カーネギー(1835-1919)自伝
アメリカの経済人アンドリュー・カーネギー・・・独立革命当時のフランクリンの系統に属するすぐれたアメリカ人(スコットランド生まれ)、
大鉄鋼業者・進化論者、進歩主義者、共和主義者。
カーネギーも折に触れ、フランクリンを尊敬していることを表明。
「子孫に美田を残さず」の態度・・・・莫大な富を社会の種々の公共的施設に寄付。
カーネギーの進化論・進化主義・合理主義
カーネギーの民主主義と共和主義の立場・・・イギリスの倍の人口を持つアメリカは共和主義の国。
「英語を話す人口の大多数は現在共和制の支持者」。
そのアメリカは、すでに1880年において、イギリスよりも工業生産が多い。
そして、カーネギーの反帝国主義・反植民地主義の立場(ウィルソンの14か条につながる発想。ただ、カーネギーが日々の政治的行動でそれをどこまで貫いたか、彼のような立場がアメリカでどのような力を発揮したかは、別)
パナマ運河建設と独占的使用権の獲得・・・イギリスとの関係
1898年の米西戦争は、「国民が感情の波に足をすくわれた結果・・・・」
キューバ問題・・・・「スペイン政府はキューバの自治権を保証」・・・・しかし、反スペインの熱情は抑止できず・・・スペインに対する宣戦布告を採決
アメリカ政府は「この戦争は領土的侵略の意図はまったくないことを声明し、キューバの独立を約束した」と。カーネギーは、「この独立の約束は忠実に守られた」という。しかし、実際は?
カーネギーの立場:
「フィリピン群島の占領は汚点・・・」
------------エンカルタ百科事典の記述を参考までに引用しておこう---------
I | プロローグ |
アメリカ・スペイン戦争 アメリカスペインせんそう Spanish-American War 1898年、アメリカがスペインの植民地であるキューバとフィリピンの独立革命に介入してスペインをやぶり、植民地をうばった戦争。米西戦争ともいう。
1868年キューバ人は独立のために立ち上がったが、結局勝利できず、78年に終結、スペインはキューバの改革を約束した。しかし、約束がまもられなかったため、95年にふたたび独立運動がはじまった。フィリピンでも96年カティプーナンによる独立革命がはじまった。
II | アメリカによる干渉の背景 |
アメリカでは、人道的・経済的観点から、キューバの独立革命への干渉論が高まっていた。ピュリッツァーやハーストらがスペイン軍のキューバ人虐待を報道。革命による経済的権益の大きな被害も懸念され、実際、貿易の全面的な停止に直面した。
こうした情勢下、キューバ独立革命の支援をのぞむ国民の声は、連邦議会で支持される。クリーブランド大統領は干渉に反対し、後任のマッキンリー大統領も就任当初は反対の立場をとる。
1897年、スペイン首相サガスタは内乱解決の提案をおこなった。それは、キューバ人に部分的な自治権をみとめるとともに、残虐な監獄制度を廃止するというものだった。しかし革命勢力は、完全な独立を要求して活動を継続した。
革命がつづくなか、アメリカの干渉をまねく事件が発生した。1898年2月15日アメリカ人の生命保護を目的にハバナ港へきていた戦艦メーン号が爆破、260名が死亡したのである。干渉論が高まるなか、マッキンリー大統領が4月20日、スペインのキューバからの即時撤退をもとめる連邦議会の決議を承認すると、これに対してスペインは24日、アメリカに宣戦を布告する。翌25日、アメリカ連邦議会も宣戦布告し、アメリカの行動は植民地獲得のためではないことを決議した。
III | 戦争の展開とその結果 |
1898年5月1日、フィリピンのマニラ湾に停泊していたスペイン艦隊は、アメリカのアジア艦隊の攻撃をうけ、壊滅した。他方、キューバでは7月1日に陸上部隊がキューバ革命軍の支援をうけてサンティアゴデクーバを包囲。7月3日にはサンティアゴデクーバへのアメリカ軍による海上封鎖を突破しようとしたスペイン艦隊を撃破し、サンティアゴデクーバは陥落した。アメリカ軍はさらに攻勢をかけ、プエルトリコを占領し、スペイン政府は7月18日、休戦を要請した。
1898年12月10日にパリで調印された講和条約によって、スペインはキューバの領有権を放棄し、フィリピン、プエルトリコ、マリアナ諸島のグアム島をアメリカに割譲することになった。この戦争の結果、アメリカは列強入りをはたした。
アメリカは独立革命への支援を大義名分に介入したが、パリ講和会議にフィリピンとキューバ代表はまねかれず、戦後にキューバはアメリカ占領軍の管理下におかれ、1902年に独立をはたすものの、実質的にはアメリカの保護国となった。フィリピンは1898年に独立、99年に共和国となるが、フィリピン・アメリカ戦争によって結局アメリカの植民地となった。
また長い間、不明とされてきたメーン号爆破事件の原因については、1969年、アメリカ海軍当局がエンジン部分の故障による爆発だったとの調査結果を公表している。
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