2005年5月31日・経済史講義メモ
参考文献Aは、大塚久雄『欧州経済史』ではコンパクトにまとめられているところが、かなり平明に書かれているという点で、人によっては非常に役立つだろう。
参考文献:
@ロバート・ハイルブローナー『入門 経済思想史 世俗の思想家たち』ちくま学芸文庫、2001年(第5刷、2005年)
Aロバート・ハイルブローナー、ウィリアム・ミルバーグ著香内力訳『経済社会の興亡(The Making of Economic Society,10th edition)』ビアソン、2000年1月[1]。
(同書第3版の訳は、1972年に、小野高次・岡島貞一郎訳『経済社会の形成』東洋経済新報社として。タイトルの訳としてはこちらが直接的)
BJ・R・ヒックス(1972年ノーベル賞経済学)著新保博・渡辺文夫訳『経済史の理論』講談社学術文庫
市場経済(商品の生産・流通・消費)の歴史的発展において、重要な点・・・現代日本経済・現代地球経済において、日々支配的になりつつあること。
1. 労働力商品化の圧倒的ひろがり・・・経済構造の変化と就業構造の変化、都市化と工業化の連関
2. 私的経営(経営内分業)、それらを結びつける社会的分業
経営内分業と社会的分業の高度な発達・・・・社会の豊さの表現としての二重の社会的分業の高度な発達、多様で高品質の厖大な商品世界。
グローバル化の進展とは、社会的分業がますます地球規模(人類規模)になること。
そうした地球規模の社会的分業の深化拡大が、私的経営体(私企業)の競争を通じての営利(利潤追求)活動を通じて行われるという現実。
市場にでてはじめて、市場の競争のなかで、私企業の計画、市場予測、競争者のコスト条件等が確認される。
市場を通じて、各企業・各私的経営の生産の効率が検証される。
市場社会とちがう社会、私的経営体の競争的分業関係で成り立っていない社会・・・二つのタイプ @伝統・慣習型 A命令・指令型
@伝統型・慣習の支配[2]・・・原始的農耕社会、非工業社会
・インドのカースト・・・バガバット−ジッタ(インドの偉大な哲学者・道徳詩作家)・・・「汝自身の仕事は、たとえ欠点が多かったとしても、他人の仕事をみごとにやってのけるより、よいことなのである」
・古代エジプトでは、アダム・スミスがかいていることだが、「各人は宗教上の教義によって父祖の職業を継がなければならず、もし他の職業に転じると、最もおそろしい涜神」
・ 西アフリカ、カラハリ砂漠のブッシュマン(エリザベス・マーシャル・トーマス)・・・
「大カモシカは解体された。・・・ガイは2本の後脚と1本の前脚を受け取った。テチュウは背中の肉を得た。ウクワネは、残った前脚を、彼の妻は足1つと胃袋、小さい子供たちは、長い腸を得た。トィクゥエは頭を、ダシーネは乳房を得た。
ブッシュマンが獲物を分けるやり方を見ると、とても不公平に思える。しかし、それが彼らのシステムなのであり、そして、最終的には誰も他人より多く食べることにはならないのである。その日、ウクワネはガイに、さらにもう1片の肉を与えたが、それは彼がウクワネの親戚だったからであり、また、ガイは、ダシーネにも肉を与えたが、それは彼女が彼の妻の母だったからである。・・・もちろん、誰もガイの分け前が大きいことを非難しないが、それは彼が猟師であり、そして、彼らの法律では多くの分け前が彼のものになることになっていたからである。誰も、彼が他人より多くを売るべきであることを疑わないし、もちろんそれは誤っていない。彼は現にそうした。」
・非工業化社会では、女性は大体伝統によって社会的生産物の最小の部分しか分配されることがなかった。・・・
* 現代社会における伝統・慣習の存続(ただし、宗教的教義による正当化ないし禁止はない)・・・二世議員・3世議員問題、アメリカですら、「息子が父親の職業を引き継ぐ家庭というものをよく見かける。もっと広く考えて見ると、伝統によってある職業に付くことを思いとどまらされることもある。たとえば、アメリカの中産階級の子どもたちは、普通、工場労働者になりたがらない。工場の仕事がオフィスでの仕事より給料がいいという場合ですら、そうである。工場労働者になるということは、中産階級の伝統には属さないからである。」
* 伝統・・・静態的社会・・・「ベドウィン族あるいはミャンマーの小村落の経済は、多くの面で今日にいたるまで、100年あるいはことによると1000年前にそうであったまま変化していないのである。」・・・「内的な、内発的な経済変化は、伝統により結びつけられた社会ではほとんどの場合、ただ小さな役割を果たすに過ぎない。」
→資本主義的競争の市場社会では、競争に勝つことが行動・変化推進の本質的動機・原動力になる。
その競争が、グローバル化すればするほど、競争がもたらす内部変革への刺激は大きくなる。グローバル化・競争・市場社会の相互連関。
A命令・指令・専制型
古代エジプト・・・ファラオ 巨大灌漑・治水・道路建設事業、ピラミッド建設等(巨大な公共事業)、統一的専制的なシステムの必要性と専制権力・その命令・指令
古代・中世の中国の専制・・・万里の長城(巨大な防衛設備の構築)を築き上げた。
古代ローマの多くの公共土木建築物(ヨーロッパ各地に残る巨大浴場、巨大水道、道路網、リーメス等の要塞線)
ヘロドトスのケオポス王に関する記述・・・「(彼は)すべてのエジプト人に彼のために働くよう命じた。それにしたがい、一部の者たちはアラビア山中の石切り場からナイル川を下って石を運び出すことに従事した。他の者にたいしては、その石が川を船で運ばれてきたときに、それを受け取るように命じた。・・・そして10万人の人が、3ヶ月間同時に働くということが繰り返し行われた。この労役に苦しめられる期間というのは、道路建設のために10年間もつづき、その間、彼らは彼ら自身の建設する道路の上で働きつづけ、そしてその道路に沿って石を運びつづけたのである。その道路建設の仕事は、私の意見では、ピラミッド建設に匹敵する[3]。
スターリン時代のソ連・・・列強に包囲された農業国・後進国における総力戦体制・全国的軍需工業体制・戦時共産主義・「塹壕社会主義」
しかし、民主主義的議会制度のもとでも、命令の要素(権力的要素)は厳然としてある。
民主主義的多元性のなかで、多数派が政治権力を行使し、予算を執行する。
市場[4]
市場による組織化・・・「これによって伝統・命令両方にゆだねられなければならない社会的資源を確実に最小限に留めることができる」
「市場経済においては誰も何の仕事も割り当てられません。実際、市場社会の思想の中心は、各人が自分で何をするかを決めることが認められている、ということです。」
「市場が監視」・・「国民は自分の欲するままに行動」
市場とは、「すべての経済的メカニズムのなかで最も洗練され興味深いもの[5]」・・・・しかし、世界経済恐慌、南北問題などは?
市場関係(商品の生産・流通・消費)の拡大(地域的広がり)・深化(生活を捉える度合い)は、近代資本主義の発達史と重なる。
経済における変化=近代資本主義誕生の時期(15末−16世紀)における意識変化
(地理上の発見、宗教上の意識変化:プロテスタンティズムの諸形態、文化上の意識変化・ルネッサンス等)
3. 参照:前回配布資料:マックス・ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の解説(生松敬三)
封建制から資本主義社会への移行期における人間意識・倫理道徳の変化
近代資本主義発達の先進地域において、プロテスタンティズムの興隆
(先取りして、資本主義的市場経済が高度に発展した現在の世界では、新しい経済倫理、新しい経済観としてどのようなものが生まれているか?[6]
カルヴィニズムをはじめとするプロテスタンティズム諸派の世俗的営みの尊重、「勤労」、「禁欲」、「商業」、「貯蓄」などは、近代ヨーロッパにおける資本主義を発展させる「精神」と内的連関
ウェーバーにおける「資本主義」の定義・・・近代的資本主義・・・賃労働に基づく「合理的、経営的な産業組織」、さらにこの組織の普及により、社会の「欲求充足がもっぱら市場関係と収利性を指向しながら遂行される」にまで至った、営利経済のこと。
近代資本主義は、「人類の歴史とともに古い」資本主義と同じではなく、その支配を打破してはじめて産み落とされた、と。
前提としての、中世ヨーロッパ社会ではぐくまれてきた市場社会への移行の諸条件(市場社会の諸要因の形成)
カトリック教会は、利益原理・営利追求に対して、とりわけ利子を取る行為に対して、時を追うごとに強く神学的な嫌悪感を叩き込む。
カトリック教徒の圧倒的多数は、農民であり、伝統的農村社会の住民、農村的閉鎖的経済生活のなかにいる人々・・・その安泰を願う人々。
商業関係は、そうした農村の静態的な生活への「破壊的」要因・・・・富(商業的富、商品・貨幣)を希求することに対する「聖職者たちの嫌悪」の背後に、伝統的生活の安泰を望む広範な農村民の存在。カトリック「教会の努力というものは、この世の生活の重要性を否定することであり、そしてすべての弱き肉体がそこへと倒れ込んでしまう現世の生活を軽視することだった[7]」
カルヴィニズム(カルヴァンとその弟子たちの教義)・・・来世、地獄などの観念は、カトリックと共通。
カルヴァンの教義
支配的宗教意識・教義に対する批判。カトリック聖職者による罪びとの贖罪行為(その正当化)の批判。
その背後にある「宿命」観・・・「神はその当初より救済されるものと罰されるものとを選んでおり」、カトリック聖職者といえども、すなわち「いかなるものも、地上でこの不可侵の聖令を変更することをえない」という思想。カトリック教会(聖職者)の信徒に対する態度の批判。
カルヴァンによるなら、「罰されるものの数は、救済されるものの数をはるかにしのぎ、だからこそ平均的な人間にとって、現世は崇高なもの」。平均的な人間にとって、「この地上での生活は、永遠の地獄、破滅の序章であり、それらが始まる前に与えられた一瞬の慈悲に他ならない」。
カルヴィニズム・・・・スコットランド低地地方やイングランド地方でのカルヴァンの弟子たちの教義・・・カルヴァンの無慈悲さや不可解さを緩めた内容。
神が定めた「宿命」という思想は継承されていたが、
「日常的な現世生活の中にも、何をなすべきかのヒントがあると主張されるようになった。かくしてイギリスやオランダの神学者たちは、聖人君子も地獄に落ちることがあるが、軽薄でみだらな人間は確実に地獄へ向かうであろうと教えることになった。潔白な生活を送ることによって救済がありうるということを信じる可能性が、ほんのわずかではあるが残された。
そしてカルヴァン主義者たちは、正直で厳格な、そして何より重要なものとして勤勉な生活をしきりに勧めていた。カトリックの神学者たちは現世の生活を空虚と見なす傾向があったが、それとは反対にカルヴァン主義者たちは努力することを一種の指標と考え、それによって精神的な価値を評価できるとした。実際、カルヴァン主義者の手の中で仕事に献身する人間という観念が育っていった。つまり、「神の思し召しにより」仕事へ向かう人間。かくして、天職を情熱的に追求することは、宗教的目的からの逸脱どころか、宗教的生活への専念の証拠とみなされることになった。活発な商人はカルヴィニスト的視点からは信心深い人間ということになり、良俗に反する人間ではなくなった。そして、仕事と価値が同一視されれば、すぐに次のような考え方が育ってくる。すなわち、より大きな成功を収めた人間こそより価値のある人間なのだ。カルヴァン主義によって与えられた宗教的雰囲気とは、カトリック教会のそれとは反対に、利殖や実務的な世界の気分を高めたのである。
利殖を促進したことよりもっと重要なのは、カルヴァン主義の影響が富の利用へおよんだこと・・・・カルヴァン主義の工場主や商人は、宗教が勤勉であることを勧めている、もっとも強い意味で贅沢を否認しているということで、今や富は蓄積され、よき使われ方をするべきであり、つまらぬことに浪費されてはならない」ということになる[8]。
「カルヴィニズムは経済生活におけるある一面を促進した。それはそれ以前にはほとんどみることができなかったものである。すなわち倹約である。カルヴィニズムが倹約を奨励したことによって貯蓄、つまり所得を使い切ってしまうことを意識的に避けることが美徳になった。動揺に、それによって投資、つまり貯蓄を生産目的のために用いることが、単なる利潤獲得の手段であるばかりでなく、信仰の手段となった。カルヴィニズムにより倹約が奨励されたことで、さまざまな報酬と同時に利子の支払いも認められた。実際にはカルヴィニズムによって促進されたのは新しい経済生活に対する考え方だったのである。社会的安定・経済的安定・自分の立場をわきまえ、それを守るということ、こうした考え方にかわって、闘争・物質的改善・経済成長、といった考え方に敬意が示されるようになった。・・・・実際の経済発展の道程をふり返ってみれば、経済競争に先んじたのはまさに例外なく、仕事および貯蓄に対して「ピューリタン的傾向」を持っていたプロテスタント諸国だった。16世紀および17世紀に起こった衝撃には、宗教面で背景が変わったことを含めて考えなければならない。これが実に有利な刺激として働いて、市場社会に向かって進化が進んだのである。[9]」
市場経済以前のシステムは?
初発・・・・交換(売りと買いの意味の交換)は、共同体と共同体の間で始まる。
4. 共同体間の偶然的・非恒常的な生産物交換→良と質の発展
市場の系譜・・・「実に古い」、
「少なくとも最後の氷河期以来、いずれの地域社会も他の地域と交易を行ってきた。ロシアのステップ地方のマンモス猟師がフランスの地中海の貝を交易によって得ていたという証拠がある。また、フランスの中央渓谷地域のクロマニヨン人も同じく地中海の貝を交易によって得ていた。事実、北東ドイツのポメラニアある湿地帯で古代史学者たちが発見したオーク材でできた箱には原始的な皮製の肩紐が付けられていた痕跡があり、そしてその中には、短刀、鎌の刃部分、針が入っていた。いずれも青銅器時代の工業製品である。専門家の推定では、これは旅商人・行商人がもつ商品見本のひとそろいと考えて間違いなさそうだということである。彼ら旅商人・行商人は自分の地域社会で専門化された製品の注文を取ってあるいていたのである」と[10]。
「ホメロス[11]が唄い、あるいは、狼がロミュラスとリーマスを育てた時代よりもさらに1000年も前に、ウルク[12]やニーブルには、大忙しのダムカー(商人)がおり、・・・商売にいそしんでいた。商人アティドゥムは、仕事場を広げなければならなかったので、シャマシュの尼僧リバツムから適当な地所を借りるかわりに、年に1と6分の1シェッケルの銀を−いくらかは現金で、残りは小額の分割で−支払う契約をした。金持ちの荷主であるアブ-ワカーはとても喜んでいた。というのは娘がシャマシュの尼僧となり、寺院の近くで不動産業を開くことができるようになったからである。イラブラスはイビにこう書き送った。『シャマシュの神、マードクの神、汝を守らせたまえ。私は女奴隷を買った。今や支払いのときがきた』[13]」
商業、土地の貸借=地代などの存在。
しかし、こうした商業(市場)は、社会の基本的な経済上の問題(圧倒的多数の人々の生活物資の生産と消費)を解決する手段ではなかった。
市場は、生産や分配といった重大な過程の補助的なもの。
それでは、社会の圧倒的多数の人々はどのような経済生活?
紀元前3000年の巨大寺院をもったシュメールやアッカドの寺院国家から、大雑把にいって紀元前5ないし4世紀からキリスト教の時代までつづくギリシャ・ローマの経済史・・・・文化的には巨大な隔たり、しかし、経済構造(社会の圧倒的多数の人々の経済生活のあり方)は類似。
・
古代社会の農業的基盤・・・古代社会は農業社会。農業生産に人口の圧倒的割合が従事[14]。
・
古代社会すべてにわたって、農業人口が養うことができる非農業人口は、きわめて限られていた[15]。
・ 基本的には、自給自足的な閉鎖的経済・・・「市場」のために生産することはなく、基本的に自分の家族のために生産する。しかも、しばしば自分自身の作物を消費することさえ自由にはできず、一定割合−10分の1、3分の1、半分、いやそれ以上を土地の所有者に引き渡さなければならなかった。通常、古代の農民は自分の土地を持っていない。古典ギリシャや共和制ローマの独立自営農民の存在が知られてはいるが、これらは一般的なケースからの例外であり、多くの場合、農民とは大地主の小作でしかなかった。そして、ギリシャ・ローマでも、自営農民も次第に巨大な商業農園の小作に成り下がることが多くなっていった。プリニーによると、こうしたある巨大な農場、あるいはラティフンディウム(大農園)は、25万頭もの家畜と、4117人にも上る奴隷を所有していた。
・ 古代社会の農民−市場参加はまったくまれ。古代社会の生産者−とりわけ奴隷となっている人々の大部分にとって、世界はほとんど貨幣を必要としない社会。
・ こうした世界は、一年間にほんのわずかの銅が注意深く蓄えられ、緊急の場合にのみ使われることで市場取引の世界とかろうじて結びつきを保っていた。
・ 古代農民・・・一般に貧困で過大な租税にあえぎ、抑圧され、自然の気まぐれの犠牲者にして、戦争と平和の狭間でもてあそばれ、法と慣習により土地に縛り付けられていた[16]。
古代における都市・・・その経済生活は?
エジプト、古代ギリシャ、ローマ・・・都市には各地からの商品・・・「たとえば、ギリシャでは、大量の商品がピラエウスの波止場を行き来していた。イタリアからの穀物、クレタやイギリスさえ殻も届いた金属、エジプトからの書物、さらにはあるか遠方で作られた香水などの商品が行き交った。・・・紀元前4世紀イソクラテスは、『オリンピア祭演説』で、『手に入れるのが困難な製品が、あれはここ、それはあそこに、と世界中から集まってくる。こうしたものはすべてアテネでは簡単に買えるのだ』」と自慢。同じように、ローマでも外国貿易、国内商業が発達した。アウグストゥス帝の時代には、牛曳船6千艘分の荷物が毎年、都市の人々の生活のために必要とされ、都市の広場には・・・たくさんの投機家が群がっていた。[17]」
近代・現代の都市との違い
1. 都市における市場の機能は限定的。範囲も。古代都市は、他地域の経済に対して寄生的な立場。・・・エジプトやギリシャ、ローマの大都市部では、都市の大衆にとっては必要な量をはるかに超えた取引が行われていたが、そうした取引の多くは、上級階級の奢侈品の類であった。
2.
古代都市は大きく奴隷労働に依存。大規模な奴隷制はほとんどすべての古代経済社会の基本的な柱[18]。
たとえば、ギリシャでは、ピラエウスのうわべの現代的な雰囲気に隠されてはいたが、現実にはギリシャの商人の購買力の多くが、2万人もの奴隷労働によって与えられていたのであり、その奴隷たちはラウレンチウムの銀鉱山で非常に過酷な条件のもと、労役に服していた。
紀元前4世紀、「民主主義」アテネの最盛期、推計ではすくなくとも人口の3分の1が奴隷であった。
紀元前30年のローマの都市では、およそ15万人の奴隷が大農園に、あるいはガレー船に、あるいは鉱山に、あるいは「工場」に、あるいは商店に存在し、主要な動力源となっていた。
その例証・・・セネカ[19]・・・「奴隷に特別な衣服を着せるという案が投票にかけられたが、否決された。その理由は、奴隷たちが自分の数の多さに気づき、その強さを知ることがあっては危険だからである」と。
都市の絢爛たる市場経済は、その最も重要な点で伝統と命令とによって運営されていた。・・・その商業は無数の農民(小作人)と奴隷の肩の上に乗っていた。
農民(小作人)や奴隷の生み出す余剰の上に成立する古代都市・・・・農民(小作人)や奴隷も、生存していかなければならない。彼らが自らの生存をなんとか確保しつつ、地主や奴隷主のための生産物を生産できなければならない。
「おそらく誰でも古代都市の文明をみて最初に驚くのは、まったく貧困な農民層から得られた余剰の大きさであろう。古代アッシリアの王たちが作った寺院、アステカ王朝の驚くべき財宝、エジプトのファラオのピラミッドや奢侈工芸品、アテネのアクロポリス(城砦)、そしてローマの巨大な通路網や建築物。これらすべてが物語っているのは、社会の農業文明の能力が高く、巨大な余剰を生産できたということと、それ(農業余剰=食料余剰)によって、(農業労働以外に従事できる)労働者を土地から解き放ち、生活水準こそ低かったかもしれないが彼らの生活を支え、そして彼らを動員して後代に残るような建築物を作らせることがえできた、ということである。[20]」
古代が「何とか達成した余剰生産の能力」・・・・働く者・生産するものが生命を維持するに必要な労働をこえて、余分に働く時間。その生産物、その製品、建造物など。
そうした古代社会の富は、一般的には、政治的・軍事的・宗教的な権力・地位に対する報酬。帝王、貴族、宗教的聖職者が取得。
→社会生存にとって、政治的リーダーシップ、宗教的指導、軍事的武勲が重要。
アリストテレス[21]『政治学』・・・・「よく統治されたポリスでは、・・・市民は職人や商人として生活を送るべきではない。というのは、そのような生活は高潔さを欠き、人格の完全性と対立するからである」
キケロ[22]、紀元一世紀:
工業技術に対する報酬はともかく、雇われている職人が、雇われて行っている仕事に対して、報酬を受け取っているときには、彼は自由身分の人間としての価値をもっているとは言えず、その人格も卑しくなる。そうした人にとっては、金は奴隷労働の価格なのだ。小売のために卸の商品を仕入れる仕事を天職としている人々も、同じくあさましい。というのは、彼らは価格を偽らないかぎり、利益を得ることができないのだから。・・・小規模な小売商はあさましいが、しかしあらゆる地域から多くの商品を輸入する仕事を含む大規模な卸売りに関しては、輸入商品を多くの人に欺くことなく分け与えているのであれば、あまり非難されるべきではない・・・
5. 封建社会において近代ヨーロッパ経済社会を生み出す諸要因はどのように形成されたか?
市場(生産物が商品として生産され、売買される関係)の成熟
それと絡み合いつつt、封建社会内部における農民層の両極分解,
農村内部の社会的分業の展開
→過渡的形態としての中世都市の形成
[1] 「訳者あとがき」・・・「本書は資本主義=市場社会の誕生から今日にいたるまでのその発展をおおざっぱに描いたものである。ただし、それは単なる歴史叙述ではなく、市場社会を、いくつかの特長によって、歴史上存在した他の社会とは区別される「個体」として把握する立場を取っている。その意味で、本書の歴史観はマルクスやドイツ歴史学派あるいはK・ポランニーらの立場の延長上に位置づけることができるであろう。
[2] 参考文献A、p.29-31
[3] 同、p.33
[4] 同、p.36f.
[5] 同、p.38・・・・ただし、29年からの世界大恐慌などを振り返ると、そしてまた現在の世界の貧困、失業などの諸問題を考えると、「市場」の一面的な賛美は疑問。
[6] エコロジーの発想、地球環境保護の論理と視点など。
[7] 参考文献A、94ページ.
[8] 同、95-97ページ。
[9] 同、97ページ。資本主義が発達した現代の世界の諸国で、11億人の信者を持つというカトリック教会は、「利子」、「営利」「利潤極大化」などにどのような態度を取っているか?
[10] 同、44ページ。
[11] ホメロス Homeros 古代ギリシャの叙事詩「イーリアス」と「オデュッセイア」の作者とみなされてきた詩人名。ホメロスその人についてはなにも知られていないし、2つの叙事詩をひとりの人物が単独でつくりだしたのかどうかについても議論の余地がある。ただ、言語学と歴史上の証拠から推定すると、一般的にこれらの詩は前8世紀後半ごろ、小アジア西海岸のギリシャ植民地でつくられたものと考えられている。どちらの叙事詩も、作品成立より何世紀も前におこったと思われる伝説上の出来事をあつかっている。
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[12] ウルク Uruk ユーフラテス川下流域に位置したシュメール人最古の都市国家のひとつ。現在名はワルカ。「旧約聖書」の中のエレクにあたるといわれる。・・・都市はほぼ円形の全長9.5kmにおよぶ城壁にかこまれており、その守護神はイナンナ(イシュタル)である。中央の丘の上に神殿がたち、そばにはジッグラト(聖塔)がある。また発掘された粘土板文書によって、発達した政治、経済活動がおこなわれたことがわかっている。
西アジアにおいて発展した農業は、初期の天水(雨水)農業から灌漑(かんがい)農業へと形態をかえていった。その過程で、灌漑施設の建設と維持のための集団労働を可能にする社会組織として、都市国家が生まれた。メソポタミア文明とはこのような都市によってささえられた都市文明であり、ウルクはこれら古代都市のひとつで、ほかの都市国家と覇権をあらそった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002
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「ニーブル」は、不明。
[13] 参考文献A、45ページ。
[14] 同、47ページ。
「すべての人間社会はどれほど工業化されてたとしても、農業の上に成り立つものである。つまり、「工業」社会を「農業」社会から区別するのは、結局のところ、その社会の食料生産者によって支えられる非農業人口の数である。
たとえば、十分な装備をもって広大な面積を耕しているアメリカの農家は、100人近くの非農家の食糧をまかなっている。
他方、アジアの農民は、加賀田の鋤の他にはほとんど何も持たずに小さなのうちを耕すに過ぎず、必死で働いていても地主に地代を支払えば、自分の家族を養うことで精一杯なのである。」
[15] 同。古代国家の通常の状態を想像する材料・・・「現代の後進地域」。「こうした地域では技術水準や農業生産性は古代社会にきわめて近い状態にある。たとえば、インド、エジプト、フィリピン、インドネシア、ブラジル、コロンビア、メキシコにおいて、1軒の非農業家族を養うためには、2軒の農家が働かねばならないのである。」
他方、50年ほど前の悲しい調査結果・・・「アフリカ農業の生産性はあまりにも低く、どこでも2ないし10人の農民(男も女も子供もいる)が働いて、自分の他に成人一人(非食料供給者)分の満足な食糧を生産できるだけである」と。これが、「今でもおおむね現実」と。
日本の問題は、第二次産業、第三次産業への就業者の圧倒的移行(前回講義資料を参照)によって、農業人口が圧倒的に減ると同時に、食料自給率も非常に低いということである。
日本は、第二次産業、第三次産業の生産物とサービスを商品として販売できるかぎりにおいて(買い手がいるかぎりにおいて)、食料を確保できる。
そうした状況がなくなれば、食糧不足から飢餓が発生する可能性がある。
世界の食糧生産の安定的確保、世界農業の発展(世界農業のあり方)は、日本の重大関心事でなければならない。
[16] 同上、48−49ページ。
[17] 同上、50ページ。
[18] 都市ローマには、自由身分の職人、手工業者もいて、カレギア((collegia)あるいは、友愛団体的組織によって結び付けられていた。その点は、ギリシャのほかの古代都市の自由身分手工業者でも同じ。多くの都市、とりわけ晩期のローマでは失業した(しかし奴隷ではない)大量の労働者が臨時の労働力の供給源となっていた。同上、51−52ページ。
[19] セネカ Lucius Annaeus Seneca 前4?〜後65 ローマの哲学者・劇作家・政治家で、ラテン文学の白銀時代のもっとも著名な作家のひとり。ルキウス・アンナエウス・セネカという同名の修辞学者を父として、スペインのコルドバで生まれた。父と区別して小セネカとよばれる場合もある。ローマで修辞学と哲学をまなんだセネカは、ストア学派の教えに深く影響され、のちにその学説を発展させることになった。
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[20] 参考文献A、52ページ。
[21] アリストテレス Aristoteles 前384〜前322 古代ギリシャの哲学者・科学者。ソクラテス、プラトンとならび、古代を代表する哲学者のひとりである。アリストテレスはマケドニアのスタゲイラに侍医の息子として生まれた。
17歳でアテネにでてプラトンの学園アカデメイアに入門し、約20年間学生として、ついで教師としてとどまった。
前347年にプラトンが死ぬと、友人のヘルメイアスが統治する小アジアのアッソスにうつり、そこでヘルメイアスを補佐して、彼の姪(めい)と結婚する。
前342年、マケドニア王フィリッポスにまねかれて王子アレクサンドロス(のちの大王)の家庭教師となる。前335年に王子が即位すると、アテネにもどり、自分の学園リュケイオンをひらく。この学園では、師弟の議論は歩廊(ペリパトス)を歩きながらなされたので、彼の学派はペリパトス学派とよばれた。
アレクサンドロス大王没後の前323アテネに反マケドニア運動がおこったため、難をのがれて母の故郷ハルキダにおもむいたが、翌年そこで病死した。
アリストテレスは、師のプラトンと同じく多くの対話形式の著作をのこしたが、そのほとんどはうしなわれて現存しない。現在アリストテレス著作集としてつたわっているものは、うもれていた彼の膨大な講義ノートをロドス出身のアンドロニコスが前1世紀に整理し編纂したもので、そのテーマは学問と芸術のあらゆる分野におよぶ。
Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved..
[22] キケロ Marcus Tullius
Cicero 前106〜前43 古代ローマの作家・政治家・弁論家。三頭政治時代の政治家として波乱にとんだ道をあゆんだが、ローマ最大の弁論家ならびに著述家として歴史に名をのこしている。
アルピヌム(現在のイタリアのアルピノ)に生まれ、青年時代にローマで法、弁論、文学、哲学をまなんだ。短期間の軍務ののち、弁論家となり、3年間、民間人の弁護で活躍する。
前79年、ギリシャと小アジアに外遊し、そこで勉学をつづけた。
前77年にローマにもどると政治家の道にすすみ、政治家で将軍であるポンペイウスと手をむすんで、前74年に元老院議員となった。
前64年のコンスル(執政官)選挙では、ローマの貴族階級に属していなかったにもかかわらず、キケロは富裕で有力な階層の多くに支持されてコンスルにえらばれた。対立候補の、ルキウス・セルギウス・カティリナは、貴族ではあったが腹黒い陰謀家として政治的信用がなかったからである。