ヒトラーの遺言


(1991年)






ボアマン直筆の記録



マルティン・ボアマンの記録した最後のヒトラー発言(45年4月2日)

「私がドイツと中部ヨーロッパからユダヤ人を根絶やしにしてしまったことに対して、
ひとびとは
国民社会主義に永遠に感謝するであろう。・・・」


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1945年4月29日

エヴァ・ブラウンとの結婚・・・・「生涯を終わるにあたって、・・・長い年月にわたる余に対する忠実な友情をまもって、みずから選んで、この、すでに敵の包囲網がほとんど完了した街に潜入し、彼女の運命を余の運命と分かち合おうとしている女性を妻にしようと決意した。彼女は、彼女自身の希望によって、余の妻として余とともに死ぬ。・・・・」



個人的所有物の処分

遺言書の執行人・・マルティン・ボルマン

遺体焼却・・・・「余並びに世の妻は
逃亡あるいは降伏の屈辱を逃れるために、死を選ぶ。われわれ二人の決意は、余が国民に奉仕した12年間のあいだ、毎日の仕事の最も多くの部分を遂行してきたそのおなじ場所で遺体がただちに焼却されることである。



ベロウ・・・ヒトラー付き空軍副官・・・署名のいきさつに関する証言(回想)




ヒトラーの政治的遺言

第一次大戦・・・・「仕掛けられた戦争」

30年間、「国民に対する愛と忠誠・・・・・」


39年からの戦争・・・・
「戦争は、ひとえに、あの国際政治家たち、すなわち自分自身がユダヤ系か、あるいはユダヤ人の利益のためにはたらいていた国際政治家たちによって欲せられて惹起されたものである。」

「この戦争の責任を余におしつけておくわけにはいかないだろう。・・・・」

「余は、不幸な第一次世界大戦の後に、イギリスに対して、いわんやアメリカに対して第二次世界大戦が起こることを欲したことは、けっしてない。」


悪いのは「
国際ユダヤ民族とそれに手を貸している国民」、と。





「余は、ベルリンにとどまっていて、総統ならびに宰相(首相)の座すらもはや維持できないと確信したとき、この場所で自発的に死を選ぶことを決意した。余は、戦線におけるわが軍の兵士たち、家に残された婦人たちの測り知れないほどの行動や功績、わが農民や労働者諸君や、歴史上他に例を見ない青少年たち、わが名を冠したヒトラー・ユーゲントの献身ぶり−これらの行動や功績は余にはよくわかっている−を目撃しつつ、よろこびにみちた心をいだいて死んでゆく。・・・」




陸軍、海軍ならびに空軍の指揮官たちに対し余は、最後的な手段を用いてわが軍の兵士たちの抗戦の精神を国家(国民)社会主義の精神にのっとって強化するとともに、その際とくに、余自身がこの運動の創設者として、卑怯な逃亡よりも、いわんや降服よりも、死を選んだことの指摘を忘れないようお願いする。・・・指揮官たるものは、・・・・すぐれた手本となって先頭に立ち、死にいたるまで忠実に義務を遂行すること・・・・」






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政治的遺言書(第二部

ゲーリングを追放。一切の権限の剥奪。

デーニッツ元帥を、ライヒ大統領並びに国防軍最高司令官に任命する。






新内閣任命


「世界のすべての国民に害毒をおよぼしているもの、すなわち国際的なユダヤ人集団に対する仮借ない抵抗・・・・・」


(当然のことながら、ヒトラーのネロ命令に従わなかったシュペアー軍需大臣は、閣僚名簿にない。)