総督フランク、閣議発言

1941年12月16日


「ユダヤ人をどうしたらいいのだ?
 オストラントの入植村で宿を与えるなど、考えられるか?
 われわれはベルリンで、なぜ騒ぎまくるのだといわれた。・・・自分たちで始末せよ、と。

 ユダヤ人はわれわれにとってきわめて害の大きな大食漢だ。・・・この350万人のユダヤ人を我々は射殺することはできない。われわれは彼らを
毒殺することもできない(nicht vergiften können)。しかし、何らかのやり方で絶滅の結果をもたらすようなやり方が採用されるであろう。」




 
この時点(1941年12月16日)まで、350万人もの大量のユダヤ人の「毒殺」は、考えられなかったことがわかる。
 大々的な毒ガス施設は、まだ建設されていなかった。ベウゼッツに小規模なものの建設が始まる段階。


 ヴァンゼー会議後、総督府の「東部」に位置するベウゼッツ、ソビボール、トレブリンカなど絶滅収容所が建設されるのであり、まさに、これらこそが、42年春以降の大量殺戮の場であった。、これら総督府東部の絶滅収容所には、主として総督府のユダヤ人が送り込まれ、一酸化炭素(エンジン排気ガス)で殺害された。









Gerlach(1997),
Werkstatt Geschichte.




 アウシュヴィッツの基幹収容所クレマトリウム(火葬場)の死体置き場での実験的ツィクロンBによるソ連兵士戦時捕虜の殺害などはあった(41年9月)が、それは、フランクにも知らされておらず、また、すくなくとも、その方式が大々的に行われることになろうとは、この時点(41年12月16日閣議時点)では知りもせず、想定してもいなかったということであろう。


  アウシュヴィッツでも、郊外3キロくらいのビルケナウに作られた巨大収容所においても、最初は、農家改造のガス室が作られたのであり、それも42年春になってからである。
   コンクリート造りの巨大クレマトリウム(火葬場・火葬棟、三つの建物)は、42年春以降に建設が始まり、ようやく1942年末から1943年初めに、完成した。

   このアウシュヴィッツ―ビルケナウには、1942年春以降、ドイツが西部で占領下においていたノルウェー、オランダ、ベルギー、フランス等の西欧ユダヤ人が送り込まれた。
  それは、これら諸国での抵抗の高まりを背景にし、抵抗鎮圧・占領地治安平定作戦に関連していた。