満州事変
−軍部による陰謀事件−
I | プロローグ |
満州事変 まんしゅうじへん 1931年(昭和6)9月18日の柳条湖事件からはじまった日本の満州(中国東北部)への侵略戦争。この過程で、32年3月1日に日本の傀儡(かいらい)政権「満州国」を成立させ、国際的非難をよそに、かねてから満蒙領有を企図していた関東軍の野望は次々に実現していった。
II | 事変の背景と発端 |
日露戦争後、日本はロシアからえた関東州と満鉄などの権益を中心に、中国東北地方の東3省(奉天、吉林、黒竜江)および満州に強い勢力を保持していた。しかし、日本商品排斥運動と大恐慌の影響で満鉄の経営が悪化し、さらに中国国民党政府が鉄道を建設したことで、満鉄線の貨物輸送率が激減した。軍部と右翼、野党政友会の一部はこれを「満蒙の危機」として喧伝し、国民に対してはマスコミを通じて排外主義をあおり、政府の強い対応をせまった。
関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と同作戦主任参謀の石原莞爾中佐らは、こうした国内情勢に力をえて、かねてから豊富な石炭・鉄などの資源の確保、対ソ戦の前線基地としての必要性、朝鮮統治の安定、昭和恐慌下のインフレや失業問題の解決などのために満蒙の重要性を説き、満蒙領有計画を立案した。機会をねらっていた板垣、石原らは1931年9月18日夜、独立守備歩兵隊の河本末守中尉に奉天(瀋陽)郊外の柳条湖村で満鉄線路を爆破させ(柳条湖事件)、これを国民党政権に合流した軍閥張学良軍の犯行とみせかけ、その軍宿舎であった北大営を急襲した。
III | 戦線拡大から「満州国」樹立へ |
柳条湖事件の翌19日、関東軍は奉天をはじめとする満鉄沿線を制圧した。同日、若槻礼次郎内閣は事態不拡大の方針をうちだしたが、21日、朝鮮軍司令官の林銑十郎中将が南満州に独断で部隊を越境させるなど、軍部は東3省全域に次々に戦線を拡大、10月には張学良が仮政府をおいていた錦州を空爆、11月にはチチハル、翌1932年1月に錦州を、さらにハルピンを占領した。
こうした日本の満州への侵略に対してアメリカは不承認を声明し、また1933年2月、国際連盟総会は日本の正当性を否認し、列強による東3省の共同管理を提案するリットン報告書を圧倒的多数で可決した(→ リットン調査団)。しかし、その間も関東軍は上海事変によって外国の目をそらしながら、満州の傀儡政権樹立をはかる「満蒙共和国統治大綱案」の実現をすすめ、32年3月1日、清朝廃帝の愛新覚羅溥儀を執政とする「満州国」を樹立させた。
IV | 終結とさらなる侵略 |
1933年5月31日、日本は塘沽(タンクー)停戦協定をむすび、国民党政府に日本の満州植民地支配をみとめさせた。これによって、満州の権益確保をめざした満州事変はいったん終息するが、軍部は傀儡政権「満州国」の治安維持のためには華北5省を領有する必要があると考えて、「華北分離工作」にもとづく新たな侵略をはかり、やがて日中全面戦争に突入していった(→ 日中戦争)。