旅程は、ボーフム→スイス→ミラノ→ヴェニス→フィレンツェ→ピサ→ローマ→
ナポリ→スイスを経由して帰路、ハイデルベルク→ボーフム
(ミラノ大聖堂、大理石造りで豪華)
(76年3月、レオナルド・ダ・ヴィンチ「最後の晩餐」、この撮影の後、修復作業に入り、1999年修復完了)
(「最後の晩餐」のある教会)
(サンマルコ寺院ないし教会)
(教会前広場、商店街)
(リアルト橋)
ミケランジェロ作『未完のダヴィデ』像など。
天才でも、未完のままに放置した作品があるのは、勇気付けられる。
われわれの知る一番有名なダヴィデ像の凛々しい像とは、まったくといっていいほど印象が違う。
花の教会・フィレンツェ・ドゥオモ
(フィレンツエ、市庁舎)
(フィレンツェ市庁舎前、ダヴィデ像)
(フィレンツェ,ダンテ像)
「・・・・ダンテは騒然としたフィレンツェ政界で活動した。1295年に地方でいくつかの職務についたことを記録する当時の文書ものこっている。1300年には外交使節としてサン・ジミニャーノにおもむき、ついで6名いるフィレンツェのプリオーレ(行政長官)のひとりに選出されたが、任期はわずか2カ月であった。ダンテの在任中にフィレンツェ教皇派内の2つの勢力、すなわち教皇と手をくんで皇帝権力に対抗しようと考える黒党と、教皇と神聖ローマ皇帝の双方から独立した立場をとろうとする白党との間の対立が激化したのである。ダンテの主張をうけて、市の平和を維持するために両党の指導者たちが追放されたが、教皇ボニファティウス8世を後ろ盾に、黒党の指導者たちは01年にフィレンツェにもどり、政権を奪取した。翌年、ダンテは2年間の市外追放と重い罰金刑に処せられ、支払いに応じなかったために、万一フィレンツェにもどれば死刑に処すと宣告された。
ダンテは亡命生活をベローナや他の北イタリア諸都市でおくった。1307年から09年の間にはパリへも足をのばした。この間に彼の政治的信念はいちじるしい方向転換を経験する。皇帝派の主張を結局うけいれて、啓蒙的な皇帝の統治下でヨーロッパ統一を期待するようになったのである。 ・・・・・
ダンテの政治上の希望は、ドイツ国王で神聖ローマ皇帝のハインリヒ7世が1310年にイタリアに到着したことによってはげしくかきたてられる。ハインリヒの目的は名目だけでなく実質においてもイタリアを自分の支配下におくことであった。政治行動への情熱を再燃させたダンテは、イタリアの多数の君主と政治指導者に手紙を書いて、皇帝を歓迎するよううながし、ハインリヒの権力をイタリアの諸都市間とその内部にみられる深刻な反目を解決する手段とみなすよう嘆願した。13年にシエナでハインリヒが急死したとき、ダンテの希望も同時についえた。ハインリヒのイタリア滞在中に執筆されたと思われるラテン語の論文「帝政論」は、教会と国家の完全な分離にくわえて、超国家的な神聖ローマ帝国を必要とするダンテの政治哲学を開陳している。」Microsoft(R)
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(ミケランジェロ公園からフィレンツェ市を見る)
昇降jの外廊、手すりがなく、あっても心細い手すりしかなく、恐怖。 上からの眺め。
(斜塔頂上からの眺め)
(帰路、斜塔を振り返って)
(スペイン階段)
(カラカラ帝大浴場跡)
カラカラ浴場:
「公共浴場は、ローマ帝国の文化において重要な役割をはたしていた。前4世紀中ごろ、帝国の首都ローマには952の浴場があった。217年ごろ、ローマの有閑階級の娯楽場として建設されたカラカラ浴場は、1600人が同時に利用できる大規模な施設だった。巨大な丸天井の下には浴場のほかにプール、講義用ホール、ラウンジ、運動施設などがあった。」Microsoft(R)
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カラカラ帝:
「カラカラ Caracalla 188〜217 ローマ皇帝。在位211〜217年。
正式名は、マルクス・アウレリウス・アントニヌス。カラカラはあだ名で、彼がカラカラとよばれるケルト人が着ていた長いコートをローマにもちこみ、流行させたことからつけられた。
ガリアのルグドゥヌム(現リヨン)で生まれる。
父帝セプティミウス・セウェルスが211年に死んだあと、弟のセプティミウス・ゲタとともに共同皇帝になった。しかし、もともと仲のわるかった兄弟の対立は決定的となり、212年、カラカラはゲタを殺して支持者数万人を粛清し、単独支配者となった。
相続税の増収をはかるために、帝国内のすべての自由民にローマ市民権をあたえたが、このためローマの優位がくずれ、市民権をつかった属州への支配がゆらぎはじめた。
外にむかってはアレマン族、ガリア人、パルティア人討伐の遠征を盛んにおこなったが、メソポタミア外征中に親衛隊長官マクリヌスによって暗殺された。
浪費家として知られるが、その恩恵は民衆にもおよび、ローマに遺跡がのこる公共の巨大なカラカラ浴場をつくったことでも有名である。」Microsoft(R)
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(ヴァティカン、サン・ピエトロ広場)
バチカン Vatican City イタリアの首都ローマ市内にあるローマ教皇を元首とする国家。正式国名はバチカン市国。国連での名称は聖座The
Holy See。1929年2月、イタリア政府とのラテラノ協定によって成立した。主要言語はイタリア語で、教皇庁の公用語はラテン語。世界最小の国で、面積は0.44km2。住民のほとんどが聖職者で、人口は850人(1997年推計)。Microsoft(R)
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(ローマ、コロセウムの内部)
コロセウム・・・ローマの円形闘技場・・・かつてネロ帝の巨像(コロスス)が近くにあったためコロセウムとよばれている。正式の名称は、「フラウィウス朝の円形闘技場」
「円形劇場 えんけいげきじょう 一般に楕円形をした広大な野外建築物をさす。初めは木材でつくられたが、のちに石でつくられるようになった。舞台は階段式の客席にかこまれ、古代ローマでは剣闘士や野獣の闘技など、さまざまな催し物につかわれた。.
最初の円形劇場アンフィテアトルムは前59年に古代ローマの最高神官ガイウス・スクリボニウス・クリオによってつくられ、一部を石造にしたアンフィテアトルムは、ローマ皇帝になる前のアウグストゥスによって前30年に完成された。後者は、コロセウム建造以前のものとしては、ローマに唯一のこる石造部分のある円形劇場である。
コロセウムはローマ皇帝ウェスパシアヌスによって着工され、後80年に息子で後継者の皇帝ティトゥスによって完成された。上部構造はもともと木造であったが、223年以後石造に改築。このローマの作例がやがてローマ帝国内の主要都市にひろまっていく。
4世紀の史料によると、ローマのコロセウムには8万7000人分の客席があったとされるが、現代の考古学者はおよそ5万人の収容能力しかなかったと推定している。ポッツォリ、カプア、ベローナ、タラゴーナにあるコロセウムはみなほとんど同じ大きさである。」Microsoft(R)
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(フォロ・ロマーノ遺跡)
ビットリオ・エマヌエレ2世 Vittorio Emanuele II 1820〜78 第8代サルデーニャ国王。在位1849〜61年。初代イタリア国王。在位1861〜78年。「建国の父」とよばれた。
サボイア家の第7代サルデーニャ王カルロ・アルベルトの子として、トリノに生まれた。父王は、1848〜49年に、イタリア半島各地を支配していたオーストリアに対する戦争を指揮したが、49年3月にオーストリア軍に決定的な敗北をしたあと、王位をしりぞいて亡命し、ビットリオ・エマヌエレ2世が登場した。新国王は、52年にカブールを首相に任命し、産業振興や軍隊の再建を推進させた。カブールは対外政策においては54年のクリミア戦争で英、仏側にたって参戦し、列強の仲間入りをはたした。
サルデーニャ王国は1849年の対オーストリア戦争の敗北後、半島内諸国の亡命者を積極的にうけいれ、また国際的にオーストリアのイタリア半島支配の非をうったえるキャンペーンをおこなうなど、イタリア半島の統一運動で指導的な立場にたっていた。58年にはフランスのナポレオン3世と密約をむすび、59年にはサルデーニャとフランス同盟軍はオーストリア軍をやぶり、中部イタリアのいくつかの国をサルデーニャに併合した。
1860年にはガリバルディが南イタリアの両シチリア王国に軍事遠征をおこない、スペインのブルボン家の支配を打倒し、この地をビットリオ・エマヌエレ2世に献上したため、イタリア半島の南北がサルデーニャ王国によって統一された。
1861年1月には全土で総選挙が実施され、議会は国王にイタリア国王の称号をあたえる決議をおこない、ビットリオ・エマヌエレ2世がイタリア国王となった。
ビットリオ・エマヌエレ2世はその治世の間、66年のプロイセン・オーストリア戦争にくわわってベネツィア周辺ををオーストリアからうばい、さらに70年には半島中部に広がるローマ教皇領を併合して統一を達成した。Microsoft(R)
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(トレビの泉)
Cf .マイクロソフト・エンカルタ:
古代ローマの水道アクア・ウェルギネから流れ出した水は、18世紀につくられたバロック様式の「トレビの泉」にはいる。ニコラ・サルビ設計のこの泉は、中央に重厚な凱旋門が置かれ、その前にギリシャ神話の水神オケアノス像が立つ。その周囲に、海馬や半人半魚のトリトンが配置されている。
(「哲学者の道」から、ネッカー川、Alt Heidelbergをみる)
ハイデルベルク Heidelberg
「ドイツ南西部にある中世以来の大学都市。バーデンビュルテンベルク州に属する。ネッカー川の河畔にあり、マンハイムに近い。うつくしい町並によって知られ、製造業・交通・観光・文化の中心地でもある。印刷機・電気製品・革製品・織物などが製造され、いくつかの研究施設もある。人口は13万8964人(1997年)。
旧市街の東の高さ195mの丘の上には有名なハイデルベルク城(おもに14〜17世紀)がある。今では荒廃がすすんでいるが、ドイツの中世、ルネサンス、バロック建築の典型をみることができる。城の中庭にある4本のみかげ石の柱は、かつてカール大帝の城の一部をなしていた。ハイデルベルク城のオットー・ハインリヒ棟は、博物館となっている。城の地下室には、有名なハイデルベルクの大酒樽(さかだる)がある。この酒樽には22万17リットルのワインが貯蔵できる。
ハイデルベルクにある宗教建築としては、15世紀の聖ペーター教会がある。プラハのヒエロニムスは、この教会の扉に教皇を批判する有名な論説を釘(くぎ)でうちつけた。聖霊教会も15世紀の建物である。アルテ橋は中世のハイデルベルクの主要な門であった。ドイツ最古の大学であるハイデルベルク大学(1386年創立)は世界的に有名である。
ハイデルベルクがはじめて文献に登場するのは12世紀のことである。1720年まで、この町はファルツ選帝候領の主都であった。
宗教改革の際には、プロテスタントの牙城(がじょう)のひとつとなり、三十年戦争(1618〜48年)ではフランス軍によって占領され、さらに1689年と93年にもフランス軍の侵略によって被害をうけている。第2次世界大戦後は、この地に駐独アメリカ軍司令部がおかれた。」Microsoft(R)
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