更新日:2005-01-29
2004年12月15−25日、ベルリンのドイツ連邦文書館(早朝の構内、文書館利用者のための敷地内図書館[1])に科研費出張した際に撮影したデジカメ写真。
これまでの日本での研究と今回の史料調査をもとに準備中の論文は、「総力戦とプロテクトラートのユダヤ人問題−1941年秋から1942年春のハイドリヒの行動―」(仮題)
クリスマス前のベルリン市内中心部
「クーアフュルステンダム」通りから有名な老舗・高級百貨店カ・デ・ヴェKaDeWeあたりまでのクリスマスの夜景1、2、3、4、5。
その一番の中心部にあるカイザー・ヴィルヘルム記念教会(Kaiser-Wilhelm-Gedächtniskirche)1、2、3。
その教会周辺のクリスマス用の屋台・出店。
ポツダム広場(Potsdamer Platz)のソニー・センター(富士山を模した天蓋-写真後方)。
そのセンター入口のクリスマス飾り。
このセンター内中央広場にもたくさんのクリスマスの屋台。ここで「熱燗ワイン(Glühwein)」を飲む。ワインだけなら2ユーロ。アルコール度をあげるためのラム酒お猪口いっぱい程度の追加Schußが0.5ユーロで、あわせていっぱい2.5ユーロ。寒いので助かる。
ウンター・デン・リンデン通りの夜景1(ブランデンブルク門を通して)、2、3、4、5、6。
ウンター・デン・リンデン通り・フンボルト大学・ドーム・テレビ塔
修理が終わったブランデンブルク門とその周辺1(ウンター・デン・リンデン通り、旧市街の側)、2、3。
(Cf.1990年壁崩壊後1年ほどの当時の壁の残存状態)
ブランデンブルク門そば(かつての「ベルリンの壁」跡地)に建設されたヨーロッパ・ユダヤ人殺害記念碑の石柱群1、2、3。
その記念碑建立を決めた国会決議1、2。
「1999年6月25日、ドイツ連邦議会決議
ドイツ連邦政府は、殺害されたヨーロッパ・ユダヤ人のための記念碑をベルリンにつくる。」
ドイツ抵抗博物館(記念館):(その公式HPGedenkstätte Deutscher Widerstandの英文・独文)
この記念館は、元はドイツ国防軍の陸軍最高司令部だった建物。
現在もこの隣接地区ベンドラーブロックはドイツ連邦軍の敷地。
(今回気づいたが、デジカメ写真で手前空き地に見えるところには監視カメラが各所に設置されていた。
「連邦軍の敷地なので立ち入り禁止」との看板も出ていた。写真背景部分には、ティアガルテンの広大な緑が広がる)
(建物は、7月20日事件でヒトラーとナチ党幹部爆破のための爆弾を仕掛けた将校フォン・シュタウフェンベルクの名前を記念した「フォン・シュタウフェンベルク通り」にある)
1944年7月20日事件(ヒトラー暗殺未遂事件)の責任者ベック将軍やフォン・シュタウフェンベルクなど将校の処刑場所(正門を入った中庭、正面が記念碑、左手花輪の部分が射殺場所)
記念館内の展示物から。
(逮捕され処刑されるのは、43年2月)
「白バラ」抵抗運動
兄ハンス、1918年9月22日生、 妹ゾフィー、21年5月9日生
ミュンヘン大学の学生ショル兄妹、同。
(1943年2月22日、死刑判決・処刑さる)
友人の二人の医学生:ショモレル、プロプスト
(シュモレル:43年4月19日死刑判決、7月13日ミュンヘンで処刑)
(プロープスト、43年2月22日死刑判決、即日執行)
彼ら「白バラ」の学生たちに協力したミュンヘン大学のフーバー教授
(スイス、1893年10月24日生、1943年4月19日、ミュンヘンで死刑判決、
同年7月13日、シュターデルハイムで処刑)
軍・保守政治家・労働組合もと活動家などによる大クーデター計画:(1944年7月20日事件、総統大本営のあるオストプロイセンのヴォルフスシャンツェ。
爆弾を仕掛けた将校・フォン・シュタウフェンベルクの顔写真
暗殺事件失敗後の裁判・・・元ライプツィヒ市長ゲルデラーなどに対して。死刑判決。
7月20事件当時の戦線の状況。
キリスト教徒のなかでも二つのタイプ
一方でドイツ的キリスト教などとしてヒトラー政権に協力した人々、高位の聖職者、告白教会
他方に、少数ながら抵抗した人々。
プレッツェンゼー(7月20日事件連座者の処刑場となったベルリン市内北方の監獄)記念史跡
連座した人物の一人A・ネーベは、刑事警察局長。アインザッツグルッペ隊長として大量のユダヤ人殺害を指揮した人物。
しかし軍の反対派とも連絡、事件に連座。
7月20事件では部下の刑事警察部隊を率いて暗殺側を支援する準備。
失敗後、まだ追跡されていないのに逃亡。
密告により発見され、処刑さる。
プレッツェンゼー監獄:処刑場
処刑場の隣の部屋の掲示写真・説明板・・・処刑された7月20日事件関係者について、その2.処刑された「ヨーロッパ連合」の人々。
4.冷戦記念のチェックポイント・チャーリー(壁が作られる前の状況・・破壊されたベルリンの状況が戦後十数年たっても回復していない)
@ 記念館(後方右側に看板)
A 白看板表示「アメリカ地区を去る」
B 白看板表示「アメリカ地区に入る」
C チェックポイント・チャーリーのベルリンの壁(記念史跡として)
D ケネディのベルリン訪問時(Ich bin Berliner)の集会
ベルリン・ユダヤ博物館(公式HP:Jüdisches Museum
Berlin)
外観、その1、その2、その3。
(外壁には、いくつも鋭く切り裂かれた痕跡)
内部・・・次第に狭くなる空間と階段。
(ユダヤ人の運命を象徴)
内部(「切り裂かれた痕跡」の窓)から外を見たところ、その1.
@ 露骨な反ユダヤ主義で有名なナチ党新聞『突撃隊』の記事「ユダヤ人は我々の不幸だ」
ドイツのユダヤ人は27万6千人が1933年から41年までに「逃げ出した」(アメリカ合衆国、パレスチナ、南アフリカその他)
ヨーロッパユダヤ人の犠牲者数(たとえばポーランドで300万人など)を示す地図
第二次大戦後1960年代のアウシュヴィッツ裁判(フランクフルトで)・・ドイツ人自らの戦争犯罪人裁判(いわゆる「戦勝国による裁判」ではない)。
古い時代からユダヤ人は職業差別された(「騙す商売人」「高利貸し」のイメージ)
農村社会を渡り歩く旅商人としてのユダヤ人
19世紀末以降、新たなチャンス到来・・・自然科学分野・・・はっきりした業績・成果が自然科学では勝負、高い評価。
たくさんのユダヤ系自然科学者が19世紀から20世紀に世界的業績。
なかでもアインシュタイン、
アインシュタインの相対性理論の原稿。