現在のいろいろな裁判における問題
それを伝えるマスメディアの問題
−歴史研究における史料と裁判における証拠の共通性:
史料抜きの歴史叙述の問題性・・・証拠抜きの裁判の恐ろしさ−
幾多の恐るべき冤罪事件:
それとの関連で、一歩冷静になって考えてみるべきこともいろいろとあるように思われる。
たとえば、オウム事件(10年間の長期的裁判なので、冷静に考える時間があり、関連の事件のすべての頂点に立つ麻原の責任が一番大きいことは明らかだと思われるが)
・・・全体として教祖・麻原を死刑にしようという全社会的風潮
その線で、厳密な証拠なしに裁判を遂行しようとする警察・検察がありはしないか?
(その弁護側からの指摘を受けて、証拠を十分に提示できない罪状に関しては、この間に取り下げられたようである。麻原の罪状は、しっかりした証拠で証明できるものだけでも十分にあると思われるが、しかし裁判である以上、具体的な証拠で持って立証しなければならない。その立証できた罪状の限りで、判決が下されなければならない。いくら極悪人といえども、証拠不十分なことにまで責任を負わせるということはあってはならない)
それをあおるマスメディア(警察・検察からの情報の丸呑み・鵜呑み)がありはしないか?
マスメディアからしか情報を得ない国民大衆に問題はないか?
こうしたことの恐ろしさを考えさせてくれるのが、米田綱路編著『はじまりはいつも本−書評的対話−』パロル舎、2006年。
その「渡辺脩さんと麻原裁判の深層−元弁護団長が語る、時代の象徴としての“魔女裁判”」(第V部 言論と司法)