アインザッツグルッペ
活動と情勢の報告
・・・A, B, C, Dの現地からの報告に基づき、ベルリンで総括
Tätigkeits- und Lagebericht)
(Cf.出動命令Einsatzbefehle)




第1号開戦から1941年7月31日まで
(ゲーリングの名前でハイドリヒに「ヨーロッパ・ユダヤ人問題の解決」を準備するよう託した文書と同日)






「処刑活動のこれまでの原則は、ユダヤ的指導層に打撃を与えること・・・」

「報復として8000人を射殺・・・・」
「その大部分はユダヤ人・インテリゲンツィア」


ソ連当局者(ボルシェヴィキ)など
「これまでの抑圧者が隠れていれば密告するように・・・」





第2号1941年7月29日-8月14日

治安情勢への目配りは、占領下のソ連各地だけではなく、
本国ドイツ、総督府ポーランド、西ヨーロッパ、南東ヨーロッパ、ノルウェーに
及んでいる。







第3号41年8月後半





各地の情勢・活動報告の冒頭に、「パルチザンとの闘争」が出てくるようになる。

処刑活動・鎮圧活動において、
 第一の敵がパルチザン、
 第二コミュニスト等、
 第三にユダヤ人。





第4号41年9月前半





第5号41年9月後半









第6号 41年10月の一ヶ月間





第7号 41年11月の一ヶ月間






白ロシアではユダヤ人を「残るくまなく完全に除去」


第8号 41年12月の一ヶ月間








第9号 42年1月一ヶ月間



第10号 42年2月一ヶ月間





第11号 42年3月一ヶ月間