拙稿「総力戦とプロテクトラートの『ユダヤ人問題』」
『横浜市立大学論叢』第56巻 人文科学系列 第3号、2004(実際の刊行は、2006年2月










 ナチズムの悲劇と問題性をスターリニズムの悲劇と問題性とのみかかわらせて問題にしようという冷戦期の西側自由主義・資本主義陣営の思考枠組みも、批判的に素材に載せるということである。

 すなわち、全体主義論の思考枠組みの問題性をきちんと見据える必要がある。

 冷戦期の西側「自由主義・資本主義」陣営は、とりわけその頂点に位置する諸国(英・仏・米、それにオランダ・ベルギー)は帝国主義国・植民地主義国であった。

 まさに、そうした西側列強の帝国主義と植民地主義が、後進帝国主義国との対決としての第一次世界大戦を通じて、戦後のヴェルサイユ体制を通じて、ドイツとロシア及びその周辺地域において二つの「全体主義」を生み出したのである。

 全体主義の犯罪性と悲劇を、ドイツとロシア・ソ連・東欧にのみ視野を限定してみていくことでは、実は、真に問題を捉えたことにならないということ、ここに今日の世界の到達点があるだろう。
 二つの全体主義がなぜ誕生したのか、その背景を見据えるべきだ、ということである。

 すなわち、世界的に強国・大国(英・米・仏・オランダ・ベルギー、そしてドイツと日・伊)による弱小国に対する
帝国主義・植民地主義の支配体制が、原理的理念的に否定されているという20世紀後半・21世紀初頭の人類の到達点の見地から、ものごとをみていかなげればならないということである。







     ---中略---




ドイツ第三帝国の東部軍(ソ連侵攻軍)が、ソ連軍の反撃、冬の危機の到来で多大に犠牲をおっていること(1941年12月11日の対米宣戦布告のときにヒトラーが国会で挙げたドイツ軍将兵の被害の数字を想起する必要がある)。
 対米宣戦布告のヒトラー演説で、公式に宣言したロシア(ソ連)人捕虜だけで3百数十万人。
 その半分以上が、42年春までに餓死・凍死などに追い込まれ、殺されていた。何百万の捕虜を殺すことを、ヒトラー・ドイツ国防軍は当然のごとく行っていたのだ。その背後事情を考えると、
「私はなぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違った目で見なければならないのか。捕虜収容所ではたくさんのものが死んでいる」と。
 しかも、そうした状況は、「
われわれがユダヤ人によって追い込まれた」からだ、とそれらすべての根本原因はユダヤ人にあるとしているのである。

 それへの報復として、収容所につれてこられたユダヤ人が、主要で最終的な戦争責任者として根絶される運命にあること、この関連性・関連付けがはっきりしているであろう。

 ヒトラーの発言は、まさに必然的な報復として、捕虜に対する政策、パルチザンなどに対する政策と同一のものとして、いやそれ以上に根本的な悪として位置づけられ、ヒムラー、そしてハイドリヒに共有されたこと、ここに
1942年春、ユダヤ人絶滅政策の本格開始の意味があるだろう。



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