21世紀COEプログラム 公共研究センター設立記念シンポジウム

「持続可能な福祉社会に向けた公共研究拠点」 2004−10−24

           公共哲学センター長(公共研究センター共同代表)           

小林正弥

学問改革への挑戦――友愛公共世界形成のために

1 学問改革への狼煙(のろし)

今日の報告では、大学や学問の総体に向けて、このCOEプログラムが目指す遠大な理想についてお話してみたいと思います。私(小林)は、広井先生と一緒に公共研究センター全体の共同代表になりましたが、今日の話はむしろ公共哲学センターの代表のものとしてご理解ください。なぜなら、タイトルを「学問改革への挑戦」と掲げたように、ラディカルな話をしようと考えているからです。

 公共哲学運動は、「学問の構造改革」(山脇直司)を目指しています。例えば、

学問領域のタコツボ化の打破、学問の実践的意義の実現等々を唱えています。これらについては、私も講演などでいつも述べていますし、かなり広く浸透してきていると思います。

 各大学でも、公共哲学を科目として採用するところが増え始めました。早稲田大学大学院公共経営研究科では「公共の哲学」が必修に入っていますし、中央大学公共政策研究科でも基礎科目の中に入りました。

これらの動向を考えると、「学問の構造改革」の運動として始まった公共哲学運動が、現実の大学に影響を与え始めていることがわかります。その中で、公共哲学センターでは端的に「学問改革」を目的に掲げたいと思います。

 千葉大学のCOEプログラムは、NPOなど市民世界との連携を正面から目的に掲げているところが特色です。COEを契機にして、人文社会科学系の大学院の編成やカリキュラムにおいても、公共研究を中心に位置づける方向で検討がなされています。

このCOEプログラムによって設立された公共研究センターでは、このような発想が大学の制度の中に位置づけられ、実際に研究員を擁して仕事を行っていくこととなったわけです。これまで私たちが抽象的な理論や、学問の理想として語っていたものが、現実の大学の学問の体制や制度の中に実現したわけです。このことは、「学問改革」の第一歩となりうるのではないかと思います。 

 平和運動や市民運動に関わっている人達の中には、残念ながら、現在の大学に不信感を抱き、大学や学問の社会的意義を疑う人も少なくはありません。主流派の研究者の行っている研究内容や謬論を見れば、このような見方にも相当の理由があることがわかります。学問や大学が、その本来の意義や機能を失って形骸化しているのです。

  私(小林)はこのCOEのプログラムの価値を、公共哲学関係のメーリングリスト(地球平和公共フォーラム)などで市民の方々にアピールしてみました。これに対して、もちろん非常に関心を持って期待してくれる人がいる反面、懐疑的な反応もありました。現在の平和問題に関する多くの学者の態度を考えてみれば、いわゆる御用学者と言わざるをえない人たちが大学には数多く存在するのであり、この限りにおいて大学の学問が一般の市民から支持を失うこともある程度やむを得ません。ですから、大学で新しいプログラムを行うと言っても、すぐに一般の市民から支持を得られるわけでは必ずしもないわけです。

さらに言うと、この状況は最近に始まったわけではなく、もっと前から続いています。たとえば大学闘争、紛争の時に大学という制度そのものが非常に攻撃されたわけです。そうした経験を経て、その価値観を今でもある程度保っているような人たちからすると、大学が21世紀のための新しい学問を創造していくことが疑わしく思えてしまう場合があるのでしょう。例えば従来の平和運動の中には、全共闘や新左翼として平和運動を始めた人達が少なくはないですから、その方々の中からこのような批判的な反応が現れることがあり得ます。

COEプログラムの立場からすれば、このような懐疑的な見方を実際の活動によって打破しなければなりません。このプログラムが権力の一角としての大学の活動ではなく、実際に公共的に人々のためになるプログラムであるということを、私たちが今後実証していかなければならないのです。

 私はこの「学問改革」という概念を、キリスト教のプロテスタンティズムの「宗教改革」とのアナロジーによって提起しました。宗教改革においては、当時のカトリック教会が腐敗し、形骸していると批判されました。これを打破しようとするキリスト教内部の抗議運動・改革運動がプロテスタントであったわけです。まさに現在の大学も、社会から、市民からの信用を失っているような現状において、これを打破して新しい大学のあり方、学問のあり方を創造していくということが必要です。そこで、キリスト教においてカトリックが形骸化した時にプロテスタントが現れて「宗教改革」がなされたように、現在の学問においても「学問改革」が必要だと思うのです。これこそが私たちの目指すべき営みであるという考えから、「学問改革」という表現を考えたのです。

キリスト教の宗教改革では、腐敗したカトリック教会を改革して、聖書に説かれたイエス・キリスト自身の教えに戻ることが主張されました。ルターは聖書を司祭だけではなく人々が読めるようにラテン語からドイツ語に訳し、聖書中心主義や万人司祭主義を唱えました。同じように、学問改革でも、形骸化した大学を改革して、哲学を例とすればソクラテスやプラトンなどの原点にあったような生き生きした学問の姿を回復したいと思います。人々と共に、対話や問答により、真知を追究した学問の姿です。公共哲学では、哲学と日本語では訳されているフィロソフィア(愛知)の活動そのものを、閉ざされた大学の場から広く人々に解放し、公共的な知(公共知)を形成することを目的にしています。宗教改革の万人司祭主義に類比して言えば、「万人哲人主義」と言うことができるでしょう。この観点に対応して、このプロジェクトでは、対話研究会が開催され、MPOをはじめ市民との連携や協力が重視されています。これによって、学問の原点に戻り、学問を再生させたいと思うのです。

現在の社会で一般に行われているところの「大学改革」というものは、市場の原理を絶対視する「ネオ・リベラル」の立場に基づいています。大学の学問の内容を価値として高めたり人々の公共的利益や公共善に即したものに変えたりすることではなく、市場原理を導入して大学を法人化し、短期的な利益計算を重視させ、教授会の自治を殺いで大学当局の管理を強化しようとしています。先ほど山脇先生が「官から民へ」という言葉に騙されてはいけないとおっしゃられましたけれども、この流れが大学にも押し寄せているのです。こうして、大学は長期的な公共的利益・公共善や永遠の「真理」追究の府、あるいは実存的な「真実」追究の府という本来の理想からどんどん離れていく。このような「大学改革」によって、御用学問が制度化され、およそ人々のためとは言えないような政府の政策が正統化されていきます。

これに対して、このCOEプログラムの目的は、公共哲学の観点から「本来の大学改革」のあり方を打ち出していくことにあります。ネオ・リベラルの論客が批判するように、私達もこれまでの大学を十分なものとは考えていません。それは形骸化して学問本来の目的と離れてしまっているところがあり、その点では巷の「大学」批判と見方を共有する部分もあります。けれども、その改革における思想やその方法が全く異なります。ネオ・リベラルの発想による「改革」が「大学改革」と呼ばれているので、私はそれとの差を明確にするために「学問改革」という名称を主として使うことにしました。

 これは既存の大学の改革として現れておりその制度を活用しているので、そこには制約もあり、大学に不信感を抱く「市民」からは抵抗も現れるでしょう。振り返ってみれば、大学闘争は正に大学に対する不信の下にその変革を掲げていたのですから、このような反応が現れてくるのは、当然と言わなければなりません。

 けれども、私自身は、このCOEプログラムは、大きな学問の変革過程の第1歩だと思っています。既存の大学の改革が十分に成功しなければその次の段階として、既存の大学の全面的転換や新大学設立というようなことも将来の課題として考えられます。いわば「学問革命」「大学革命」です。けれども、まずは本格的学問改革を目指すところから始めていくのが、より現実的だろうと思います。このプログラムを狼煙として、他の様々な大学でも「学問改革」の試みが次々と行われていくことを期待します。ちょうど、宗教改革でも、ルター、カルヴァン等々と改革者が現れ、各地で宗教改革が遂行されていったように。

 「学問改革」を本気で目指せば、様々な問題にいずれ直面するでしょう。大学や学問一般への不信感も克服してゆかなければなりません。思想的には、−必ずしも丸山眞男が明確に答えなかった―大学闘争の論点にも正面から答えていくことが必要になると思います。

 それでも、この遠大な課題を本気で追求していきたいと思います。なぜなら、学問改革は、単に学問のために必要なのではなく、平和な「もう一つの世界」(=友愛世界、公共世界)を形成するために不可欠な過程であり、その一つの起点ともなるだろうと思うからです。

 

2 「もう一つの世界」としての友愛公共世界

この学問改革の目的としての「もう一つの世界」について簡単に述べておきたいと思います。最近の反グローバリズム運動の中で、「もう一つの世界」という考え方が提起されています。平和公共哲学研究会でワールド・ソーシャル・フォーラムの原理や思想について2回も取り上げましたが、まさに「もう一つの世界」が中心的な概念となり、その実現が訴えかけられました[i]

私は平和運動には積極的な(ポジティブ)な理念が必要だと思うので、それに賛成なのですが、これまではその内容は漠然としていて必ずしも明確なものにはなっていません。そこで、このプロジェクトにおいては公共哲学の観点から、その内容を、より明確にしていきたいと思っています。公共哲学の立場から言えば、現在のネオ・リベラルが擁護するグローバリズムがもたらす世界に代わる「もう一つの世界」とはいかなるものであるのか? グローバリズムは貧富の差の世界的拡大や環境破壊をもたらし、ひいては今日の「反テロ」世界戦争へとつながっています。そこで、これに代わる世界は、地球的な福祉の実現により貧富の差を小さくし、地球環境に配慮し、平和を実現する世界でなければなりません。このような世界を、地球的公共善の実現する世界という意味において、(地球的)「公共世界」と呼ぶことができると思います。山脇先生の『公共哲学とは何か』(ちくま新書)で説明されていますので、ここでは内容を省略しますが、勿論国内においても「公共世界」の実現は重要です。

また、その世界を実現する動機(モティベーション)について考えれば、そこには、万人の間に同胞としての「友愛」、同胞愛が必要です。「個々人がばらばらである」と考える原子論的世界観を前提とすれば、自分が豊かで幸福な暮らしができれば、地球上の他の地域で貧困が拡大し、環境が破壊されて戦争が――例えばアフガニスタンやイラクで――行われて、これらによって人命の犠牲が次々と生じても、あまり気にしないということになってしまいます。このような人々の意識が、ネオ・リベラルやグローバリズムの政策を支えています。だから、これに対して、自分自身のことだけではなく、一見自分とは離れた他者をも自分と関係のある友人ないし同胞と考えて、例えばアフガニスタンやイラクの人々にも友愛・同胞愛を持つことが必要です。多くの人々がこのような世界観や意識(全体論的世界観や全体論的意識)を持ってこそ、「公共世界」が実現できるでしょう。だから、人々の意識や動機の側面に注目すれば、「公共世界」は「友愛世界」ということができます。この動機としての「友愛」と目的としての「公共性」の双方を合わせて、「友愛公共世界」と呼ぶことにします。

私自身が構想する公共哲学においては、このような「友愛公共世界」が「もう一つの世界」の積極的な内容であり、学問改革の目標は、このような世界を築いていくための礎となるような学問を、学問の原点に回帰して実現することです。

これは、単に私が抽象的に考えているだけのものではありません。今日も随分と来ていただいていますが、「地球平和公共ネットワーク」などで、様々な市民の方々と共に平和を実現するための活動をしていますと、概念としては結晶していなくとも、素朴な夢や願望として、今言ったような問題意識を非常に感じるのです。このような意識は、9・11以後に現れた新しい平和運動の中に、様々な形で現れています。けれども、このような発想は、まだ学問的な形で十分に表現されていないので、公共的には必ずしも認められているとは言えませんし、このことが平和主義の再生を妨げていると思います。

先ほど三浦研究科長のお話の中で、べ平連に触れられましたが、例えばかつてはベ平連の事務局長だった吉川勇一氏は、新しい平和運動を批判しておられます。氏だけではなく、かつての平和運動の関係者が若年世代の新しい平和運動を「デモをピース・ウォークやパレードと言うなど、怒りの表現がなく軟弱だ」等々と批判したので、私は平和公共哲学研究会で公開討論会を開催して自分自身の見解も述べました[ii]。私はこのような先行世代の考え方と、ある意味において対決しながら新しい思想や理論を明確に打ち出し、その下に新しい平和運動を発展させて平和主義を再生させる必要があるだろうと思っています。

ベ平連は今日の新しい平和運動の先駆者といえる側面も持っていたと思いますが、当時の平和運動においてはやはりマルクス主義の影響力が強かったことは否定できません。かつてはマルクス主義が社会科学の世界で強力で、しかもそれが人々を刺激して平和運動を支えていました。これに対して、今日ではマルクス主義は凋落して、それに代わって平和運動を支えるような思想や理論が極めて弱体なので、この点が新しい平和主義の確立を妨げていると思うのです。

先ほど広井先生が政治哲学の問題に触れてくださいました。私の本業は、まさにこの政治哲学にあるわけですが、本日は本格的に触れる時間がありません。そこで、ごく簡単に言いますと、政治哲学や公共哲学においては、コミュニュタリアニズムとかリパブリカニズム(共和主義)という思想があります。これらは、今日広井先生がお話になったようなエコロジカルな社民主義の立場に近いものであります。これらの思想の再構成が、私個人の思想的課題です。これを「新公共主義(共和主義)」とか「地球域的コミュナリズム」と呼んでいます。かつての「コミュニズム(共産主義)」は思想的に誤っていたので、必然的に失敗したが、その中にある連帯や共同性の思想は重要であり、この要素が北米においては「コミュニタリアニズム」として現れた、と考えています。ただ、「コミュニタリアニズム」というと、イメージが既存の共同体に限定されたり束縛されたりする危険が伴います。そこで、既存の変革思想の中から「共和主義」の伝統に則して「新公共主義」としたり、共同性の部分を純粋に取り出して「コミュナリズム(共同性主義)」と呼んだりしているわけです。これは、さきほど述べた「友愛公共世界」の実現を目的とするという意味においては、「友愛公共主義」とも言ってもいいでしょう。

特に9・11以降は平和問題に焦点を合わせて、公共的活動として平和活動を展開しながら平和公共哲学の構築を目指しています。かつてはマルクス主義・共産主義や社会主義が席捲していましたが、学問の世界においては、これらは著しく影響力を失い、殆どの研究者がそれを信じていないという状態になっています。ところが、平和運動の世界では、その影響を受けている人がまだ数多く残っている。平和主義を再生させるためには、このズレを打破すべきだと私は思っています。そのためには、かつての左翼思想に代わるような新しい思想、新しい平和公共哲学が生まれなければ、実際の運動に影響を与えることもありえないですし、現実を変えることもできません。そこで、そのような平和公共哲学を公共哲学の展開の中から生み出していきたいと思っています。「友愛」という動機を付せば、「友愛平和公共哲学」とか「友愛平和公共主義」と呼ぶことができるでしょう。

関連して、本日の配布された資料の中に、31日の「平和への結集」の第二回シンポジウムのチラシが入っています。また、先日の参議院選挙においても熟議投票という考え方を提案しました。「熟議民主主義(deliberative democracy」という考え方は、最近政治哲学において、篠原一先生などが中心に紹介されているものです。こういった観点から、現実の日本の選挙制度の中において各地でデモクラシーの質を高めていこうということを訴えたのです。それをさらに展開しようという企画の案内のチラシも、本日の資料には入っています。ご関心のある方は、是非積極的に参加してください。

 

3 研究内容とその含意

 

次に、研究内容とその含意について、少し説明を加えたいと思います。

@公共研究・公共世界学の具体的展開

政治学・社会学・経済学などの各領域において、統合的な観点から具体的公共研究として展開される必要があります。例えば、政治学においては、方法論的には選挙分析などの実証的研究と、有権者の意味世界の解釈とを統合する具体的な選挙研究が可能になるでしょう。そして、このような経験的研究の結果を公共性という規範的観点から考察することにより、例えば選挙制度などの制度論についての示唆が導かれます。このような方法を様々な主題に即して展開することにより、規範的・思想的な議論と実証的・経験的研究とが公共世界学として統合的に発展させられるでしょう。

各領域の統合的再構成を目指すため、具体的主題としては様々なものが考えられますが、公共哲学において、平和公共哲学・福祉公共哲学・環境公共哲学・世代生成公共哲学・経済公共哲学などが現在の焦点として重視されており、このCOEでは特に福祉公共哲学・環境公共哲学・平和公共哲学などに力点を置きます。それに伴う形で、平和公共政策、福祉公共政策、環境公共政策などの経験的研究に連動させるような公共研究を発展させていくということが重要となります。

これによって、これらの主題に関し、21世紀における公共世界の再構築のビジョンを提起することが目的になります。さらに、公共哲学・公共研究の基盤の上に立って、これらの主題に関する公共政策の提言なども必要に応じて行いたいと願っています

 

A    革新的学術分野と新学問体系の開拓

このCOEプログラムは、「革新的学術分野」として採用されたものです。そのため私たちは、この公共研究が5年間の間で革新的学術分野として確立し、世界的な研究拠点のモデルとなって発展することを公約していると言うことができます。これは単なる夢想ではなく、私はこの公共研究が、社会からの要求に応えながら、今後の人文・社会科学の学問全体を位置づけ、その構想やビジョンの中核になる可能性をもつものではないかと考えています。

このような人文・社会科学の再編成構想はまだ公共哲学プロジェクトの方で本格的に議論していない問題ですけれども、現実に三浦研究科長のはじめのお話にあったような千葉大学の改革構想の中で大きな主題となっています。山脇先生のご紹介にあったように、いろいろな大学や研究会で公共哲学の講座が開かれたり、必修に位置づけられたりしている中で、公共研究が大学全体の改革構想の中で重要な位置を持ちつつあります。

先ほど山脇先生がプレ専門家時代のヘーゲルの壮大な構想をお話されましたけれども、私はポスト専門家時代の今の段階で、「どういう学問のあり方が今後可能となるのか」を考えるために、公共研究を中心にする構想を示してみようと思います。その関心から、以下のようなイメージの図を作ってみました(第1図)。

公共研究は従来の社会科学の相当部分と重なりますが、それだけで新学問体系ができるわけではありません。公共哲学では、国家中心の滅私奉公の考え方には反対し、公共世界だけではなく私的な生活世界も尊重し、個人が活性化することによって公共世界が充実することを主張しています。そこで、公共哲学―公共研究を中核とする新しい学問体系としては、私的な生活世界の研究も重要です。

そこで、この二つを公共世界学と生活世界学と呼んでみましょう。この図では、おおよそ社会科学と人文科学とを「公共世界学/生活世界学」と区分してあります。「公共世界学」は公共世界の全体に関わり、その中に政治や経済、社会などが含まれます。一方の「生活世界学」における「生活」はLifeを意味しますから、狭い意味の生活だけでなく、人生とか生命などにかかわる学問を探求することになります。

 こうして構成される統合的学問体系のイメージを述べれば、自然科学や科学哲学と接続する形で公共哲学が方法論的に確立され、それと連携する公共研究を中核として、私的・個人的領域を中心に扱う生活世界学と、公的・公共的領域を中心に扱う公共世界学とが構成されることになるでしょう。主として前者は従来の人文科学、後者は社会科学と重なる部分が大きく、個別領域の研究がここに存在します。けれども、この2領域を単に名称替えするだけではなく、公私の観点を軸にして哲学的・理論的に再編することができるでしょう。これは、オックスフォード大学のPPEphilosophy, politics, economy)を一つのモデルとしつつ、社会(society)などを加えてさらに広汎に展開するものとなるでしょう。

専門化時代の学問が前提ですから、専門的な学問としての価値を決して否定することはできません。そういうものは今後もあってしかるべきです。しかしそれらを連携させ、統合するためには、その中核に公共哲学や公共研究がないと、やはりバラバラの学問ばかりになってしまって、学問が世の中に活きることが難しくなります。そういうものを連携して統合する、そういうセクションや工夫があってはじめて、専門的な学問が活きると思っています。もっとも、これは試案に過ぎず、千葉大学で現実に構想されている案とは名称などは全く異なります。このような学問体系のビジョンについては、今後このプロジェクトの中で議論していくべき内容でしょう。

 

B    公共的大学教育――公共的一般教養

それから公共的な大学教育についても、「大学改革」の波の中で教養学部が解体されたりして、一般教養(リベラル・アーツ)教育というものがなくなりつつありますが、教養教育は全人的な教育にとって極めて重要です。戦後改革の中で、例えば東大総長になった政治哲学者・南原繁は、「真理」に基づく新日本文化の創造や道義日本の建設を訴え、そのための「真理」追究の府としての大学再建や、教養教育(東大教養学部)の実現に尽力しました。ただ、既存の教養教育が空洞化していたのは否めないので、今後は公共哲学を軸にして教養教育を再生させることが考えられるだろうと思います。

また、21世紀の新しい教育プログラムでは、若い学生だけではなく、一般市民との関係において教育のあり方が問われることになるはずです。一般に生涯教育などが言われているわけですけれども、公共哲学を中軸にすることによって、このような課題にも応えることができるでしょう。

 

C    公共的実践教育

私は「研究−実践者」という概念を用いていますけれども、研究者も大なり小なり実践的な観点を持って研究を進めていくべきである、と考えます。逆に実践を中心にしている方々にとっても、学問的知識が必要になることもあります。そこで、研究−実践者が媒介して、この双方の連携を進めていくことが最善でしょう。

このプログラムでは、NPOの方々に研究会やシンポジウムに参加してもらったり、研究を通じてNPOの人たちを支援したり、市民運動の人たちとも交流を深めていくことを掲げています。また、NPO活動に携わる方々が学問的な研究も行いと思われる場合には、大学院で研究して学位を取得できるような態勢も整えたいと思いますし、逆に大学や大学院で若者がその過程でNPO活動と接し、卒業後にNPOで活躍するという可能性も開拓していきたいと考えています。是非積極的にご協力いただきたいと思います。

 

 


4 研究手法

 最後に、研究手法についてまとめておくと、一般的には次のようなことを考えています。これらは、このCOE全体に当てはまるものが大部分です。

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@    哲学的・思想的研究者(公共哲学)と経験的・実証的研究者(公共政策・国際公共比較)との協働

従来は分断されていたこの二つの領域の研究者が協働してプロジェクトを推進する。

A対話的・集中的な学際的研究会方式

公共哲学プロジェクトの特色となり大きな成果を上げている対話的・学際的研究会方式を引き続き重視する。そこでは通常の研究会以上に濃密な徹底的討論を行い、有意義な場合にはその内容を討論も含め公表し、それらの論点について公共的な問題提起を行う。

A    学際的交流とモノグラフとの相互作用

学際的研究会を踏まえて、その刺激の下に各研究者がモノグラフへと発展させる。他方、その研究に対して、学際的研究会を開催して批評を加え、さらに研究の前進を図る。研究会と個別研究とが分離せずに、この相互作用が有機的に発展するように努める。

B    本格的書評・批評の発展

 西欧に比して日本では未発達の書評・批評文化を育成するべく、公共哲学・公共研究関連の図書や研究に本格的な書評・批評を企画する。書評の分量を通常よりも多くして内容を本格的に検討・批評することを可能にする。書評を通じて、研究者・学生・市民の間における議論を活性化する。 

C    国際的シンポジウムの開催と本格的討論

 公共哲学の国際シンポジウムを発展させ、さらに公共研究の諸側面について(経験的研究も含んだ)シンポジウムを開催する。日本の社会科学でしばしば見られるような、海外の研究者の講演を主として拝聴して質問するという形式ではなく、国内の研究者も対等な立場で議論を提示し、本格的な討論を実現する。

D    公共研究シンポジウム・セミナー

 これらにより研究を活性化し、一般市民との交流の可能性も開く。

F 公共研究センターによる知的インフラ整備、市民へのサービス

公共哲学センターを中心に、公共哲学に関する文献・資料収拾や、知的インフラを整備して研究支援・補助を行う。公共政策などについての提言についての基礎的研究作業も行う。市民の公共哲学に対する問い合わせに対するアドバイスも行う。

G    公共哲学ネットワークの発展による関連研究者・市民との連携

 公共哲学ネットワーク・地球平和公共ネットワークを発展させ、MLを中心に公共哲学・公共研究の関連研究者との学問的交流を活発にし、千葉大学以外の研究者との協力関係を前進させる。HPMLなどの方法により、公共的要請にも応え、学問的成果を公表し、研究者はもとより一般市民にも利用しやすい形で提供する。公共哲学・公共研究に関心を持つ市民(公共民)のネットワークへの加入を促進し、市民に学問的成果を反映させるとともに市民の声や要請を学問的研究に生かして、学問の公共化を図る。

G    革新的学術分野にふさわしい研究・教育態勢の形成

千葉大学内部では、公共研究センターを研究拠点にするとともに、大学院などの研究・教育態勢も整備し、公共研究の展開が容易になるように試みる。学外からも研究協力を仰ぎ公共研究の発展を図る一方で、学内ではその本格的研究・教育のモデルを開拓する。

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この中で公共哲学部門として特に強調したいのは次のような点です。まず、公共哲学は、哲学一般とは少し異なったところを持っています。哲学においては、論理的・学問的構築が重要ですが、公共哲学の場合、多くの人と共に語り、多くの人々に対してアピールすることも重要になります。だから公共哲学の出版物や、セミナー・会議において「対話」を重視しています。そこで、COEプログラムでも、対話研究会が開催され、公共哲学部門では、平和公共哲学研究会を開催します。

また、特に公共哲学セクションにおいては、教えている大学の研究者だけではなく、特に研究員やリサーチ・アシスタントなどの若手の人たちにも頑張ってもらいたいと思っています。公共哲学においては世代継承生生という観点が重視されていますが、このプロジェクトでは、公共哲学の世代継承性に寄与したいと思っています。大学間の公共哲学プロジェクトでは、山脇先生をはじめ、各分野を代表されるような著名な先生方が主導的な役割を果たしていますが、この試みを若い世代がどのように継承して新しく発展させることができるか。ここに公共哲学の将来がかかっており、このCOEプロジェクトではこの点にエネルギーを注ぎたいと考えています。

そこで、若手中心のプロジェクトとして様々な活動を行っていきたいと思います。たとえば研究会や、翻訳のプロジェクトなどを引き続き発展させていきます。まもなくアミタイ・エツィオーニやマイケル・サンデルの翻訳が刊行される予定ですけれども、これらを継続的に発展させていきたい。それから、研究員たちが書評を書いて、公共哲学に関する紹介をするとか、あるいはさまざまな問い合わせに対して答えるとか、あるいはMLなどで積極的に議論を展開してMLを活性化するとか、そういったこともやっていきたいと考えています。「公共民フォーラム」とか「地球平和公共フォーラム」というメーリングリストを運営していますので、それを活用しながら一般の市民の人たちを交えた議論、討論、情報交換を発展させていきたい。そういう活動にご関心のある方は、地球平和公共フォーラムのホーム・ページ[iii]から登録できますので、是非そちらに登録していただければありがたいと思います。

その他、勿論、他のセクションと共同しながら様々な研究会をしたり、国際シンポをしたり、各種のセミナーをしたりしていきます。また公共哲学センターにおいても、資料の整理をしたり、市民へのサーヴィスも行っていきたいと考えています。若い研究者、その卵の方々がその中心になってくれるでしょう。特に初めは、機能し始めるのに時間がかかると思いますし、思わぬミスもありうるかとは思いますが、どうかご海容しながらご協力いただければ幸いです。どうかよろしくお願い致します。

 

 

 



[i] ウィリアム・F・フィッシャー、トーマス・ポニア編『もうひとつの世界は可能だ』(加藤哲郎監修、日本経済評論社、2003年)。

[ii] 吉川勇一、小林一朗、天野恵一、小林正弥「デモか、パレードか、ピースウォークか」別冊『世界』第732号「もしも憲法第9条が変えられてしまったら」、200410月号。

[iii] http://global-peace-public-network.hp.infoseek.co.jp/