ヨーロッパ・ユダヤ人絶滅政策の時期・論理に関する一つの説
 ――1941年9月説――

論文:
イエルザク「殺戮の諸決定と嘘-ドイツ戦時社会とホロコースト」

Ⅱ.戦争の中のホロコースト
  1.戦後の「ユダヤ人問題最終解決」の諸計画


 2.決定発見の基礎
 3.戦争中の「ユダヤ人問題最終解決」の延期
 4.「最終勝利」のための絶滅について

上記論文所収の10巻本の一冊
『ドイツ帝国と第二次世界大戦』
全10巻本


(München 2004)





Ⅲ.戦時社会とホロコースト




絶滅収容所: ガスの種類、 最初のガス殺、ガス室の最後





戦争の展開とホロコーストの相互関係

 イエルサクは、1941年8月の大西洋憲章の発表がヒトラーに与えた影響(世界戦争が必死との予測)が、ユダヤ人問題に対する態度を変更させた、と強調する。




 イェルザク説では、1941年8月中旬のヒムラーのミンスク訪問後、ヒムラーがミンスクから返ってきた時にヒトラーが大々的な「システマティックなヨーロッパ・ユダヤ人殺戮」の「準備命令」を出した、という説を展開している。わが国の栗原説は、大々的命令それ自体を8月初旬には、あるいは8月初旬までに出していたという説だが、大々的命令(システマティックな命令)という点では共通しながら、あくまでも「準備命令」だとする点では栗原説と違い、しかも、その「準備命令」も栗原説よりも少し遅い時点に設定している点がちがっている。


永岑説
 これらの評価は、拙著『ホロコーストの力学――独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法――』(これは拙著1994年以降の数年間の論説を2003年にまとめたもの)で展開し検証した論点、すなわち、ハイドリヒが「一時回避的」対応と世界大戦への突入、それを受けたヴァンゼー会議で行った転換を、きちんと見据えていない。

 41年9月以降から11月末頃までの対応は、一時回避的なユダヤ人(西欧)の戦時中の移送の開始であり、その挫折から一時回避的な抹殺政策の採用(ヘウムノにおける12月はじめの実験段階)であった。

 決定的な転換点は、1941年12月、すなわち11日の対米宣戦布告、12日のナチ党幹部へのヒトラー演説であり、
 1942年1月1日の連合国宣言(連合国26カ国による「大西洋憲章」への同意)、すなわち世界大戦の真の意味での決定的開始。。


 下記の点は、私の見方(12月中旬説=1994年、拙著『ドイツ第三帝国のソ連占領政策と民衆 1941-1942』同文舘)、
 それにゲルラッハの見方(1996年)と重なり合う。



1941年12月12日のヒトラーの断定的決定への諸段階
 (Reichis- und Gauleitertagung)









「後の時点、後世から見てrueckwirkendヨーロッパ・ユダヤ人のシステマティックな殺戮となった『最終解決』は、その起源を、ただひとつの決定、あるいはただ一つの命令にもっていたのではない」(ibid.,S310)・・・どの時期、どの段階での決定か、その推移を精密に洗い直す必要がある。




9月22日から24日のヒトラー、ヒムラー、ハイドリヒ会談は、プロテクトラート・ベーメン・メーレンの総督代理へのハイドリヒ任命にかかわり、
この会談をハイドリヒのヨーロッパ・ユダヤ人殺戮計画・実行職務(最終解決)と直結するのは、いきすぎ(拙著、そのもとになった拙稿の批判の実証的論点)。



ヒトラーの12月12日ナチ党最高幹部会議
(Reichs- u. Gauleitertagung)における
演説
 (ゲッベルス日記12月13日)
「ユダヤ人問題に関して、総統はすっかり決着をつける決心をした。彼はユダヤ人について、彼らがもう一度世界戦争を引き起こしたら、その場合には彼らは絶滅されることになろうと予言していた。世界戦争がいまやまさにここにある。ユダヤ民族の絶滅はこの必然的帰結でなければならない。この問題は、いかなる感受性もなしに考察されなければならない。われわれはユダヤ人に対する同情ではなく、わがドイツ民族に対する同情だけを持たなければならない。ドイツ民族がいまやふたたび
東部戦線で16万人の死者を犠牲に供したのだ。とすれば、この血まみれの紛争の主謀者はその罪を命であがなわなければならない



総督府ランクの閣議発言(
12月16日)
   「ドイツ民族防衛のため」のユダヤ人殺戮