシュラフタ(小貴族)が力をつけ、マグナート(大貴族)とシュラフタの代表からなるセイム(国会)の役割が大きくなっていく。ジグムント2世アウグストは1569年にポーランドとリトアニアを正式に合同させて、「共和国(ジェチポスポリタ)」とよばれる広大な王国をつくった。

 

1572年にジグムント2世の死でヤギエウォ朝がたえると、セイムによる選挙王制がはじまった。国王は何をするにもセイムの承認をえなければならず、さらにセイムは全員一致が原則であった。このため、17世紀半ば以降、1人の議員の反対で法案の否決や議会の解散ができる「リベルム・ベト(自由な拒否権)」が乱用されるようになる。

 

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[5] Numerus clauses. かつてヨーロッパ諸国で見られた、特にユダヤ人に対する大学入学許可定員の制限枠。

[6] Getto Lawkowe両大戦間にヨーロッパで広く見られた大学の学生の間でのユダヤ人に対する差別。講義などの際、ユダヤ人学生は、教室の最後部座席意外に座ると暴力で排除されるなどした。