アイヒマン裁判記録(録音テープ、抜粋)、
ユダヤ人抹殺数に関する統計など付属資料
参考: ハンナ・アーレント『イエルサレムのアイヒマン』
ヴィルヘルム・ヘットゥル証言(アイヒマンとユダヤ人抹殺数について話した人物:ニュルンベルク裁判検察側証人)
(Berlin 1982), (Ullstein Nr.33042, Frankfurt/M, Berlin, Wien 1985)
1941年10月のローゼンベルク東方占領地省大臣(担当者ヴェッツェル)からオストラント(バルト三国・白ロシア)担当全権委員宛の書簡
「ユダヤ人問題に関して:
1.オストラント(バルト三国・白ロシア)担当全権委員宛
ユダヤ人問題に関する貴殿の1941年10月4日の報告に関して。
1941年10月18日の私の手紙と関連して、総統府のブラックが、必要な宿舎および食糧の供給に際して 協力すると表明bereitserklärt hatしたことを連絡する。目下のところ、当該必要施設は十分には存在しない。まさに今後建設しなければならない。ブラックによれば、当該施設をライヒの中で建設することは、現地で建設するよりはるかに大きな困難をもたらすので、ブラックは、ただちに自分のところの人材、とくに部下の化学者カルマイヤー博士をリガに派遣するのがもっとも目的にかなっていると見ている。・・・ブラックはさらに、採用される処理方法は危険がないとはいえないので、特別の保護措置が必要だとのことである。
こうした事情の下では、あなたのところの上級親衛隊警察指導者を通じて総統官邸のブラックに化学者カルマイヤー博士と何人かの補助員を派遣するように願い出て欲しい。
この処理の仕方に関しては、ライヒ保安本部のアイヒマン、ユダヤ人問題専門担当者も同意していることを伝えておきたい。アイヒマンの連絡によれば、リガとミンスクにユダヤ人用収容所が建設されるとのことである。
そこには場合によっては、ライヒからのユダヤ人もいれることになろう。
目下、ライヒ本土Altreichからユダヤ人が疎開させらているが、彼らはリッツマンシュタットに向かっている。しかし、後で東方に、労働能力がある限りで労働投入をするために、さらに別の収容所に送られるかもしれない。
状況にかんがみれば、労働能力のないユダヤ人が、ブラックの補助手段で除去されても、何の懸念もない。
ユダヤ人射殺が公開で行われた-これは今後は許されない-ためヴィルナで起きたような問題は、この方法なら起きない。
それに対して、労働可能な者は、労働投入のために、東方に送られることになろう。
以上、文脈からして、「必要な宿舎および食糧の供給」とは、労働不能なユダヤ人に対する一酸化炭素ガスによる<安楽死>施設のこと。
-------------------------------------------
アイヒマンの外務省あて書簡
1941年11月19日付け。
ユダヤ人問題最終解決の観点から、ドイツ占領下の諸地域からのユダヤ人の外部への移住を一般的に禁止すること。
ハイドリヒが、治安警察・保安部の部下の諸当局に、「ユダヤ人問題の最終解決」の権限がゲーリングから与えられたことを知らせる手紙。
(1942年1月25日・・・・・ヴァンゼー会議の後、会議を踏まえて、41年7月31日のゲーリング命令を通達したということ)
1942年3月の総統命令(ローゼンベルクに、ユダヤ人問題資料を集めさせる)
「ユダヤ人、フリーメーソン、そして彼らと結びついたナチズムの世界観上の敵は、現在、ライヒに対して仕掛けられた戦争の張本人である。これらの勢力との計画的な精神的闘争は戦争で必要不可欠の課題である。・・・・」
アイヒマン電報・・・ユダヤ人「特別処理」を命じる・・1942年3月
ブラックからヒムラー(親衛隊ライヒ指導者・ドイツ警察長官)宛の書簡(1942年6月)
「親愛なるライヒ指導者様
大管区長ボウラーの指示により、グロボチュニク(グロボチニク)に、彼の特別任務の遂行のために、すでにかなり前に私どもの要員の一部を提供してきました。彼からの新たな要請にもとづき、さらに何人かの要員を提供しました。
1942年11月5日 ヒムラーからアイヒマン宛
骸骨収集の命令
1943年2月:
東方(アウシュヴィッツ収容所)へのユダヤ人疎開(ドイツ本国、ベーメン・メーレンから)に関する指針
アイヒマン・・・これまでの経験にもとづき。
細部まで指針を守ること。
携帯許可の物品類 携帯不許可の物品類
最後に、「ユダヤ人の住民登録抹消にあたっては、住民登録台帳に、目的地の住民登録局をかくのではなく、
たんに「 unbekannt verzogen 転居先不明」と記載すること」、と。
ヒムラー宛に提出されたユダヤ人統計
(全文16ページの報告書本文の簡略版=ヒトラーに提出するため、ヒムラーが圧縮を命じた)
ドイツ本国、オーストリアおよびベーメンメーレンに関しては、それぞれの地域におけるナチ権力掌握時点のユダヤ人の数(総数92万9千人)が、1942年12月31日には、7万4979人に。
ドイツに併合した東部諸地域(ビアウィストクを含む)では、外部への移住Auswanderungと死亡で、33万4673人減少、疎開で、22万2117人減少。合計で、55万6790人減少。
総督府では、外部への移住Auswanderungと死亡で42万2726人減少、疎開(すなわち絶滅収容所への疎開)で127万4166人「減少」。
ユダヤ人人口の諸種の理由による減少を総合すれば、1942年12月31日までに、311万2897人「減少」。
「ドイツ本国(東部地域を除く)のユダヤ人の存在は、その終局に近づいている」
強制収容所の現有人員(1942年12月31日現在)・・・9127人。
老齢者ゲットーの現有人員・・・4万9392人。
他のヨーロッパ諸国からの疎開・・・1942年12月31日までに、79万2818人。
1943年第一四半期に、4万9254人。
「以上により、ヨーロッパにおけるユダヤ民族の減少は、すでに400万人に達したはずである。」
「ユダヤ人人口が多いのは、ロシア(約400万人)の他に、わずかにハンガリー(75万人)およびルーマニア(30万2千人)だけである。さらにおそらくフランス。」
「1937年から1943年はじめまでの、ユダヤ人の減少は、450万人と算定できる。
ただし、占領東部地域におけるソヴィエトロシアのユダヤ人の死者のうち、一部しか把握できなかった。他方、そのほかのヨーロッパロシアおよび前線のユダヤ人は、この数字には含まれていない。・・・・
全体として、ヨーロッパのユダヤ人は、1933年以降、したがってナチス権力興隆の最初の10年間において、その人口のほぼ半分を失ったはずである。そのうち、その約半分、したがって1937年のユダヤ人総数の約4分の一が、地球上の他の地域へ流れ込んだ。」
1943年4月9日、ヒムラーの治安警察・保安部長官あて書簡・・・統計報告受領。
報告書の書き方が、「移住」、「疎開」、「人口減少」という表現で、本当のことを「隠すために」zu Tarnungszwecken「本当にうまくできている」für recht gutとほめている。
1943年4月19日 統計官からブラント宛。
16ページのユダヤ人問題最終解決に関する統計の要約版の作成が親衛隊ライヒ指導者(ヒムラー)から口頭で命じられ、提出しました。・・・・
親衛隊ライヒ指導者(ヒムラー)の新たな命令、すなわち、総統(ヒトラー)に提出するため圧縮版報告書を作成するようにとの治安警察・保安部長官に対する命令にしたがい、私は数日前に、6ページ半の報告書(そのコピーを同封します)を作成しました。・・・・
1943年7月11日付、ナチ党官房長官ボアマンからの回状
ユダヤ人問題の公での取り扱いにおいて、将来の全体的解決に関しては何もいわないように、と。
言っていいことは・・・・・「ユダヤ人がまとめて目的にふさわしい労働投入のために集められている」と。
ハンガリーユダヤ人の運命・・・・イギリス、アメリカなど外部への情報漏えい
ハンガリーユダヤ人
アイヒマン、昇進
1944年12月
アイヒマン、第一級十字勲章、授与