20050628経済史講義メモ

 

 

中世都市の構造・・・経済基盤と自治

 

市庁舎、

市場、

市壁

自治・独立

商人ギルド、手工業ギルド

対内平等、対外独占

 

Jahr und Tag

Stadtluft macht frei.

 

 

中世都市の網の目の発達・・・中世の世界経済

 配布資料@

 

特産物・・・自然的・地理的条件の特産物の遠隔地商業

工業製品・・・毛織物、麻織物、絹織物の遠隔地商業

       それらに伴う金融業

 

定住商人による商業・・・各市場に支店や代理商・・・取引網を利用して、さまざまの商品の卸売り、貿易、問屋制前貸、商品運送、さらに送金や高利貸付などの金融業務。

 

 

 イタリア商人・・・フィレンツェのペルツィ家・・・14世紀に16の支店と150人以上の代理商・・・100年戦争でイギリス国王に貸付金、焦げ付き倒産。

 15世紀・・・フィレンツエのメディチ家・・・イタリア、南フランス、ブリュージュ、ロンドンへ進出。商取引の他、教皇庁を始め王侯への貸付、毛織物と絹織物の問屋制前貸、明礬鉱山の賃借経営などで莫大な富を築き、一族からローマ教皇やトスカナ大公を出した。

 

イギリスの羊毛輸出商人(マーチャント・ステイプラー)や毛織物輸出商人(マーチャント・アドヴェンチャラーズ)のような団体(制規組合)を結成。

 ボーデン湖畔の大ラーフェンスブルク会社や南ドイツのフッガー同族会社・・・会社形態。

 

 ブリュージュに本店を構えるヒルデブラント・フェッキンクフーゼンは、穀物、魚類、バター、塩、毛皮、毛織物、絹織物、金属、せんだんの花環、さんご細工などの取引のためにハンザ諸都市を始めイギリス、フランス、イタリア、ネーデルラント、ドイツの20以上の都市に取引網。

 

 ハンブルクのヴィコ・フォン・ゲルデルセンは、毛織物をはじめ東方の香料と果実、穀物、肉、油、蝋、綿花、麻織物、絹織物、綾地織、木工品、金属製品の取引の他、定期金売買や利し付き貸し付けのような金融業を営んでいた。

 

 中世最大の商事会社といわれる大ラーフェンスブルク会社・・・6年間の契約を25回更新。1380年から1530年まで150年間にわたって南欧との取引を続けた。

 その間に、100家族以上から出資を受け入れ、ドイツのほか、イタリア、スイス、フランス、アラゴン(スペイン)、ネーデルランド、オーストリア、ハンガリーの諸都市に13の支店と数人の代理商を持っていた。

 

 14世紀までのイギリスは、外国商人に貿易と金融を支配され、彼らの手で原料(羊毛)を輸出するという後進的地位。

 

アウクスブルクのフッガー家・・・ヴェネツィアとの卸商業から出発、皇帝や諸侯への貸付の代償として鉱山の有利な利権を始め各種の特権を獲得。教皇庁の銀行家として10分の1税の送金をうけもち、80以上の都市に張り巡らした支店網を利用してヴェネツィアやアントウェルペンの市場を支配。

 スペイン王室の所領収益の大部分を請け負い、名実ともにヨーロッパ第一の富豪になった。

 フッガー家のヤーコプ2世とアントンは、宗教改革時代の政治史の舞台裏で隠然たる勢力を振るう。・・・「フッガー家の時代」

  16世紀後半以降・・・鉱山業の停滞、スペイン王室への貸付(焦げ付き(、アントウェルペン市場での投機

 商業革命とオランダ独立戦争の大波の中で姿を消す

 

 

 

 

 

商業的繁栄の背後で、それらと関連しつつ、中世ヨーロッパの地殻変動。

  領主・農民関係の変化

 

イギリス

 14世紀にはいると賦役農奴制に立脚したマナー(荘園制)が急速に崩れた。直営地は農民に貸し出され、賦役は金納化されて、定額の貨幣地代が成立。

 14世紀後半・・・黒死病字労働人口減少・・・・領主直営地の維持はますます困難。

   農民的土地所有、農民経営の自立性。

 

 英仏100年戦争・・・領域支配をめぐる争い・・・戦費調達のための人頭税の徴収

 13815月 エセックスで大規模な農民一揆(ワット・タイラーの乱[1])

   多数の農村の手工業者も参加

   農奴制の廃止、一揆参加者の赦免、売買の自由の保証、地代の軽減などを要求。

 

  賦役の金納化commutation)の傾向を促進。

  農民や手工業者たちは余剰生産物を近隣の市場で互いに売買し、次第に貨幣的富(民富commonweal)

を蓄積。

 14世紀末には、農奴制は事実上消滅。

 15世紀には慣習的に小額の貨幣地代を負っているにしても、農民の経済状態は著しく改善され、事実上の農民解放が大きく前進。

 独立の商品生産者としての農民や手工業者が一般的に成立

 

 

フランス・・・13世紀から14世紀にかけ、王領地の農奴に対して賦役をはじめ人身支配権と思い現物貢租が償却

 この傾向は、聖俗領主の所領にも及んだ。

 戦争のたびに国王は農民の負担を償却し、そうして得た貨幣収入を戦費に当てたといわれる。

 農奴制は北部と西部では早くから廃止。・・・13585月領主の人身支配、共同地侵害、新奇の課税などを不満として北フランスでジャックリーの乱が発生。市民の一部をも巻き込み一時は14県に拡大。

     中部と南部、とりわけ東部では15世紀にも存続。

 

 中世末には、償却の結果として貨幣地代がひろがり、北部では独立自営農民層も生まれた。

 

 15,16世紀以降、都市の富裕な商人が貴族の荘園をつぎつぎと買いとって、これをふたたび分割貸与し、多数の小規模な農民経営を基礎に生産物地代に寄生する「市民的土地所有」(propriete bourgeoise

 南フランスから南欧の諸地域では、収穫物の一定の割合を都市に住む不在地主に収める分益小作制が広がった。

 

スペイン・・・回教国の時代に、アラビア人によって米、綿花、甘蔗(さとうきび)、桑、レモンなどの栽培が伝えられ、オリーブやぶどうのさいばいも普及。カトリックの支配に移る頃から、これらにかわって牧羊業のみが輸出産業として発達し、多量の羊毛をイタリアやフランドルに輸出するとともに、移牧羊群所有者の組合(メスタ)は遊牧権と裁判権を付与されるようになった。

 

ドイツ

エルベ川以西のドイツ・・・12,13世紀以降、古典荘園が崩れ、生産物地代や貨幣地代を負担する純粋荘園が一般的となった。

 フス派戦争(1419−36)のころから、ローマ教会に対する批判や帝国改革の声が高まり、各地で農民一揆が頻発。

 宗教改革運動のすすむなかで、1524年にスイスに近い南西ドイツ・シュヴァルツヴァルト地方で一揆勃発・・・翌25年はじめ上部シュヴァーベンに広がる。

 農民はキリスト者同盟を結び、12か条の要求書を起草。福音説教の自由、教区牧師の任免権の獲得、農奴制の廃止、共同地の村への返還、地代の軽減などを要求。

 一揆は、中部ドイツにも広まり、激しい戦闘。

 結局、シュヴァーベン同盟や有力諸侯の軍隊によって各個撃破されて、農民軍の惨敗に終わった。

 

 エルベ川以東の植民地域・・・16世紀ごろから穀物輸出に対する外国の需要がたかまり、領主農場において農奴の賦役労働に依存する外国市場向けの大規模な穀物生産が広がり、ダンツィヒなどから多量に輸出された。

 穀物取引の好況の中で、領主農場は農民の土地を取り上げて拡大され、その結果、農民は農奴制の再販とまで言われている隷属状態に圧迫され、賦役の強化と外国市場への輸出とが結びついた農場領主制が成立。

 

 

 

イギリス

 毛織物工業・・・農村工業の発展から、国民的産業へ

         羊毛輸出国から毛織物輸出国へ

 

          農村織元 ・・・何台かの織機、徒弟や雇いの雇用。

                  選毛や紡毛など準備工程は近隣の農家や紡毛工などに下請けに出す。

  →中心職場(2030人の他人労働力

   マニュファクチャー

 

   近代的労働者ではなく、近隣農民の農閑期の臨時雇いや徒弟。

 原生的なまた家父長的な労働関係の残存。

    

 



[1] ワット・タイラーの乱 ワット・タイラーのらん Tyler's Rebellion 元兵士のワット・タイラーを指導者として1381年におきたイギリスの農民一揆(いっき)。直接の原因は、百年戦争の費用調達のため再三人頭税が課されたことにあった。これに対する民衆の怒りが、エセックス、ミドルセックス、サセックス、ケントを中心に各地で蜂起に発展した。

1381613日、一揆軍はロンドンを占拠し、翌14日には国王リチャード2世と会見して人頭税の廃止をふくむいくつかの譲歩を約束させた。しかし翌15日の交渉中にタイラーが殺害され、一揆はまたたく間に崩壊した。参加した農民の多くが処刑され、勝ちとった譲歩の多くは撤回されたが、人頭税を課そうとする試みはその後なされなかった。Microsoft(R) Encarta(R) Reference Library 2003. (C) 1993-2002 Microsoft Corporation. All rights reserved.