矢内原忠雄
『国家学会雑誌』、および『経済学論集』に掲載した論文に添削を加えたもの。
「日本帝国主義の、更に進んでは帝国主義的植民政策一般の、研究である。台湾を具体的の例として、帝国主義的植民政策の理論並びに日本の植民政策をばその活動形態において説明・・・」
「科学的分析」・・・「事実関係の分析は問題の所在及び性質を明瞭に指摘し、また歴史的発展の把握は今後の発展方向を指示するものである。過去の政策の説明、現在の政策の批判及び将来の政策の樹立は、事実発展の正確なる認識によりてのみ可能・・・」
「科学は過去を知らしめ現在を知らしむるとともに一歩先の将来をも予想せしむ。これによりて政策を樹つるは政治家の任務である。本書は政論にはあらざるも、植民地統治の方針に関して若干の「天気予報」を包含するものなることを一言する。」
「本書は貧しきは貧しくとも私の科学上の一労作である。しかし、植民地問題に関する私の心情を披瀝せしめば、私は、『虐げらるるものの解放、沈めるものの向上、そし自主独立なるものの平和的結合』の実現をば衷心仰望するものである。本書は、かくの如き心情を有する著者のかくの如き心情を持ってせる学問的一労作である。」
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矢内原忠雄経歴
矢内原忠雄 やないはらただお 1893〜1961 大正・昭和期の経済学者・キリスト教主義教育家。
愛媛県に生まれ、第一高等学校時代に新渡戸稲造校長や内村鑑三の影響をうけ、生涯のキリスト教信仰をえる。
東京帝国大学(現東京大学)を卒業して、1920年(大正9)同大助教授、23年教授になる。
専門の植民地政策論の研究のために台湾・満州(中国東北部)などを現地調査して現地の抑圧された状況を明らかにし、キリスト教的な正義の立場から日本の植民政策を批判した。
1937年(昭和12)に執筆した論文「国家の理想」と、講演会での「ひとまずこの国をほうむってください」との反戦的言辞が右翼や官憲から攻撃され、同年帝大教授を辞職した。
その後自宅で聖書講義の集会をひらいて平和をうったえ、当局の弾圧をうけながらも雑誌「嘉信」を発行しつづけた。
第2次世界大戦後に東大教授に復職し、51〜57年には総長をつとめた。政治・警察権力による大学への干渉を拒否し、戦後日本の大学自治と学問の自由確立に大きな役割をはたした。
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