ノモンハン事件・・・モンゴル川からすれば英雄的なハルハ川の戦い
映像資料:ビデオ
「ノモンハン事件 ノモンハンじけん 1939年(昭和14)に「満州国」とモンゴル(外蒙古)の国境近くのノモンハンでおこった日本軍とソ連軍の武力衝突。
ノモンハン一帯では日ソ間にかねてから国境問題があり、日本はハルハ川を国境とし、ソ連側はその北方ノモンハン付近を国境と主張していた。
関東軍はソ連軍に対する強硬方針をきめており、5月12日、ハルハ川をこえたモンゴル軍を満州国軍が攻撃したのを機に第23師団がただちに出動、モンゴル軍にソ連軍がくわわったため、日ソ両軍の戦闘となった。
6月27日に関東軍はモンゴル軍後方基地タムスクを爆撃し、7月2日以降は第23師団が中心となって大攻勢をかけたが、ソ連軍の機械化部隊に圧倒された。
戦時の最高統帥機関である大本営が「不拡大方針」を発表したにもかかわらず、関東軍はこれを無視して戦闘を継続したため、8月20日、ソ連軍の総攻撃をうけて惨敗した。
9月になるとヨーロッパで第2次世界大戦がおき、9月15日極東の戦闘の長期化をきらったソ連は日本の求めに応じて停戦協定に調印した。この事件で日本軍は第23師団がほぼ壊滅し、戦死傷者は約1万数千名にも達した。」
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『国際スパイゾルゲ』の「補注」より。
ノモンハン事件の前提(前史)
満州事件→傀儡国家「満州国」の建設・関東軍による支配−−−ソ連との利害対立
満州事変
I プロローグ
満州事変 まんしゅうじへん 1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件からはじまった日本の満州(中国東北部)への侵略戦争。この過程で、32年3月1日に日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」を成立させ、国際的非難をよそに、かねてから満蒙領有を企図していた関東軍の野望は次々に実現していった。
II 事変の背景と発端
日露戦争後、日本はロシアからえた関東州と満鉄などの権益を中心に、中国東北地方の東3省(奉天、吉林、黒竜江)および満州に強い勢力を保持していた。しかし、日本商品排斥運動と大恐慌の影響で満鉄の経営が悪化し、さらに中国国民党政府が鉄道を建設したことで、満鉄線の貨物輸送率が激減した。軍部と右翼、野党政友会の一部はこれを「満蒙の危機」として喧伝し、国民に対してはマスコミを通じて排外主義をあおり、政府の強い対応をせまった。
関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と同作戦主任参謀の石原莞爾中佐らは、こうした国内情勢に力をえて、かねてから豊富な石炭・鉄などの資源の確保、対ソ戦の前線基地としての必要性、朝鮮統治の安定、昭和恐慌下のインフレや失業問題の解決などのために満蒙の重要性を説き、満蒙領有計画を立案した。機会をねらっていた板垣、石原らは1931年9月18日夜、独立守備歩兵隊の河本末守中尉に奉天(瀋陽)郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破させ(柳条湖事件)、これを国民党政権に合流した軍閥張学良軍の犯行とみせかけ、その軍宿舎であった北大営を急襲した。
III 戦線拡大から「満州国」樹立へ
9月18日の柳条湖事件を口実に日本軍は中国軍に攻撃を開始、1932年2月までに中国東北部の大半を占領。1932年3月には「満州国」を成立させた。
柳条湖事件の翌19日、関東軍は奉天をはじめとする満鉄沿線を制圧した。同日、若槻礼次郎内閣は事態不拡大の方針をうちだしたが、21日、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将が南満州に独断で部隊を越境させるなど、軍部は東3省全域に次々に戦線を拡大、10月には張学良が仮政府をおいていた錦州を空爆、11月にはチチハル、翌1932年1月に錦州を、さらにハルピンを占領した。
リットン報告書
1931年(昭和6)柳条湖事件直後の9月21日、中国は満州事変を国際連盟に提訴したが、これに応じて日本は調査団派遣を提案、12月10日の理事会で決議され、調査委員会が組織されることになった。この『リットン報告書(国際連盟調査委員会報告書)』は緒言と10章からなり、以下では、第4章 柳条湖事件の結論、第6章 満州国の結論、第9章 解決の原則及条件、の一部を収録した。なお原文に適宜句読点をつけ、読みやすくした。
読みものと記事を開く
こうした日本の満州への侵略に対してアメリカは不承認を声明し、また1933年2月、国際連盟総会は日本の正当性を否認し、列強による東3省の共同管理を提案するリットン報告書を圧倒的多数で可決した(→ リットン調査団)。しかし、その間も関東軍は上海事変によって外国の目をそらしながら、満州の傀儡政権樹立をはかる「満蒙共和国統治大綱案」の実現をすすめ、32年3月1日、清朝廃帝の愛新覚羅溥儀を執政とする「満州国」を樹立させた。
IV 終結とさらなる侵略
1933年5月31日、日本は塘沽(タンクー)停戦協定をむすび、国民党政府に日本の満州植民地支配をみとめさせた。これによって、満州の権益確保をめざした満州事変はいったん終息するが、軍部は傀儡政権「満州国」の治安維持のためには華北5省を領有する必要があると考えて、「華北分離工作」にもとづく新たな侵略をはかり、やがて日中全面戦争に突入していった(→ 日中戦争)。
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満州国
I プロローグ
満州国 まんしゅうこく 1932年(昭和7)、満州事変によって現在の中国東北3省(遼寧・吉林・黒竜江)につくりあげた日本の傀儡(かいらい)国家。事実上の植民地で、太平洋戦争終了後の45年に消滅した。
II 傀儡国家として成立
日露戦争後、日本はロシアが清国(中国)にもっていた長春〜旅順間の鉄道と付属する利権を獲得し、1906年(明治39)に半官半民の国策会社である南満州鉄道会社(満鉄)を設立した。以来、満鉄は採炭や製鉄にまで事業を拡大し、満州と東部内蒙古(満蒙)の権益はしだいに日本経済にとって不可欠のものとなっていった。
満州国建国宣言
日本の傀儡(かいらい)国家である満州国は1932年(昭和7)3月1日、建国宣言を公布し、成立した。
国体は立憲共和国、国号は大満州国、元首(執政)は溥儀、年号は大同、首都は新京(長春)、国旗は4分の3を黄色とし、左肩の4分の1に赤、青、白、黒の4色が横にひかれた新五色旗とした。しかし急ごしらえの国家であることは否めず、憲法はこの日に間にあわず、暫行法令となった。
また満州は植民地朝鮮の安全保障とソ連(1922年、ソビエト連邦成立)に対する戦略上、きわめて重要だったため中国(1912年、中華民国成立)人民の抵抗と欧米列強の圧力が強まると、日本は安定的支配と満蒙の領有をねらって、1928年の張作霖爆殺事件や31年の柳条湖事件など、さまざまな謀略をおこなった。
1932年初頭にこれらの事件を利用して強引に主要都市を占拠したが、軍中央の反対で領有をあきらめ、旧清国最後の皇帝溥儀をたてて傀儡国家建設をはかった。3月1日、親日派満州軍閥による東北行政委員会によって「建国宣言」が発表され、9日には溥儀が執政に就任。新京(長春)を首都にして「満州国」が生まれた。
III 日本軍による軍事・行政支配
「満州国」政府は「王道楽土」と日本・満州・漢・蒙古・朝鮮民族による「五族協和」をうたっていたが、実質は帝国主義日本による植民地支配であった。政府の構成は立法・行政・司法・監察の四権分立としたが、強い権限をもつ国務院の総務長官には日本人を任命するとし、その任免権は関東軍司令官にあった。1933年に日本が国際連盟を脱退する原因となった前年の「リットン報告書」は、「満州国」について「国務総理およびその大臣はすべて中国人ではあっても新国家の組織では最大の実権を行使する各総務部の長は日本人である」と言及している(→
リットン調査団)。34年3月、「満州国」は溥儀を皇帝とする帝政をしいたが、いっぽうで日本は同年に陸軍大臣を総裁とする対満事務局を設置して関東軍司令官による軍事・行政支配をいっそう強化した。
1933年(昭和8)2月24日の国連総会は、リットン報告書を承認し、「満州国」を不承認として、日本軍の満州撤退をもとめる対日勧告案を採択した。42対1(日本)、棄権1(シャム。現タイ)の大差だった。日本政府は、採択された場合は連盟を脱退することをきめており、松岡は総会の決議後ただちに、決議は遺憾で、日本は連盟を脱退すると述べ、日本語で「さようなら」とむすぶと、日本代表団をひきいて退場した。
IV 産業開発計画と農業移民
対ソ連戦を予想していた関東軍は、1934年には満鉄を司令官の監督下におくなど経済統制を強め、鉄道網の整備と重工業の建設に全力をあげた。さらに生産力拡充をめざして37年4月から産業開発5カ年計画を実施。鮎川義介を総帥とする新興財閥日産コンツェルンとの折半出資で計画の中心になる満州重工業開発会社(満業)を満州国特殊法人として設立した。また、32年からは試験的移民として日本人の武装農民移民の受け入れをはじめ、37年には20カ年100万戸移民計画を本格的に開始した。こうして「満州国」は日中戦争開始後は日本軍の軍需資源の貴重な供給地となった。
V 崩壊
1941年にはじまったアジア太平洋戦争の戦局が悪化すると、本土や南方への転出者が続出し、関東軍はしだいに弱体化した。45年8月、ソ連が参戦して侵攻してくると、「満州国」は開国以来わずか13年で崩壊した。
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