アウシュヴィッツ裁判
1963年12月20日から1965年8月20日まで、フランクフルト・アム・マインで開催された。
(Wien 1965, Nachdruck Frankfurt am Main 1995)
火葬場について:
アウシュヴィッツ収容所・電機技師ElektrikerポレプスキーPorebskiの証言(S.92-94 )
収容所の電流を流す有刺鉄線の管理担当。
電圧計の監視・統制。
「問:囚人は有刺鉄線に触れることがしばしばだったか?
答:ええ、たびたび。
問:有刺鉄線に電流を流すのは夜間も昼もか?
答:日中は流しません。夜間点呼の後、電流を流します。日曜日は、日中も電気を流します。
問:あなたの仕事の際、火葬場にも行ったか?
答:ええ。1942年に、農家がガス室として改修されました。何か照明で故障が起きると、ガス殺される人々が脱衣しなければならなかったところに行かなければなりませんでした。後には、ビルケナウのすべての収容区画を担当し、すべての火葬場をコントロールしなければなりませんでした。
問:この農家のなかにはどのような電気設備がありましたか?
答:脱衣のためのバラックには、照明設備がありました。家の周りも夜間でも仕事をするため照明がありました。さらに壁にも照明があり、「浴場へ」という方向指示板が取り付けられていました。
問:電気技師として、大きな火葬場(小さな農家改造ガス室だけでなく・・・永岑注記)にも出入りしたことがありますか?
答:私はすべての火葬場をコントロールしなければなりませんでした。第一・第二火葬場にも、ガスを取り除くための電気換気装置がありましたし、さらに、火葬釜にも、火をかきたてる(電気)換気装置がありました。(電動)ポンプが、火葬場に給水していました。これは、ガス室を速やかに清掃するために必要でした。第三・第四火葬場は、独自の給水ポンプを装備していました。これらをコントロールすために、そこにも行きました。・・・
S.94
「問:そのさい、ガス殺現場も目撃しましたか?
答:何回も。
問:ガス殺が行われているときに、火葬場にはいったことはありますか?
答:そうした作戦がおこなわれているとき、火葬場地区に何度もおりました。そこで、コマンド長の部屋、あるいは特別コマンド(ユダヤ人の死体処理班員・・・永岑)のための部屋があったな倉庫(納屋)に入れられました。そこには、エレベーターや換気扇設備、また電気安全装置などがありました。
問:毒ガス投入を観察することができましたか?
答:ええ、何度も。・・・親衛隊員がどのように迅速に(毒ガスの・・・永岑)缶を開くのかを目撃しました。それぞれのガス室には4つの投入口がありました。投入は非常に迅速に行われました。・・・・カポ(収容所看守)に、ガス室の中のすべてのものが死んだことはどのようにして分かるのか、と尋ねたことがあります。カポのいうには、親衛隊医師がガス室を開く許可をあたえる、と。
問:ひとつのガス室にどのくらいの犠牲者がいましたか?
答:二つの大きな第一・第二火葬場では、 1800から2000です。
問:一人の親衛隊員がガス室にいっせいにガスを投入するのですか?
答:いいえ。何人もで。
S.95
死体焼却など一番大変な作業をさせられた「特別コマンド」のユダヤ人の証言
ブキ:私は特別コマンドでした。われわれのコマンドは400人の囚人からなっていました。ハンガリー・ユダヤ人がやってきたとき、その数は900人に増やされました。・・・・
問:特別コマンド(ゾンダーコマンド)の任務は?
答:死体焼却命令を遂行すること。ビルケナウにはまだ火葬場がなかったので、死体は墓穴で焼却。死体をそこまでトロッコで運んだ。
問:1942年にはどこでガス殺が行われたのか?
答:私は1942年12月14日に特別コマンドに入った。われわれの最初の仕事は、それ以前の特別コマンドの死体を焼却することであった。・・・死体は墓穴で焼却した。火葬場Krematorienはまだ存在しなかった。ガス殺は、小さな、白壁塗りの家(農家改造の小屋・・・永岑)で行われた。
・・・
・・・
問:いつまで二つの小さな小屋(農家改造の小屋・・・永岑)で、ガス殺が行われたのか?
答:火葬場が建設されるまで。
問:ガス殺は毎日行われたのか?
s.96
答:ええ。ほぼ毎日。夜も昼も。
ムルカに対する判決
『法廷の前のアウシュヴィッツ』
(München 1995)
ユダヤ人特別コマンドの殺害
アウシュヴィッツ収容所の全体構成
アウシュヴィッツ第一・基幹収容所
アウシュヴィッツ第二・ビルケナウ収容所