ヘーゲル


ヘーゲル
 46歳にしてハイデルベルク大学の教授!!
 ヘーゲルが生まれたのは、カントがケーニヒスベルクで正教授になった年。

 カントも教授になったのは非常におそく、ヘーゲルと同じ46歳。家庭教師などの期間が長かった。昔も今も、実利(直接的なそれ)・実用向き(直接的なそれ)でない諸学問をやる人間は、なかなか苦しい、ということか。

 カント Immanuel Kant 1724〜1804 ドイツ啓蒙期の哲学者。ケーニヒスベルク(現ロシアのカリーニングラード)に生まれ、終生この地にとどまった。9年余りの家庭教師生活ののち、1755年にケーニヒスベルク大学の私講師、70年に同大学の論理学および形而上学正教授となる。81年、「純粋理性批判」によって、合理主義と経験主義を総合した超越論主義を主張。つづいて、88年「実践理性批判」、90年「判断力批判」を発表し、みずからの批判哲学を完成した。
 Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.


ヘーゲル
「Georg Wilhelm Friedrich Hegel 1770〜1831 ドイツの観念論哲学者。19世紀最大の思想家。.

 財務官の息子としてシュトゥットガルトに生まれ、敬虔(けいけん)主義の雰囲気の中で成長した。シュトゥットガルトのギムナジウムにまなんだのち、1788年、チュービンゲン神学校に入学し、詩人のヘルダーリンや哲学者のシェリングと親交をむすぶ。哲学と神学をおさめたのち、牧師になる決心がつかず、93年からスイスのベルンで、ついで97年にはフランクフルトで家庭教師としてはたらくが、2年後に父の死による遺産相続により、家庭教師の職から解放される。.

 1801年、イエナ大学私講師。ヘーゲルのもっとも重要な著作である「精神現象学」(1807)はイエナで書かれた。07年のナポレオンによるイエナ陥落とともにこの地をさり、バンベルク新聞の編集者となるが、ジャーナリズムになじめず、08年から8年間、ニュルンベルクのギムナジウムの校長をつとめる。ニュルンベルク時代に「論理学」(1812〜16)を出版する。

 1816年にハイデルベルク大学の哲学教授となり、17年、ヘーゲルの哲学体系の要約である「哲学的諸学のエンティクロペディー」を出版する。18年、ベルリン大学哲学教授となり、終生この地位にとどまる。31年11月14日、コレラのためベルリンにて死去した。

 ヘーゲル自身によって出版された最後の著書は、「法の哲学」(1821)である。ヘーゲルの講義ノートをもとにして、彼の弟子たちによって死後出版された著書に、「美学講義」(1835〜38)、「哲学史講義」(1833〜36)、「宗教哲学講義」(1832)、「歴史哲学講義」(1837)がある。ヘーゲルの思想には、ギリシャ思想の強い影響のほか、スピノザ、ルソー、カント、フィヒテ、シェリングなどの影響もみられる。」
 Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.