ドイツ語原書・マルクス研究叢書の一冊(第3巻)に収められたヒルファーディングの『金融資本論』ウィーン、1927年。





三枝博音文庫(横浜市立大学図書館蔵)の一冊。

目次




 戦前、三枝博音は「唯物論研究会」の活動で、治安維持法により逮捕された。


三枝の経歴

三枝博音
I プロローグ

三枝博音 さいぐさひろと 1892〜1963 哲学者、日本科学思想史家。広島県本地村の浄土真宗寺院に生まれ、東京帝国大学西洋哲学科にまなぶ。カント、ヘーゲル、フッサールなどを研究し、ディルタイ「精神科学序説」を翻訳、出版した。だが、在学中1年間の兵役体験などをとおして社会的なものに関心をよせるようになり、マルクスの唯物弁証法に接近し、1929年(昭和4)より月刊雑誌「ヘーゲル及弁証法研究」を主宰。

II 技術史研究の先駆け

ドイツ留学から帰国後、1932年に戸坂潤、岡邦雄らと唯物論研究会を設立し、雑誌「唯物論研究」において、旺盛な批評活動を展開した。だが、翌年共産党シンパ事件で検挙され、立正大学の教職をおわれ、唯物論研究会を脱会せざるをえなくなる。このころから郷里の先輩で医史学者の富士川游のすすめで日本哲学思想史研究を開始、「日本における哲学的観念論の発達史」(1935)を刊行した。太平洋戦争中は、「日本哲学全書」全12巻(1936〜37)、「日本科学古典全書」全10巻(1942〜49)などの基本史料の集大成をおこない、「技術史」(1940)、「三浦梅園の哲学」(1941)などを出版した。

III 鎌倉アカデミア校長

戦後も、「技術の哲学」(1951)、「日本の唯物論者」(1956)、「西欧化日本の研究」(1958)などの啓蒙的な著作活動を展開した。同時に、自由で学際的な学問の場をめざして鎌倉大学校(のちに鎌倉アカデミアと改称)を設立して、校長をつとめた。その後、横浜市立大学学長に就任(1961)、東西文化交流研究所長、日本科学史学会長をかねたが、1963年、国鉄鶴見駅の列車脱線事故で死亡。「三枝博音著作集」全12巻(1972〜73)がある。