バルカン侵攻

セルビア軍政統治


さまざまな現地の抵抗・パルチザン戦争とドイツ国防軍の犯罪


以下の写真の出所:『国防軍の犯罪: 絶滅戦争1941-1944の諸次元』ハンブルク,2002年


セルビア、1941年4月、国防軍の犯罪の象徴(シンボル)となった写真・現場。

 「大ドイツ連隊」の将校が、多くの兵士がみている路上でまだ生きている犠牲者をピストルで処刑(射殺)している場面。


『シュピーゲル』誌に掲載された写真、 『国防軍犯罪展』展示物を収めた書物の表紙写真。





「当時の戦時法・国際法によれば、民間人に対する報復措置(対抗措置)をとることは、許されていた。さらにその上、兵士への襲撃を防御し占領支配を安全にするために、民間人に対する「罰」として人質を射殺することは許されていた。
そして、ドイツ国防軍は、全ヨーロッパで、この可能性を犯罪的な規模で利用した。とりわけ、南東軍司令長官の軍政下にあったセルビアとギリシャで」、と。

1941年4月、すなわち「セルビア占領直後、国防軍は断固としてあらゆる抵抗と戦い、民間人の大量処刑も躊躇しなかった。
1941年夏の蜂起後は、ドイツ国防軍は、さらに一歩進めて、何万人もの不参加のセルビア人をパルチザン襲撃に対する報復として射殺することとなった。
先鋭化された「処罰措置」の犠牲者は、ますますユダヤ人が多くなった」


 (S.507 )

 ここにも占領下の一般民衆に対する過酷な抵抗弾圧措置が取られる一方で、報復の熱情は、ますます住民の中のマイノリティであるユダヤ人に向けられる論理が浮かび上がっている。





バルカン作戦は、対ソ戦の南東翼安定化のため。
この作戦には、イタリア、ハンガリー、ブルガリアの軍隊も参加。

国防軍のなかには反セルビア感情が広まっていたが、最初は、民間人に対してどのように行動すべきかという特別の命令や指令は、まったくなかった。
最短期間でこの地をドイツ統制下に置き、あらゆる抵抗を厳格に打ち砕くことが目的となった。

第二軍団最高司令官フォン・ヴァイヒス
は、ドイツ兵士への散発的な暗殺や襲撃をきっかけに、セルビアの民間人にも責任を取らせようとの態度になった。1941年4月28日、彼は人質の逮捕を命じ、ドイツ人兵士が殺害されれば、ひとりにつき100人の人質を殺すものとする、と告示した。
 
 ヴぁ位比すの措置は、セルビア軍政当局にはさしあたりは決定的なものではなかった。セルビアの軍司令官ルートヴィッヒ・フォン・シュレーダーは、1941年7月、人質を取る可能性を承認した。しかし、これは、対抗措置のもっとも極端な形態だと見なしていた。その前に、自由のさまざまの制限、強制労働や罰金が占領支配の貫徹を保証するはずだ、と。の逮捕、さらにはその射殺などはセルビア司令官の特別の命令にもとづいてのみ、許された。




フォン・ヴァイヒス、1941年4月17日、ベルグラードで、ユーゴスラヴィア軍の降伏を受け入れる。




1941年4月27日、軍部隊に対し、「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令書。

 「ドイツの軍隊が占領したユーゴスラヴィア領土は、ドイツ軍政下におくものとする。
 軍司令官は、軍隊の安全、および治安と秩序の安定のため、必要な措置を取る者とする。・・・・」



1941年4月28日のファン・ヴァイヒスの命令書



つづき:


 襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し、住民に過酷な結果が生じることを公示せよ、と。


その命令に従った住民への警告プラカード(1941年4月28日付け)の文面:

「セルビア人よ。
 卑劣で陰険な襲撃により、ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。
 罰として、全住民層の1000人が射殺された。今後、セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば、一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。・・・・」



セルビア占領軍・司令官フォン・シュレーダーの指示書(704歩兵師団の1941年7月26日の受領印)
  セルビア人に対する各種報復措置・対抗措置の命令。

つづき。



まったく無関係な人間を射殺することへの危惧の表明(実際には、無差別に住民が罰として射殺されたことを示す)




1941年7月31日の書簡(抜粋)・・・ベルグラードの国防軍連絡所から南東方面軍・国防軍司令官およびセルビア担当司令官宛。

「ドイツ軍に対する抵抗・サボタージュ等の行為が、ロンドンやモスクワからのラジオ放送によって与えられた指示のもとに行われている・・・・これまでのところ、傍受禁止は効果を挙げていない。
  サボタージュ活動への報復としてのユダヤ人やコミュニストの射殺について、公然とはまったく語られてはないが、この射殺はベルグラードで非常に深刻な印象を残した。射殺がサボタージュ活動の再発を阻止するかどうかは疑わしい。
サボタージュ活動家は、元セルビア人将校、ツエトニク、並びにコミュニストの陣営の中に求められる。彼らはこの地を不穏にすること、そして占領当局に対する激しい怒りを住民のなかに呼び覚ますことにに共通の関心を持っている。この意味で、直接参加していない者たちの射殺は、まさに歓迎すべきことである・・・・」

 (Ibid., S.512)



1941年10月20日現在のドイツ軍駐屯・配備状況



1941年9月5日の命令・・・・南東方面軍司令官: 
ドイツ国防軍への襲撃の増加に対する措置の厳格化
 
  セルビア語による宣伝
  住民が密告などでドイツ当局に情報提供するように仕向けること、
  犯人と関係ある村などを焼き尽くすこと、
  犯人は、見せしめにさらし者にすること、など


(S.514)


1941年9月16日のカイテル命令
 「占領諸地域における共産主義者の蜂起運動に関して」

1.)対ソ戦開始後、共産主義者の抵抗・蜂起の運動が勃発。そのやり方の形態は、宣伝手段や国防軍関係者への襲撃から、公然たる反乱・暴動Aufruhrやパルチザン戦争Bandenkriegの拡大にまで高揚している。確認すべきことは、ここで問題となっているのは、モスクワから統一的に指導された大衆運動であり、・・・・
 占領地における政治的経済的な諸々の緊張に照らせば、民族主義的なグループなどが、共産主義者の暴動(反乱)に連繋してドイツ占領権力に対し書困難を引き起こすことを考慮しなければならない。
 こうしてますます、ドイツ戦争指導に対する危険が増えている。・・・

2)これまでの措置は、・・・・不十分
こうした運動をもっとも短期間に鎮圧するため、総統はいまや、いたるところで、最大限に厳しい措置が講じるようお命じになった。


3)以下の指針に従い処置すべし、
a)ドイツの占領軍に対する反乱・反抗(Auflehnung)の事件の源泉には、コミュニストがいることが推測されなければならない・・・


つづき:
b)陰謀を芽のうちに摘むために、もっとも厳しい手段が適用されなければならない・・・・
  ドイツ兵士一人の命に対する罰として、50人から100人のコミュニストの死刑・・・・処刑の仕方は、恐怖を引き起こす作用を高めるものでなければならない

(S.515)



カイテルの指令(1941年9月28日)
陸軍最高司令部および南東方面国防軍司令官宛:
人質確保に関して。

 
近時占領地域で発生している国防軍関係者への襲撃が契機となって、次ぎのことを指示するにいたった。すなわち、軍司令官は、常にさまざまな政治的傾向の一定数の人質を確保しておくこと、より具体的には、
1)ナショナリスティックなもの
2)民主主義的ブルジョア的なもの、そして
3)コミュニスト的なもの。
・・・・
襲撃のあった場合、犯人の属している潮流にしたがい、当該グループの人質が射殺されなければならない。・・・




罰の比Suehnenquoten・・・ドイツ国防軍最高司令部長官カイテルの命令
  当初から、「コミュニスト、ナショナリストあるいは民主主義者」を報復のターゲットにする。その報復措置(報復割合)は、ドイツ人兵士一人に付き50人から100人。



   1941年10月以降は、一般ユダヤ人(普通のユダヤ人)をまず優先してスケープ・ゴートにすることが確立。

  (ソ連のように、「ユダヤ的=ボルシェヴィズムが政治権力を握り・軍隊を握っている敵に対しては、対ソ攻撃開始後、非常に早い段階から、ユダヤ人は敵権力の一体のものとして、スケープゴートにされていた。それは、アインザッツグルッペの報告が示すとおりである。
 これに対して、セルビア、ユーゴスラヴィアでは国家の権力を握っている勢力をユダヤ的とは特徴付けることはできず、また軍事的にも速やかに圧伏した。だから、攻撃の矛先をさしあたりは、一般のユダヤ人に向けることができなかった。
 しかし、秋以降の危機の進化過程では、セルビア一般住民を中立化ないし対独協力化させるためにも、攻撃の的をユダヤ人に絞る必要があった。)



「1941年夏、民族主義的なパルチザングループ、および共産主義的なパルチザングループのセルビア人蜂起、そして襲撃やサボタージュ(破壊活動)の増加傾向が、国防軍に民間住民に対するますますラディカルな暴力措置をとらせるにいたった。
1941年9月の国防軍最高司令部の指針は、殺されたドイツ人兵士一人に付き50人から100人「コミュニスト、ナショナリストあるいは民主主義者」を処刑することを合法化(正当化)。

 セルビアでは、この命令Anordnungenが、「罰の比」(罰の割合、罰の比率)に転換された。殺されたドイツ人兵士一人に付き100人の人質、そして国防軍所属のもの一人の負傷者に付き50人の人質が射殺されるものとされた。



 そのうえさらに、全権軍司令官・大将フランツ・ベーメは、蜂起の鎮圧のためにすべての男性ユダヤ人を人質にとる権限を与えた。
 従って、ユダヤ人は、ドイツ報復政策の優先的な犠牲者となった

  ベーメの命令は、セルビアの民間人に対する犯罪的なテロがユダヤ人住民に対する体系的な民族殺戮へと移行したことを特徴付けるもの.だった。
 総数7万5千人ユーゴスラヴィアのユダヤ人のうち、ドイツ占領期間中に、約6万人が殺害された




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1941年10月4日のヴィルヘルム・リストの命令電報

(S.516)


1941年10月10日
フランツ・ベーメの指令・・・セルビアの全駐屯地において、全コミュニスト、それと疑わしき男子住民すべてのユダヤ人、一定数の民族主義者と民主主義者を人質として逮捕すべし。

(S.516)



1941年12月5日までの「罰」処刑の数(12月20日の報告)

味方の損害
  a)死者・・・
  b)負傷者・・・

敵の損害
  a)戦闘中・・・
  b)罰措置で・・・・・・・・・・・・・・・・・・・総計1万1164年



 罰として処刑すべき数は、敵の死者を差し引けば、3万1338人
 したがって、なお罰として処刑すべき数・・・2万0174人、と。


(S.517)


1941年12月20日のバーダーの命令

罰として処刑するための逮捕者、
住民をおとなしくさせるための名望家など人質
その他の逮捕者(容疑者)に関して。


種々の逮捕者の取り扱いについて。

(S.518)





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1942年から43年のセルビアにおけるドイツ占領政策


1941年から42年の冬、セルビア人蜂起を鎮圧。パルチザン・グループは、ボスニアへ逃亡。
その後、ドイツ軍政当局は、報復措置を漸次的に変更。

「罰の割合」は低くされたが、1942年11月以降は、セルビア人協力者(コラボラトーア)に対する暗殺にも、適用された。


人質の射殺についても同様・・・国防軍部隊が軍司令官に損害を通知・・・軍司令官はただちにしかるべき数の「罰用捕虜」の射殺を命じた。


1943年秋、ドイツ司令官は、占領政策を変更。セルビアの中の反コミュニスト勢力は、ドイツとの同盟に獲得されるべきものとなった。
人質の射殺は減少した。「罰の割合」は放棄された。




1941年12月22日のバーダーの命令:「罰の割合」引き下げ

死者一人に付き・・・罰用囚人50人
負傷者一人に付き・・・罰用囚人25人

(S.519)



1942年3月19日のセルビア・クロアチアにおける蜂起・反乱グループに対する措置の指針

(S.520)


(S.520 )




1942年11月21日の告示
 ドイツに協力している市長や管理などに対する襲撃に対する報復措置の公示

「最近、セルビア政府の訳に官吏に対する襲撃が増加・・・・・

これらはミハイロヴィッチの支持者やコミュニストによる犯罪・・・・
こうした分子は、セルビア人民衆の中に隠れることができる場合にのみ、影響力を行使できる・・・


1.すべての公務に従事する官吏は、その業務遂行に当たってドイツ保護下に置かれる・・・


5.鉄道破壊、橋・通信施設・工業施設などの破壊が行われた場合、それそれの事件ごとに、100人までの人質を射殺するものとする



(S.521)


1942年12月6日のセルビアのドイツ軍司令官バーダーの告示:
11月19日一人のドイツ人兵士が誘拐された。
このドイツ人兵士が42年12月5日までに帰還しなかったので、
つぎの10名のコミュニストとミハイロヴィッチ派を射殺・・・・」



1942年12月12日のセルビア管轄ドイツ軍司令官バーダーの布告:さらに10人のコミュニストとミハイロヴィッチ派を射殺・・・・」

(S.523)
  

1942年12月29日、バーダー布告
ドイツ人兵士が殺害されたことが判明・・・・報復として、さらに30人のコミュニストとミハイロヴィッチ派を射殺・・・・」

(S.524)




1942年12月23日のドイツ軍司令官からセルビア首相根ネディッチ宛書簡
 「セルビア政府の機関への反乱者の襲撃に対する「罰の措置」について、セルビア人政府自身が処罰することをを承認・・・・」

(S.521)

  「罰の措置」あたっては、同じ潮流の者に対して罰を下さないと効果がない・・・・
 つねに、犯人がコミュニストかミハイロヴィッチ派か確認することが重要・・・・・」





-------------1943年スターリングラード敗北後の状況下で---------------

1943年2月19日布告

1943年2月15日、トポニカの路上でドイツ国防軍の貨物自動車がコミュニスト団に襲撃された。4人の乗車員、2名の将校、一人の下士官および一兵卒が殺害され、物を奪われた。トラックは放火された。

 報復措置(罰の措置)として、ベルグラードで、400人のコミュニストが射殺された。トポニカ村は部分的に焼き払われた。何百人かが逮捕された・・・・

 ドイツ国防軍は、コミュニストやその他の外国人の不幸をもたらす策動を傍観したりはしない・・・・」

(S.526)



1943年7月13日の命令
 報復措置のための人質不足・・・人質逮捕を増やす件




「罰の措置」の厳格化・正確化・・・・・民衆を「森の中に」おいやらないように。

1943年2月28日、セルビア担当軍司令官の命令

T。いかなる場合に「罰の措置」(報復措置)が問題となるか?
 1)人的保護
  以下の者の身体・生命に対する襲撃
  a)帝国ドイツ人・民族ドイツ人(国防軍、国防軍関係者、民間人のドイツ人)
  b)ブルガリアの占領軍関係者
  c)占領権力に奉仕する人々(民族的所属は問わない)
  d)セルビア政府のメンバーあるいは指導的なセルビア官僚(県・郡の長、市長)、セルビア人警備団将校、セルビア人義勇軍将校など。
・・・・・


(S.525 )